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xxxy 12

「荷物はこれだけですか?」
 9月になった。
 北海道旅行の日、おれは、おれを迎えに来てくれた夫の部下の30過ぎの女性に、うん、とうなずいた。おれの荷物はブランド物のバッグが1つだけ。園子さんへのお礼に贈ったバッグと色違いのもので、思わず衝動買いしてしまった奴だ。他の荷物――明日以降に着る服など――は、事前に釧路のホテルの方へ送ってある。
 車に乗せてもらって羽田へ向かった。寝ているうちに、空港に着いていた。旅を楽しむため、少しでも睡眠時間を稼いでおかないといけない。搭乗手続きもすべてやってもらって、おれは飛行機に乗り込むだけ。出張で3日前から北海道入りしている夫とは釧路空港で合流予定になっている。この旅行は、おれの気分としてはハネムーンなのだが、スタートからいきなり夫と別行動というのは、やるせないものがある。おれに取っては新婚旅行でも、夫に取っては、年に1度か2度行っている普通の夫婦旅行だ。
 出発までの待ち時間は、夫の部下に特別ラウンジへと案内され、グラスワインをほんの少しだけ飲んだ。多分、悪くないワインだと思うのだが、双葉の口には合わない。酒を楽しむというよりも、睡眠薬代わりのアルコールだ。特別ラウンジは、ごく一部の客しか入れないスペースだが、夫の会社が空港での接待用に契約している場所だ。旅行会社ともなると、空港でこういう場所も必要なのだろう。外の喧騒とは無縁な静かな場所で、土曜日だが、年配のビジネスマン風の客が結構いた。おれみたいに、若くてかわいい系の格好をした女は少し浮いている。向かいに座る30代のレディーススーツの女性というのも、変な組み合わせだ。背が高くて、なんとなく園子さんに雰囲気が似ている人だと思った。出発のアナウンスがあると、彼女は、少し酔ったおれを搭乗口のところまで送ってくれた。土曜日なのにおれのお守りのために狩り出されて、申し訳なく思う。
 飛行機に乗ると、ヘッドホンで音楽を聴く。モーツァルトの交響曲。元々のおれの大好きな曲だが、双葉の耳には退屈だったようだ。リクライニングを倒すと、ほんの少しだけ飲んだワインの影響もあって、第1楽章の最初の山場を迎える前に、おれは寝てしまった。

 双葉のおれが眠ってしまった頃、元々のおれは、ちょうど羽田に着いたところだった。搭乗カウンターを探していたら(双葉が寝てしまったので、さっきの記憶が見えなくなってしまったのだ)、おれを空港までエスコートしてくれた夫の部下の女性が、航空会社の人間と何やら話しこんでいるのを見掛けた。双葉の目では背が高く見えた彼女だが、元々のおれの目で見ると、意外と小さく見えて、かわいらしい印象を持つ。不思議な感じだ。園子さんも、おれの目で見ると、こんな風に違って見えるのだろうか、と考えた。
 しばらく見ていると、彼女は、航空会社の人間と共にカウンターの奥へと消えていったので、双葉のおれを送り出す以外にも、何か他に仕事があるのだろう。彼女が、飛行機にひとりで乗れないような専務の馬鹿妻のためだけに狩り出されたのではなさそうだということに、おれはほっと胸を撫で下ろす。
 大きな旅行鞄を自分で運んで、搭乗手続きを済ませる。荷物はできるだけ減らしたつもりなのだが、最終日は羽田から会社へ直行のため、スーツや革靴を持っていく羽目になり、それが鞄のスペースを圧迫している。双葉みたいに、事前に札幌のホテルに送っておこうかと思ったが、料金を聞いて、やめた。ただでさえ、予定外の旅行で出費が嵩んでいるのだ。少しでも経費は抑えていかないといけない。
 手続きを済ませると、待合室で出発を待った。文庫本を読んで暇を潰す。さっきの双葉の飲み残しのワインでいいから、持ってきて欲しかったが、そんなことは無理な注文だ。一般の待合室からだと、特別ラウンジは入口さえ見えない。仕方がないので、自動販売機で紙カップのコーヒーを買って飲んだ。
 定刻より5分遅れで帯広行きは羽田を出発した。おれの席にはヘッドホンなどなかったが、前日、仕事で遅かったおれは、飛び立つとすぐに疲れて眠ってしまった。

「双葉!」
 釧路に着くと、到着口のところで、夫が手を振って待っていた。午前中は釧路の旅行業者と会う仕事が入っていたので、スーツ姿。ただし、到着口に出てきたおれを見つけたときから、その顔のにやけ具合は、完全に休日モードになっていた。
「忘れ物はない?」
「うん」
 とは言ったが、実は、飛行機を降りるときに、機内に持ち込んだバッグを忘れて出るところだった。隣の席が空席だったので、そこに置いたまま忘れてしまったのだ。機内から出ようとしたところで、客室乗務員に呼び止められて、そこでようやく忘れ物に気付いた次第だった。
「寒いね」
 空港ビルを出て、外の風を浴びた瞬間、思わず呟いた。釧路の気温は東京よりも15度も低かった。東京で言うと、4月ぐらいの気温だという。4月といえば、退院した頃だが、おれの体感としては、こんなに寒いのは、この体になってからはじめてのことだ。今日のおれは、レディースTシャツと長めのスカート。バッグの中からジャケットを取り出したが、まだ追いつかないぐらい。特に、スカートの裾のあたりがスースーする。ストッキングを穿いてこなかったことを後悔した。
「今日は、霧が出ているからね。昔なら、降りられなかったかもしれない」
 視界は靄がかかっていて、少し見通しが悪い。釧路は霧の町で、以前は霧のために飛行機の欠航が多かったそうだ。今では霧の中でも離着陸できる装置が取り付けられて、こんな日でも問題なく運行できるようになった。このあたりは、全部夫からの受け売りだけど。
 寒いのはちょっとブルーだけど、いよいよ楽しい(おれ的には)ハネムーンの始まり。駐車場にとめてあったレンタカーを見たら、ちっちゃくてかわいらしい奴でちょっと驚いた。いつもセルシオに乗っている夫からしたら、おもちゃみたいな車だが、これは「大人の事情」だと言う。本当は、クラウンクラスを予約してあったのだが、配送のトラブルがあって、そのクラスの車が1台足りなくなったらしい。午前中に夫が訪問した地元の旅行業者での話だ。おれたちが予約した車はあったのだが、その車を夫は提供したのだった。うちの会社のミスではないし、そんな義理もないのだが、こうやって恩を売れる機会があれば、売っておくのが優秀な営業マンなのだろう。こういうところは、業種違いとは言え、同じ営業マンとしておれも見習わないといけないが、なかなかできそうにない。
「ちょっと小さいけど、カーナビもエアバッグもついているし、たまにはこういうのでもいいよね」
「うん。ダーリンと一緒だったら、何でもいいよ」
 地元の旅行業者が、せめてものお詫びに、ということで、北海道銘菓のチョコレートをくれたので、おれとしては、こっちの方が嬉しかったりする。
「それじゃ、行こうか」
 おれは、助手席でチョコレートを頬張りながら、霧の釧路空港を後にした。

 双葉から1時間遅れで、おれも北海道に到着した。
 こちらは帯広。東京に比べたらかなり涼しいが、寒いという程ではない。単に、スカートとズボンという服装の違いなのかも知れないが。
 双葉とは、間もなく着陸というアナウンスが聞こえても、なかなかつながらなくて少々慌てたが、着陸5分前の地点でどうにかつながった。双葉の方は、お気に入りバッグ紛失事件を起こすところだったが、何とか未遂で終わってよかった。取りあえず、これでしばらくの間は双葉の行動に紐をつけることができる。双葉は、この日はいつもよりも少し早起きだったが、機内で寝ていたし、切断されていた時間もあるので、夜の7時ぐらいまでは起きていられるだろう。
 帯広に着いたおれは、バスで取りあえず市内まで出る。途中、どうということのない道の両側が、どこまでも続く畑で、開放感があって気持ちいい。以前、学生のときに来たときには、一面の畑の中を走るのが気に入って、丸一日、友人と十勝平野を意味もなく走り回っていたのを思い出す。十勝は、車で走るには最高の場所だと思った。
 逆に言えば、十勝で足がないのは痛い。十勝平野を一望できるような展望台が各所にあって、見事な展望だった記憶があるのだが、バスもないので、そこまでは足を伸ばせない。結局、帯広駅のコインロッカーに荷物を預けて、バスに乗って近くの温泉まで出掛け、バス停の近くのホテルで日帰り入浴をした。珍しい茶色のお湯だったが、なかなか気持ちよかった。
 土曜日ということもあって、昼間でもそこそこ客がいた。おれの目は、ついつい男性客の股間に行ってしまう。
 双葉のおれは、夫が運転するレンタカーの助手席で、少しだけ興奮していた。

 双葉のおれの方は、助手席に座っていれば、夫がいろんなところへ連れて行ってくれる。しかも、相手は旅のプロ。有名無名を問わず、夫のお薦めの観光スポットへと案内してくれる。実に楽な旅だった。
 おれたちは、釧路湿原を展望台から眺め(霧でよく見えなかったが、それも雰囲気があってよかった)、360度地平線が見渡せる牧場の展望台に行った(これは、本当に感動した)。山の上にある摩周湖の展望台にも行きたかったが、こちらは霧で見えそうにないということで、断念した。
「何か、展望台ばっかだね」
「道東の醍醐味は、広大な大地だからね。本当は、もっと他にも凄い展望台があるし、根室方面には海もあってきれいなところが山程あるんだけど、今回はそこまで足を伸ばす余裕がなくて」
 元々、夫の出張の予定に無理矢理嵌め込んだような旅行なので、融通はきかない。
「摩周湖は、明日もう一度チャレンジするけど、この時期だとまず駄目かなぁ」
「そうなの?」
 おれが若い頃に北海道旅行したときも似たような時期だったと思うが、普通に展望台から見えたような気がする。
「摩周湖は、特に夏は霧が多くて、滅多に見られないんだよ。逆に、摩周湖を見ちゃった人はそこで運を使い果たすのか、婚期が遅れる、という伝説もあるぐらいだからねぇ」
 えっ、そうなのか? おれがいまだに独身なのは、ひょっとしてそのせいなのか? たしか、あのとき一緒に行った友人は――あいつも、いまだに独身だな。逆に言うと、双葉のおれは、こんな素敵なだんなさまがいるわけだから、見られなくても仕方がないということか。
 結局、屈斜路湖畔をドライブして、4時には最初の宿泊地、川湯温泉に入った。
 今日のホテルはかなり大規模なホテル。おれたちの部屋は和室と洋室が一緒になった部屋だった。洋室にはダブルベッドが用意してあった。
 早速、大浴場へ行く。おれ的には、本日2度目の温泉だ。しかも、今度は女湯。といっても、今までお風呂では、自分自身と園子さん以外に、「当たり」と呼べるような女性を見たことがなかったので、あまり期待しない。
 ただ、この日は違った。夫と別れて「女」と書かれた暖簾をくぐったときから、女子大生らしい4人組と一緒だった。脱衣所でもきゃっきゃ言いながらじゃれ合っている。さすがに、おれ以上の女はいなかったが、若いだけあって、みんな肌がきれいでいい感じ。じゃれあっているうちに、持ってきた洗面用具が落ちて、おれの方に転がってきたので、拾って渡してあげた。
「ああ、どうもすみません」
 ペコリとお辞儀をされた。
 そう言えば、今のおれよりも肉体的に年下の女の子と接するのは、はじめてのこと。病院にも、会社にも、スポーツクラブにも、おれの行動範囲内には、年下の女はいなかった。
 眼福を楽しみながら、チラチラ見ていると、向こうもこっちを見てきて、たまに目が合う。向こうもこっちが気になるらしい。そりゃあ、元グラビアアイドルがセクシーボディをパワーアップさせて、その裸体を惜しげもなく晒しているのだから、同性とは言え、気になるに決まっている。向こうは、手やタオルで何となく胸と股間を隠している。お風呂はいつも園子さんと一緒で、隠すなんて一切なかったけど、若い女性の作法としては、こっちの方が一般的なのだろうか? まあ、隠すといってもバスタオルでも持っていないと隠しきれるものでもないので、白いバストがこぼれ見える感じで、かえってそそる。最近のおれは、女性の裸は極上のものを毎日見ているので、裸そのものよりも、裸の見せ方に興奮することが多い。そういう意味では、この女子大生4人組は、満点だった。
 風呂を上がると、部屋で夫と一緒に夕食。食事は和室の方に膳で用意された。おれは、浴衣姿で夫と差し向かい。山間の温泉なのにカニやらウニやら海産物満載のコースだった。山間と言っても、ひと山超えればオホーツクの海。太平洋岸の釧路や根室も近いから、海産物には不自由しないようだ。
 新鮮な魚介類は、双葉の舌でも充分楽しめた。1バイ丸ごと出てきた毛ガニだけは、双葉の不器用な手では解体することができなかったので、夫にやってもらった。剥いた毛ガニを夫はおれに食べさせてくれる。
「はい、双葉、あーんして」
「あーん」
 などと、バガップル丸出しなのだが、夫に抱きかかえられるようにして食べさせられるのは、楽しくて嬉しくて仕方がない。浴衣の前がはだけているのに夫が反応しているのがわかるし、その状態で体が夫と密着すると、ちょっとどきどきしてくる。そうして夕食が終わる頃には、心も体も準備万端という感じになってきた。

 温泉を出た元々のおれの方は、帯広の街をしばらく散策。全国的にも有名な北海道土産の菓子屋の本店があったが、甘いものの苦手なおれには豚に真珠。ここには、双葉の体で来たかった。
 それでも、知らない街を当てもなく歩くのは嫌いではないし、何より、外を歩いても暑くないので、気持ちがいい。結局、夕方近くまで帯広で過ごしてから、札幌行きの特急に乗った。元々のおれの方は、双葉と違って、コインロッカーに預けた荷物を忘れて、なんてことにはならない。
 夫との夕食が終わりかけた頃に、元々のおれの方も目的の駅に着いた。山の中の何もないような駅。本当にこんなところに宿があるのだろうかと心配になった。
 駅に着いても、双葉とはつながったまま。ペンションまで数百メートル。大きな荷物を抱えて歩いているうちに、双葉との間が切れた。向こうはちょうど夕食が終わるところ。心身共に盛り上がってきているが、部屋食なので、この後、仲居さんが食事を片付けに来るから、それまでは我慢しないといけない。それを徹底するために、少し戻って、もう一度双葉とつないだ。
 おれは、夫に抱きつきたくて仕方がないのを何とか我慢しているところだった。
(そうそう。我慢、我慢)
 もう少しの間我慢するように自分に言い聞かせて、再び接続を切る。一応、自宅じゃないので、あんまり大きな声を出さないように、ということも言い聞かせておいた。これで明日の朝までは切れたまま。今夜、どんなだったかは、明日つないでみたときのお楽しみだ。
 ペンションに入って、すぐに、夕食。こちらは十勝の農産物中心のメニュー。メインは肉料理だったので、十勝産の赤ワインを飲んだ。空港で双葉が飲んでいたときから飲みたかったので、ここでようやく満足。ちょっと、飲みすぎてしまった。
 しばらく、ペンションの主人や他の宿泊客と歓談したが、どんな目的の旅行なのかと訊かれて、ちょっと答えに困った。結局、何と答えたか、記憶にない。だんだんワインが効いてきたので、部屋に戻って寝てしまった。ひょっとしたら、今日は双葉よりも早寝だったかもしれない。

 食事を終えたおれは、ちょっとイライラしていた。仲居さんがなかなか膳を下げに来てくれないのだ。折角盛り上がってきているところなのに。でも、向こうと切れる前に、仲居さんが来るまでは我慢すると言い聞かせたばかり。我慢、我慢。でも、我慢できないので、キスだけでもしよう、と、夫と唇を合わせたところで部屋の電話が鳴った。ああっ、もう、間の悪い。
 ようやく、膳を片付けてくれて仲居さんが出て行くと、夫はそれを待ちかねたように、浴衣姿のおれをお姫様抱っこでベッドへと向かった。やっぱり、夫も早くおれを抱きたくて仕方がなかったみたいだ。うん。そりゃそうだよね。
 ようやく、お楽しみのセックス。今日は、土曜日だから、いつもよりも間隔は1日少ないけど、今日のお昼はオナニーしていないので、お待ちかね感は強いかも。夫は、おれを抱っこしたままベッドに座り、おれの浴衣を脱がせるところから始めた。帯をほどいて、肩を剥き出しにする。おれの白い肩とピンクのブラ紐があらわになる。浴衣を少しずつ脱がされ、両手を抜く途中でキスが来た。
「ん、んんんっ」
 あとはいつものように、キスをしながらブラを外され、乳首を舌で転がされながら、ショーツを下ろされた。
 いつもの手順だったけど、夫はいつもよりも乱暴な感じ。旅先でいつもと違う場所で、テンションが上がっているのかも。
「どうしたの、双葉。今日はおとなしいね。いつもみたいに声出してよ」
 おれの股間を指で責めながら、夫が言った。夫はこうしてセックスの途中でおれに話し掛けてくることがある。
「だって――だって、ああん!」
 そんなときは、おれが一番感じるところを愛撫しながらなので、おれはなかなかまともに答えられない。そういうところも楽しんでいるんだろうけど。
「だって、あんっ。――隣の、いゃん、人に、んんっ、聞こえたら」
 おれは、必死になっておれの声のボリュームを絞っていた。
「ちゃんと確認したから大丈夫だよ。隣も、その隣も、今日は空き部屋だって」
 そう言って、夫は、おれの中に硬くなった肉棒を突き入れてきた。
「ああぁぁぁぁぁん!」
 その後のおれは、それまで我慢してきた分を取り返そうとするかのように、嬌声を上げ続けた。いつも、ベッドの上では乱れるおれだけど、ここまでよがり狂ったのは、はじめてかも。
 すべてが終わったあと、おれは満足感に包まれながら、久し振りに夫の腕の中で眠った。

 翌日、ペンションのおれは、6時前に起きた。前日は酔っ払って、寝たのは8時過ぎだったと思うから、9時間以上は寝ていたことになる。
 早起きは旅の醍醐味の1つだ。やらないといけない雑事がないので、早く眠れて、結果、早く起きられる。外は既に明るいので散歩することにした。さすがに朝は肌寒い。
 駅まで歩いてみたが、双葉とはつながらない。限界距離の内側に入っている筈だが、双葉はまだ眠っているのだろう。あと2時間は眠ったままの筈だ。
 今日の双葉班は、道東から道央へとひたすらドライブ。300キロ近い行程なので、遅くとも10時には出たいところだ。朝食を終えた頃ということでは、9時頃につなげればいいだろう。おれは、それまでペンションでのんびりと過ごした。
 9時前に宿をチェックアウトして駅へと向かった。昨日よりも100メートル程ペンション寄りで双葉とつながった。限界距離がじりじりと延びていることをこういうところで実感する。
 双葉のおれは、ちょうど入浴中。昨日の女子大生のグループとまた一緒にならないかと期待したのだが、大浴場にいたのはおばさん連中ばかり。それで、誰もいなかった露天風呂に逃げ出して、重い乳房をお湯に浮かべてリラックスしているところだった。元々のおれとつながったばかりのおれは、湯船の中の自分の体を触ると、昨夜の夫との激しかったセックスを思い出してしまい、うっとりした気持ちになった。駅にたどり着いたおれは、待合室に入ると、股間の膨らみを気取られないように、椅子に大きな旅行鞄を抱えて座った。おれは、その場でズボンを下ろして、自分の勃起したペニスを見たい、触りたい、という衝動に駆られたが、何とか我慢して、風呂を上がった。

 おれと夫は10時前に宿を出た。摩周湖は今日も見えそうになかったので、あきらめて、ひたすら西を目指した。助手席のおれは、大半の時間を寝て過ごした。
 途中、阿寒湖を素通りしたと思ったら、森の中の小さな湖に寄った。エメラルドに輝く美しい湖だった。夫が言うには、北海道でも1、2を争う美しい湖なのだそうだ。昔は、知る人ぞ知るという感じで、秘湖などとも呼ばれていたそうだが、今は駐車場も完備されていて、普通に観光地という風情。20年前のおれは、阿寒湖には行ったので、このあたりも通った筈なのだが、こんな美しい神秘的な湖の記憶はないから、その当時は本当に秘湖だったのだろう。
 十勝に入ると、国道をそれて、畑の中を抜ける。
「今日は展望台はないの?」
 おれが、そう言うと、夫は予定を変更して、元々のおれが昨日行けなかった十勝平野を一望する展望台に行ってくれて、嬉しかった。
 元々のおれの方は、双葉のおれとの距離を考慮に入れながら、ゆっくりと西へと進んでいく。あまり急いで移動してしまうと、双葉のおれとの接続が切れてしまうのだ。駅に着いてすぐにあった札幌行きの特急も、1本やり過ごしていた。次の列車はと見ると、3時間後。ありえない時刻表だ。どうやら、この駅を通過する特急もあるようなので、一旦1つ帯広方面に戻って、折り返しの特急に乗る。これで2時間半ぐらい節約できて、昼前には千歳まで出ることができた。
 午後は、近くに湖があったので散策した。午前中に双葉のおれが行ったのは、山の中の小さな火山湖だったが、こちらは、海に近い湿原を伴った広い湖だった。自然散策路などもあって、1日でかなりの距離を歩いたが、とても楽しかった。やはり、おれは歩くことは苦にならない。昨日は、双葉とおれの立場が逆だったら、もっと楽しめたのに、と思ったが、今日は、ベストの組み合わせ。逆だったら、双葉の足ではとても持たなかっただろう。
 十勝から山を越えて、おれと夫が層雲峡のホテルに着いたのは夕方のの5時過ぎ。途中、車の中で寝ていた甲斐があって、あと2時間ぐらいは起きていられそうだった。元々のおれは、電車で西へと向かい、夫とホテルのレストランでディナーを取っているところで、接続が切れた。
 このディナーのためにドレスアップした。2種類のドレスを持って行っていて、夫に選んでもらって、その日は、黄色のワンピースみたいなドレスを着た。やっぱりかわいい系。もう1着のセクシー系の真紅のドレスの方がお気に入りだったのだが、仕方がない。折角のドレスも、部屋に戻ると、夫に毟り取られるように脱がされて、激しく犯された。たまには、こういう問答無用、というのいいかも。2日連続でセックスするのは初めてだったけど、ちゃんと満足させてもらった。ていうか、いつもよりも感じちゃった。この日もおれは、夫の腕の中で、幸せな気持ちで眠りに就いた。

 翌日、登別のおれは、温泉に入って昼までのんびりと過ごした。何だかんだ言って、この旅行、元々のおれの方のキーワードは「のんびり」だという気がする。ホテルが出している札幌までの無料送迎バスが昼過ぎなのだ。本来は札幌へ宿泊客を迎えに行くためのバスで、送る方はそのついでという位置づけなので、こんな時間になる。急いでいる人は、何千円か払ってJRの特急で札幌へと向かうらしい。それで半日節約できる。おれは急いでないし金もないので、タダのバスを利用することにした。
 登別は、泉質が様々で、道1本挟んでもまったく違うお湯が湧いていたりする。大きなホテルだと、本館と別館とで異なる温泉を楽しめるようになっているようだ。おれの泊まったホテルも3種類の温泉があって、チェックアウト時間の直前まで、ホテル内の温泉を梯子していた。その後は、町の公衆浴場のようなところにも行ってみた。昼を迎える頃には、温泉はもうたくさん、と思うぐらいになっていた。

 おれと夫は、層雲峡のホテルを10時に出た。この後は、旭川から美瑛、富良野を通って札幌へと向かう。旭川といえば、今ではすっかり動物園だが、双葉のおれは、動物園からはいいイメージが浮かんで来ない。基本的に動物は嫌いみたいだ。匂いも好きではないし、なんといっても、動物が怖いようだ。富良野はというと、観光名所のひとつは、テレビドラマに出てきた森の小屋とそれに関連するロケ地だが、おれも夫もそのドラマを見ていないので、特に興味はない。もうひとつの観光の目玉であるラベンダー畑は、時期が終わってしまったらしい。ラベンダー以外にも花は咲いているし、ハウスの中で咲いているラベンダーもあるようだが、それを見るのだったら、美瑛の丘をゆっくりと回った方がいい、ということで、この日は美瑛で1日潰すことになった。
 おれは、登別にずっといたので、夫の車が旭川の街中に入ったあたりでようやくつかながった。
 美瑛は、なだらかな斜面の畑に植えられた作物が、赤や黄色や緑のモザイク模様を作り出す。日本には滅多にないような風景の町だ。駅前の案内所で観光マップを貰って、それを見て夫の車で回った。9月に入った月曜日なので、そんなに人は多くない。ちょっとした展望台の駐車場に車を止めて、夫とベンチに並んで座って、丘の風景を見ていた。夫にもたれかかると、夫がやさしくおれの肩を抱いてくれた。
 最近は、夫といると、こんな風に何気ない仕草で甘えてみることがよくある。最初の頃は、双葉の真似をして甘えて見せていただけだったが、今では、ごく自然に夫に甘えるおれがいる。おれが甘えて見せると夫は喜んでくれるみたいだし、何より、夫に甘えられて、幸せな気分に浸っていられる。おれが夫と出会ってから、もう1年になる。最初は入院しているおれを見舞ってくれるだけだったが、春からは一緒に暮らすようになり、2ヶ月前に男女の関係になった。最初は、夫と会うたびに緊張していたが、今では、夫といるときが、おれが一番安らいでいられる時間だ。
「ダーリン」
 おれは、美しい丘の風景を眺めながら、言った。「ダーリン」という言葉も、今では何の違和感もなく言える。
「これからも、ずっと双葉と一緒にいようね」
「どうしたの、あらたまって」
「双葉はね、これから、一生ダーリンと生きていくんだなあって、ふと思ったの」
「ぼくと一緒は不満かな?」
「そんなことないよ。双葉、ダーリンの奥さんでよかったって、改めて思った」
 おれが双葉として夫と暮らし始めてから、こんなに何日も続けて夫と一緒にいるなんてことは、今までになかった。考えてみると、これまで、夫とは、朝一緒にご飯を食べるだけの関係。週末にセックスするだけの関係でしかなかったような気がする。でも、この旅の間、夫と常に行動を共にしていることで、おれがこの男の妻で、彼は、これらからの人生を共に歩んでいく伴侶なのだと、改めて実感されられた。そして、おれが紛れもなく、この男のことを愛しているということも。
 そういう意味では、やはりこの旅は、おれに取っては新婚旅行なのだった。

 この日の宿は、どちらも札幌の同じホテル。先に着いたのは元々のおれの方だった。双葉のおれは、まだ札幌へ向かう高速道路の上。
 おれは、双葉はともかく、夫とはなるべく顔を合わせない、というか、おれの目を通じて夫を見るのは避けることにしている。今の双葉のおれは、傍から見ると、結婚して2年半だから、もう新妻とも呼べないだろうが、おれとしては、はじめて体を許したのが2ヶ月前。それ以来、夫と一緒にいるだけで楽しいし、セックスも気持ちいいしで、恋愛感情が最高に盛り上がっているとき。実は、最近は、ダーリンって結構かっこいいじゃん、なんて本気で思ったりもする。
 ただし、それは、あくまで双葉の目を通して見た夫。恋は盲目というか、あばたもえくぼというか、双葉の視覚は双葉の脳内でかなり修正がかけられていると思うのだ。元々の――男のおれから見た場合、100年の恋も一瞬に冷める、とまでは言わないが「夫ってこんなオジサンだっけ?」ぐらいのことは思うだろう。誤解したままで幸せならば、誤解させておいた方がいい。そう思って、おれは、夫を見ないようにしている。
 だから、この日もロビーで出くわしてしまわないように気をつけて行動する。おれが自分の部屋で休んでいると、双葉のおれが夫と共にホテルに到着した。チェックインして部屋に入ったのを確認して、おれは、部屋を出て、札幌の街に出て行く。双葉と夫は、今夜はすすきのでジンギスカンの予定なので、おれは、藻岩山へ行って、夜景を見ることにした。藻岩山は、札幌の西側にある山で、冬はスキー場になるようなところだ。山頂までは、スキー客用のロープウェイがあるので、それを利用して、夏は夜景で売り出しているようだ。
 札幌の中心部から市電に乗って20分。「ロープウェイ前」などという名前だが、普通に街中の停留所で、とてもロープウェイがあるようには思えない。それでも、山が近くに見えたので、その方角に5分ほど歩くと、急に坂がきつくなり、本当にロープウェイの駅があった。と言っても、その直前まで普通の住宅地。札幌という街には驚かされる。100万都市なのに、こんな住宅地に突然スキー場があるのだから。
 微妙にオフシーズンのせいか、外がまだうっすらと明るいせいか、観光客の姿はちらほら。空いてていいやと思ったていら、観光バスがやって来て、ロープウェイは満員だった。途中でシャトルバスに乗り換えて山頂へ。9月上旬とは言え、札幌の夜。標高500mともなると、さすがに寒い。だが、景色を見た途端に寒さなど吹き飛んだ。
 凄い。
 夜景といえば、函館が有名で、実際、物凄くきれいなのだが、あちらは海と街とのコントラストが美しい独特の夜景。対して藻岩山は、札幌という100万都市を丸ごと見下ろすスケールが売り物。方向性は違うが、函館と並んで、おれの日本3大夜景の1つに認定しよう。ちなみに、残る1つは、双葉のマンション。
 秋風と呼ぶにはちょっと寒い藻岩山の山頂で、うっすらと明るかった空が真っ暗になっても、おれは、夜景に見入っていた。

 その頃、双葉のおれは、夫と一緒にジンギスカン。焼肉というよりは、野菜炒めに近いと思うのだが、そこはヘルシーさが売り物の肉料理。もっとも、おれみたいに、タレをべっちょりつけていたのではあまり意味はないのだが。
 たらふく食べて、店を出る頃にはすっかり真っ暗。元々のおれが藻岩山にいるので、日が暮れたことはわかっているんだけど。
 夫がビールをうまそうに飲んでいたので、ついついおれもワインを一口だけ飲んでしまって(やっぱり苦かった)、アルコールからきしの双葉のおれは、すっかりほろ酔い気分。西の方角に向かって、「おーい」なんて、手を振ってみる。もちろん、藻岩山のおれに向かって手を振ったのだが、見えるわけはないし、夫も不思議な顔でおれを見ていた。
 双葉になって、夜に夫とふたりで街を歩くなんてことははじめてのこと。なんだか、嬉しい。
「ねぇ、もう1軒、どっか行こうよ」
 おれは、夫の腕に抱きついて、甘えた声でそう言った。
「双葉、もうすぐ7時だよ。眠くない?」
「平気」
 ええっと、今日は9時に起きて、11時半ぐらいまで切れたままだったから……。ちょっと酔っ払っているのか、双葉の頭が回らない。あとは、藻岩山にいるおれが引き継いだ。うーん、何とかあと1時間ぐらいは起きていられるかな。
「よし。カラオケいこっ」
 最寄のカラオケボックスに夫とふたりで行った。といっても、歌ったのは、ほとんどおれ。双葉の歌は、CDを出せるようなレベルではないが、元々のおれよりはかなりうまい。芸能事務所にいたときに、少しだけレッスンも受けたことがあるようだ。双葉の体を使うと、元々のおれよりもずっとうまく歌えるから不思議だ。高い声が出るのも楽しくて、元々のおれなら興味はないが、双葉の体でよく聴いている人気女性シンガーの歌を続けざまに歌った。カラオケがこんな楽しいなんて、はじめて知った。
 夫は、おれの歌う曲をあまり知らないみたいだったので、今度は、おれが若い頃の女性アイドルの曲を歌うことにした。夫は、おれとは3つ違いだから、これだったら知っているだろう。ステージに立って、歌いながら、適当に振りなど入れて踊ってみる。胸が揺れるのが気になるが、意外とうまく踊れた。双葉の体は不器用だが、リズム感は悪くないのだ。ステップを踏みながら、スカートを軽く持ち上げて見せると、夫が「ヒューヒュー」と声をかけてくる。おれは、ウインクと投げキッスで夫の歓声に応えてやった。
 それにしても、カラオケでスカートをひらひらさせながら女性アイドルの歌を歌っているなんて、1年前のおれには想像もできなかったことだ。
「ふーたーばーっ!」
 夫が昔のアイドルの親衛隊みたいに声を限りに叫んでいる。
「疲れたー。ちょっと休憩」
 まるまる1曲歌って踊ると、ぐったりきた。やっぱり、この体、リズム感はいいけど、体力はまるでない。スポーツクラブに通って、随分体力ついたと思っていたけど、まだまだだ。
「じゃあ、今度はダーリン、これね」
 おれは、夫のために、昔の男性アイドルの曲をセットしてやった。夫が歌いはじめた。結構うまい。夫は、何をやらせても、そつなくこなすタイプなのだ。その分面白味に欠けるんだけど。
 夫の歌を聴いていたら、何だか眠くなってきた。藻岩山のおれが腕時計を見たら、8時を回っていた。
 だめだ。もう限界。起きていられない。
 夫の歌声を聴きながら、双葉のおれは眠りに堕ちた。
 人に歌わせておいて、自分は寝てしまうなんて、我ながら酷い女だ、と藻岩山のおれはため息をついた。

 翌日、夫は、市内の得意先をいくつか回るために朝の8時には出て行くという話だったので、元々のおれは7時にホテルを出た。
 双葉の方はまだ切れたまま。恐らく、寝ているのだろう。昨夜は、あの後、どうなったのかはよくわからないが、タクシーを降りるときに一瞬だけおれとつながったので、夫に連れられて、何とか帰っては来たのだと思われる。
 9月の上旬だというのに、朝の札幌は冷える。おれは、しばらく街を歩いて、ハンバーガー屋で朝食セットを取った。
 明日は、朝1番の飛行機で帰らないといけないので、実質、おれの旅行は今日が最終日だ。1日のんびり観光でもしていようと思うが、1つだけホテルに戻ってやることがある。それまでは、街を散策。取りあえず、荷物をホテルに置いたままにしておけるので、楽になった。
 双葉のおれは、携帯の着信音で起こされた。園子さんからだ。時計は11時を回っていた。
「ふーちゃん、寝てた?」
「寝てました」
「今から行くよ。30分で着くから、それまでに準備してね」
 30分? ええっと、今のおれは……。げっ。服は昨夜のまま。お肌のお手入れどころか、化粧も落とさずに寝ちゃったから、ちゃんと体を洗って、お手入れして、お化粧して。園子さんの家に着ていく洋服は、こっちに来てから選ぶつもりで2着持ってきていたので、それも選ばないといけないし――。
「無理無理。絶対無理です」
「時間がないんだから、何とかしなさいよ。この後、買い物して準備してといろいろあるんだから」
「だったら、もっと早く起こしてくださいよぉ」
「ふーちゃん、あなたいつまでお姫様気分でいるの?」
 えっ、園子さんに取ってのおれって、そんなイメージなんですか?
「あたしだって、夜勤明けで今起きたところなんだから、もっと早く起こせとは何たる言い草」
「ううっ、すいません」
 ん? 園子さん、今、起きたところ、って言ったような。
「園子さんこそ、今起きたばかりで、あと30分でここまで来られるんですか?」
「うーん、それはちょっときついかな。頭ぼさぼさでパジャマ姿なら、何とかなるかも」
「あたし、そんな園子さんの姿、見たくありません」
「はは。30分っていうのは、嘘。1時間ちょっとはかかるかな。ご主人が来るの、2時半だったよね。だったら、12時半ということにしようか」
 園子さんとは、ホテルのティーラウンジで待ち合わせることに決めた。
 よかった。1時間あれば、何とかなる。シャワーだけじゃなくて、お風呂にも入れそうだ。
 おれは、1時間弱で何とか準備を済ませて、ティーラウンジへと降りていった。
 それに合わせて、街を散策していたおれもホテルへ戻って、ティーラウンジに向かっている。双葉のおれが先に着いて、入り口が見える席に座った。約束の時間までは10分以上あるから、園子さんはまだ来ていない。園子さんよりも先に、おれがティーラウンジに入ってきた。お互いに自分の姿を確認だけして、元々のおれは、双葉のおれの後ろの席に座った。目の前にティーカップを口に運んでいる双葉の後姿が見える。洗って乾かしたばかりの髪が、つやつやと光っている。こうして、自分の後姿を見る機会なんて、なかなかあるものではない。
 約束の5分前になって、園子さんがやってきた。おれが――もちろん双葉の方のおれが――手を振ると、入ってきた園子さんが小さく手を上げて微笑んだ。
「久し振りです」
 電話やメールではいつもやりとりしていたが、会うのは、2ヶ月ぶりだ。
「声はいつも聞いているから、そんなに懐かしくはないよね」
「ええっ、あたしは、会えなくて寂しかったんですよ」
「ふーちゃんは、相変わらずの甘えんぼさんね」
 おれが――元々のおれの方がわざわざホテルに戻ってきたのは、元々のおれの目で園子さんを見るためだった。実は、元々のおれとしては、園子さんをまだ1度も見ていない。東京にいるときは、家も近かったし、同じ病院だったのに、結局1度も会うことがなかった。おれは、はじめて会ったときから、園子さんを異性として意識していたわけだが、これまで、双葉の目を通してしか園子さんを見ていない。
 今回の旅行で羽田を出発するときに、偶然、夫の会社の部下の女性を見かけて、同じ女性を見るのでも、双葉の目で見るのとおれの目で見るのとでは、印象が全然違って見えるということに気が付いた。それならば、元々のおれの目で園子さんを見たらどんな風に見えるのか、試してみたくてやってきたのだ。
 双葉のおれは、園子さんと近況やらこれまでの旅行のことなどを話した。園子さんは双葉の方を見て、楽しそうに笑っている。
 双葉のおれに取っての園子さんは、背が高くて、おれよりも7つも年上の大人の女性。笑っていても、知的で凛とした雰囲気を漂わせていて、おれは「かっこいい」という思いで園子さんを見ている。以前、下のプールで泳いでいたときなんて「素敵……」という思いだった。ひょっとしたら、最近の双葉のおれが園子さんを見る目は、女子校で憧れの先輩に対する気持ちみたいなものに変わってきているのかもしれない。
 ところが、元々のおれの目から見た園子さんは、全然違った。
 園子さんは、とてもかわいかった。今まで、双葉の目を通していたとはいえ、おれは男として園子さんに恋していたのだが、その園子さんがこんなにかわいらしい女性だとは思わなかった。一番びっくりしたことは、園子さんが小さかったことだ。園子さんの身長が、元々のおれと双葉のちょうど中間ぐらいだということは、頭ではわかっていたのだが、実際におれよりも小さな園子さんを見たときには、驚いた。
(かわいい)
 おれは、思わず口に出しそうになって、慌てて口を噤んだ。園子さんが、双葉の後ろにいるおれの不穏な動きに気を留めたのか、視線を双葉から外してこちらに向ける。おれは、思わず、横を向いてしまった。
「園子さん、それでね」
 園子さんの興味をおれの方に向けさせないために、双葉のおれは、体を乗り出し、声のトーンを少し上げて、園子さんに話し掛けた。園子さんが目を向けるべき相手は、あくまで双葉のおれ。もうひとりのおれは、ここでは空気のような存在であるべきだ。
 おれには、今、2つの映像が見えている。それ自体はいつものことで、すっかり慣れてしまった。地下鉄のシートに隣に並んで座って、反対側のシートを見ていたこともあったので、同じ光景を2つの視線で見るという経験も初めてではない。実際、地下鉄でおれと双葉が見た光景は、座っている場所や座高の違いで、多少は違って感じたのだが、基本的には同じものだった。でも、今回は、違う。見えているものは明らかに同じなのに、感じ方が別なのだ。同じ園子さんに対して、双葉の目は大人っぽいと感じ、おれの目はかわいいと見た。不思議な感覚だ。
「さあ、あんまりゆっくりしていられないから、そろそろ行きましょうか」
 園子さんは、レモンティーを飲み終えると、立ち上がった。双葉のおれは、すかさず、テーブルの反対側の園子さんのところに行って、腕を取った。ちょうど双葉と園子さんがおれの方を向いて立つことなった。ああ、凄い。おれの目の前で、双葉と園子さんのツーショット。こうして双葉と並べて見ると、さすがに園子さんの方が大人びて見えるが、そのあまりに細い体は、やはり健気でかわいいという感じ。横に並ぶ双葉のおれは、園子さんとは対照的に、ちょっと若くて、肉感的で、ゴージャスな感じ。こうして並んでいると、よくわかる。おれだったら、付き合ったり、一緒に暮らしたりする相手としては、断然、園子さんを選ぶ。でも、一夜限りのセックスの相手としてなら、やっぱり、双葉だろうか。
 かわいい園子さんと、セクシーな双葉。ティーラウンジを出て行く2人の女性を見て、おれは、そんなことを考えていた。

 園子さんの車は、赤のヴィッツだった。勤務先の病院へはこれで通っているという。
 途中の市場で魚を買い込んで、園子さんの家へと向かった。こうして助手席に乗せてもらっていると、フェアレディZで毎日病院まで通っていた頃のことを思い出す。
「ご主人とはうまくやってるの?」
「これでも、毎日9時前に起きて、朝ごはんの準備してるんですよ。園子さんと違って、トーストぐらいしかできないけど」
「へえ、偉いじゃない」
「そりゃあ、主婦ですから」
「だったら、今日は珍しく寝坊したんだ」
「昨日はちょっと夜更かししちゃったから」
 夜更かしと言っても、8時ぐらいなのだが、双葉の体にとっては、深夜もいいところだ。
「やっぱり、旅先の夜は燃えるから、遅くなっちゃったわけ?」
 いきなり、なんてこと言い出すんだ、園子さん。
「き、昨日は、やってないです」
 おれは、平静を装って、そう言った。
「昨日は、ってことは、その前はやったんだ。その日は層雲峡だっけ? あれ? でもさすがに初日は絶対やるよね。ひょっとして、初日、2日目と続けてやっちゃったってこと?」
「う――知りません」
 園子さん、おれとは3ヶ月も一緒に暮らしたということで、気安い関係というのはわかるが、最近はどうもこういう話が多い。こうなったのって、やっぱり、箱根の夜以来かなぁ。
「またあ。ふーちゃんも何恥ずかしがったりしてるの。まさか、あれからご主人と1度もやってないわけじゃないよね」
「――そりゃ、そうですけど」
「どうなの? あの人、なんだかんだ言って、経験豊富そうなんだけど、やっぱり、テクニックも凄いの?」
 園子さんは、興味津々という顔で訊いてくるが、そんなことおれに訊かれたって答えようがない。だけど、園子さんがあまりしつこく夫のテクニックについて訊いてくるので、最後にはとうとう言ってしまった。
「園子さんよりも凄いです」
「何、それ。のろけてるつもり? って、あたしのどこが不満なわけ?」
 どこがって、そんなの決まってるじゃないですか。アレがないところですよ。――というわけにもいかないので、おれは、小さな声でこう言う。
「内緒です」
「内緒って、何が?」
「だから、内緒なんです」
「また、ふーちゃん、そうやって、何も知らないお姫様を装うんだから。夜毎やりまくってるくせに」
 いや、夜毎なんて、やってません。週1だし、やるのも朝です。
「よし、わかった。だったら、帰ったらお姉さんともう一度、どこが足りなかったのかをじっくり話し合おう」
「話し合いですか?」
「そう。実技も交えて」
「そんな暇ないですから。ちゃんと手巻き寿司の準備をしましょう。――って、園子さん、それ以前に、前向いて運転してください!」
「大丈夫。今の時期は雪もないから、札幌の人は目つぶっても運転できるし」
「それ、絶対嘘です!」
 結局のところ、園子さんは、こういう話をすると、おれが真っ赤になって照れるのが楽しくて(ひょっとしたら、かわいくて?)、遊んでいるのだ。
 そんな他愛もない会話のうちに、車は園子さんの自宅へ着いた。
「ここですか?」
 園子さんの家は、意外なことに一戸建てだった。屋根の角度が急なことを除けば、東京近郊でも新興住宅地などでよく見掛けるような普通の一軒家。ただし、住宅街のはずれにあるのか、斜面に立っていて、坂道の傾斜がきつい。
 あれ? ここって――。
「凄い坂でしょう。この辺は山の裾野のあたり。うちの裏の山が藻岩山って言うんだけど、ふーちゃん、知ってる? 結構夜景で有名な山なんだよ」
 知ってるも何も、昨日、来ました。ていうか、おれは、園子さんちの前の道にも、見覚えがある。市電からロープウェイ乗り場まで行く途中で通った道だ。
「まさか、一戸建てだなんて、思ってませんでした」
「あれ? 言わなかったっけ?」
 独身女性の一人暮らしって聞いていたので、おれが勝手にアパートかマンションだと想像していただけなのだが。
「元々、両親と一緒に暮らしていたんだけど、父親が定年になった途端に夫婦で家出しちゃって、残ったあたしが一人暮らし」
「家出って――」
「こんな寒い街は嫌なんだって。今は宮崎で家借りてそっちで暮らしてるみたい」
「そういう家出ですか」
「その癖、夏の間は暑くて適わないからとか言って、戻ってくるんだから。8月の間はずっとこっちにいて、ようやく先週向こうへ行っちゃったところ。多分、もう少ししたら、台風シーズンだとか言って、また戻ってくるんだけどね。大体、寒いとか言って、北海道なんだから、当たり前じゃない。これだから、本州人は――」
 聞いてみると、園子さんの父親は広島出身(「本州の広島」と園子さんは言っていた)。母親は名古屋の出身で、元々転勤族だったのだそうだ。園子さんも、生まれは大阪で、1歳から3歳までは福岡で育ったらしい。
「あたしは、幼稚園からずっと札幌だったから、道産子も同然なんだけど、親は内地の人だから、雪が降るのが許せなかったらしいんだよね。こんなスキー場の目の前にあるような家になんか住みたくないって。あたしは、そこが気に入っているのに」
 おれが昨日乗ったロープウェイは、本来、藻岩山のスキー場のためのものだから、園子さんの家からだと、本当にスキー板を担いでスキー場に行けるということになる。
「そうだ。ふーちゃん、今度は冬においでよ。一緒にスキーやろう」
 園子さんは誘ってくれるが、多分、双葉のおれにはスキーなんて絶対無理。だって、平らな地面を普通に歩いていても躓いて転ぶような運動神経なんだから、斜面で雪の上なんて行ったら、間違いなく遭難してしまう。
「スキーが無理でも、一度冬に来るといいよ。雪祭りのときにでも遊びにおいで」
 園子さんは、おれとおしゃべりしながら、手際よく、玉子を焼いたり、キュウリを切ったりと準備を進めていく。おれの仕事はほとんどなくて、酢飯をさますのに団扇であおいだ程度。あとは、園子さんの話し相手ぐらい。そうこうしているうちに、夫から電話が入った。仕事を終えて、もう近くまで来ているらしい。園子さんに替わると、電話で道順を伝えている。
「ふーちゃん、悪いけど、家の門のところまで出ててくれる? あなたの大好きなだんなさまが歩いていらっしゃるから」
 園子さんに言われるままに外に出て、夫がやってくるのを待つ。斜面に立つ園子さんの家の前からは、札幌の街並みが見渡せる。結構いい眺めだ。夫がこの坂を上ってくるのを待っていたら、後ろから声がした。
「双葉!」
 振り返ると、スーツ姿の夫が坂の上から降りてくるところだった。
「ダーリン、どこから来たの?」
「どこって、ロープウェイ乗り場から。タクシーで藻岩山のロープウェイ乗り場まで行けば、あとはすぐだからと園子さんに言われて。びっくりしたよ。本当にロープウェイ乗り場まですぐなんだね」
 夫がやってきたことで、冷蔵庫から魚を出して、切り身を切り分けて、準備完了。札幌での手巻き寿司パーティーのはじまりだ。
 今日のネタは、ホタテやカニ、サケなど、北海道産のものが中心。この旅行のホテルで出たものも多いが、手巻き寿司だとまた一味違って、おいしい。何より、久しぶりに園子さんと一緒の食事で嬉しかった。
「ねえ、ダーリン。今度は、雪祭りのときにおいでって誘われちゃった」
「いいねぇ。行っておいで。双葉も一度、マイナス10度の世界を体験するといい」
「ええっ、雪祭りって、そんなに寒いの?」
「そりゃあ、真冬の札幌だからね。夜の大通公園は物凄くきれいだけど、死ぬほど寒いから、躓いて転んで気絶なんてしたら、そのまま凍死しちゃうから、気をつけてね」
 夫は、冗談っぽく言っているが、双葉の体の場合、本当にそんなことになりかねないから恐ろしい。大体、この体で雪の札幌に来て、無傷で帰れるとは到底思えない。
「そうだ、園子さん。雪祭りのときだけでいいから、この家、簡易宿泊施設として貸しませんか? その時期は宿がとにかく不足するんで、結構いい稼ぎになりますよ」
「ダーリンったら、こんなときにお仕事の話はしないの」
「いや、雪祭りの時期の宿の確保にはほんと困っているんだよ。折角の掻き入れ時なのに、市内のホテルのほとんどは大手の代理店に押さえられちゃうから」
「でも、わたしが住んでますからねぇ」
「だったら、その時期、園子さんが東京に遊びに来るということでどうです? 前みたいに、うちのマンションで泊まればいいですから」
 夫のこういう話は、食事の席のその場限りの話と思っていても、実は本気で実現させちゃうというところがあるので、怖い。大体、それじゃ、おれが雪祭りに行けないじゃん。
「駄目だよ、ダーリン。このおうちは、双葉が園子さんに泊めてもらうんだから」
 そんな話をしているうちに、夫の携帯が鳴った。3人とも、そろそろ満腹になりかけていた頃のことだ。
 電話に出た夫が急に真面目な顔になって、対応している。
「わかった。取りあえず、丘珠へ行けばいいんだね」
 夫は電話を切ると、園子さんに向かって言った。
「すいません、急に仕事が入りました。タクシーを拾うには、どこへ出るのがいいですか?」
「ダーリン、トラブルなの?」
「ああ。釧路で観光バスの事故だって。大した事故じゃないけど、うちの噛んでいるツアーなので、誰かひとり行かないといかないといけない。どうやら、ぼくが一番早く着きそうなので行ってくる。5時の飛行機を押さえたらしいから」
 時計を見ると、4時前だった。
「丘珠空港までですか?」
 園子さんが言った。電話で言っていた丘珠というのは、札幌市内にある空港の名前だ。そこから釧路行きの飛行機が出ているらしい。
「だったら、お送りします。タクシーを呼ぶよりも確実ですから」
 結局、3人で園子さんのヴィッツで丘珠空港へ向かうことになった。おれは、何の役にも立たないが、ひとりで園子さんの家で留守番というわけにもいかないので、ついていった。
 車の中でも、夫は携帯で会社の部下と連絡を取り合っている。時折、丁寧な口調になるのは、現地の旅行代理店が相手なのだろう。
 事故というのは、釧路市の郊外で道東旅行のツアー客を乗せた観光バスに、後ろから来たダンプカーが追突したらしい。幸い、死者はなく、軽傷者が十数人。このバスは、さまざまな旅行会社のツアーが共同で準備したバスで、夫の会社としては、怪我をした自社のツアー客の便宜を図るために、現地へと赴かざるを得ない。こういうときに、他社よりも対応が悪いと、それをネットに書き込まれて、会社の信頼を落としかねないのだそうだ。そうでなくても、現地の旅行会社の印象は悪くなる。敢えてそういった面には目をつぶり、安さだけで勝負をするネット系の旅行会社もあるようだが、夫の会社は、信頼第一だし、きめ細かいサービスが売り物なので、トラブルには即座に対応するのが基本だ。そのための人員も揃えている。
「ダーリン、大丈夫そう?」
「うん。何とか。ぼくが着くまでは、現地の代理店の人にうちの会社のことをお願いしておいたから」
 聞くと、おれたちが釧路でレンタカーを借りる際に、手配ミスで困っていた代理店だという。夫が快くおれたちの車を提供したので、そのお返しに、というわけでもないのだろうが、夫が着くまで、夫の会社の代わりに便宜を図ってくれるということだ。ネット系の旅行会社とはいえ、最終的にはこういう人のつながりで動いている部分があるので、夫は忙しく日本中を飛び回らざるをえないのだ。
「取りあえず、ぼくが飛ぶけど、夜には、東京から専門のスタッフが駆けつける予定だから。引継ぎを終えて、最終の特急か、遅くても夜行バスで戻ってこられると思うよ」
「無理しなくてもいいんだよ。双葉、ひとりでも飛行機乗れるから」
「行きは別々に来ちゃったからね。折角の夫婦旅行なんだから、帰りぐらいは一緒に帰ろう。大丈夫だよ。明日、双葉が起きる頃には、双葉の隣にいるから」
「うん――」
 園子さんの家は、札幌の南西。丘珠空港は北東にあるのでちょうど反対側だ。車は、市街地をぐるりと迂回するように走り、30分程で、空港に着いた。何とか、出発に間に合った。
「園子さん、どうもありがとうございます。後片付けもできなかったのに、送っていただいて、何と感謝していいか」
「困ったときは、お互い様ですからね」
「園子さんは、これから仕事なんでしょう? 双葉は、ここからタクシーで、ホテルまで帰りなさい。ホテルの名前を言えば連れて行ってくれるから。お金、ある?」
「大丈夫。タクシーぐらい、ひとりで乗れるから」
「双葉さんは、これから、ホテルまでお送りしますから、安心して行って来てください」
 結局、おれは園子さんに送ってもらうことになった。
「何から何まですみません。――双葉、それじゃ、行ってくるから」
「ダーリン、お仕事がんばってね」
 夫は、園子さんの車から降りると、慌しく機上の人になった。

 おれは、園子さんと空港から市街地に戻り、そのままホテルまで送ってもらった。園子さんは、夜勤があるため、取りあえず、戻らないといけない。手巻き寿司の後片付けをしたら、もう出掛ける時間なのだそうだ。喰い散らかしたまま、後片付けもしないというのは気が引けたが、実際のところ、園子さんの家まで戻っても、おれは見ているだけなので、そのままホテルへ帰ることになったのだ。
「慌しかったけど、楽しかった。また、会おうね」
 ホテルの前に車を止めて、園子さんがそう言った。
「はい。今度は園子さんがうちに来てください。また、ドライブしましょう」
「そうだね。年内には、1度ぐらい行けると思う。なるべく、だんなさまとの間のお邪魔にならない日に行くから」
 そう言って笑うと、園子さんは、夕闇迫る札幌の町へと消えていった。おれは、ホテルの玄関の前で園子さんを見送った。
 結局、園子さんが自由形の目標タイムをクリアしたかどうかを訊くことも忘れてしまった。

 ――さて。
 おれはひとりでホテルのベッドに寝転ぶことになった。
 状況を整理しよう。
 おれは、今、ひとりで札幌のホテルにいる。
 夫は、釧路へ向かう飛行機の中だ。仮に、この間にトラブルが解決したとしても、釧路からの折り返しの便はもうない。千歳行きもないので、札幌まで戻ってくるには、JRの特急しかないのだが、それだと札幌着は深夜になる。実際のところはそれも時間的に厳しいので、夫が戻ってくるのは、夜行バスに乗って、明日の朝だろう。
 この街に、おれのことを知っている人間は、ひとりしかいない。その唯一の人、園子さんは、仕事へと向かった。こちらも、明日の朝までは拘束されている。
 つまり、今夜おれが札幌のホテルでひとりで過ごすことは確定している、ということだ。
 そして、もうひとりのおれは、小樽から札幌へと戻る電車の中にいる。
 おれに取っては、この旅の主目的は、双葉の首に鈴をつけておくことだったので、貧乏旅行で通してきたのだが、最後の夜ぐらいはカニでも食べようかと思っていた。早めに食事を済ませて、ビールを飲んで寝てしまい、あとは、双葉として夫との2日ぶりのセックスを存分に楽しむ。そんな腹積もりだった。
 だが、その肝心の夫がいなくなってしまったのだ。
 夫が釧路へ行く、と言い出したとき、元々のおれは、迅速に動けなかった。迷っていたのだ。
 しばらく、小樽の町を歩いてみたが、もう景色など目に入らなかった。落ち着く場所を求めて入った駅前の喫茶店でコーヒーを飲んでいるうちに、夫は双葉の元を離れて、飛行機に乗り込んでいった。
 おれは、取りあえず、札幌に戻ることにした。これからどうするか? まだ決めていない。
 夕暮れが迫っていた。おれは、電車の中でもずっと迷っていた。
 カニを食べに行く店には、夫の会社のサイトで予約を入れてある。札幌駅で乗り換えて、地下鉄でホテルまでは1駅。カニを食べに行くなら2駅だ。
 もう一度、状況を整理してみる。もう、頭の中で何度も何度もやったことだ。
 双葉のおれがホテルにひとりでいる。
 元々のおれも、そのホテルに泊まっている。
 おれが部屋を出て、エレベーターに乗り、おれの部屋に入れば、それは成就する。
 誰かに見られる気遣いはほとんどない。万一、見られたとしても、それがおれや双葉を知る人間である可能性は、ゼロに等しい。
 まさに、神様がくれたようなチャンスだ。このような機会が、これから先、もう1度巡ってきたりするだろうか?
 電車は札幌駅に着いた。おれは、人波に押されて、ゆっくりと地下鉄乗り場へと進んでいる。
 おれは、ベッドを降りて、鏡の前に立った。おれが今まで見た中で、最高の美女が鏡には映っていた。
 地下鉄はすぐにやってきた。ホテルまではたったの1駅。ここで降りるか、次の駅まで行って、カニを食べるか、決めなくてはならない。もちろん、カニを食べに行くかどうかで迷っていたわけではない。この手でおれを抱き、この身をおれに任せるかで迷っていたのだ。
 鏡の中の美女も思案に暮れている。おれはまだ迷っていた。
 最初の駅に着いた。ホテルへと戻るのなら、ここで降りなければならない。
 鏡の中の美女も、迷っていた。おれの表情が憂いを帯びて、それが却って、普段は見せないような魅力を醸し出している。おれは、どんな格好でも、どんな表情でも絵になる女なのだ。
 おれは、昼間にティーラウンジで双葉の姿を見たときの事を思い出した。
 園子さんと並んだおれを見て、思ったこと。
 付き合うのなら、園子さんだが、一夜限りのセックスの相手としてなら、やっぱり、双葉だ。
 美しい顔。大きな胸。柔らかい肌。
 そんな最高の女が、いま、おれの手の届くところにいる。
 おれは、おれの素晴らしい肢体を抱くことを考えて、下半身を硬くさせた。
 おれは、夫以外の男のそれに貫かれることを想像して、股間を湿らせた。
 そうだ。このチャンスを逃す手はない。
 今日、何もしなかったら、一生後悔する。
 発車のベルが鳴った。
 扉が閉まる寸前、おれはホームへと飛び出した。
 おれは、おれを抱くために、地下鉄を降りた。

 おれは、鏡を見ながら、最終チェックをしていた。
 同時に、おれは、風呂に入って体を洗っていた。
 今、おれは同じホテルのそれぞれの部屋にいて、準備に余念がない。
 今日のおれは、完璧だ。
 いつもは、夫のためにかわいい系でスカート短め、という格好が多いおれだが、今日は隙のない美女でまとめてみた。肌触りのいい真紅のドレス。2日目のディナー用に2着用意してきたうち、夫が選んでくれなかった方のドレスだ。まさか、こうしておれのために着ることになるとは思わなかった。
 大きく開いた胸元からは、ふたつのふくらみが誇らしげにはっきりと見て取れる。背中は半分ぐらいしか隠れていない。丈は長いがスリットが入っていて、ポーズを取ると、白い脚が艶かしく伸びているのが見える。
 双葉のおれが鏡で自分の姿をチェックしている頃、バスルームのおれは、体を洗い終えたところだった。タオルで入念に体を拭き、コロンを振りかけた。いつも、夫が使っている奴だ。地下鉄を出たところにあったデパートで急いで買ってきたものだ。おれは、こんなものを使うのは初めてだが、体臭が気にならないように、使うことにした。いくら自分の匂いでも、双葉の鼻で嗅いだら、臭いと思うかもしれない。取りあえず、いつも夫が使っているものなら、双葉のおれもその匂いには慣れているので、大丈夫だろう。ついでに、口臭予防のキャンディーも買ってきて、それをなめている。
 おれは――双葉のおれは、立ち上がった。双葉の部屋の方がずっと広いし、ダブルベッドも置いてあるのだが、こちらを使うわけにはいかない。夫がおそらく朝には帰ってくるのだ。双葉以外の人間の痕跡を残すわけにはいかないので、おれは、元々のおれの部屋を使わざるを得ない。
 おれは、露出した肌を隠すためのショールを肩に掛けて、部屋を出た。ヒールの高い靴で、ゆっくりと廊下を歩いて、エレベーターホールへと向かう。このホテルは、今日は空室ばかりの筈だが、それでも、誰に会うかわからない。元々のおれは、念のため、ガウンを羽織って、自分のフロアのエレベーターホールまで出張っていった。あたりに誰もいないことを確認すると、双葉のおれは、エレベーターのボタンを押した。
 双葉のおれが降りてくる前に、元々のおれは部屋へと戻った。万が一にも、おれと双葉が一緒にいる姿を見られてはならない。エレベーターでも、廊下でも誰にも会わなかった。真紅のドレスのおれは、エレベーターを降りると、廊下を優雅に歩いていく。最近は、ハイヒールにも少し慣れてきた。ホテルの部屋と部屋の間を移動するぐらだったら、何とかなる。おれの部屋の前に差し掛かると、内側からドアがすっと開き、双葉のおれは、おれの部屋へと入った。
 おれは、おれの目を通して、双葉のおれを見た。
 部屋に入ってきたおれは、さっき鏡で見たよりも、ずっと素晴らしかった。鏡を通さないで見る生身のおれは、いつも感じているよりも一回り小さく見えた。それでも、いつもよりも大人っぽく見えるのは、衣装と化粧とおれの表情の賜物だった。いつもは、かわいらしい服を着て、とにかく馬鹿っぽく笑っているおれだったが、今日は、口元を引き締め、視線も鋭くして、精一杯、大人の女性を演じて見せている。
 おれは、シングルルームの狭い入り口の通路で壁に寄って、入ってきた双葉のおれのために道をあけてあげた。こんなことをするのも不思議な感じだ。別に、どちらもおれなのだから、何も男が女のために道を譲らなくてもいい。
 おれの目の前をおれが通り過ぎる。双葉のおれは甘い香りがした。おれも、夫と同じ嗅ぎなれたコロンの香りを漂わせていて、少しほっとした。
 取りあえず、部屋に入った双葉のおれは、シングルルームに1つだけ置いてある椅子に座った。元々のおれは、ベッドのふちに腰掛けた。
 傍から見たら、中年のくたびれた男と、若くてセクシーな美女が、ホテルの狭いシングルルームに一緒にいるように見えるが、実際には、この部屋にはおれひとりしかいない。
 これまでも、双葉が退院した日の病院、はじめて夫に体を許す前の地下鉄、そして、今日のホテルのティーラウンジと、おれと双葉が顔を合わせたことはある。だが、それはいつも、公衆の面前。衆人環視の元、別人として、赤の他人として振舞わなければならなかった。地下鉄のシートで手をつないだときも、体の後ろで隠すようにして、誰にも見つからないように秘かに手をつないだのだ。
 ところが、今は、ホテルの密室の中に、おれの2つの体だけがいる。誰に対しても、何に対しても、気兼ねも遠慮も必要のない状態。そんなシチュエーションを迎えて、正直、おれはどうしていいか、わからなくなっていた。
 おれは、椅子に座った双葉を見ている。双葉のおれは、目を合わせず、すまし顔で横を向いていた。もちろん、わざとそうしているのだ。そうやって、いつもは見せないちょっとクールビューティーなおれを鑑賞していた。
 おれがおれを見つめている。それだけなのに、何だか気まずい感じになっていた。
 おれは、緊張していたのだと思う。
 元々のおれが立ち上がって、双葉のおれの座っている椅子の横に立った。大きく開いた真紅のドレスの胸元からふくよかな谷間が見えている。双葉を横から見下ろすような形なので、白い胸の谷間が奥まで見えた。凄い光景だ。こんないい女、見たことがない。もちろん、双葉のおれは自分のことを毎日見てはいるが、元々のおれの目で、こんなセクシーなおれを見るのは、初めてのことだった。
 おれにしてみたら、こんな美女と密室でふたりきりなどという体験自体が、生まれてはじめて。今までおれが抱いてきた女性たちには申し訳ないが、彼女たちは、今のおれと比べたら、月とスッポン。レベルが天と地ほども違う。いくらそれがおれ自身だとは言え、こんな凄い美女をこれから抱くと思うと、緊張で体が硬くなってくる。
 そして、双葉のおれの方も、男と――夫以外の男と密室でふたりきりなのだ。見掛けはセクシーでゴージャスで完璧な美女に見えるおれだが、その中身は、まだまだ女性初心者。ようやく、夫とは毎週肌を合わせるようになったが、夫以外の男とは、話したことすらほとんどない。それが、いきなりおれのような中年の男に抱かれようというのだ。まるで、夫にはじめて抱かれたときのような緊張感に、おれは包まれていた。
 おれは、椅子の周りをゆっくりと回る。その中心には美しいおれがいる。まずは見るだけ。決しておれの体には触れないように注意しながら、おれはおれの体をゆっくりと舐めるように眺めた。彫刻の天才が、美の極致を表現しようとして作ったかのような完璧な横顔。ドレスの後ろで大きく開いて男を誘う肌触りのよさそうな背中。ドレスのスリットから覗く、真っ白で肉感的な太腿。
 ああ。どの角度から見ても、おれは素晴らしい。
 おれは、段々興奮してきた。同時に、照れくさくなってきた。こんな密室で、全身に男の熱視線を浴びていると思うと、何だか、恥ずかしくなってくるのだ。
 何だ、この感覚は?
 いつも、おれが夫に抱かれるのは、朝。おれは、夫に明るい光の中で抱かれている。そのとき、顔はもちろん、胸も股間も、それこそ、おれの体のありとあらゆる部分を夫に見られているのだが、それでも、こんなに恥ずかしくなったことはない。
 やめて。そんないやらしい目で双葉を見ないで。
 今はそんな気持ちが湧き起こってきた。実際、おれは、おれの完璧な体を、目で犯していた。
 双葉のおれは、少し戸惑いながら、傍らに立っているおれを見上げた。それまで、おれはなるべく横を向いたりして、おれと目を合わせないようにしていたのだが、このときはじめて目が合った。
 あ――。
 おれ同士で見詰め合ってしまうと、さっきの恥ずかしい気持ちが急に膨らんできて、それがおれの感情を満たしてしまった。おれの4つの目に映っているお互いのおれの顔が、どちらもみるみる真っ赤になっていく。耐えられなくなって、双葉のおれは下を向き、元々のおれは、後ろを向いた。双葉のおれは心臓の鼓動が速くなり、元々のおれは急にのどが渇いてきた。
 机の上には、ペットボトルのお茶が半分残っている。小樽から札幌に戻ってくるときに、ホームで買ったものだ。おれは、双葉の手を伸ばしてペットボトルを取り、横を向いたままおれに渡した。おれは、後ろを向いたままそれを受け取る。お互い、一切相手を見なかったが、苦もなく渡せた。こんなことは、今のおれに取っては、体の後ろで右手から左手に物を渡すぐらい簡単なことだ。
 緊張からか、元々のおれの喉はほんの少しの間にカラカラに渇いてしまった。冷えてはいなかったが、一口含むと、渇きが癒され、緊張が少し解けた。おれは、相変わらず相手を見ないでボトルを双葉のおれの手に返した。今度は渡すときにおれの指同士が少しだけ触れ合った。
(――!)
 指が触れた感触に驚いて、双葉のおれは慌ててお茶を飲んだ。
 苦い。とてもじゃないが同じお茶だとは思えない。
 しまった。双葉の体では、苦味のあるお茶は飲まないようにしていたのを忘れて、ついうっかり飲んでしまった。いつもならこんなミスはしないのに、やはり緊張しているのだろう。双葉のおれは、急いでバスルームに飛び込んで、洗面所でうがいをした。何度も口の中をゆすいで、ようやくお茶の苦味を消した。おれと双葉では味覚がまったく違うということはわかってはいたが、実際に同じものを飲んでみると、今更ながらにそれを実感した。
 そうなのだ。おれという人間はひとりしかいなくても、感じ方は体によって、まるっきり違うのだ。これから、おれが行なおうとしていることは、その最たるものだった。
 おれは、鏡の前で自分の姿を確認する。さっきまで、もうひとりのおれに穴が開くほど見つめられていたのだから、おかしいところなんてない筈だが、最近のおれは、鏡を見たら、条件反射的に自分の姿をチェックするようになっている。もう、すっかり習慣になってしまった動きだった。
 おれは、鏡の前で口元を引き締めて、隙のない美女に戻ろうとした。そこに映っているのは紛れもなく女だった。おれは、右手を大きく開いた胸元にやって、左の乳房をやさしく揉んでみた。おれの体はちゃんと女の反応をした。
 そのことを感じ取った元々のおれは、股間に手をやった。おれの体が男としての反応を始めている。
 双葉のおれは、次第に大きく硬くなりつつあるおれのペニスの存在を感じ取っていた。ああ。これをおれの中に入れたら、どんな感じがするのだろう?
 そうだ。折角おれはこんないい女になったんだ。少なくとも1度ぐらいは、おれのこの素晴らしい体で、夫以外の男を味わってみたいじゃないか。
 おれは、鏡の前でもう一度口元を引き締めた。完璧。「よし」と小さく声を出して、バスルームを出た。
 おれは、今度はベッドに並んで腰掛けた。その間はほんの10センチ。
 しばらく、そうやって、並んで座っていた。おれのふたつの心臓が、どきどきとアップテンポを刻んでいる。
 おれは、意を決して、双葉の肩に手を回そうと――。
 突然、携帯が鳴った。
 おれは、ふたつの心臓がどちらも止まってしまいそうなぐらい、びっくりした。
 電話は、夫からだった。双葉の携帯の液晶には、夫の写真と「だいすきダーリン」という園子さんに勝手に入れられた文字が浮かび上がっている。
 おれは、思わず顔を見合わせた。この意味のない行為。おれの目には、お互いの顔が戸惑っているのが見えた。
 双葉のおれが携帯を手に取る。もうひとりのおれの方は、双葉が電話に出る間、バスルームに消えることにした。
「ダーリン、今、どこ?」
「釧路の病院。そんなに酷い事故じゃなかったから、一安心だよ。現地の代理店の人がよく動いてくれて、助かった」
「帰れそう?」
 おれは、今、一番気になっている質問を投げかけた。
「JRの最終は出ちゃったからね。もうすぐ東京からうちのスタッフが着くから、引き継いだら、深夜バスで戻るよ。そうだね。ホテルに着くのは6時半かな。明日の朝、双葉が起きたときには、隣で寝てると思うよ」
「ほんと?」
 おれの声のトーンが上がった。演技ではなく、夫が戻ってくると聞いて、条件反射的に喜ぶおれがいる。
「ああ。ちゃんと戻るから、今夜はもうおやすみ」
 夫は、おれのことなんて、少しも疑っていない。おれが、おれと夫の部屋ではなく、別の男の部屋にいると知ったら――。
「ダーリン」
「なに?」
「双葉、ダーリンのこと、大好きだよ」
「どうしたの、急に」
「だって――」
 だって、これから、おれは――。
「ダーリン、愛してる」
 ダーリン、ごめんなさい。
「双葉は、ダーリンだけを愛しているんだから」
 一生に一度だけ――。今夜の双葉は、ダーリンを裏切ります。

 皮肉なことに、迷っていたおれを後押ししたのは、この時の夫からの電話だった。
 この電話で、燻っていたおれの心が一気に燃え上がった。
 結局のところ、おれを燃え上がらせたのは、最愛の夫を裏切るという背徳心であり、罪悪感であった。おれは、夫からおれという極上の女を掠め取るという嗜虐心に燃えていた。
 夫からの電話を切ると、おれがバスルームから戻ってくるのを待って、おれは真紅のドレスを脱ぎ始めた。
 おれには、夫のように、下着を脱がせながらという趣味はない。真紅の布が床に落ちると、下着姿のおれが現れた。今日の下着はドレスと同じ赤。燃えるような赤ではなく、ドレスと同じ、そそるような真紅だった。おれのセクシーさを目一杯強調した下着だ。さっき、自分の手でつけたのだから、おれがどんな下着をつけているかはわかっているが、やっぱり、鏡を通さずに、おれの目で直接見ると、興奮する。真紅のブラジャーで持ち上げられた2つの乳房が上を向いて突き出していた。同じく真紅のショーツから伸びる2本の肉感的な太腿も、おれの性的欲求を掻き立てずにはいられなかった。
 下着姿のおれは、口元を引き締めて、鋭い目でおれを見た。物凄い美女が下着姿でおれを誘っている。おれは、踊るように両手を動かして、ポーズを取ってみた。おれの左手の薬指で、人妻であることを示す指輪が光った。おれと対の指輪を持つ人は、数百キロの彼方にいるというのに、おれは今、別の男の前で下着姿を晒している。その禁断の事実が、却っておれの女体を昂ぶらせていく。
 おれは、背中に手を回して、真紅のブラを外した。形のよいGカップのバストがあらわになる。毎日見ている乳房だが、こうして、おれの目で正面から見るのは、初めてだった。おれは、身を乗り出して、おれの美しい乳房を鑑賞した。おれの白い胸は、大きさも形も完璧だった。とっくに、おれの股間は硬くなっていた。勃起したおれのペニス。おれは、その存在が気になって、股間を湿らせ始めていた。
 おれは、双葉の手で自分の胸を撫でてみた。柔らかくて張りのある乳房。自分で撫でていても気持ちいい。これから、それを触り、触られることを思うと、乳首が硬くなってくる。おれは、双葉の手で2つのふくらみを持ち上げて見せた。柔らかくて大きなバストがおれの目の前でいやらしく形を変えていく。
 ああ、だめだ。もう我慢できない。
 あの乳房を早く揉んでみたい。バストを力強く揉まれたい。あの谷間に顔をうずめてみたい。敏感になった胸の谷間におれの顔を思う存分押し付けたい。
 おれは、前屈みになって、ショーツを脱いだ。すっかり興奮してしまったおれは、おれのショーツが糸を引いているのを見た。おれの2つの体は、どちらもすっかり準備が整っていた。
 おれは、ガウンを脱ぎ捨て、全裸になると、おれを抱きしめた。
「あんっ」
 抱きしめられたおれは、思わず声が出た。おれの大きな乳房が、おれの硬い胸板に押し付けられ、おれの敏感な乳首が潰されたからだ。
 僅かに発せられたおれの声は、おれ自身の耳で聴くと、少女のようにかわいらしい声だったが、その中には、妖しく艶やかな響きもたっぷりと含んでいた。夫が、おれの声を気に入ってくれているのもよくわかる。おれは、おれをもっと啼かせたくて、おれの大きな胸に手をやった。
「ああっ」
 おれは、鋭い声を上げた。凄い。か弱くて、でも、どこか男を誘うような声。声だけでイケそうなぐらいの声を、おれは発していた。
「も、もっと――」
 おれとおれが抱き合っているのだから、言葉には何の意味もないのだが、おれの声を聴きたくて、おれは、言葉を紡いだ。
 おれは、抱き合ったまま、ベッドに倒れ込んだ。
 おれが抱きしめた女は、信じられないぐらいに柔らかく、肌もすべるようだった。
 凄い。こんな女、初めてだ。おれは、自分の体がこんなにも甘美で豊潤だとは知らなかった。こんな女が抱けるのなら、死んでもいい。そう思えるぐらい、おれの体は超一級品だった。
 おれは、おれの敏感な左胸を右手で掴んだ。力加減がよくわからない。おれの手は、夫に比べるとソフトな感じだ。おれの秘かな性感帯である乳房の下を擦ると、信じられないような快感が駆け抜けた。
「あああぁぁっ!」
 思わず、凄い声が出た。いつも、オナニーでは必ず触る場所だが、セックスのときは、夫にはなかなか触ってもらえない場所。元々のおれの手で触ると、双葉の手で触ったときとは比べ物にならないぐらい気持ちよかった。
「すごい、すごいよぉ」
 演技ではなく、おれは声を出していた。左の乳房の下から、物凄い快感が湧き出してくる。
 おれは、今度はその場所に舌を這わせた。
「ひゃああぁぁっ」
 信じられない快感が来た。おれが舌を使い続けると、その快感が更に高まっていく。結局、これだけでおれは1回目の絶頂に達してしまった。
「はあ、はあ」
 おれは、喘ぎ声すら最高だ。おれは、一度絶頂に達してしまった双葉の体を、休むことなく、優しく愛撫した。
 だんだん、わかってきた。
 おれは、夫に比べて、力強さが足りないし、正直言って、テクニックも見劣りする。おれを抱いてくれる男としては、かなり物足りない。
 だが、おれには、この双葉の体を知り尽くしているという圧倒的なアドバンテージがある。おれが感じたいときに感じたい場所を感じさせてくれる。最初のうちはその場所や力加減がよくわからなかったが、やっているうちにわかってきた。というか、完璧に自分の体のことを理解した。
 おれは、右胸の乳首を舌で転がしながら、普段は夫が触ってくれないような性感帯を次々に制圧していく。背中、腋の下、おなかの横。おれが感じるポイントを、本当にセンチ単位の正確さでおれは愛撫した。自分の手で自分の体を触っているだけなのに、それが双葉の手ではなく、元々のおれの手となると、おれの感じ方は、何倍にもなるから不思議だ。少なくとも、触られている双葉の体は、触っているのが、自分の手ではないと感じているようなのだ。結果、おれの熟れた女体は、おれという他人の男に蹂躙され、陥落した。あっけなく、おれは、2度目の絶頂を迎えた。
 双葉の体で今までに味わったことのないような快感を甘受したおれは、今度は元々のおれを満足させるために、双葉の大きな胸の中に、おれの顔を押し付けた。夫も言っていたが、おれの乳房は形や大きさも極上品だが、その柔らかさや弾力でも超一級品だった。こ、これは凄い。元々のおれに取って、おれの胸に顔を埋めるのは、まさに至福のひとときだった。そのとき、はっきりと思った。おれは最高だ。おれ以上の女なんて、いない、と。
 もちろん、おれはおれに至福の快感を与えながらも、おれの頭を自分の胸に押し付けることで、それ以上の快感を得ていた。元々のおれが双葉の体に快感を与え、双葉のおれが元々のおれの体に快感をもたらす。感じさせているのも、感じているのも、結局はおれ1人なので、これは究極のマスターベーションなのだが、それぞれが自分ひとりで行なうものとは比べようもない巨大な快感が生まれていた。
 おれは2つの体を持っている。2つの体は完璧ではないが、お互いの足りないところを補い合っている。それが、おれが2つの体を得た理由だと、このときはっきりそう思った。
「そこ。そこ。そこ。いいいぃぃーーっ!」
 おれは、さっきからずっと、よがり、喘ぎ、叫び続けていた。無意識のうちに勝手に声が出ていた。おれは、そんな双葉のおれを責め続ける。
「いやんっ、やんっ、やぁぁぁーっ!」
 おれは、股間の敏感なところを責められて、3度目の絶頂を迎えた。おれが知っている限りの双葉の性感帯はすべて責め尽くし、あとは、残すところは1点だけになった。
「きて!」
 ベッドの上の双葉のおれが声を上げた。
「お願い。今すぐ来て、ダーリン!」
 そう声に出した瞬間、おれは凍りついた。
 双葉の体を愛撫していた手が、ぴたりと止まった。
 ダーリン。
 確かに、おれはそう言ってしまった。
 おれに取って――双葉のおれに取って、もうひとりのおれというのは、何なんだろう?
 他人でないのは間違いない。この世で、もっとも結びつきの強い体。でも、双葉のおれに取って、元々のおれは、最愛の人というわけじゃない。おれが世界一大切に思っているのは、おれではなくて、夫なのだ。おれが無意識に叫んだ「ダーリン!」という言葉が、それを残酷なまでに物語っていた。その最愛の人を抜きにして、おれとおれは、こんなところで、何をやっているのか?
 ダーリン、ごめんなさい。
 そう思った瞬間――。
「うおおおおおっ!」
 おれの中に抑えがたい感情が生まれた。それは、凶暴な感情だった。目の前にいるこの女をおれのものにしたい、この女を犯したい、おれのペニスでこの女の中を掻き回したい、という荒ぶるような感情だった。
「やめて!」
 おれは、思わず口走った。おれは、おれを拒否しようとした。
 おれの中に、相反する2つの感情が生まれた。
 おれは、男として、おれを犯そうとしている。
 おれは、女として、おれから逃れようとてしている。
 まさか。おれが分裂しようとしている?
 そう考えているおれも、また別のおれだった。
 入れたい。
 やめて。
 どうして?
 かわいい。
 入れて。
 凄い。
 もっと。
 待て。
 何が。
 ダーリン。
 ……。
 一瞬のうちに、おれの中で、おれが分裂し、無数に増殖していった。無数に分裂したおれが、めいめい勝手におれと双葉の体を動かそうとしたが、別のおれがそれを阻止した。これが起こった一瞬の間、おれはおれの2つの体の制御を失った。以前にあったフリーズとは違う。おれはちゃんと存在するのに、イニシアティヴを取るおれがいなかったために、誰も、おれの2つの体を動かせなくなったのだ。あるおれは、この事態をまずいと捉えていたが、そんなおれにも何もできなかった。
 そのとき――。
(一緒になろうよ)
 どのおれだったかはわからない。誰だか知らないが、とにかく、誰かがすべてのおれに話し掛けた。
(双葉とひとつになろう)
 おれは――すべてのおれは、その声の方向に耳を向けた。
 誰だ?
 何を。
 どうして。
 とにかく。
(あたしたちはひとつなんでしょ)
 そうだ。
 おれたちはひとつ。
 ひとりの人間。
 ――。
 おれは、ひとつになった。
 気が付くと、おれは、ベッドに横たわるおれを見下ろしていた。
 おれは、ベッドに横たわって、おれを見上げていた。
 さあ。行こう。
 ひとつになろう。
 おれは、おれの屹立した肉棒を双葉の中へと押し込み、おれは双葉としておれのペニスを受け入れた。
「あああんっ!」
 入れられた快感に、思わず声が出た。
 おれは本能のままに双葉のおれを突いた。
「あんっ、あんっ、あんっ、あんっ!」
 突かれるたびに、おれの口から、かわいらしくて艶かしい喘ぎ声が勝手に出た。
 突かれたおれは、無意識のうちに、おれのものを締め付けていた。
 気持ちいい、きもちいい。
 最後の絶頂が近付いてきた。
 無数にいたおれが、ひとつになって、突き進んでいた。
 感じる。感じたい。感じさせたい。
 凄い。こんなの、今までではじめて。
「双葉!」
 おれは、叫んだ。
「あっ、ああっ、ああああっ!」
 おれの声が悲鳴に近くなる。
 イク。どっちも、イクーーーーッ!
 おれは、おれの中に発射した。
 その瞬間、おれは、本当にひとつになった。

テーマ : *自作小説*《SF,ファンタジー》 - ジャンル : 小説・文学

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12のあとがき

このお話の主要な登場人物は、たったの3人です。主人公の「おれ」と夫と園子さん。
「おれ」と双葉を別々にカウントしても、4人しかいません。
体ベースで見た場合、この物語の主人公は、「双葉のおれ」の方ということになるでしょうか。「おれ」は体を2つ持っていると言いながらも、大半は「双葉のおれ」のことについて書いていますから。

身もフタもない言い方をすれば、このお話は、その主人公が、残りの3人の登場人物とヤッちゃう話。
で、この章がその3人目とヤッちゃうお話です。

この小説を書いていて、一番不安だったのは、主人公の「おれ」が、元々の自分と双葉という2つの体を同時に動かしているという、この話のアイディアの根幹部分をうまく伝えられるか、ということでした。「おれは、○○した」と書いたとき、この場合の「おれ」が、どちらのおれなのか、読者の方がちゃんとわかってくれるかどうか。もし、このあたりを理解してくれないと、この小説は成り立ちませんから。
ですから、同時に2つの体を動かしているとはいえ、なるべく、どちらか片方(大半は双葉側ですが)をメインにして、混乱をきたさないように気をつけていました。どうしても、区別したいときは、「双葉のおれ」、「元々のおれ」という具合に使い分けるようにしました。
ただ、この章の「おれ」同士のセックスシーンでは、あえて、ほとんど使い分けをしていないんですよね。「双葉のおれ」も「元々のおれ」も、単に「おれ」となっています。
さすがに、ここまで読み続けてきた方は、いちいち使い分けなくても、何とかわかってくれるんじゃないかという希望的観測の下にそうしました。もちろん、あえて区別しないことによって、2つの体がどちらも「おれ」だということを表現したかったわけです。

実際のところ、それが功を奏しているかどうかは、作者にはよくかわりません。

もっとも興奮するTS小説

TS小説を長年読み続けていますが、xxxyにはもっとも興奮しました。いままで、自分が美女に変身する妄想にふけって参りましたが、この小説で新たな段階に達しました。自分が一組の男女となり、自分同士で愛し合う。ああなんて甘美な妄想なのでしょう。私はすっかり虜となり、週に何度もxxxy12章を読み返さずにはいられません。卓越した表現力。おれとおれが交錯する文章が倒錯的気分を盛り上げます。
自分同士で愛し合うことがこの世でかなえられないのであれば、せめて小説の中でだけでも妄想に耽りたいと願います。もっと後続の書き手の方が、続々と登場するのを願ってやみません。
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