2ntブログ

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

呪遣いの妻 11

 月曜日は、さすがに遅刻するわけにはいかなかった。
 今日は、先日の経営移譲提案に対して、電機メーカーからの最終的な回答がある日だった。どんな回答がもたらされるにしても、このおれがその場にいないわけにはいかない。最近は、おれに似合ったカジュアルな格好で会社に来ることが多かったのだが、今日だけは、フォーマルなレディーススーツを着てきた。似合わないのは、承知の上だ。
 おそらく、おれの会社の提案は拒否されるだろう。それは、ここまで順風満帆で来たおれの会社に取って、はじめての大きな挫折になる。だが、それはおれの失策によるものではなく、小娘の暴走によるものなのだ。おれは、自分の責任ではなく、あの小娘のせいでその失敗を受け入れなくてはならない。しかも、そんな屈辱的な瞬間を、小娘の姿で迎えなければならないというのは、忸怩たるものがある。
 唯一の救いがあるとすれば、このプロジェクトの失敗の責めを負うべき「社長」の体にいるのが、おれではなくて小娘だということだ。あいつは、今日の提案拒否の回答を受けて、自分のしでかしたことの重大性にようやく気付くだろう。妻は、小娘が会社に損害を与えるようなことをすれば、その責任を取らせる、と言った。何の財産も持たない小娘に、どのような責任の取らせ方をするのかはわからないが、あの妻のことだ。きっちり責任は問うだろうし、小娘に取って、それは生半可なことではないだろう。
 そのとき、小娘は、どんな顔をするのだろう? 顔面蒼白になって震え出すか、怒りで顔を真っ赤にしてわめき散らすか、茫然自失となってその場に立ち尽くすか。どちらにしても、その姿をこの目でしっかりと見届けてやる。小娘がこれまでやりたい放題やってきたことに対する報いを受けるのを、見届けるのだ。ただひとつ、絶望にうちひしがれる小娘が「おれ」の姿をしているということだけが気に入らないが。
 秘書室と総務課が総出で、朝から準備に取り掛かった。秘書室の下っ端ということになっているおれも、当然のようにそれに駆り出された。
 電機メーカーからは、午後1時に連絡が入ることになっている。連絡を受けるための専用の電話が会議室に用意された。ここで、社長以下、主だった役員らが一緒に待機するのだ。まるで甲子園出場の連絡を待つ学校みたいだが、今回の件は、おれの会社に取っては、そのぐらいの――いや、それ以上の大きなイベントなのだ。実際、会議室には、大きなくす玉が用意され、出席者には、クラッカーが配られることになっていた。
 この様子は、ネットで全社に生中継されることになっている。そのための動画を撮るためのビデオカメラが会議室にセットされた。
 この経営移譲提案の成否は、会社の将来を左右するということもあって、従業員たちの関心も非常に高い。実際問題として、うちの従業員のほとんどは、社員持株会で会社の株を所有しているので、この提案が通って、電機メーカーを傘下に置くことができれば、株価が上がって、彼らの持つ資産価値が膨れ上がる。逆に、提案を拒否されれば、株価は下がり自分たちの資産が目減りするという切実な問題でもあるのだ。
 経営移譲提案受け入れの連絡が入ったら、会場は、一転して祝勝会に変わる。昼間なので酒はないが、簡単な料理が用意されて、ちょっとした立食パーティーになる。本来ならば、そんなめでたいことは従業員を全員呼んでやりたいが、場所の都合もあって、参加者は、役員など一部の者だけ。そのかわり、従業員には、引き出物として、高級ハムの詰め合わせを配ることにした。それが納入されてきて、別の会議室にうず高く積まれている。お中元商戦で、どこかのデパートが誤発注をして大量に余っていたものを、破格の安値で仕入れてきたものだそうだ。
 ということで、午前中は、会場の設営と立食パーティーの準備に忙殺された。おれは、今の姿では下っ端だし、非力で荷物を運ぶことはできないので、連絡係としてひたすら使い走りをやらされていた。
 その間、小娘は社長室で仕事をしていた。いや、一時期、秘書の1人が社長室に消えて、そのまま帰ってこなかったので、小娘の奴、秘書を抱いていたのだろう。相変わらずのやりたい放題だが、まあいい。そんなことも今日限りだ。あと数時間後には、自分のしでかしたことを後悔することになる。
 会場の設営は正午には完了し、やがて役員たちがぞろぞろと集まってきて、自分の席についた。腹立たしいことに、おれの席は用意されていない。「社長」の脇で立って控えることになる。本番でのおれの役目は、経営移譲提案の受け入れが決まった後、社長を誘導して、くす玉を割る係だ。秘書の中で一番若いおれが抜擢された、ということらしいが、嬉しくもなんともない。第一、向こうが提案を受け入れてくれないことには、くす玉は割られないのだ。おそらく、これは、実際には行なわれることのない役目だ。午前中に何回かリハーサルしたが、「社長」役で参加した総務課長から「もっと真剣にやれ」と怒られた。だが、本番はないと思っているのに、リハーサルだけ真剣にやれるわけがない。
 午後1時を前に、社長以下、主だった役員たちが、すべて揃った。
 おれの立っている位置は、小娘の斜め後ろ。奴の表情は読み取れないが、時折振り返って後ろにいる別の秘書に話しかけたりしている。そのときの顔は昼休みに飯を食いに行くときみたいにリラックスしていて、これから会社の命運を決するような電話が入ってくるなんて緊張感は、微塵も感じさせなかった。「社長のふり」をはじめてから1ヶ月足らずのこいつには、この提案の重みなんてわかっていないのだ。おれが、この提案にどれほど力を注いできたかということも。それに、こいつは盲目的に自分の提案が受け入れられるのだと信じ切っているのだろう。だが、あと少しで、それが素人の盲信だったことに気付かされる筈だ。
 午後1時。
 昼休みの終了を告げるチャイムが、社内に響き渡った。
 会議室にいる者が緊張感に包まれる。その中で、小娘だけが、秘書相手に陽気に軽口を叩いていた。「いい加減静かにしろ」と怒鳴りつけてやりたかったが、この中で、「社長」に対してそんなことを言える人間は、1人もいなかった。小娘が何か言ったときに、その周りからどっと笑いが洩れた。よく聞こえなかったが、小娘が冗談か何かを言ったのだろう。きっと、大して面白いことを言ったわけではないのだろうが、「社長が冗談を言った」ということで周りが笑ったのに違いない。
 午後1時をちょうど1分過ぎたときに、小娘の目の前にある電話が鳴った。
 会議室に緊張が走る。
 小娘の隣に座っていた秘書室長が、電話機のディスプレイを確認して、3回目のコールで受話器を取った。
「――でございます。――はい。少々お待ちください」
 秘書室長が受話器を小娘に渡した。
 その場の全員が、固唾を飲んで、小娘に注目した。
「はい。そうです」
 何十人という人で溢れかえっていた会議室は、誰もいなくなったかのように静かになった。小娘が持つ受話器から、相手の声がこぼれ聞こえるぐらいの静けさだった。
「はい。――ええ。ああ、そうですか。わかりました。ありがとうございます。では、詳細につきましては、後程こちらから担当者に連絡させます」
 そう言って、小娘が電話を置く。
 すべての目が「おれ」の姿をした小娘に注がれた。
 小娘は、ゆっくりと立ち上がり、「おれ」の声でこう言った。
「こちらの提案を、全面的に受け入れるそうだ」
 歓声が上がった。会議室が拍手で包まれる。
(――?)
 今、なんて言った? 「全面的に受け入れる」と言ったような……。
 でも、それって――。
 おれは、何が何だかわからない。
 遅れて、会議室の外でも歓声が上がるのが聞こえた。ネットで会議室の外にも伝わったようだ。生中継と言っても、実際には社内回線を通しているので、若干のタイムラグがあるのだ。
 会議室では、役員も秘書も、総務の連中も、熱狂している。全社一丸となって推し進めてきたプロジェクトが成功したのだ。おれの会社に取って、もっとも晴れがましい瞬間だ。だが、その中心にいるのはおれではなく、「おれ」の姿をした小娘だ。小娘は、「おれ」のたくましい右腕を振り上げ、拳を突き上げている。
「ほら、あんた、社長を連れてきて」
 おれの隣にいた秘書に小声で言われた。
「え?」
「え、じゃないでしょ。あんた、社長と一緒にくす玉割る係でしょ」
 おれは、秘書に押し出されるように小娘の方へと突き飛ばされた。
「それでは、社長にお祝いのくす玉を割っていただきましょう」
 秘書室長の声に、「おおーっ」という歓声が上がる。
 おれは、小娘のところまで行って、「おれ」の太い腕を取った。そのとき、おれは、「おれ」と目が合った。その目はまるで「どうだ、おれの言った通りだろう」と言っているようだった。おれは、何だか、泣きそうな気持ちになった。
 おれは、小娘をくす玉のところまで誘導する。その間も拍手が鳴り止まなかった。
 おれは、小娘にくす玉の紐を持たせた。
 いつの間にかネット中継用のビデオカメラがこちらを向いていた。デジカメを持った総務の若者が、おれに向かって「秘書さん、もっと笑って」と言った。笑ってなどいられる気持ちではなかったが、おれは、言われるままに引き攣った笑顔をカメラに見せた。
「それでは社長、お願いします」
 秘書室長の声に促されて、小娘がくす玉の紐を引っ張った。
 玉が割れて、中から垂れ幕と紙吹雪が出てきた。再び歓声が沸き上がり、あちこちでクラッカーが鳴った。
「おめでとうございます」
 至る所から声が掛かる。その声に応えて手を振る「おれ」の姿の小娘は、満面の笑み。まさに、得意の絶頂という姿だ。
 そんな「おれ」の姿を、その横で、おれはひとごとのように見ていた。


 その後は、立食パーティーへとなだれ込む。おれたち秘書は、料理を運んだり、紙コップにお茶を注いで出したりという仕事をさせられていた。総務の連中は、引き出物のハムを全従業員に配るのに駆り出されたようだ。
「今回は、君も活躍したんだって?」
 お茶を渡した常務にそう言われた。5年前に、営業畑で顔が利くと見て、おれが他社から引き抜いた男だ。それなりの業績さえ上げてくれたら、すぐに専務にしてやろうと思っていたのだが、うちへ来てからは、ちっとも営業成績が上がらない。おれの顔色を見ることに終始して、会社のために役立つような仕事を何一つしないのだ。そろそろ何か口実を設けて、会社から追い出してやりたいと思っているような男だ。
 もちろん、彼の認識では、今のおれは、絶対君主の社長ではなく、秘書の若い娘に過ぎない。彼は、おれの小さな肩に手を回して、こう言った。
「今回のことでは、君の働きが大きかったって聞いているよ」
 何のことだ? おれは――少なくとも、小娘の姿のおれは、今回の経営移譲提案については、特に何もしていない。それなのにおれが「活躍した」とはどういうことだろう?
 それよりも、この常務、おれに体をくっつけ過ぎだろう。おれは、常務の腕を肩に回されて身動きできなくなる。どうしてこの体は、男に肩を掴まれただけで動けなくなるんだ。
「常務、お戯れが過ぎますよ」
 背中で、秘書室長の声がした。
「この子の活躍をご存知なのでしたら、向こうの専務のことをご承知なのでしょう。でしたら、もう少し慎重に行動されるべきかと」
 彼女の声は、冷たくて、心を刺すような声だった。
「な、何言ってるんだ。冗談だよ」
 常務は、彼女の声に気おされたように、おれの肩から手を離した。おれが、下から睨み上げると、彼はおれが渡した紙コップを持ったまま、おれの傍から離れていった。
「まったく、いい加減、あの役立たずも、なんとかしないといけないわね」
 秘書室長は、常務の背中を見ながら、独り言のように言った。
「あ、あの――」
「ああ、大丈夫だった? あの常務は、以前に社長が他所の会社から引き抜いた人よ。あたしは反対したんだけど、社長が絶対に役に立つって言って、結構な待遇で引き抜いたの。ところがこれが完全に社長の眼鏡違い。元の会社の肩書きがあったから威張っていられただけで、それがなくなったら、何もできない人だったのね。役に立つどころか、今じゃうちの不良債権状態。うちの会社の重役には、ああいうのが何人かいるわ。社長も、もう少し人を見る目を磨いてくれるといいんだけどね。――あ、このことは、社長には言っちゃ駄目よ」
 もう遅い。しっかりと聞いてしまった。要するに、秘書室長の評価では、おれは人を見る目がないらしい。
「さっき、常務が変なこと言ってたんですけど。――あたしが何か、今回の件で活躍したって」
「ああ、あれね。そう言えば、あなたにまだ伝えてなかったわね。先週言おうと思ったけど、あなた、お休みだったから」
 そう言って、秘書室長は、携帯を取り出し、操作をはじめた。
「あの常務が言ったのは、これのこと」
 彼女は、おれに携帯のディスプレイを見せた。そこには、1枚の写真が映っていた。少女の肩に手を回して、少女の胸に触ろうとしている脂ぎった男。この男は、電機メーカーのエロ専務だ。そして、彼に胸を触られている少女は、おれだった。
「これって……」
「電機メーカーとの懇親会での写真よ」
 そう言って、秘書室長は、携帯に収められた何枚もの写真をおれに見せた。どれも、エロ専務が、おれに狼藉を働いている写真だった。あのエロ専務に体中を触られた不快な思いが甦ってくる。
「この写真を、向こうの役員たちに見せたの。あなたたちの専務は、未成年の少女にこんなことをしていますってね。当社の大事な従業員が、このような目に遭わされたのですから、当然、法的手段に訴えることも辞しません。ただし、当社が糾弾しているのは、専務個人に対してのみ。御社に対しては、何ら含むところはありません、とね」
 結果、エロ専務は、失脚したということだ。単なるセクハラでの損害賠償ではなく、刑事告訴も視野に入れていると言われては、会社としては切り捨てざるを得ない。
 元々、あの会社は、社長派と専務派という2大派閥に分かれていた会社だ。それが、一方の派閥の領袖である専務は失脚、もう一方のトップだった社長も、長年にわたる業績不振のため、急激に求心力を失っている。つまり、派閥というものが雲散霧消してしまったということになる。これまで、派閥に属して派閥トップの意向通りに動いていればよかった役員たちも、突然自分の判断で動かざるをえなくなってしまったというわけだ。
 こういうときには、流れを作ってやれば、あとは勝手にその流れの方向へと進んでいくものだ。元々、自分の頭で考えて動くことができない奴らだったからこそ、派閥に属していたわけなのだから。
 流れを作ったのは、女社長のIT企業だった。先週の半ばになって、彼女が突然、おれの会社の経営移譲提案を支持することを表明したらしい。
 この時点で、おれの会社と彼女の会社、合わせて全株主の20%以上が経営移譲提案に賛成することになった。この流れを見て、経営移譲提案で次期副社長に指名されている事業本部長が、賛成派を募るために動き出す。元々は専務派だった彼だが、若手の役員を中心に、かつての派閥を問わずに同志を集めていった。
 こうして、事業本部長を中心とする賛成派が勢力を拡大しつつあったところに、更に決定的なことが起きた。電機メーカーのメインバンクがおれの会社の提案に賛成を表明したのだ。最終的には、これが決定打となった。結局、24人の役員のうち、社長と専務と彼らの近親者を除く19人がおれの会社の経営移譲提案に賛成したということだ。
「そのうち、あのエロ専務とは示談交渉を進めるから、そのときは、あなたにもサインだけして貰うね。もちろん、慰謝料はたっぷりとせしめてあげるから」
 秘書室長としては、最終的には、この間の懇親会での乱行をネタに、エロ専務の持っている株を買い叩いて、完全にあの電機メーカーから追い出してしまいたいらしい。
 なんと言うことだ。おれの知らない間に、そんな風に事が進んでいたとは。しかも、おれの知らないところで、おれの写真が重要な働きをしていたなんて。
 簡単なパーティーが終わり、後片付けを終えた後、秘書室長がミーティングをするからと、秘書たちを集めた。おれも名ばかりとは言え秘書の一員なので、参加されられた。
 秘書たちを見ると、若い2人は今回の提案の成功を喜んでいる感じだったが、副室長だけは、浮かない顔をしていた。それはそうだろう。おれが彼女に依頼した「提案を拒否されたときのための準備」は、もう必要でなくなってしまったのだから。この1週間の彼女の働きはまったくの無駄骨だったというわけだ。いつだったか、おれと2人で食事をしたときに言っていた「貧乏くじを引かされた」という思いが、一層強くなっているようだ。確かに、彼女は、今回のことで、少しも会社に貢献していないわけだから、論功行賞にもあずかれない可能性がある。ライヴァル視している秘書室長に引き離されるのはもちろん、後輩2人にも追い上げられかねないという苦しい立場なのだ。
 おれは、そんな彼女を見て、妙な親近感が沸いてくるのを感じていた。この浮かれきった社内の中で、心が沈んでいるのは、おれの他には、この副室長ぐらいしかいないのではないかと思ったからだ。
「それじゃ、ミーティングだけど、時間もないから簡単に用件だけ話すね」
 前置きも何もなしに、秘書室長が話し始めた。
「まず、今回の経営委譲で、社長が向こうの社長を兼任することになったわけだけど、ずっと向こうに行って社長業務を行なうというわけには行かないから、実際に向こうに貼り付いて指揮する人間を送り込む、ということになったの。それ役目をもらったのが、このあたし。こっちの秘書室長という肩書きはそのままだけど、大半は向こうにいることになるから、この秘書室の実質的な長は、副室長にやってもらう。近いうちに秘書室長代理の辞令が下りると思うわ」
 秘書室長の言葉に、伏し目がちだった副室長の顔が上を向いた。
「なお、秘書室は、これまで課相当の部署だったけど、これからは部相当に格上げ。当然、秘書室長代理ということは、部長待遇に準ずるということ。いい?」
「は、はい」
 副室長は、驚いたような顔をしている。それはそうだ。今回の論功行賞はなしかとあきらめていたところ、これまでの係長クラスから、課長を飛ばして、一気に部長代理クラスにまで昇進するというのだから。
「あとの2人も、それぞれ、係長、主任クラスに昇進の予定。これも、いずれ、辞令が出るわ」
 若い2人も、秘書室長の言葉に目を輝かせている。秘書たちは、おれの愛人ということで高い給料を取っているが、社内の役職では、役員待遇の秘書室長以外はさほどではなかったのだ。それが、肩書きの上でも高待遇ということになる。
「多分、これで3人とも同期の中では出世頭ということになると思うけど、そのぐらいで満足してては駄目よ」
 秘書室長がそう言って、秘書たちを見回した。
「うちの会社は、これからもっと大きくなる。今回は、他業種参入の最初の1社ということで慎重にやってきたけど、今後は、どんどんいろんな会社を買収していくつもり。今回は、社長が向こうの社長も兼務したけど、買収した会社の社長をすべて兼務というわけにはいかないでしょ。だから、傘下に収めた会社の社長や役員になる人材が必要なの。同期の中で出世頭になったということは、あなたたちが近い将来のグループ会社の社長候補の筆頭だということ。そのつもりで、今後も精進すること。いいわね」
「はい!」
 3人の秘書たちが、一斉に、力強い返事をした。元々、「社長の愛人」としていい暮らしができればそれで満足、という女たちではない。その程度の女だったら、おれが秘書として雇うことはなかった。彼女たちは、能力があって、上昇志向の強い女なのだ。それが、「近い将来のグループ会社の社長」という餌を目の前にぶらさげられて、燃えない筈がない。さっきまで、「貧乏くじを引かされた」という顔をしていた副室長までが、そんなことは忘れてしまったかのように目の色が変わっている。
「それじゃ、通常の秘書業務は、今からすべて副室長に任せるから。わからないことがあったら、訊いて」
 その後、秘書室長から副室長への引継ぎが行なわれているところに、社長室から電話が入った。小娘がおれを呼んでいるらしい。
 小娘の奴、今更おれに何の用だ?
 きっと、小娘は、自分が推し進めた提案が通ったことで、勝ち誇ったようになっているに違いない。そんなところに行くのは気が重い。無視してやろうかと思ったが、今のおれは、若い秘書の1人に過ぎない。「社長」の命令を無視できるわけがなかった。
(はあ)
 心の中でため息をつきながら、おれは、重い足取りで社長室へと向かった。


「やっぱり、あたしが言った通りだったじゃないですか」
 おれが社長室のドアを閉めた途端に、小娘が大きな声でそう言った。
 小娘は、「おれ」の姿で社長席にどっかりと腰を下ろしている。おれは、無言で応接セット――社長席から最も遠い一角――の一番端に腰を下ろす。
 小娘は、社長席を立って、ゆっくりとおれの方に向かって歩いてきた。
「旦那さま、言ってましたよね。『経営権の移譲なんて提案を飲む筈ない』って。どうですか、自分の目論見がまんまとはずれちゃった気分は?」
「う、うるさい」
 おれは、そう言って、小娘から目をそらした。
「ねえ、旦那さま」
 小娘が応接セットのおれの向かいの席に腰を下ろした。
「何でそんなに機嫌が悪そうなんですか? もうちょっと喜んでくれると思ったのになあ」
「よ、喜ぶ、だと?」
「だって、あたしのおかげで、旦那さま、あの会社の社長になれるんですよ。これって、旦那さまが言ってた予定よりも、2、3年早いですよね。旦那さまの言うとおりの提案だったら、こんなことにはなっていなかったんですから。業務提携どまりで、いまだにあのエロ専務が実権を握ったまま。これじゃ、折角業務提携しても、社内改革が進むかどうかわからなかった、ってことは、旦那さまにも理解できますよね。それをあたしがエロ専務を追い出して、社長の座を取ってきてあげたんです。もっと、喜んでくれてもいいと思うんだけどなあ」
 そう言って、小娘は、応接セットにどっかりとふんぞり返った。
「お、お前、そのエロ専務のことや、女社長がおれの会社につくことなどを、おれに報告しなかっただろう」
 おれは、小娘を糾弾しようとして言った。
「だって、そのとき、旦那さま、会社にいなかったじゃないですか」
「は?」
「旦那さまにも教えてあげようと思ったんですよ。どうやら、旦那さまがやってるお仕事は無駄に終わりそうですよ、って」
 そう言うと、小娘は「おれ」の顔でいたずら小僧のように笑った。
「でも、旦那さま、写真集の撮影で会社にいなかったから、教えられなかったんですよ。次の日に教えればいいかな、って思ったんですけど、無断欠勤でしょ。あんなことされたら、教える気もなくなっちゃいますよ。金曜日は金曜日で、1日中ぼーっとしてたし。第一、あたしもあのことを隠していたわけじゃないんですからね。秘書室長からのメールには全部書いてあったんだから、旦那さまがちゃんと社長宛のメールをチェックしてたら、あたしが言わなくたって、すぐにわかってたことなんですよ。メールのチェックもせずに遊び歩いていた子にそんなこと言われるとは心外です」
「くっ」
 おれは、小娘の言葉に、言い返すこともできず、息を呑み込むしかない。
 小娘は、おれの向かいの席から立ち上がって、ゆっくりと歩きながら言った。
「あたしの学校の同級生にも、そういう子がよくいましたよ。デートのことで頭が一杯で、宿題をやってこない子とか」
 小娘は、今、「デート」と言った。ひょっとして、こいつは、おれとイケメン秘書のことを知っているのだろうか?
「今の旦那さまって、正直、仕事の事なんかどうでもよくなっちゃったんじゃないですか。だって、この会社の経営者だって意識があったら、せめて社長宛のメールぐらい目を通すと思うんですけど。それが、最近の旦那さまは、仕事に身が入らないし、定時になるとすぐ帰っちゃうし、挙句に無断欠勤でしょ。結婚までの腰掛気分で会社に来ているOLだって、もうちょっとましな仕事をしますよ。そんな子に大事な会社の経営が任せられると思っているんですか?」
「……」
「まあ、いいですよ。旦那さまの会社なんだから、好きにすれば。でも、旦那さまのために、会社を1個取ってきてあげたんですよ。もうちょっとあたしに感謝してくれてもいいと思うんですけど。それとも、何ですか。折角受け入れてくれた提案ですけど、この提案そのものを白紙に戻しますか? それならそれでもいいですよ。あたしは全然困らないんだから」
「い、いや……」
 もちろん、そんなこと、できるわけがない。他業種に参入して、会社をでかくする、というのは、おれの夢だったのだ。自分の力で成し遂げたわけではないにせよ、折角実現した夢を放棄するなんて、ありえない。
 小娘が応接セットのおれの隣にやって来て、腰を下ろした。あっという間におれの小さな体は、小娘の大きな腕に絡め取られた。おれは、反射的に「ひっ」という声をあげて、体を硬くする。
「何をそんなに怖がっているんですか? 自分の体でしょ。もうすぐこの体に戻るんじゃないんですか? そんな脅えちゃうような体に戻って、大丈夫なんですか?」
「ほ、ほっといてくれ」
 おれは、必死の思いで、なんとかそれだけ言う。
「まあ、いいですけどね。でも、やっぱり、お礼の1つぐらい聞きたいなあ。やっぱり、あたしも男としては、旦那さまみたいなかわいい女の子にお礼を言われてみたいじゃないですか」
 こいつ、自分のこと、「男」って言いやがった。
「ねえ、『こんなに早く、あたしを社長にしていただいて、ありがとうございます』とか言ってくださいよ」
「な、なんで『あたし』なんだ」
「ええっ、だって、そうじゃなきゃ、旦那さま、かわいくないじゃないですか。外ではいつも『あたし』って言ってるんでしょ。秘書の子たちも、IT企業の社長の子もみんな旦那さまのこと『かわいい』って言っていますよ。あの子たちには、いつもいつもかわいい姿を振り撒いているのに、あたしの前では見せてくれないじゃないですか。そんなのずるいです」
「あ、あれは、人目があるから仕方がなくそうしているだけだ」
「ふーん、そうなんだ。あ、人目があるところなら、かわいい旦那さまを見せてくれるんですね。じゃあ、こうしましょう。あたしと秘書室の子だけで今日の祝勝会をしましょう。もちろん、主役のあたしを秘書の子が祝福する会です。旦那さまには、この間の撮影で着たメイド服を着てもらって、そのかわいらしい顔とかわいらしい声で『ご主人様、おめでとうございます』とか言ってもらいましょうか」
「う、う、うるさい!」
 おれは、思わず怒鳴っていた。おれを小娘の押さえつけている腕を、渾身の力で振り払って、おれは立ち上がった。
「お、おれは、そんなことしないっ!」
 おれは、そう言って、小娘を睨みつけた。体の小さなおれの目線は、立ち上がっても、座っている「おれ」の姿の小娘よりも、ほんの少し上なだけだった。
「何怒っているんですか。冗談ですよ。――でも、これだけは分かっておいてくださいね。旦那さまよりも、あたしの方が経営者として優秀だってこと」
「な、なんだと?」
「だって、そうでしょ。だって、あたしは、1ヶ月足らずの経験しかないのに、こんな大きなプロジェクトを成功させたんですよ。このことを知ったら、誰だって、あたしの方が優秀な経営者だって思いますよ」
「1回ぐらいたまたま仕事が成功したぐらいで、調子に乗るな。いいか、この会社をここまで大きくしたのは、このおれだ。おれが、一介の下請けの町工場をたった15年で上場企業にまでしたんだ。この凄さがお前にわかるか? お前にこんなことができるか?」
「ええっ、あたしにそんことできるわけないですよ」
「だったら――」
「わかってないなあ、旦那さまは。確かに、旦那さまは、凄い経営者だと思いますよ。小さな会社を大きくすることにかけては一流です。きっと、また小さな町工場の社長になったとしても、今の会社と同じように大きくするんだと思いますよ、旦那さまは。でも、旦那さまの才能は、あくまで小さい会社を大きくする才能。会社は大きくなっちゃったんですから、旦那さまの才能は、もういらないんです」
「な、何だと?」
「例えば、毎日山のようにやってくるあの決裁書類。社長があれに全部目を通して決裁するなんてことは、いかにも中小企業的だって思いませんか? 会社が小さかったら、あれでもいいけど、大企業の社長があんな事務作業に忙殺されるなんて、時間の無駄ですよ。細かい決裁は全部部下に任せちゃえばいいんです」
「部下に任せたらうまくいかないから、ああしてるんだ」
「それは、旦那さまが使う部下の質の問題でしょ。ちゃんと能力のある部下で固めれば、そんなことにはなりませんよ。大体、旦那さまが見込んで連れてきた人材は、はずれが多いって話を聞きましたよ。旦那さまがそうやって無能な奴らを連れてくるから、決裁1つ任せられないなんてことになるんですよ」
「だ、だが、お前に経営の何がわかるって言うんだ。お前は、自動車部品のことも工作機械のことも何1つ知らないだろう」
「別に、知らなくてもいいですよ。技術者じゃなくて、経営者なんだから。旦那さまみたいに、小さな会社を大きくするためには、そういうことも必要だったと思いますよ。社長は、何でも知ってて、何でもできる人じゃないといけませんでしたからね。でも、会社はもう大きくなったんだから、そろそろやり方を変えないと。ひょっとして、旦那さま、これから会社を手に入れるたびに、その会社の決裁を今みたいに全部社長決裁にするつもりじゃないでしょうね。会社の数が増えたら、そんなことできるわけがないんだから、ここでやり方を変えちゃうべきなんです。うちの会社――というよりも、もう企業グループですよね――これからのうちのグループのトップに求められるのは、個々の会社のことは優秀な部下に任せて、グループ全体を見渡して意思決定することです」
 小娘は、それだけ言い終わると、応接セットにどっかりと背を預けた。
 おれは、そんな「おれ」の姿をした小娘をじっと睨んでいる。なんで、こいつにこんな偉そうなことを言われなきゃならないんだ。こんな小娘の意見なんて、全否定したいところだが、なまじ筋が通っているだけに、やりづらい。
「おい」
 おれは、ふと思いついて、小娘に訊いてみた。
「今の、お前の考えじゃないだろう」
「え? あ、わかります?」
「当たり前だ。いくらなんでも、まったくの素人が、たった1ヶ月足らずの経験で、そんなことを考えられるわけがないだろう。どうせ、秘書室長あたりの受け売りだな」
「あ、ばれちゃいました。その通り。ほとんどは、あの子の言ったことです。多少は、IT企業の社長の子の意見も混じってますけどね」
 まったく、素人が聞きかじっただけの経営論で会社を振り回されてはたまらない。
「でも、これからは社長が何から何まで睨みを効かすなんて不可能だということは明らかですよね。部下にある程度は任せなきゃいけない。そのためには、優秀な部下を見つけないといけないんですけど、結局のところ、人を見る目が必要になってくるわけでしょ。それって、旦那さまの一番苦手な分野じゃないですか。旦那さま、元の体に戻ったとして、やっていけます?」
「まるで、お前の方がおれよりも人を見る目があるかのような口振りだな」
「あれ、あたしのこと、馬鹿にしてません? あたしだって、これまでそれなりに苦労してきたんですから、人を見る目は養ってきましたよ。ていうか、人を見る目がなかったら、生きていけませんでしたから」
 確か、小娘は、中学1年のときに父親を病気で亡くし、それから1年もしないうちに母親が心労が元で死んでいる。中学2年で天涯孤独の身となったようだ。当初は、親戚の家をたらい回しにされたらしい。小娘には、父親の生命保険がいくらか下りていたが、親戚の中にはそれ目当てだったものもいたという話だ。最終的に世話になった伯母夫婦の家にしても、父親の生命保険の中から毎月いくらかの金を生活費として払っていたというのだから、実質的には下宿と変わらなかったようだ。そういう境遇の娘としては、自分に近づいてくる人間の真意を見極められるかということは死活問題だったのだろう。
「会社で付き合う人の中でも、信用できる人やそうじゃない奴はわかりますよ。こいつは、口先だけだな、とか、こいつは、こっちの立場が強いときは、頭を下げてるけど、立場が逆転した途端に豹変するタイプだとか、大体わかります。優秀かどうかもわかりますね。あのエロ専務なんか、絶対に信用してはいけないタイプだって、すぐにわかりましたもん」
 小娘は、調子に乗って、おれの会社の関係者の人物評を続けた。
「うちの会社だったら、とにかく、秘書室長が飛び抜けて優秀で、信頼も置けます。はっきり言って、旦那さまがここまで来られたのは、あの子のおかげですよ。これからもあの子を重用し続ければ、間違いありません。勝手に会社を大きくしてくれます。他の秘書の子も、結構優秀だとは思うけど、秘書室長に比べると、かなり落ちますね。でも、まああれだけ優秀な子をよく集めたと思いますよ。それは、旦那さま、よくやったんじゃないですか。あ、ひょっとして、秘書にするかどうかの判断に秘書室長も加わっているんですか?」
 図星だ。以前、秘書室長の反対を押し切って雇った秘書がいたが、ちっとも仕事をしないので、1ヶ月でクビにしたことがある。以来、秘書の採用については、秘書室長の意見も取り入れている。
 おれが小娘の問いに答えずにいると、小娘は更に続けた。
「向こうの電機メーカーでは、副社長に抜擢した事業本部長が優秀だけど、本当に信頼に足るかどうかは、もうちょっと見極める必要がありますよね。まあ、エロ専務みたいに、まったく信頼がおけないということではなさそうですけど。うまく使ってやらないと反旗を翻すタイプかもしれないので、もう少し注意してみましょう。取りあえず、今回の提案人事では、旦那さまが社長になってますけど、実際には、あの事業本部長に、リストラとか、社内改革という難しい仕事は全部やってもらいます。それで、彼の能力や信頼度を見極めて、OKなら、半年後には旦那さまは会長に退いて、彼を社長にしちゃいましょう」
「次期社長に予定している人材に、リストラのような汚れ役をやらせるのは、マイナスじゃないのか?」
 どこの会社でも、リストラを担当する人間は、社内から嫌われることになる。だから、将来トップに据える人間には、そういう汚れ役をさせたりはしないものだ。
「だって、あの会社で一番重要なことは、社内改革とそれに伴うリストラでしょ。一番重要なことに一番能力のある人間を投入するのは当たり前じゃないですか。それに、彼が社長でいる期間は、せいぜい2年というところです。その頃には、うちはもっと大きな会社を買収しているでしょうから、彼は、そこの社長に栄転ですよ。大体、あんな優秀な人材を、あんな腐ったような会社に置いとくのは、もったいないじゃないですか。彼を社長にするのは、次の会社の社長に据えるときに、経歴に箔がつくようにするためでもあるんですから」
 偉そうに語っている小娘だが、このあたりも、秘書課長の受け売りなのだろう。
「そのときには、後任の社長はうちの会社から出して、完全に傘下に入れるといいですね。候補としては、副室長あたりかな。あの子は、今回の仕事みたいに閑職だと思ったら、力を発揮しないけど、高い地位と重い責任を与えてやれば必死に働く子ですから、方向性だけ決めておいて、仕上げの処理をやらせたら、あっという間に片付けますよ」
 確かに、副室長は、これまでやっていた仕事が無駄骨に終わったと知ったときには、不貞腐れた感じだったが、部長級に昇進と聞かされた途端、目の色が変わっていた。
 小娘の話は、更に女社長の人物評へと及ぶ。
「IT企業の女社長は、あたしが今まで会った中で2番目に凄い人ですね。え? 1番は奥様に決まっているじゃないですか。さすがに、奥様には及ばないけど、それ以外の人の中では、抜けてるんじゃないですか。秘書室長並みに優秀だと思うし、正直、何考えているか、わかりません。まあ、あたしの前では、単なるヤリマンなんですけどね。体を重ねるたびに、どんどん淫乱になっていくんだから。でも、なんて言うか、体は許しても、決して心は許さないタイプかなあ」
「ちょっと待て。ひょっとして、あの女社長とは、何度も会ってるのか?」
「ええ。何回か。最近は、秘書の子たちよりも、あの子の方が多いぐらいですよ。昨日の日曜日にも会いましたし」
「なんで、そういうことをおれに黙っているんだ?」
「勤務時間外に誰と会おうと、別にいいでしょ。あたしのプライベートなんだから。別に、会ったって、仕事の話なんてしませんよ。あの子を抱くだけなんですから」
 小娘は、けろっとした顔でそう言った。
「いずれは元に戻るんだぞ。プライベートなことも把握しておく必要があるだろうが」
「そんなの、戻るときに言えばいいじゃないですか。だったら訊きますけど、旦那さまだって、プライベートでやってることをいちいちあたしに報告してないでしょ」
「何で、おれがお前に報告しなきゃいけないんだ」
「会社やお屋敷の仕事なら報告の義務もあるかもしれませんけど、プライベートだったら、あたしと旦那さまは対等な関係でしょ。あたしが旦那さまに全部報告するのなら、旦那さまもあたしに全部話してくれなくちゃおかしいじゃないですか。別に、あたしがやったことを全部教えてあげてもいいんですよ。どの女の子をどんな風に抱いたかまで、詳しく教えてあげますよ。その代わり、旦那さまも、その体でやったことを全部あたしに教えてくださいよ。元の体に戻ったときに、あたしが困らないように」
 ひょっとして、こいつは、おれとイケメン秘書のことを知っているのではないか? そんな疑念がおれの心を満たしはじめた。
「大体、先週の写真集の撮影の事だって、あたしは旦那さまからの報告を受けていないですよ。だって、あれは、会社の仕事として行ったわけでしょ。『会社のために行くんだ』って旦那さまも言ってましたよね。会社の仕事だったら、ちゃんと報告してもらわないと。旦那さまも、経営者だったんだから、そのぐらいの理屈はわかりますよね」
 威圧感たっぷりの「おれ」の姿の小娘にそう言われて、おれは、黙り込むしかない。小娘に「経営者『だった』」と過去形で言われたことに対しても、何も言えなかった。
「少なくとも、旦那さまの直接の上司である秘書室長には知っておいて貰ったほうがいいですよね。あの子をここに呼びますから、あたしの前で報告してくれますか?」
 そう言って、小娘は立ち上がろうとする。
「あ、あれは、プライベートだ」
 おれは、苦し紛れにそう言った。
「へえ、そうなんですか。じゃあ、旦那さまは、会社を休んで、プライベートで写真集の撮影をしたってことですよね。ああ、いいですよ。別に会社を休んだことは咎めませんから。会社に入ったばかりの社会人としての自覚のない女の子のやることにいちいち文句言ってても、仕方がないですからね。プライベートだって言うのなら詳しくは訊きませんけど、旦那さまは、かわいらしい服を着て、にっこり笑って写真を撮ってもらうのが大好きなんですね」
「そ、そんなわけあるか!」
「慌てて否定しなくてもいいですよ。だって、会社休んでまでモデルをやりにいくんだから、余程好きじゃなければ、できませんよ。あれ、何赤くなってるんですか。恥ずかしがらなくてもいいですよ。若い女の子だったら、誰だってかわいい服が着られるのは嬉しいことなんですから。写真見せてもらいましたけど、ものすごくかわいく撮れてましたよね」
「あ、あれを見たのか?」
「ええ。あの社長の子が見せてくれました」
 あれを見られたなんて……。いや、どうせ写真集として発売されるのだから、そのときには小娘どころか日本中の不特定多数の人間に見られることになるのだが。
「特に、メイド服姿のなんて、もう、本物のメイドさんみたいで、ほんとかわいかったですよ。あのときの衣装は、全部お屋敷に送ってもらったんでしょ。だったら、元に戻るまでの間、そんな似合わないレディーススーツなんてやめて、あのメイドさんの格好で会社に来てくださいよ。秘書の子も喜びますし、何より、旦那さまだって、かわいらしい格好ができて、嬉しいでしょ」
「嬉しくなんかない」
「まだ、そんなこと言ってる。もういい加減認めましょうよ。『あたしはかわいらしい格好をするのが好きな18歳の女の子です』って。そう言ってみてくださいよ」
 そんなこと、絶対に言うわけにはいかない。たとえ嘘でも、そんなことを口に出してしまったら、もう戻れないような気がした。
「おれは、男だと言っているだろう。大体、何で、あの日の撮影のことをそんなに知っているんだ?」
「そりゃあ、あの社長の子がいろいろ教えてくれるからに決まっているじゃないですか。彼女と会うたびに旦那さまのことが話題になりますよ」
「おれの?」
「ええ。あの子、旦那さまのことを余程気に入ったみたいですね。『妹にするから、頂戴』って、いつも言われます」
 あの女社長、小娘にもそんなことを言っているのか。まあ、イケメン秘書によると、欲しいものはどんなことをしてでも手に入れる女だというから、社長に掛け合うぐらいのことは、するだろう。
「で、なんと答えたんだ?」
「そりゃあ、断りましたよ。あれは、大事な秘書だから、渡せないって」
「そ、そうか」
 おれは、ほっと胸を撫で下ろす。よく考えたら、小娘にしてみたら、元の体に戻ったらあの女社長のところに売られていた、なんてことにはなりたくないだろうから、そう答えるのは当然だろう。
「ねえ、旦那さま」
 小娘が、おれの体に手を回す。おれは、また、小娘に絡め取られてしまった。身を捩ってみるが「おれ」はそのぐらいで逃れられるような相手ではない。
 おれは、いつのまにか応接セットに座る小娘の膝の上で抱かれていた。おれの目の前に「おれ」の顔があった。小娘の抱擁は、イケメン秘書よりも、ずっと強引で力強いものだった。
「あのかっこいい秘書の人が好きなんですか?」
「な、何を――」
 言葉が途中で途切れた。あまりに唐突なことを言われて、おれはうろたえるしかない。
「好きなんでしょ、あの人のことが」
「ば、馬鹿なことを言うな」
 おれは、必死に言い返した。
「旦那さま、かわいいですよ。真っ赤になっちゃって。そんな真っ赤な顔で否定しても、バレバレですよ。――あの社長の子から全部聞いてるんですよ。旦那さまはあのかっこいい秘書の子に恋してるって」
「あ、あれは、向こうが勝手に勘違いしただけだ」
「もしも、旦那さまが望めば」
 そう言って、小娘は少し言葉を切った。
「あたしが社長の子にお願いして、あのかっこいい秘書さんを手に入れてあげてもいいんですよ」
「え?」
「あたしとあの子との仲です。あたしが頼めば、秘書の1人や2人ぐらい、譲ってくれますよ。彼を、旦那さま専用の秘書にしてあげてもいいんですよ。どうです、魅力的な提案でしょ」
「あ――。いや……」
「それとも、こうしましょうか。旦那さま、あの子の妹になれって言われてるんでしょ。いっそ、あの子の妹になって、あの家のお嬢さまになっちゃえばいいじゃないですか。それで、あの秘書さんを、旦那さまの専属執事にしてもらうんです。もちろん、それもあたしが頼んであげますから。あの子の妹になったら、お嬢さまとして女子高に通うんでしょ。当然、送り迎えは、あの秘書さん。お屋敷でも、お出かけの時も、いつも彼が旦那さまをエスコートしてくれますよ。彼が四六時中そばにいて、旦那さまのことを『お嬢さま』って呼んでくれるんですよ。どうです? 夢のような生活だと思いませんか?」
 おれの脳裏に、彼のさわやかな笑顔が浮んできた。彼に「お嬢さま」と呼ばれたときの胸の高ぶりが甦ってくる。
「彼が、旦那さま専用の執事になってくれるんですよ。旦那さまに絶対の忠誠を尽くし、旦那さまをしあわせにすることだけを考えるようになってくれるんです。素敵だと思いませんか?」
 おれのためだけの存在――。
 もしも、そうなれば、おれは彼のことを独占できるのだ。あの女社長に取られることもない。おれの、おれだけの彼でいてくれる……。
「旦那さまに取って、夢のような日が永遠に続くんです」
「夢のような――」
 そうだ。いつだったか、そんなことを口にしたことがある。
 夢のような一夜。それが永遠に続く……。
「旦那さま、これから、お出かけするんですけど、連れて行ってあげましょうか。あのIT会社の社長さんに、今回のことのお礼の挨拶をするんです。あの子があたしの提案を受け入れてくれたから、今回の提案は成功したんですからね。お礼の挨拶だっていうのに、手ぶらじゃ行けないじゃないですか。だから、旦那さまに行ってもらおうと思って。そんなに難しいことじゃありません。旦那さまに一言言ってもらうだけなんですから。『妹にしてください』って。ちゃんと言えたら、ご褒美に、あたしがあの子に頼んであげます。あのかっこいい秘書の子を、旦那さまの専属執事にしてあげてくださいって。たったそれだけのことで、旦那さまは、一生、あの秘書さんにかしずかれて暮らすことができるようになるんです。どうです、素敵でしょ?」
 小娘は、おれに顔を近づけて、おれの目を吸い込むように言葉を紡ぐ。
「今日から、旦那さまは彼を自由にできるんですよ。彼は、旦那さまの望むことなら、何でもしてくれます。キスしてといえば、キスしてくれます。抱いてと言えば、抱いてくれるんです。旦那さま、もう、彼には何度も抱かれてるんでしょ」
「え?」
「彼に抱かれるのが大好きなんでしょ」
 な、なぜ?
 なぜ、こいつがそのことを知っている?
「これから毎晩、彼の胸の中で眠ってもいいんですよ。朝起きたときには、彼が『おはよう、ハニー』って言ってくれるんですよ。朝から、彼に抱かれたって、かまわないんですよ」
 どうして――どうして、お前がそのことを知っているんだ?
「いつも、彼と一緒にいたいだけ一緒にいて、彼に抱かれたくなったら、抱かれたいだけ抱かれる。そんな夢のような暮らしが待っているんですよ」
 こいつは――こいつは、すべて知っている。
「好きな男の人と一緒に暮らして、好きな男の人に好きなだけ抱かれる」
 おれと、彼との事を。
「女の子に取って、こんな幸せなことはないでしょ」
 おれが、どんな風に彼に抱かれたか。
「その手で、幸せを掴みましょ」
 彼が何をして、それに、おれがどう応えたか。そのすべてを、この小娘は知っている。
「さあ、あたしが連れてってあげる」
「なぜだ」
「?」
 小娘は、わけがわからない、といった表情で、おれを見た。
「なぜ。そんなことをお前が知っている?」
「なぜって、あの子に教えてもらったから」
 そうなのだ。女社長は、おれと彼のことをすべて知っていたのだ。
 なぜ?
 イケメン秘書がすべてを話したから。
 はじめて彼に抱かれたときのことも、翌朝、もう一度抱かれたことも、そして、昨日のデートの後で抱かれたことも、彼は、全部女社長に喋っていた。きっと、女社長は、全部聞かされているのだ。おれが、どんな表情をしていたのか、どんな声を出したのか、そして、どんな風に乱れたのか。
 おれが、どんなに感じやすく、淫乱な少女だったのか、彼女はすべてを聞かされたのだ。
 だって。
 それが彼の仕事だから。
「いやぁぁぁーーーっ!」
 おれは、悲鳴をあげた。
 彼が、おれのことを彼女に話している。そんな想像をしただけで、頭がおかしくなりそうだった。
 こんなに好きなのに。あんなに愛していたのに。あたしを裏切るなんて――。
「出てけ!」
 おれは、叫んだ。叫びながら、両手を無茶苦茶に振り回した。
「ちょ、ちょっと、旦那さま――」
「出てって!」
 おれは、金切り声で叫び続けた。おれが振り回した腕が、「おれ」の体に当たった。
 涙が出てきた。
 泣き叫んだ。
 おれは、腕を振り回し、のた打ち回り、ふらふらになって、やがて、社長室の床に倒れこんだ。
「旦那さま――」
 誰かが何か言っていた。
「出てけ」
 おれは、1人になりたかった。誰にも会いたくない。
 おれは、社長室の床の上で、1人むせび泣いた。


 気が付くと、おれは、社長室に1人取り残されていた。
 小娘の姿は見えなかった。そう言えば、どこかへ出掛けるとかいっていたような気がする。
 おれは起き上がって、奥の「寝室」へと向かう。バスルームに入ると、鏡の前に座った。
 鏡の前には、若い、でも、疲れきった少女の姿があった。相変わらずレディーススーツが似合っていない。最近は、会社でもカジュアルでおれに似合ったかわいらしい服を着ることが多かったのだが、さすがに、今日は、スーツにしたのだ。
 鏡の中の少女は、涙で目を赤く腫らしていた。化粧も少し崩れている。おれは、薄く塗られた化粧を洗い落とした。すべて洗い落としたところで、おれには、もう一度化粧をし直すという気力は尽きていた。
 おれは、「寝室」のベッドに寝転がった。午前中に小娘が秘書を抱いたベッドの筈だが、シーツは取り替えられ、きれいに整えられていた。
 体の大きな「おれ」が体の大きな秘書たちを抱くために、大きめに作られているベッドは、体の小さなおれには、広大に感じられた。
 この「寝室」は、おれが15年間、必死に走り続けてようやくたどり着いたおれの「城」だった。なのに、この居心地の悪さはどうだろう?
 それは、おれが少女の体になってしまっているからだろうか?
 そうではない。この体になってから、「寝室」には何度も来ている。ここで小娘に無理矢理犯されたこともあった。それでも、おれの城であるこの部屋を居心地悪いと感じたことは1度もなかった。
 おれの今の気分は最悪だった。こんな最悪の気分になったのは、イケメン秘書がおれとの行為を、逐一女社長に報告していたという事実を知らされたからだ。
 イケメン秘書が、おれとデートしてくれたり、おれを抱いてくれたりしたのは、仕事の一環だということは、わかっているつもりだった。だが、最後のところ。男女のことは、おれと彼との秘め事として扱ってくれるんじゃないかと思っていた。そう、密かに期待していたのだ。
 だが、そんなことは、おれの一方的な思い込みに過ぎなかった。
 結局のところ、彼は、女社長の忠実な僕に過ぎなかったというわけだ。
 おれは、おれが女社長の「妹」になれば、彼がおれの専属秘書になってくれると聞かされたとき、心を揺さぶられた。そうすれば、彼がおれだけを愛してくれる、と思ったのだ。だが、それも幻想に過ぎないということがわかった。たとえそうだとしても、彼をおれに与えてくれたのが女社長だということには変わりがない。結局、彼が最終的に忠誠を尽くすのは、彼女だということだ。おれが得られるのは、おれに絶対の忠誠を誓ってくれる素敵な執事ではなく、「お嬢さまとイケメン執事ごっこ」という「ごっこ遊び」の主役でいられることだけだった。
 そうやって考えていくと、すべてが虚しく感じられてくる。会社のことなんて、どうでもいい気持ちになってきた。
 今頃、電機メーカーを傘下に入れたことで、社内はお祭り騒ぎになっているだろう。だが、この「寝室」には、そんな社内の喧騒も聞こえてはこない。
 ――。
 少し落ち着いたおれは、あの女社長のことについて、思いを巡らせる。
 それにしても、よくわからないのは、あの女社長が、おれの会社の提案に賛成してくれたことだ。実際、イケメン秘書も言っていたではないか。彼女は、欲しいものはどんな手を使ってでも手に入れると。10%もの株を集めた会社をおれの会社に譲るなんて、俄かには信じがたいことだ。何か理由があるとしか思えない。
 それは、「おれ」の姿をした小娘とのセックスがよかったから、とか、おれを妹のようにかわいがっているから、という理由でないことだけは確かだ。
 もちろん、女社長は、タダで提案に賛成してくれたわけではない。女社長にこの提案を持っていったときに、委任状を出してくれるのなら、それに対してリベートを支払うという条件提示は行なっている。今回は、女社長の側から、それに加えて、2つの条件が出されたらしい。1つは、リベートの増額。これはこちらでも、ある程度折り込み済みのことだ。もう1つはこの電機メーカーが大株主となっている家電メーカーへの役員の派遣だ。家電メーカーへは、この電機メーカーから3名の役員を送り込んでいるが、そのうちの1名を女社長の会社から出したいとのことだった。向こうとしても、最終的な狙いはこの家電メーカーだろうから、その布石は打っておきたいということなのだろう。
 だが、人事面での介入は、これだけ。10%の大株主なのだから、電機メーカーへも3人程度の役員を送り込むことは可能だし、おれの会社との交渉次第では、その枠を拡大することもできた筈だった。それをしないということは、電機メーカーの経営は、おれの会社に任せるという意思表示だと取れる。
 考えてみれば、彼女は「経営者」というよりも「投資家」タイプの人間なのだ。電機メーカーを手に入れることが目的なのではなくて、そこでどう利益を上げるかということに主眼を置いているのに違いない。そのためには、この会社の経営は、おれの会社に任せた方がいいと判断したのかもしれない。
 ただ、そうなると、彼女がどの時点でその判断をしたのかということが気になってくる。
 先週、彼女は、その判断をするために、おれの会社を訪れたのではないだろうか?
 IT企業が、おれの会社の提案を受け入れることを表明したのは、女社長がおれの会社を訪問した翌日だったという。あの日の女社長は一日中おれと写真集の撮影をしていたのだから、判断自体は前日、つまり、「おれ」の姿をした小娘と会ったときになされていたのだろう。
 要するに、女社長は小娘と会ってみて、自分の投資に対して利益をもたらしてくれる経営者と判断したということだ。あの日、小娘は「仕事の話は何も出なかった」と言っていたから、女社長は「おれ」の人物を観察して、判断を下したのに違いない。そう言えば、その翌日、彼女は「おれ」の姿をした小娘のことを経営者として評価しているような口振りだった。
 だとしたら――。
 おれは、心の底が冷え込んでいくのを感じた。
 おれが元の体に戻ったとき、女社長は、小娘を評価したのと同じように、おれのことも経営者として評価してくれるのだろうか?
 もちろん、経営者としての能力は、あんな経験1ヶ月足らずの小娘よりも、おれの方が高いに決まっている。だが、評価を下すのは、あの女社長の独断なのだ。どんな基準で小娘のことを評価したのかわからないが、その基準で同じようにおれが評価されるかどうかなんて、わからない。
 もしも、小娘に比べておれの評価が下がるようなことがあれば、女社長は「おれ」には経営を任せることはできない、と判断するかもしれない。そうなってしまったら、折角成功に漕ぎ着けた経営権委譲も白紙に戻ってしまう恐れがある。
 怖い。
 たった1人の人間の判断ですべてを決せられてしまうということが、こんなに恐ろしいことだとは思わなかった。女社長以外のすべての人間から評価されようとも、女社長1人の評価が低ければ、おれはすべてを失うかもしれないのだ。
 いや――。
 そもそも、本当におれは、経営者として、小娘よりも上だと言えるのだろうか?
 確かに、経営者としての経験では、おれが小娘に負けるわけがない。
 だが、経営者の本質――決断力だとか人を見る目といったことで、おれは本当に小娘に勝っているのだろうか?
 今日だって、秘書室長から、おれは人を見る目がない、と言われたばかりだ。
 小娘自身も、おれよりも自分の方が人を見る目があると言って憚らなかった。
 今回の提案だって、おれが決めたことを小娘が勝手にひっくり返したのだが、結果的には、小娘の判断が正しかったということが、証明されたようなものだ。
 おれは、ベッドを抜け出して、秘書室へと戻った。
 秘書室には2人の若い秘書だけが残っていて、相変わらずバラ色の将来を語り合っている。
 ホワイトボードには「社長」の予定が書いてある。電機メーカー、メインバンク、IT企業となっていた。今回の提案を受け入れてくれたこと、賛成してくれたことに対する挨拶回りだろう。秘書室長と副室長が随行したようだ。
 本当ならば、おれも一緒に行って、小娘に何を言うのか指示を出すべきなのだろうが、そんなことをする気分ではなかった。今の気持ちで、女社長のところへ行き、イケメン秘書とどんな風に顔を合わせることができるというのだろう。
 おれは、秘書室を出て行こうとしたが、2人とも、おれのことなど目にも止まっていないようだ。
 秘書室から総務へ出てみても、従業員たちは熱気に満ちていた。これまで、飛躍的な成長を続けてきたおれの会社は、世間一般に比べれば熱気と活気に満ちた会社だと思うが、それでも、ここまで従業員たちが活気に溢れているのを見るのははじめてだ。
 これは、会社としては理想的なことなのかもしれない。
 だが、それを成し遂げたのは、このおれではないのだ。
 おれは、活気に満ち溢れた社内で、ただ1人、疎外感を味わっていた。
 さっきから、歩いていても、誰もおれのことに気付く人間はいなかった。
 まるで、おれなんて、ここに存在しないかのようだった。
 おれは、静かに廊下へと出た。
 フロアの熱気も、ここまでは伝わってこない。
 おれは、少女の小さな手で、おれの顔を覆った。
 おれの小さな手が、涙で濡れた。
 この会社のどこにも、今のおれの居場所がないような気がした。

テーマ : *自作小説*《SF,ファンタジー》 - ジャンル : 小説・文学

コメント
コメントの投稿
管理者にだけ表示を許可する