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呪遣いの妻 10

 朝起きたとき、一番嬉しかったことは、彼がまだおれの隣にいてくれたことだった。
「おはよう、ハニー」
 おれがこの日最初に聞いた声は、彼のその台詞だった。おれは、彼のさわやかな顔とその声で、一瞬で目が覚めてしまった。どうやら、彼は先に目覚めて、おれの横でおれが起きるのを待っていてくれたらしい。
 昨夜は、夜遅くまで彼に抱かれてしまった。
 何度も何度も彼のものを受け入れ、絶頂に達し、時に意識を手放した。
 何度目かの絶頂のあと、意識を飛ばしたおれは、そのまま朝まで眠ってしまったようだ。
「お、おはようございます」
 おれは、昨夜のまま――裸でベッドに横たわっていた。彼も同じだ。
 彼のさわやかな笑顔が、朝の光の中で輝いていた。
「昨日はよかったよ」
 やさしい声でそう言われた。おれは、昨夜のことを思い出し、ぽっと顔を赤らめた。
「君は、どうだった?」
「えっと……」
 おれは、言葉に詰まった。女の子は――かわいい女の子は、こんなとき、どう答えたらいいのだろう? おれは、女に対してこんなことを言ったことがないのでわからない。
「――何だか、夢のようでした」
 とりあえず、そう答えた。確かに、夢のような一夜だった。
 彼は、おれの答えを聞くと、おれの頭を抱えて、胸に押し当ててくれた。
「さて、どうしようか?」
 彼に言われて、今日のことを考える。枕元の時計を見たら、もう10時を回っていた。会社は、完全に遅刻だ。今更慌てても仕方がない時間なので、おれは開き直ることにした。
「もう少し、こうしていても、いいですか?」
 彼の胸の中で、おれはそう言った。
「いいけど――」
 顔を上げて彼の方を見ると、彼は、何か他にやりたいことがあるような顔つきだった。
「何でしょう?」
 おれは彼に訊いてみた。
「朝からこんなことを言うのも何だけど」
 彼は、少し戸惑うように、こう言った。
「もう一度、君を抱いてもいいかな」
「えっ?」
 彼がおれに顔を近づけて、キスをした。
 たったそれだけのことで、おれは彼に逆らえなくなった。
 おれは、朝っぱらから、彼の下で鋭い叫び声をあげることになった。


 結局、ベッドを抜け出したのは、12時近くになってからだった。
 シャワーを浴びて、軽く化粧をする。
 隣の部屋には、昨日、箱に入れて持ち込まれた荷物が解かれていて、色とりどりの服が準備されていた。荷物をわざわざホテルまで持ち込んだのは、今日おれがその中から選んで着られるようにするためだったらしい。
 彼が一緒におれの着る服を選んでくれた。結局、裾が長くて大きく開いたワンピースを着ることになった。いかにも「ご令嬢」といった雰囲気の上品な洋服だ。白い帽子がセットになっている。昨日、「お嬢さまの妹」として写真を撮られたときに着ていたものだった。
 その服を着て、彼と一緒にホテルを出た。彼は、今日はネクタイを付けてはいるが、スーツではなくてブレザー姿。シャツも黄色で、カジュアルな感じ。きっと、おれが着る服に合わせて、何種類もの服を用意しているのだろう。おれが着なかった洋服は、あとで屋敷の方まで運んでくれるそうだ。
 ホテルの近くに、以前から1度行ってみたかったイタリアンの店があったので、そこで彼と一緒にランチを食べた。結構有名な店だが、もう2時近かったので、店内は空いていた。パスタもサラダも程々にして、お待ちかねのデザートは、苺のジェラートミルフィーユ。いちごがたくさん載っていて、超豪華。ホームページの写真を見て、元の体に戻るまでに絶対に食べたいと思っていたのだが、実物は、予想したよりも大きくてボリュームがあった。
 どこまでも甘く、どこまでも冷たいジェラートを食べてとろけきっていたら、そんなおれを見つめている彼と、目が合った。
「甘いものを食べているときの君は、本当に幸せそうな顔をするね」
 またしても、おれは恥ずかしくなって、下を向く。
「そうやって、照れている君も、かわいいよ」
 そんなことを言われて、おれは、ジェラートが溶けてぽたぽた落ちてくるまで、その場で俯いたまま下を向いていた。
 店を出たら、3時に近かった。会社に行くのかと訊かれたが、さすがにこんなお嬢さま然とした格好で行くのは憚られる。秘書たちにおもちゃにされそうだし、小娘には何を言われるかわからない。取りあえず、それらしい格好に着替えるために、屋敷まで送ってもらうことにした。
 道は空いていて、あっという間に屋敷の前まで来た。とうとう、彼と別れるときが来てしまった。
「とても、楽しかったです。ありがとうございました」
「僕も楽しかったよ。素敵な2日間だった。また、何かあったら電話してね。いつでも駆けつけるから」
 彼は、おれにそう言ってくれた。おれは、彼に手を振って、この2日間の思い出と共に、彼と別れた。
 珍しく、屋敷には妻が不在だった。通いで来ている家政婦もいなかった。
 妻は、仕事も習い事もしているわけではないので、滅多に屋敷を空けることはない。携帯に電話したら、久しぶりに高校時代の友人と会っているのだという。夕食を食べていくから、帰るのは夜だと言っていた。短大を卒業してすぐにおれと結婚した妻の友人たちは、まだ大学3年生という歳の筈だ。たまにはこうして外で会うこともあるのだろう。
 家政婦は今日は来ないということだったので、夜になるまでは、この屋敷におれ1人きりだ。おれは、久しぶりに屋敷の中でリラックスした時間を過ごすことにした。会社は――まあ、そんなに慌てなくてもいいだろう。
 「ご令嬢」風の裾の広がったワンピース姿で、鏡の前に立ってみた。鏡に映っているのは間違いなくおれだが、黙って立っていると、その清楚な姿は、本当に良家のお嬢さまといった感じだった。体を斜めにしたり、顔の表情を変えたりと、いろんなポーズを取ってみる。いい表情を発見すると、昨日の撮影のときにこれができればよかったのに、と思ってしまう。そのぐらい、どこからどう見ても、完璧な美少女振りだ。
 着ている服が違うとは言え、小娘だった頃のこの少女を、こんなにかわいいなんて思ったことがなかった。鏡の中の美少女を見ていると、小娘が言うように、おれの方がこの体の魅力をより引き出せているのではないかと思ってしまう。
 いつまでも鏡の前でポーズを取っているわけには行かないので、おれは、着ていたワンピースを脱ぎ捨てた。ブラとショーツという姿で屋敷内をうろうろするのはどうかと思ったので、1着だけ持っていたキャミソールに着替えることにする。黒地に白い水玉模様が入っているもので、これは、副室長に買わされた。キャミソールとしては、かわいい系。
 下着を替えるついでに軽くシャワーを浴びた。髪を乾かしているときに、思わず、鼻歌が出てくる。サビの部分までさしかかってから、女性シンガーのヒット曲だと思い出した。アップテンポでノリのいい曲だ。少女の屈託のない高くて明るい声が、バスルームに響いた。途中で「いぇい」とか合いの手を入れたりする。
 キャミソールを着て、パソコンで「社長」宛てのメールをチェックした。ネットワーク的には、この屋敷も「社内」の扱いなので、ここで仕事をすることも可能になっている。メールで未読のものはなくなっているので、小娘がちゃんと仕事をしているようだ。最近の通常業務は、小娘に任せきりで、チェックもあまりしていない。
 副室長からのメールがいくつかあったが、彼女に任せた仕事は進展していないようだった。取りあえず、直接報告を聞くことにして、小娘の姿のおれと会うように「社長」としてメールで指示を出す。メールを出してから数分後に副室長からおれの秘書用携帯に電話がかかってきた。夜の7時半に会社近くのホテルのロビーで待ち合わせることになった。
 この時点で4時。今更会社に行っても仕方がない。今日は、無断欠勤だが、特に仕事を任されているわけでもない秘書が1日休んだところで、影響はない。
 おれは、手持ち無沙汰になったが、ふと思いついて、携帯電話を取り出した。秘書用携帯ではなくて、おれが以前から使っていたプライベート用の真っ黒い無骨な携帯だ。
 電話帳のカ行に登録してあった名前に対して発信する。呼び出し音が鳴っている間、ちょっとだけ緊張した。
「あんた、これまで電話も寄越さんと、何してたん」
 いきなり、ベタな関西弁のにぎやかな声が聞こえてきた。函館に旅行に行ったときに出会った京大娘だ。
 向こうで撮った写真を送ってもらうために、メールでのやりとりは何度かあったが、こうして電話で話すのは、帰ってきてからはじめてだ。ちなみに、送ってもらった写真のデータは、屋敷にあるおれのパソコンでフォルダごと暗号化した上、厳重にパスワード管理して保管してある。妻や、ましてや小娘になんか絶対に見せられない。
「あ、あの。写真送っていただいて、ありがとうございました」
「お礼のメールなら、もう貰ったやん。それよりもあたしは、なんでこれまで電話の1本も寄越さんのかって訊いてんねん」
「電話しなかったのは、お互い様だと思いますけど」
 おれがそう言い返すと、京大娘は「何言うてんねん」とおれの言葉を即座に否定した。
「あたしは、まだ学生の身やないの。仕事しとらんから、いつでも電話に出られる。そっちからしたら、気兼ねなくかけられるちゅうことや。あんたはというと、あたしよりも年下やけど、OLさん。社会人やないの。社会人いうたら仕事最優先。大事な仕事中にかけたら、あんたが困るわけやろ。せやから、電話したいのをぐっとこらえて我慢しとったんやないの」
 物は言いようだ。実際のところは、おれのことなど忘れていたか、通話料がかかるのが嫌だったのだろう。
「そうそう。あんたに言わなあかん思うてたことがあるんよ。聞いてくれる?」
「何ですか?」
 わざわざ電話してまで話すようなことでないのは確かだが、一応、聞いてみる。
「あんな。ほんとはあたしと一緒に函館に行く筈だった子がおるんよ」
「ああ、熱出して行けなくなったって人ですね」
「そうそう。その子。その子が旅行の前日になって、39度9分の熱出してん。そこまで熱出すなら、もうちょっと頑張って40度まで行け、言うたんやけど、『ごめん、それどころやない』とか言われてもうた。冷たい友達やろ。あ、熱出てるから、ほんまは熱いんやけどな」
「その話は、前にも聞きました」
 きっと自分でもお気に入りのネタなのだろう。
「言うたっけ? まあ、ええわ。でな、帰って、その子のうちにお土産渡しに行ったんよ。そしたら、あれからまた熱上がって、とうとう40度になったんやて。あたしには『それどころやない』とか言うてたけど、やっぱその子も関西人や。40度になってる体温計持って、Vサインして、記念写真撮ったんやて。その写真、送ったげるな」
 うわあ。ほんとに、どうでもいい話だ。おれは、すかさず「いりません」と言っておいた。
「ところで、そっちは今日は仕事やないの?」
「あ、今日はお休みにしました。今、自宅です」
「ええなあ。OLさんは、優雅やわあ。有給あるもんなあ。あたしも、休みが欲しい」
「忙しいんですか?」
「あたしは、今週いっぱいは試験。民法やら商法やら法律の条文をいっぱい頭に詰め込んで、学校までこぼさんように運ぶんがどれだけ大変か、わかる?」
 そう言えば、京大娘は法学部だった。「大学生じゃないので、よくわかりません」と言うと、「あんたは気楽なOLでええなあ」と言われた。普通は社会人が学生をうらやましがるものではないのだろうか。
「なんで法学部なんて選んだんやろ。もう、法律とか国とかこの世からなくなってしまったらええのに。――なあ、なんで、ジョン・レノンって死んでもうたんやろな」
 どうやら、相当苦戦しているようだ。
「でも、試験が終われば休みになるんでしょ」
 明るい話題を振ってやろうと思ってそう言った。
「そういうこと言うてるから、あんたは世間知らずのお嬢さんや、言われるんや」
「誰もそんなこと言いませんが」
 一応言っておいたが、おれの言葉は無視される。
「ええか。学生には、バイトちゅうもんがあんねん」
「バイトって、何やってるんですか?」
「チェーン店のうどん屋。時給安いくせに、えらい仕事やねん。それがな、今週は試験やさかい、シフトを全部代わってもろとるわけなんよ。でも、借りたもんは返さんとあかんやろ。それが来週や。来る日も来る日もうどん屋でバイトせんならん。一応、まかないがつくんやけど、それがいっつもうどんなんよ。来週の晩ごはんは1週間全部うどんやで。花の女子大生の食生活として、これどう思う?」
 相変わらずよく喋る。人の言葉を聞かずに、どんどん喋って脱線していくのも相変わらずだ。おれは、取り留めなく続く彼女の話を、適当に相槌を打ちながら聞いていた。
「ところで、あんたは、何の用で電話かけてきたん?」
 自分の喋りたいことは一通り喋ってしまったのか、ようやくおれの話題になった。
「ええっと、別に特に用があったわけではないんですけど」
 暇だったので、誰かの声を聞いて、何でもいいから何か話をしたかったのだ。
 だが、おれの今のこの姿では、電話できる人間は、限られている。できれば、おれの本当の姿を知らない人間と話したかった。だから、妻や小娘では駄目だった。秘書たちならいいが、今日は会社をさぼっている手前、話しづらい。さすがに、一介の秘書に過ぎないおれが女社長に電話をするわけにはいかない。となると、残る選択肢は、京大娘しかなかったのだ。
「ふーん、なるほど」
 電話の向こうで、この娘、また何かを勝手に納得したようだ。
「わかった。あんた、彼氏ができたんやな」
「は?」
「隠さんでもええよ。お姉ちゃんは、ようわかっとる」
「いえ、別にそういうわけでは」
「まあ、大体、理由もなしに誰かに電話するゆうんは、彼氏ができたか、彼氏と別れたか、どっちかって、昔から決まっとるもんなあ」
 そうなのか? そんな単純なものじゃないだろう。
「あんたの今日の話しぶりからしたら、別れて落ち込んどるとは思えんもんなあ。ということは、彼氏ができたとしか考えられへん。でや、当たりやろ」
「違います」
「隠さんでもええやん。ちゅうか、あたしに彼のこと聞いてもらいたくて電話したんやろ。ほれ。話し」
「だから、違いますって」
 それからしばらく押し問答が続き、そのうち、また京大娘が脱線して他愛もない話をべらべらと喋りだした。
 結局、何の実りもない会話が延々と続き、彼女が喋りたいことを一通り喋り終えたところで、電話を切ることになった。
「ほなら、またな。せや。あんたもよかったら、京都まで遊びにき。バイトない日やったら、案内したるから。今度できた彼氏と来るなら、お勧めのデートスポットも教えたる」
「だから、そんなんじゃありません」
 結局、そうやって、1時間ぐらいずっと喋っていた。こんなに長い時間電話で喋っているのは、はじめての経験だ。
(そうか、京都か。京都もいいかもしれないな)
 長い電話を切った後、おれはそんな風に考えていた。
 予定では、来週末か、再来週の頭には元の体に戻ることになっている。ということは、今週末は、この体でいる最後の休日という公算が強い。おれは、折角だから、また旅行にでも出掛けようかと考えていた。この間は北海道だったから、今度は九州なんてどうだろうと漠然と考えていたのだが、新幹線で京都に行くのもいいかもしれない。寺や神社には興味はないが、京都なら、和菓子系のスイーツの有名店が一杯ありそうだ。
 おれは、真っ黒い携帯を閉じると、ディスプレイに表示された時計を見た。副室長との待ち合わせまで、まだ2時間以上もある。
 リビングのソファに寝転んでテレビを見ていたが、夕方のニュースは退屈で、すぐに飽きてしまった。
 暇なので、風呂に入ることにした。シャワーはさっき浴びたばかりだが、風呂は何度入ってもいい。最近は、特にそう思うようになっていた。
 豪華なバスルームで1人ぬるめの風呂に浸かる。おれは元々熱い風呂が好きだったが、この体だとぬるめのお湯にゆっくりと浸かっていたいと思うようになった。
 すっかり慣れてしまった少女の体。
 おれは、昨夜のことを思い出しながら、自分の体をまさぐった。
 この体の感じるところはすべてわかっている。少女の体は、あっという間に高みへと上っていった。
 気持ちよかった。実際、1度絶頂に達した。
 だが、何かが物足りなかった。
 おれは、1時間以上もバスルームで過ごした後、副室長に会うために屋敷を出た。


 副室長は、約束の時間から20分も遅れてやってきた。
 社長が相手だったら、そんなことは許されない。
 おれのことを小娘と侮っているのだろう。まるっきり力関係が逆転した感じだ。だが、今のおれでは、どうすることもできない。
 副室長に任せた仕事は進んでいなかった。相変わらず、投資ファンドが電機メーカーの株を集めているという事実は掴めないという。
「噂がガセネタだったとしか思えないんだよねえ」
 と副室長は言う。しかし、噂の出所が1つであれば、何かの間違いで誤情報が流れたとも考えられるのだが、複数の出所が共に誤情報を流すとは考えづらい。
「結局、噂を辿っていくと、複数の大手銀行に突き当たるんだけど、さすがにそこから先は調べるのは難しいみたい」
 その先にあるのは、政治家か、あるいは財界の大物か。いずれにしても、複数の銀行に対して影響力を持った者が、意図的に誤情報を流している可能性がある。しかし、誰が、何のためにそんなことをするのか、まったくわからない。
 ただひとつわかったことは、噂に上った投資ファンドは、電機メーカーの株を集めてなどいないし、集めようともしていなさそうだということだ。これが何を意味するのか? こちらは簡単だ。おれが買い集めた株式の引き取り先の候補が1つなくなったということだ。当てにしていた退路の1つを塞がれて、おれは、またしても苦境に追い込まれたということになる。
 結局、おれにはあの女社長に株を引き取ってもらう以外に、道は残されていないのだろうか?
 あと、僅かな望みは、電機メーカーの経営陣が経営委譲提案を蹴った後、内乱のような状態になることぐらいだろう。いずれにしても、現社長の求心力は低下しているので、次の経営トップを決める派閥争いが激化することは必至だ。そうなれば、次の社長を狙う者たちによる株主の引っ張り合いになる可能性はある。ということで、電機メーカーの派閥争いにも注視する必要があった。
 とは言え、現段階では、電機メーカーもIT企業も、秘書室長がパイプを握っている。秘書室長が経営委譲を前提として接触を続けているというのに、提案の拒否を前提にした交渉をするというわけにもいかない。経営委譲提案が拒否されて、おれの会社の今の体制が壊れるまでは、こちらからは手を出せない。ということで、経営委譲提案に対する回答が来る来週の月曜日までは、この方面で動けることはなかった。
 仕事の話が一段落すると、おれは、副室長とスペイン料理の店に行き、その後は彼女のマンションに泊まった。
 おれは、彼女のベッドで彼女と肌を合わせた。いつものように、快感に溺れたおれだったが、心の奥底で、満足しきれていない自分に気付いていた。


 翌日は、金曜日だった。今日も、定時退社して、帰りに週末の旅行の予約を入れる。そんなつもりでいた。
 だが、どうも朝から、仕事に身が入らない。社長宛のメールを読んでいると、いつの間にか、ぼんやりとしてパソコンのディスプレイが目に入っていない。そんなことがたびたびあった。結局、読み終わったメールは片手にも満たなかった。
 胸の奥に、何だかもやもやしたものが溜まっている。そんな感じだ。午後になっても、それはおさまらず、逆に酷くなっていった。おれは、席に座っていられなくなって、何度も立ち上がったり座ったりを繰り返して、小娘に不審がられた。おれは、精神的に不安定になっていくのを自分でも感じていた。
 原因は、何となくわかっていた。
 おれは、定時になると、ダッシュで会社を飛び出し、ビルの陰に隠れると、秘書用の携帯を取り出した。こちらは、薄いピンクで、おれのような若い女の子が持っていてもおかしくないようなものだ。もっとも、若い女の子の携帯にしては、ストラップなどのアクセサリーが何1つついていないというのは、違和感があるだろうが。
「どうしたの、急に?」
 10秒程の呼び出し音の後、電話の向こうから、イケメン秘書のさわやかな声が聞こえてきた。おれの不安でいっぱいだった気持ちが、すうっと落ち着いていくのが自分でもわかった。
「あ、あの――。会ってくれませんか?」
 ちょっとだけ躊躇してから、ずっと考えていた台詞を言った。
「え? いつ?」
「できれば、今から」
「うーん、ごめん。今、東京にいないんだ。社長のお供で出張中」
「そうなんですか」
 途端に、おれはどんよりした気分になっていく。
「うん。ごめんね。急に社長についてくるように言われて。君もそうだと思うけど、この仕事は、社長の気まぐれには逆らえないからね」
 おれは、以前から気まぐれで秘書たちを振り回すようなことはしていないと思うが、確かに、あの女社長の相手をするというのは、大変だろう。彼もそんな気まぐれな主人に仕える身なのだから、仕方がない、とおれは自分に言い聞かせる。
「じゃあ、明日も?」
「多分、今夜は泊まり。東京に戻れるのは、明日の夜かなあ。あさっての日曜日なら、大丈夫だよ。よかったら、ドライブにでも行く?」
「ほ、ほんとですか?」
 元々甲高いおれの声が、いつもより高くなっていることを感じた。
「ただし、今度は自費だから、こないだみたいな豪華なディナーとかは無理だよ。質素なデートになっちゃうけど、いい?」
 おれの胸は「デート」という言葉にどきんとなってしまう。
「なんでもいいです」
「じゃあ、あさっては、あまり気取らない格好で行こうか。お互い窮屈なのはやめて、なるべく動きやすい服装でね。詳しい予定とかは、明日また電話するよ」
 電話を切ってから、ピンクの携帯を握り締めたまま、ビルの壁にもたれて、しばらくその場でぼーっとしてしまった。
 しばらくして、道行く人がおれのことを興味深げに見ていることに気付いた。中学生ぐらいにしか見えない女の子がこんなオフィス街で1人ぼんやり立っているのだから、目を引くのだろう。いかんいかん、と頭を振って、道を歩き出す。取りあえず、おれはホテルへ向かうためにタクシーに乗った。
 週末は、小娘が屋敷に帰ってきて妻と過ごすため、おれの居場所がない。いや、あるにはあるが、あの使用人用の狭い部屋だ。あんなところで寝るぐらいなら、と思い、週末は、ホテル暮らしをしている。使うのは週末だけだが、面倒なので、平日もずっと部屋を確保し続けている。一番最初に泊まった日に、1ヶ月先までの料金を支払ったのだ。
 部屋に入って、まずは、ベッドにダイブした。おれの小さな体が、ベッドの上でぽよんと弾んだ。おれの口から「きゃはは」と自然に笑い声がこぼれた。笑いがこみ上げてくるのを抑えられない。じっとしてられなくて、両足をバタバタと動かした。すごく楽しい気分だった。おれは、ベッドにあった枕を抱きしめて、笑いながら大きなベッドの上を転げ回った。
 しばらく、そうやって過ごしてから、週末のことを考える。日曜日はイケメン秘書とドライブということは確定だが、明日の土曜日の予定は未定。
 おれは、取りあえず、電話をかけることにして携帯を取り出した。秘書用のピンクのではなく、昔から使っている真っ黒い無骨な奴だ。
「どないしたん? 声が弾んでるな。彼氏とデートにでも行ってきたん?」
 相変わらずの関西弁で京大娘が言った。おれは、あやうく「まだです」と言いそうになって、言葉を呑み込んだ。危ない危ない。彼女に言質を与えてしまうところだった。
「あの、明日、空いてます?」
 もし彼女が暇だったら、日帰りで京都まで行ってこようかと思ったのだ。
「明日? あかんよ。明日は1日中バイト。1日中うどん茹でて、昼も夜もまかないのうどん食べんねん。これから、ずっとうどんばっかの生活。――あ、しもた。今日のお昼、学食でうどん食べてもうた。ああ、こんなんなら、別のにしとけばよかった」
 どうやら、彼女は空いていないらしい。彼女と会うことももうないので、最後に会いたかったのだが、仕方がない。
 それから、無駄話を30分ほどして、電話を切った。これで、彼女と話すことももうないだろう、と思った。
 ホテルのおれの部屋のクローゼットには、おれの服がずらりと並んでいた。この体になってから、秘書たちに買ってもらったり、自分で買ったりした服だ。服だけでなく、靴や小物、アクセサリー、それに下着もこの部屋に置いてある。屋敷の方にもいくらかは置いてあるが、小娘の使用人部屋には入りきらないので、大半はこっちに置いてあった。毎日使うわけではない部屋だが、取りあえず、荷物の置き場所としては重宝していた。
 クローゼットを見て、日曜日に着ていく洋服を物色する。この中にあるものは、かわいらしく着飾るワンピースが中心で、普段着のようなものはない。そこで、予定がなくぽっかり空いてしまった明日の土曜日に、何か買いに行くことに決めた。その夜は部屋に篭って、部屋に備え付けのパソコンで、女子高生が買い物に行くような店を調べた。食事も、外に出たりせずに、ルームサービスでサンドイッチとアイスクリームを頼んで食べた。
 翌日の土曜日は、1日中、ショッピングとスイーツに捧げるつもりでホテルを出た。
 まずは、行きつけのランジェリーショップへと向かう。行きつけといっても、来るのはこれで3回目。一番若い秘書に連れてきてもらった店で、若い女の子向けのかわいい下着がたくさんある。
 胸のところに蝶のようなリボンがついたかわいらしいブラを見つけたが、それを買おうかどうか、迷う。この間は、ドレスを着ていた関係で、白のストラップレスのブラをつけていたが、彼は、ああいったちょっとセクシーな下着の方が好みなのだろうか? だったら、明日も、そういう下着を着けていった方がいいかもしれない。
 結局、よくわからないので、セクシーなのとかわいいのと、あと清楚な感じのも一通り買った。あとで洋服とも合わせないといけないので、違うデザインのものや色違いものも用意しておいた方がいいだろうと思って、結局15着ぐらい買ってしまった。あと1週間ぐらいで元の体に戻るのに、こんなに買ってしまってどうするのだろうと、自分でも思った。
 下着だけで結構な荷物になってしまったので、一旦ホテルに戻って荷物を置いて出直した。次は洋服だが、その前にちょっと一休み。会社近くのカフェに行って、ケーキセットをいただく。今日で6種類目。紅茶と一緒に出てきたのはロールケーキだった。ここのケーキセットは7種類だから、あと1種類でコンプリート。まだ1週間ぐらいあるので、余裕で達成できそうだ。
 洋服を買いに行ったのは、ネットで女子高生に人気となっていた店。きっとこういう店なら、いまのおれに似合うかわいい服がたくさん置いてあることだろう。
 その店は、ファッション系のテナントで固められたビルの2階にあったのだが、さすがに休日ということもあってか、フロアは女子高生らしい少女たちで溢れ返っている。おれは彼女たちの熱気にたじろいでしまい、なかなか商品に手を伸ばして見ることができない。今のおれは彼女たちの中に混じっても、何ら違和感のない姿をしている筈なのだが、体から発している熱気というか、パワーというものが根本から違う感じがした。そりゃそうだろう。こちらは、体は18歳の美少女でも、中身は35歳のオヤジなのだから。
 そもそも、彼女たちの多くは、グループでやってきていて、おれのように1人で買い物に来ている女の子はほとんどいない。それも彼女たちに気おされる原因だ。
 もうひとつ、おれは彼女たちの姿にも違和感を感じた。彼女たちは、言ってみれば普通の女の子達なので、かわいい子もいれば、そこそこの子もいるという感じで、玉石混交なのだが、そのファッションはみんな共通していた。一言で言えば、派手。服にしても持っているバッグやアクセサリーにしても、ピンクや黄色といった派手な色が多い。そうでなければパッション系か、光り物。携帯なんて、ラメか何かでゴテゴテにデコレートされているし、ストラップやらなにやらが、まるでビルの警備員が持っている鍵束みたいにジャラジャラついていて、ほとんど原型を留めていなかったりする。持っている小物には独特のキャラクターが入っているし、イヤリングやペンダントは、不必要に大きくてやたらとキラキラ光っている。とにかく派手で装飾過多。彼女たちは棚に並んだ派手な商品を見ては「これかわいい」と言い合っているが、おれとは「かわいい」の意味合いが違うようだ。
 子供は光るものと派手な色のものが大好きだと言われるが、この年代の少女たちには、まだその頃の嗜好が色濃く残っているのだろう。
 さすがに、おれは、その店で派手好きな女子高生たちに混じってショッピングをする勇気はない。もちろん、彼女たちみたいな派手なファッションでこの身を包もうとも思わない。もっと、普段着でおとなしいけどかわいい服というのも探せば置いてあるとは思うのだが、この女子高生たちの熱気に当てられながらそれをするのは、おれには無理だと思った。
 結局、おれはその店を逃げ出すことにした。折角来たのに、何も買わないで帰るのは悔しいので、レジの近くにあったTシャツと短パンを何種類かずつ適当に選んで買っていった。
 その後は、たまたま見つけたカフェでフルーツパフェを食べて気を取り直し、いつも行っているデパートへと向かった。この時点でお昼を大きく回っている。
 デパートの中でも比較的若い女の子向けと思われる店に行って、普段着っぽくて動きやすくてかわいいもの、という注文を出したら、とにかくいろいろ勧められた。動きやすいということでパンツ類が多い。キュロットもいくつか勧められる。女の子の服装で、スカートと見せかけて、実はキュロットというのは、おれは反則だと常々思っていたのだが、この際、それもOKということにする。人間、立場が変われば考え方も変わるものだ。あとは、普通に動きやすいスカート。女子高の制服みたいなのも勧められた。スカート丈がかなり短いやつだ。確かに、制服のように広がりがある短いスカートなんかは、パンツを見られることさえ気にしなければ、腰の周りの飾りに過ぎないわけだから、動きやすい。だが、さすがにこれを外で穿く勇気はない。一応、買っておくが。あとは、キャミソール。こんなの、下着だろう、と思うのだが、最近は、ワンピース感覚で着られている。
 結局、勧められるままに各種10着ほど購入して、ホテルに帰ってから実際に明日着ていく服を選ぶことにする。
 ホテルに戻り、ラウンジでメロンを食べようとしていたところに、イケメン秘書から電話があった。
 まだ東京には戻れない。戻るのはやはり夜遅くになるとのことだった。
 ひょっとしたら、仕事が早く終わって、今日のうちに会えるのではないかと期待していたおれは、少しがっかりした。それ以上に、このまま彼が東京に戻って来られずに、明日のドライブもキャンセルなんてことになったらどうしようかという不安で頭がいっぱいになった。
 取りあえず、メロンで気を取り直して、部屋に戻る。
 今日買ってきた大量の服を一通り着てみた。だが、どれもピンと来ない。それなりにかわいいとは思うのだが、いまひとつパンチに欠ける。本当にこれで、彼が気に入ってくれるかどうか、不安になる。
 一番最後に女子高生に人気の店で適当に買ったTシャツを着てみた。白地にちょっとしたイラストと英語の文字が入った比較的シンプルなデザインのTシャツだ。文字は、ピンクのラメになっているが、あまり派手派手しくもなく、むしろ、このぐらいだったら、アクセントになっていい感じだ。一緒に買った短パンを穿いてみると、短パンから細い足がすらりと伸びて、こちらもいい感じだ。おれのこの体は、胸はないし、背も低いが、スタイル自体は悪くないのだ。先日の撮影前の採寸のときだって、おれと同じ身長のモデルの女の子と比べても、脚が2センチ長いと言われていた。
「これでいいかな」
 おれは、鏡の前でポーズを取ってみて、このTシャツと短パンというラフな格好にしようと決めた。
 先日の撮影のときのような、いかにも美少女という感じもいいが、こういう若さがはじけた感じの格好もおれに似合っている。おれは、またこの体の新しい一面を発見して、嬉しくなった。
 着ていく服が決まったので、それに合わせて小物も揃えないといけない。おれは、明日着ていくことに決めたTシャツと短パンを着て、再び行きつけのデパートへと繰り出した。
 まずは、靴。この格好だとやっぱりスニーカーだろう。これまで履いてきた女物の靴というと、この間のハイヒールは論外にしても、大抵は、いくらか踵が高くなっている。しかも、男物に比べて、足を覆う部分は頼りない造りの靴がほとんどだった。とにかくファッション性重視で、うまく歩けない。久々に――というより、この体になってからはじめて――スニーカーを履いてみたが、これは快適だ。今まで歩くのが苦痛だったが、これならいくらでも歩けそうだ。
 おれが買ったのは、薄いグレーにピンクのラインが入ったスニーカー。Tシャツにも少しピンクが入っているので、よく合っている。おれは、履いてきた靴を紙袋に入れてもらって、スニーカーを履いて帰ることにした。
 次は靴下だ。最近の若い女の子の間では、膝上まであるような長いソックスが流行っているらしい。短パン姿は確かにおれに似合ってはいるのだが、何しろ、脚をほぼ全部露出させているわけで、結構恥ずかしい。膝上までソックスで覆ってしまえば、それも半減するだろうと思って試しに履いてみたが、駄目だ。脚が隠れるといっても、それは膝から下の部分。一番恥ずかしい太ももから足の付け根にかけての部分は見えている、というより、そこが一番強調されているということで、こっちの方がはるかに恥ずかしい。一応、買うだけは買ったが、靴下は普通の白いソックスにしておいた。
 あとは帽子。ホテルを出るときに確認した天気予報では、明日は天気がよさそうだから、用意しておいた方がいいだろう。この格好だと必然的にキャップになる、と思っていたが、髪を覆ってしまうキャップよりも、サンバイザーの方がこの格好に似合っている。これも両方買っておいたが、実際に使うのは、ゴルフなどで使うようなサンバイザーの方だろう。
 寒くはならないと思うが、上着も買っておいた。薄手のジャケット。ということは、必然的に上着を入れておくバッグが必要になる。店にあるものを一通り見たが、これという物がない。バッグ単体としては悪くないのだが、ある程度の大きさになると、バッグが大きすぎるのか、おれが持っている姿を鏡に映してみても、かわいく見えないのだ。
 どうしようかと困っていたが、ふと思いついて、靴を入れた紙袋を持って、鏡の前に立ってみた。
 これだ。
 鏡には、白い大きな紙袋を持ったTシャツ短パン姿の女の子が立っている。
 そうだ。どうせラフな格好なので、ちゃんとしたバッグなんて必要ない。紙袋で充分なのだ。この紙袋に上着や帽子やサンバイザー、それに、お気に入りのポシェットを入れていくことにしよう。
 これで、一通りのものは揃った。スニーカーに履き替えたので、歩きやすくなったのが嬉しくて、デパートの中をぶらぶら歩いてみる。化粧品売り場の前を通ったときに、ふと思いついた。
(そうだ、日焼け止めを買おう)
 店員に相談して、UVカットの化粧品と、体に塗る日焼け止めを購入した。ついでにその場で使い方も教えてもらう。
「そうやって塗っていただけば、大丈夫です。このタイプは、水や汗にも強いですから、暑い日でも安心ですよ」
 確かに、明日は暑くなりそうだから、汗をかくたびにやり直し、なんてのでは困る。
 ――ん? 汗?
「あ!」
「どうなさいました?」
 おれは、大変なことを忘れていた。明日着ていく服に合ったものを準備できるようにと、おれは明日着ていくTシャツを着てきたのだが、このTシャツ、今日、これだけ汗をかいてしまったら、明日は着られない。
 おれは、化粧品についての説明を一通り聞くと、大慌てでデパートを飛び出し、タクシーに飛び乗った。
 いつの間にか、日が暮れていた。昼間行った女子高生に人気の店へと車を走らせる。タクシーで駆けつけると、店は閉店間際。記憶を頼りに、レジの近くの商品棚を探し、何とか同じTシャツと短パンを見つけ出した。
 よかった。何とか間に合った。これで間に合わなかったら、明日着ていくものを1から考え直さないといけないところだった。
 会計を済ますとき、レジの店員が訝しげな目でおれを見ていた。それはそれだろう。今着ているのと同じ服を買おうとしているのだから。
 ホテルに戻った頃には9時を回っていた。まだ、彼からの連絡はない。
 こちらから電話してみようかとも思ったが、やめた。きっと、彼は、女社長と一緒なのだ。電話したら、彼女が割り込んでくるかもしれない。今は、彼女と話をしたくないし、彼だって、女社長と一緒にいるときに、他の女の子からの電話があったら困るだろう。
 ルームサービスで取ったオムライスを1/3だけ食べてお風呂に入っていたら、ようやく彼から電話が入った。もう10時になっていた。
「もしもし」
 急いで電話に出る。携帯をバスルームまで持ってきておいてよかった。でも、慌てていたので、危うく湯船に落としそうになった。
「遅くなってごめん」
 彼は、まず最初におれに詫びた。
「ようやく、社長から解放されたよ」
「土曜日なのに、大変ですね」
「まあ、仕事だからね。それより、なかなか電話できなくて、ごめんね」
「いいんです。全然気にしていませんから」
 おれは、少しだけ嘘をついた。
「何か、音が変じゃない?」
「あ。今、お風呂に入ってるんです」
「お風呂?」
 彼の声がちょっとだけ裏返った。「お風呂」という言葉に反応してくれたのだ。
 おれは、携帯を持ったまま、湯船で立ち上がった。ざばーっという音を立てて、おれの体を湯が流れ落ちた。
「今の音、聞こえました?」
「うん」
「あたしが立ち上がった音です」
「本当にお風呂の中なんだ」
「そうですよ」
 おれは、そう言って、左手で自分の小さな胸をまさぐった。
「困ったな。想像しちゃうじゃない」
「どんな想像するんですか?」
「言えないよ」
 おれは、おれの小さな乳首をやさしく摘む。声が漏れそうなのを我慢した。
「エッチなことなんですね」
「ノーコメント」
 彼がちょっと困っているみたいだ。
「あの――」
 おれは、ちょっと間を置いてから言った。
「よかったら、見に来てもいいですよ」
「えっ?」
「想像通りかどうか、確かめに来てください」
「それって、きみのうちまで?」
「あ、あたし、今日は外に出てるんです。1人でホテルの部屋を取ってもらって」
「そうなんだ」
「だから……」
「――うん」
「……」
「――いや。もう遅いから、今日はやめておくよ」
 彼は、おれにそう言い渡した。風呂の中にいるのに、おれの体がすーっと冷えていくような気がした。
「明日は……。――明日は、会ってくれますよね」
 おれが言った声は、不安そうに聞こえたかもしれない。
「もちろん。そのために電話してるんじゃない」
 その後、彼と明日の段取りを決めた。朝、このホテルまで迎えに来てもらうことになった。
「それじゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 通話はそれで切れてしまった。おれの右手には、ピンクの携帯電話がある。それだけだった。
「っ!」
 おれは、持っていた携帯電話を思いっ切り湯船めがけて投げつけた。


 幸い、携帯は防水タイプだったし、おれもすぐに拾い上げたので、壊れずに済んだ。同じ投げつけるのでも、壁に向かってだったら、壊れていたに違いない。湯船の中だったので、お湯がクッションになってくれたのだろう。おれがか弱い少女だったために、大した力が出ていなかったというのも幸いしたのかもしれない。
 おれは、ほっと一息ついて、ピンクの携帯を乾いたタオルで拭いて、バスルームの棚の上に置いた。
 なんで、こんなことをしたのか、自分でも理解できない。明日は彼とドライブに行くのだ。その前に怒りに任せて携帯を壊してしまったら、どうするつもりだったのだろう。
 ――。
 まあいい。
 おれは、再び湯船の中に身を沈める。
 おれは、彼のことを考えた。本当は、彼だけのことを考えていたかったが、そうはいかなかった。おれの頭の中には、彼と一緒に、あの女社長のかわいらしい姿が浮かんできた。
 昨日、今日と、彼は出張だと言っていた。あの女社長が一緒だったらしい。
 この2日間、どこへ行っていたか、おれは訊かなかった。聞きたくもなかったからだ。彼も、肩書きは「社長秘書」だが実際には「セフレ」として雇われている以上、女社長についてこいと言われれば、従わざるを得ないということはわかる。頭の中では、わかるけど、それを受け入れるのは、なかなか難しい。
 今日だって、どこへ行っていたかは知らないが、女社長とイケメン秘書の間でどんなことがあったか、想像がつく。さっき、おれの方から――女の子の方から誘ったのにそれを断られたというのは、彼が疲れていたからだと思う。
 多分、彼は今日、あの女社長のみずみずしい肢体を抱いていたのだ。
 先日、女社長はおれにこう言った。
「あたしの秘書になるための最低条件は、あたしのことをタイプだと思ってくれる男であること」
 だとしたら、彼は、あの女社長のような美少女が好きなのだ。美少女なのに、そこそこ胸があって、淫乱な女が好みなのかもしれない。
 きっと、今日の彼は、あの27歳の美少女の体を堪能し尽くしたのだ。満足しきった彼に取っては、中学生ぐらいにしか見えない胸の真っ平らな少女の誘惑なんて、1ミリも心を動かすものではなかったのだ。
 あの夜、彼が、おれに言ってくれた言葉が甦る。
「君は、ぼくの理想の女の子だよ」
 あのとき、おれの体――この少女の体の中を、何か、物凄いものが駆け抜けていった。
 あの言葉で、おれは完全に射抜かれてしまったのだ。
 だけど、あの言葉が彼の本心だったかどうかなんて、わからない。
 いや。あれが、本心だなんて思う方がどうかしている。
 あの日の彼は、女社長に命令されて、おれをエスコートするためにあの場にいたのだ。きっと、おれが、彼に恋しているということを聞かされて、社長のお気に入りの世間知らずな娘に、一夜の夢を見せてあげるためにあんなことを言ったのに決まっている。大体、25歳にもなる大人の男が、中学生ぐらいにしか見えない少女を「理想の女の子」と思っている筈がない。明日の「デート」だって、きっと、「仕事の続き」なのだろう。
 おれは、湯船に体を頭まで全部沈めた。息が切れるまで、しばらくずっとそうしていた。
 彼がおれに付き合ってくれるのは、それが仕事だから。
 本当は、そのぐらいのこと、最初からわかっていた筈なのだ。でも、おれはそんなことには気付かなかった。いや、気付かない振りをしていたのだ。
「ぶはっ」
 息が続かなくなって、顔を出した。おれは、湯船のお湯で顔を洗った。何度も何度も洗った。
 洗っても洗っても、おれの目から零れ落ちてくる涙を止めることはできなかった。
 おれは、何を泣いているのだろう?
 彼の言葉が、偽りだったことを嘆いているとでもいうのか?
 それを言うなら、おれの方こそ、偽りだらけだろう。
 おれが、この体でいられるのは、あと1週間。
 彼との関係なんて、どんなに続いてもそのときまでだ。
 だったら――。
 だったら、偽りの関係で何が悪い。
 明日も、彼は、おれのことを「理想の女の子」として扱ってくれるだろう。
 それで充分じゃないか。
 明日は、おれも、彼の「理想の女の子」として振舞えばいい。
 どんなに偽りに満ちていようと、彼と一緒に過ごす時間の楽しさは、今のおれに取っては、かけがえのない時間なのだから。


 日曜日は、デートだった。
 こんな楽しいデートは今まで経験したことはない。
 彼の車で、海に出かけた。
 途中にあった水族館に彼と一緒に入った。展示室では、彼に寄り添うようにして、青い水槽に浮かぶ無数の魚たちの神秘的な世界に目を奪われた。イルカのショーでは、見事な芸に拍手して、高く上がる水しぶきに歓声を上げた。彼と一緒にイルカと握手をして、それを写真に撮ってもらった。館内で彼と一緒に食事して、もちろん、デザートも食べた。みやげ物屋で、イルカの携帯ストラップを買ってもらった。何の飾りもついていないおれのピンクの秘書用携帯だったが、買ったばかりのストラップを、彼がつけてくれた。おれは、彼の前で小さなイルカを持って携帯をぶらぶらと揺らして見せた。
 水族館を出て、さらに西へと向かう。海沿いの道が気持ちよかった。
 途中で車を止めて、彼と一緒に砂浜に降りてみる。日が既に傾きかけていた。
 波打ち際まで近寄って、寄せてくる波に「きゃっ」と言いながら逃げた。履いていた靴はいつもよりも歩きやすいスニーカーだったのに、砂に足を取られて倒れそうになる。砂に倒れ込みそうになったところを彼が抱き止めてくれた。
 彼に抱かれたまま、彼と見つめ合う。どちらからともなく、キスをした。
 空が茜色に染まる頃、帰路についた。
 途中で彼が「いい?」と訊いてきたので、おれは、無言でうなずいた。
 車は、派手なネオンの建物へと入っていった。
 ラブホテルに入るなんて、何年ぶりだろう。もっと会社が小さかった頃に行ったきりだ。もちろん、女として入るのは、初めての経験だ。
 服を脱いでシャワーを浴びているときから、おれは、興奮して体中を敏感にさせていた。
 ベッドの上でシーツにくるまって待っていると、裸になった彼がやってきた。
「素敵だ」
 今日も、彼がおれのことを褒め称えた。
 おれは、彼に身を委ねて、彼のものを受け入れた。
 おれは、おれの全身で、彼の愛情と、果てしない快感を感じていた。
「すき」
 おれは、何度も彼にそう言った。
「ぼくもだよ」
 彼は、そのたびにそう答えてくれた。
 その言葉を聞くたびに、おれの体は燃えるように熱くなり、快感で爆発しそうになった。
 この夜、おれは、何度も何度も絶頂に達して、そのたびに幸福感に体を打ち震わせていた。
 ベッドの中、彼と共におれがいる。
 おれは、小さくて、あどけなくて、かわいらしい少女だった。
 おれは、感じやすくて、淫乱で、嘘つきな女だった。
 おれのこの快感も、おれのこの幸せな気持ちも、全部本当のことだ。
 おれの「すき」という気持ちだって、そのときは本気でそう思っていたのだと思う。
 だけど――。
 それでもやっぱり、おれと彼とは「偽りの恋人」でしかなかった。

テーマ : *自作小説*《SF,ファンタジー》 - ジャンル : 小説・文学

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