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呪遣いの妻 12

 おれは、知らないうちに会社を出ていた。
 まだ定時には遠い時間だ。午後の日差しがきつかった。
 立っているだけで汗が噴き出してきそうなぐらい暑かったのに、おれは、速足で歩いていた。
 おれは、逃げ出したかったのだ。
 会社のことなんて、忘れてしまいたかった。
 舗道を歩いていたら、反対側から空車のタクシーがやってきたので、衝動的に止めてしまった。
「どちらまで?」
 乗り込んでから、少し考えた。車内は冷房が効いていた。
「東京駅」
 タクシーの中でも少し泣いた。運転手は、気付かない振りをしてくれた。
 駅で切符を買う。その10分後には、西へ向かって走るのぞみの中にいた。
 誰にも何も言わずに、会社を出てきてしまった。
 荷物も置いたまま。かろうじてポシェットに入っていた携帯と財布だけを持ってきた。ピンクの秘書用携帯は電源を切っておいた。もうひとつの真っ黒い無骨な携帯を取り出す。こちらはおれが以前からプライベートで使っていた携帯なので、会社の人間は誰も番号を知らない。知っているのは妻ぐらいだ。
 デッキへ行って、電話帳のカ行のところに登録されている相手に発信した。
「どないしたん? 最近、ようかけてくるなあ」
 スピーカーから、京大娘の陽気な関西弁が聞こえてきた。
「あの……。これから、会ってくれませんか?」
「これからって、今日?」
「はい」
「あかんて。今週は、ずーっとバイトって言うたやん」
「でも、どうしても、会いたいんです」
「どうしてもって言われてもなあ。今、バイト中なんよ。今は暇な時間やからええけど、これから夕方にかけて、めっちゃ忙しなんねん」
「お願いです。会ってください」
 困っていた京大娘だったが、おれの声がただならぬのを感じ取ったようだ。
「わかった。ちょっと店長に聞いてみるわ。今、どこ?」
「新幹線の中です」
「なんやそれ。もうこっち向こうてるんかい」
 京都駅の到着予定時刻を教えて、一旦電話を切る。そのままデッキで待った。ものすごく待たされた、と思って時計を見たが、まだ3分しか経っていなかった。それから更に2分待って、ようやく彼女から電話が来た。
「ええよ。会うたげる。店の近所に住んでる子がちょうど今日、お休みやったんよ。その子がバイト代わってくれるって」
「すみません。ご迷惑かけちゃって」
「ええよ、もう。だって、何が何でも会いたいんやろ。しゃあないやん」
 京都まで2時間半。時間があったので、携帯サイトでホテルの予約をする。京都は中学のときに修学旅行で来たきりなので、地理はよくわからない。たまたま先頭で出てきたホテルを予約した。京都市役所の近く、となっていたので、きっと街中のホテルだろう。先のことはわからないので、1週間分の予約を入れた。
 京都に着くと、ホームで京大娘が待っていた。到着時刻だけでなく、乗っている車両も教えてあったので、降りた途端に声をかけられた。
「この子はグリーン車なんか乗って、何贅沢してんの。セレブか、あんたは。未成年でグリーン車乗る子、はじめて見たわ」
 いきなりこれだ。グリーン料金なんて、たかだか5千円ぐらいのものだ。狭い普通席に2時間以上押し込められるぐらいなら、その分広い座席で快適な時間を過ごした方がいいに決まっている。もっとも、今のおれの体だとグリーン車の広い座席は、大きすぎて、却って落ち着かない、という気がしたのだが。
「でも、こうして見ると、あんたも社会人なんや、思うわ」
 彼女は、おれのレディーススーツ姿を見て、そう言った。
「ほんとにOLやってるって、わかったでしょ」
 おれは、ちょっと得意気に言う。
「でもなあ、ぶっちゃけ、全然似合うてへんな」
 まあ、それは自覚している。
「大体、そのスーツにそんなかわいらしいポシェットって、おかしいやん。そんな格好で会社行ってるん?」
 会社に来るときには、もっと、ちゃんとしたバッグの中にポシェットは入っていたのだ。ポシェットは、何も考えなしに会社を出たときに、たまたま持っていたものだった。そもそも、このポシェットがなかったら、財布もなくて、京都まで来るどころか、タクシーにも乗れなかった。
 彼女は、おれのスーツ姿を見て、「『馬子にも衣装』って諺、あれは嘘やな」なんて言っていた。似合っていないという自覚はあるが、そこまで言わなくてもいいだろう。
「今日は、泊まりなんやろ、ホテルは取ってあるん?」
 おれは、京大娘に予約したホテルのページを携帯で見せた。
「また、結構高そうやないの。ええっと、京都市役所前か。地下鉄で行けるな」
「あ、あの……。できれば、先に買い物したいんですけど」
「買い物って、何買うねん?」
「服とか、下着とか。――手ぶらできちゃったので」
 本当に、準備も何もせずに突然来てしまったので、下着も、明日着る服もない。今考えれば、せめてホテルに寄って、服と下着だけでも取ってきてから来ればよかったと思う。
「衝動的に旅に出ちゃったっちゅうこと? 何があったん?」
 おれは、彼女の問いには答えられない。
「まあ、ええわ。言いとうなったら、言えばええ。取りあえず、買い物行こか。駅ビルがまだやってるやろ」
 時刻は夜7時を回ったところ。京都駅に併設されている巨大な駅ビルでTシャツと短パンを適当に買った。もちろん、スニーカーも買う。
「なんや、イメージとちゃうなあ。もっとお嬢さまっぽい、かわいらしいの買うんやと思うてたわ」
「あたしだって、普段はこういうの着るんですよ」
 普段といっても、昨日からだが。
 下着も買って、取りあえず、明日着る服はできた。当面、必要になるものとして、旅行用のメイクセットと日焼け止めを買ったところで、閉店の時間となった。他にも必要なものはありそうだが、明日また考えればいい。
 8時を過ぎていたので、遅い夕食を取る。京大娘が金がないと言ったので、ハンバーガー屋になった。彼女がチーズバーガーのセット。おれは、ソフトクリームだけ頼んで、彼女のセットについてきたポテトを半分貰った。
「そんだけでええの? 相変わらず、小食やなあ」
「あたしには、ハンバーガーを丸々1個なんて、とても無理です」
「そんなんやったら、カレーとかチャーハンとか、普通に単品で出てくる料理なんて、とても食べられへんな」
 実際に食べたことはないが、多分、そうだろう。先日、ホテルのルームサービスで取ったオムライスも、半分も食べられなかった。
 京大娘からは、ポテト半分の料金をしっかり請求された。元々は、食事代ぐらいこっちが出すから、もっとちゃんとした店にしようと言ったのに、「年下のあんたにおごってもらうわけにはいかん」と言われて、ハンバーガーにしたのだ。だったら、年長者として、セットの中のポテト半分ぐらい、おごってくれてもよさそうなものだが、そこはきっちりしないと気が済まない性格なのだろう。
 食事を終えて、ホテルへ向かうことにする。
「ほなら、ホテル行こか。市役所なら、地下鉄やな」
「ええっ。タクシーで行きましょうよ」
「アホか。こんな街中でタクシー使うって、どこぞのお嬢か、観光客ぐらいやで」
「あたし、観光客なんですけど」
「せやから、そんな無駄な金使うたらあかん。第一な、京都は道路事情最悪やさかい、地下鉄のが絶対速い」
「でも、あたし、地下鉄ってあんまり好きじゃないんです」
「誰だって、好きやないがな。あんな真っ暗なとこ走る奴。好きやのうても、乗らなあかんねん」
「できれば、乗らずに済ませたいかな、と」
「なんでやねん。函館では市電とか乗ってたやん。あ、わかった。昔、地下鉄で痴漢に遭ったとか」
 この女、意外と鋭い。
「あのな、あんたは世間知らずのお嬢さんやから知らんやろけど、最近の地下鉄には、女性専用車両ゆうのがあるんよ」
 いえ、その女性専用車両で酷い目に遭ったんですが。
 結局、京大娘は、嫌がるおれを無理矢理引きずるようにして地下鉄に連れて行った。
「女性専用車両が見当たらないんですけど」
 ホームに下りたが、それらしい表示はない。
「しもた。京都の地下鉄にはないんやった。最近、京阪ばっかやから、忘れてた」
 おいおい。
 幸い、夜9時前の地下鉄は空いていた。これだったら、大丈夫だろう。
 途中で別の路線に乗り換えて、あっという間に目的の駅に着いた。駅からホテルまで歩いたが5分とかからない。おれは、京大娘の後ろをついていくだけだから、楽なものだ。
「結構高そうなとこやないの」
 ホテルに入るなり、京大娘が大きな声で言った。
「たまたま検索したら最初に出てきたところなので、よくわからないんです。有名なとこなんですか?」
「地元の人間はホテルなんて泊まれへんから、知るわけないやん」
 それもそうだ。
「取りあえず、チェックインしましょうか」
「ここで待ってるから、してき」
「何でですか。一緒に来てくださいよ」
「チェックインぐらい、1人でできるやろ」
「だって、住所とか、わからないじゃないですか」
「住所って?」
 おれは、小さな指で、彼女の方を指差した。
「なんであたしが?」
「だって、今日は、一緒にいてくれるんでしょ。お部屋、ツインで取ってあるんです。だから、一緒にチェックインしましょ」
「ちょっと待ちいな。なんで、そないなことになるん? それに、こんなホテルに泊まるお金なんて、あたし持ってへんで」
「お金はあたしが出すからいいですって」
「そりゃあ、あかん。前から言うてるやろ。年下のあんたにおごってもらうわけにはあかんって」
「ええっ、じゃあ、一緒に泊まってくれないんですか?」
「なんで、京都の人間が京都のホテルに泊まらなあかんねん? 終電までおったるから、それで、我慢し」
「そんな。もったいないですよ。もうツインで予約しちゃったんだから、どうせお金はかかるんだし。取りあえず、名前だけでも書いてくださいよ」
 そう言って、何とか彼女に名前だけ書かせて、チェックインを済ませた。
 部屋のキーと、翌朝の朝食券を2枚貰った。これに京大娘が早速反応した。
「それ、何なん?」
「朝食券ですよ。明日の」
「朝食ついとるん?」
「これくれたってことは、ついてるんでしようね」
「バイキングかな?」
「そうみたいです」
 チケットには、「朝食バイキング券」と書いてある。
「うーん」
 京大娘は、腕を組んで考えはじめた。
「しゃあない。今晩だけ泊まったろ」
 どうも、朝食バイキングの誘惑に負けたようだ。函館でも、バイキングだから、食べ放題だからと、朝食を食べまくっていたのを思い出す。
「泊まったるけど、あたし、着替えも何もないねん。ちょっとそこらのコンビニで下着買うてくるから、あんた、先に部屋行っとき」
「あたしも一緒に行きます」
「別に来んでもええがな。そのまま帰ったりせえへんから、ちゃんと部屋で待っとき」
「ええっ、連れてってくださいよお」
 おれが駄々をこねると、京大娘は「しゃあないなあ」とあきらめ顔でコンビニまで連れて行ってくれた。
「さすがに、Dのブラはないなあ。しゃあない。パンツだけにしとこ」
 コンビニで、大きな声でそんなことを言うものだから、一緒にいるおれの方が恥ずかしかった。
 ホテルに戻って部屋に入った。ツインルームだったが、それぞれのベッドがダブルベッドのように大きい。京都のホテルなので、外国人を意識した造りになっているのかもしれない。
 バスルームも広かった。浴槽は1人用だと思うが、女の子2人だったら、余裕で入れそうだ。
「お風呂も広いですよ。一緒に入りましょ」
「あんた、先に入り。疲れてるんやろ」
「今日もバイトだったんですよね。疲れてるのは一緒です。だったら、一緒に入りましょうよ」
「せやけど、あんたの金で取ったホテルやろ。やっぱり、あんたが先に入る権利がある」
 まだそんなこと言っている。この女、ほんと融通がきかない。
「だから、一緒に入ろうって言ってるじゃないですか。ひょっとして、恥ずかしがってるんですか?」
「そないなことないけど――。うわっ。こら、勝手に服脱がすな。わかった。一緒に入ったるから、服ぐらい自分で脱がさせて。――ていうか、まだ、お湯張ってないやん」
 お湯を張る間、下着姿になって、じゃれあった。彼女のDカップの形のいい胸をじっと見ていたら、「ほれほれ」と言って、ブラに包まれたDカップのバストをおれの顔へと押し付けてきたのだ。息苦しかったので、彼女の脇の下をくすぐってやると、「そこはあかん」と彼女はベッドの上を転がるように逃げ出した。すかさず、おれが彼女を捕まえて、上から押さえつけてやったら、そこは、非力なおれのこと。簡単に跳ね除けられて、今度は反対に彼女に体中をくすぐられた。
 いい加減汗だくになったところで、お湯が溜まって、湯船で彼女と体をくっつけるようにして、一緒にお風呂に入った。
「やっぱり、大きくていいなあ」
 彼女の胸を見ていたら、思わず、そんな言葉がこぼれた。
「大きい言うても、このぐらいやと微妙やろ。巨乳ゆうわけでもあらへんから、グラビアアイドルにスカウトされたりせえへん」
 そんな野望があるのか、この女。
「せやけど、ちっちゃいわけでもないから、ブラの種類は少のうなるんよ。もうちょっとちっちゃいと、種類も豊富にあんのになあ。ほんま、中途半端やわあ」
 その後は、彼女と体を洗い合った。お互いの胸を洗い合ったのに、性的なイベントへと発展しなくて、がっかりだ。京大娘は、いい体してるのだが、無防備で、開けっぴろげすぎて、かえってそそらない。おれみたいに、セックスアピール皆無の体でも、いつも恥ずかしがっていると、嗜虐心をそそるのか、秘書たちの餌食になってしまう。不思議なものだ。
 一緒に風呂を出て、新しい下着に替えて、ベッドに入った。京大娘は、パンツだけコンビニで買ったものに替えて、ブラはつけなかった。
「折角だから、一緒のベッドで寝ましょ」
 彼女は嫌がったが、強引に枕を持って、彼女のベッドに潜り込んだ。
 彼女と体をくっつけるようにして、しばらく話をする。相変わらず、彼女が他愛のない話を延々と喋り続けた。
 無限に続くかと思えた彼女の話が不意に途切れた。大きなベッドの中に沈黙が流れた。
「なあ、あんた」
 彼女がそう言った。さっきまでとは違って、静かなトーンだった。
「ひょっとして、彼氏と別れたん?」
 おれは、答えない。答えたくなかった。
「今日は、びっくりしたんよ。あんたが急にどうしても会いたいなんて言うてくるから。あんたにしては、珍しく、強引やったもんなあ。これは、会うてやらんと、って思うたもん」
「ごめんなさい。無理言って」
「ええの。たまには、そんなこともあってええんよ。実際、会うてみて、あんたのこと見てたら、一見楽しそうに振舞うてるけど、やっぱり、つらいことがあったんやなゆうことがわかったもん」
「……」
「新幹線のホームで会うてから今まで、あんた、あたしから一度も離れてないもんな。さっきのコンビニ行くときも、お風呂入るときも。ベッドなんて、たったこんだけしか離れてないのに、一緒のベッドで寝る言い出すんやから、よっぽど1人でいるのが嫌なんやな。――そんな、つらいことがあったん?」
「あ、あたし……」
「別に、言いたなかったら、言わんでええのんよ。ただな、喋ったら、楽になることもあんねん。そりゃあ、あたしに喋ったかて、解決でけへんことかもわからんけど、ひょっとしたら、解決できるかもしれんやないの。せやから、一遍、喋ってみ。喋れることだけでええから」
「……」
「彼氏いたんやろ。喧嘩したん?」
「――彼氏っていうか、好きな人、なんです」
 おれは、ポツリとそう言った。
「向こうもあんたんこと好いてくれてんの?」
「『君みたいな女の子が理想』って言われました」
「はあっ? なんやの、それ。のろけかい」
「そうじゃなくて。彼はそう言ってくれるんだけど、それって多分、本心じゃないんです。だって、あたし、こんな中学生ぐらいにしか見えないんですよ。彼は、25歳なんです。25歳の男の人が、あたしみたいな中学生ぐらいにしか見えない女の子が理想なんて、あり得ないと思うんです」
「まあ、ほんまやったら、ロリコンやな」
「ロリコンじゃないと思います」
 ちょっとふくれてそう言った。
「ロリコンやがな。25歳言うたら、あんたのことは見た目10歳も下やで。大体、あんたも自覚ないのかもしれんけど、無茶苦茶ロリやで。まあ、あんたは普通にかわいいから、男ならみんなあんたのことは気に入んねん。でもな、あんたのことが理想だなんていう男は、間違いなくロリコンやねん。ロリコンの集団の中にあんたの写真を1枚投げたら、奪い合いの大喧嘩になるで」
 それも、何だか嫌だ。
 おれは、もう少し彼女に話してみようと思って、話しはじめた。
「あたしのことをとても気に入ってくれている女の人がいて、彼は、その人の部下なんです。その女の人は、あたしが彼に気があることを知ってて、彼に、あたしと付き合うように言ってくれてるみたいなんです」
「部下言うたって、そんな付き合うなんてプライベートなことまで命令できへんやろ」
「それが、部下と言っても――まあ、そういう部下ですから」
 京大娘が少し沈黙した。おれの言った意味を考えていたのだろう。
「ひょっとして、その女の人と彼との間には、肉体関係があるいうこと?」
「ええ」
「で、その関係は今も続いてるん?」
「多分」
「うわーっ。凄いな、それ。自分の男を別の女の子と付き合わせて、自分もその男との関係を続けてるってことやろ。そんな三角関係って、はじめて聞いたわ。あんた、見かけによらず、ドロドロの世界に生きてるんやな」
 大元の女社長は、からっとしているので、そこまでドロドロ感はないのだが、構図だけみると、確かにドロドロの三角関係だ。
「で、その女の人はいくつなん?」
「27です」
「彼よりも年上なんや」
「あ、でも、見た目は20歳ぐらい。下手したら、高校生ぐらいに見えます」
「何やそれ。若作りしてんの? 気色悪」
「化粧とかで若作りしているんじゃなくて、近くで見ても、ほんとに20歳ぐらいにしか見えないんですよ。凄い美人、というか、美少女ですし」
「そうなんや。まあ、あんただって、高校出てるのに、中学生ぐらいにしか見えんから、そういうこともあるんやろなあ」
 そこで、おれのことを例に挙げて納得するか?
「それに、彼は、その女の人のことがタイプだと思うんですよ」
「なんで? 彼から聞いたん?」
「直接は聞いてないですけど、その女の人が言ってたんです。彼女は、自分のことをタイプだと思ってくれている男しか愛人にしないんだって」
「凄いな、その人。なんで?」
「だって、こっちが好きだと思って入れ込んでても、向こうが仕方なく、ってのじゃ嫌じゃないですか。まあ、彼女、美少女だから、言い寄ってくる男には事欠かないので、そんなことが言えるんでしょうけど」
「せなんや。でも、それやったら、あんたにもチャンスやないの」
「どうしてですか?」
「だって、彼は、その見た目女子高生のことがタイプなんやろ。年増が好きや言うんならあんたには太刀打ちでけへんけど、女子高生が好きいう男やったら、あんたかてそない変われへん。18歳の男が言うんやったら、話は別やで。18歳から見たら、相手が高校生と中学生では大違いや。でもな、25歳の男からしたら、高校生も中学生も、似たようなもんやで。その女、美少女や言うけど、あんただって、美少女いうとこでは負けてへんやろ。あんたにも、充分、チャンスがある」
「でも、その人、あたしよりもずっと胸大きいし」
「あんたに比べたら、誰でもおっきいわ。あ、ごめん。気にしてるんやったな。堪忍な。でも、男がみんな胸のおっきい子が好きや思うたら、大間違いやで」
「そうでしょうか?」
 少なくとも、おれの場合は、胸が大きいことは必須条件だった。
「大体な、男が胸で女を決めるんやっら、なんであたしに彼氏おらへんの? 法学部なんて、男ばっかで女の子いてへんのよ。そこに、あたしぐらい胸ある子いたら、モテモテになる筈やないの。ところが、一向にそうはならん。あたしよりも胸ちっちゃい子は皆彼氏いてんのにな。法学部の女の子で、Dカップなんて、まずいてへんよ。それが3年たっても男から放っておかれるちゅう現実。あんた、どう思う?」
 彼女の場合、きっと性格的なものもあるのだろうと思う。もちろん、口には出さないが。
「結局、何か? そのおかしな三角関係が嫌で、あんたは逃げてきた、言うわけかい」
 そういうことになるのだろうか?
「ちょっと違うような気もするんですが……」
「どこがちゃうねん。大体やな、あんたと彼とは、別に喧嘩したわけやないんやろ」
「まあ、そうですね」
「あんたとその女の人との関係は悪化してんの?」
「特にそんなことは」
「せやろ。せやったら、あんたが逃げ出さんならん理由は1個もないがな」
「はあ」
「それが実際には、こうして仕事放っぽりだして、京都まで逃げてたわけや」
 仕事を放り出してきたなんて、京大娘には一言も言ってないのだが、彼女の言う通りなので、黙るしかない。まあ、今日みたいな時間に、今日みたいな格好で突然やってきたら、誰だってそう思うだろうが。
「喧嘩したわけでもないのに、逃げ出してきたいうことは、あんたは、この三角関係自体が嫌になったちゅうことやろ」
 そういうことになるのか。
「そりゃそうやわなあ。あんたにしてみたら、自分のことを好いてくれる男と付き合うてる思うとったのに、実際には、彼はあんたのことが好きやのうて、別の女からの命令で、仕方なしにあんたと付き合うてるだけやったんやもんなあ」
 そんなにはっきり言わなくてもいいじゃないかと思うのだが、まあ、その通りだ。
「せやったら、あんたの取る道は、3つやな」
「3つ、ですか」
「せや。まず、その1。今は、その年増女の命令であんたと付き合うてる彼が、あんたのことを好きになってくれるようにする」
「ええっ、どうやって?」
「方法は自分で考えんかい。あたしは、細かい事情までは知らんのやから」
「でも、あたしのことなんて、好きになってくれますかね」
「話聞いた限りでは、可能性はあるで。そもそも、その年増女と彼は、愛し合うてるわけやないんやろ。ほんま、愛し合うてるんやったら、その女が彼に、あんたと付き合うように言う筈ないからな。その女に取っては、彼は、何人もいてる愛人の1人やないの?」
「まあ、そんなところですかね」
「せやったら、あんたにも充分チャンスはある。元々、彼は、美少女タイプの女の子が好きなんやろ。路線としては、あんたも同系統や。あとは、あんたの努力次第、作戦次第で、男なんて、どうにでも転ぶで」
「そういうものでしょうか」
「転ばせんでどないすんねん。奪うてこそ愛、ちゅう奴や」
「はあ」
「次、その2や。これは、もう現状を受け入れて、割り切った上で、彼と付き合う」
「受け入れちゃうんですか」
「せや。そもそも、あんたは彼と付き合いだしたとき、年増女と彼の関係を知ってたん?」
「まあ、知ってましたけど」
「そんなら、話が早いわ。せやったら、彼があんたに優しくしてくれるのも、仕事のうちとか思うてたんちゃう?」
「まあ、なんとなく」
「せやったら、あんたは元々、そこんとこ割り切った上で付き合うてたんやろ。それが、どうして急に、割り切れんようになったん?」
「だって――」
 おれは、少し口ごもった。
「だって、彼はあたしとのことをみんな彼女に喋ってたんですよ」
「ほう。どんなことを?」
「ええっと……。たとえば、デートでどこへ行ったかとか」
「そのぐらいええやん。昨日、デートでどこ行ってきた、なんて、誰でも言うで」
「あたしと、どんな話をしたか、とか」
「話ぐらいええと思うけどな。他には?」
 京大娘が意地悪く訊いてくる。おれだって、話したくないことはあるのだ。
「と、とにかく、何でもかんでも喋っちゃうみたいなんです。それで、あたし、嫌になって」
「そこや」
「は?」
「結局な、そこんとこを我慢できるかどうかやと思うよ。何でも喋っちゃうのが嫌って言うたけど、それ、我慢ならん程嫌なんか? 我慢できるんやったら、今まで通り、付き合うたらええねん。仕事で付き合うてくれてるいうことは心の隅っこに置いといて、付き合うたらええやん。彼は、あんたと付き合うてるときに、『仕事で付き合ってます』なんて言わへんのやろ。あんたは、なあんも知らん振りして、楽しくやっとったらええねん」
「はあ……」
「せやけど、人間やもんな。嘘や思うてて付き合うのもつらいかもしれん。そんなときは、その3しかないな」
「それって……」
「彼のことはきっぱり、あきらめて、別れる」
 やっぱり。そうするしかないのだろうか?
「奪うか、妥協するか、あきらめる。人を好きになったときの選択肢なんて、この3つしかないんよ。そんでも、あんたはまだ幸せやよ。普通は妥協する、なんて選択肢はないからな。奪うかあきらめるか、二者択一や。今んとこ、あんたは、あきらめる、を選ぼうとしてるいうことはわかってるか? あんたの人生やから、どんな選択してもええけど、東京を離れて、京都におるちゅうことは、彼のことはあきらめるちゅうことやからな。そのことわかってるんなら、あとは好きにすればええがな」
 京大娘は、それだけ言うと、また話が脱線して、全然関係ない話になった。
 相変わらず、彼女は、喋り続けていたが、おれは、彼女が先刻言っていたことが頭から離れなかった。
 奪うか、妥協するか、あきらめる。
 確かに、その通りだ。おれが選ぶべき道は、その3つしかない。
 そのうち、あきらめたら、この話はそれで終わりだ。
 問題は、あとの2つ。
 奪うにしても、妥協するにしても、彼との関係は続くということだ。
 だが、おれには、もう1つ、避けては通れない問題がある。それは、おれがこの姿でいられるのは、長くてもあと1週間しかないということだ。遅くても、来週の今頃には、おれは、元の姿に戻っている。元の姿に戻ったら、おれと彼との関係は、それで終わりだ。終わらざるを得ない。
 だとしたら、奪うのも、妥協するのも無意味なのではないか?
 もし、奪ったり、妥協したりということが意味を持つようにするには、今のまま――この少女の体のまま、おれは生きるしかない。会社も妻も秘書たちも、すべて手放さなければならない。世界を代表するような総合企業グループを育て上げるという野望も捨てなければならない。
 これまで35年間培ってきた「おれ」という立場をすべて小娘に譲り渡して、18歳の少女として生きる。そんなことが、おれにできるのだろうか?
 いつの間にか、京大娘の声が途切れ、寝息が聞こえてきた。完全に眠ってしまったようだ。
 おれは、シーツの中に潜り込み、京大娘の豊かな胸に顔をうずめて、眠りに就いた。


 次の日から、おれは観光三昧の日々を送った。観光と言っても、寺や神社を巡るのではない。甘いものを食べさせてくれる店を巡るのだ。嵐山にも清水にも行ったが、おれのお目当ては甘味処しかなかった。渡月橋は横目で眺めただけ。清水の舞台も飛び降りるどころか、そこに立って景色を眺めることもしなかった。
 おれは、京都の甘味処やスイーツの店を紹介したガイドブックを片手に、掲載されている店をスタンプラリーでもしているかのように食べ回った。さすがは京都。老舗の甘味処がいっぱいあって、飽きることがない。あんみつやら、羊羹やら、ぜんざいやら、驚くほど甘くて、びっくりするほどうまい店がいっぱいあった。もちろん、洋菓子の店も和菓子の老舗に伍してガイドブックに載っているようなところは総じてレベルが高かったし、抹茶のアイスクリームやあんみつパフェのように、和洋折衷の店もたくさんあって、おれの顔と舌はとろけっぱなしだった。
 甘いものの合間には、ショッピングを楽しんだ。洋服も下着も全部東京に置いてきてしまったので、1から買い直さないといけないが、明日着るものを新たに探すというのも、楽しかった。
 京大娘は、最初の日こそ泊まっていってくれたが、翌日からは、バイト帰りにおれのホテルに寄ると、少し話をして、帰るようになった。「どうして帰っちゃうんですか」とおれが拗ねて見せると、
「若い娘が、毎日毎日外泊できるわけないやろ」
 と言われた。まあ、そりゃ、そうだ。
 京大娘は、朝は8時にホテルにやってくる。ホテルの朝食バイキングを食べるためだ。いつもは、「年下のあんたにおごってもらうわけにはいかん」と強情を張っているくせに、「券が余っとるなら、あたしが使うたる」と言って、毎日やってくるのだ。このあたりの感覚はよくわからない。きっと、彼女なりのきっちりしたルールがあるのだろうが。
 彼女は、バイキングを死ぬほど食べて、おれの部屋で苦しそうな顔でしばらく休んでから、10時過ぎにうどん屋のバイトに出掛けていく。ここから電車で1駅とちょっとのところに店があるらしい。一度、うどんを食べに行ってみようかと思ったのだが、「忙しなるから、やめて」と断われた。本当に忙しい店らしい。
 火曜水曜と、スイーツとショッピング三昧の日々を過ごしていたら、水曜の夜にバイト帰りの京大娘に「明日、空いてる?」と訊かれた。ホテルのおれの部屋で、ベッドに寝転んで、他愛もない話をしていたときのことだ。
「行こうかと思っていたお店はありますけど、別に明日じゃなくてもいいですから、空いてますよ」
「実は、あたし、明日は夜番だけやねん」
 彼女がバイトしているチェーン店のうどん屋では、昼前の開店から夜までの1日勤務と、店が忙しくなる昼食時や夕食時だけの昼番、夜番があるらしい。通常は1日勤務でバイトを入れている京大娘だったが、明日に限っては、夜番だけ。店には、4時に入ればいいので、一緒にどこかへ出かけよう、と言われた。
「どこ行くんですか?」
「どこでもええよ。行きたいとこ、ある?」
「甘いものがあるところなら、どこでも」
 と言ったら、「またそれかい」と、彼女にヘッドロックをかけられた。
「あんたみたいな頭ん中甘いもんしかない娘は、こうしたる」
 京大娘は、おれの頭を自分の胸に押し付けるようにしてぐりぐり締め付ける。彼女のやわらかい胸がおれの頭で潰れているが、女の子同士ということで、それを気に留める様子もない。
「あんた、京都をなめとるやろ。大体やな、京都に3日以上滞在した場合は、2つ以上の寺に参拝せなあかんゆう条例があんねん。その条例に違反した観光客は、清水の舞台からバンジージャンプせんならんゆう決まりなんやで」
 そんな条例、あるか。
「あたしもお寺が嫌だって言ってるわけじゃないんですよ。お寺だって、甘いものさえあれば、喜んで行きます」
「あんたな、朝から晩まで、そんな甘いもんばっかり食うとったら、マジで太るで。ちっとはダイエットでもせえ」
「今週のあたしは、甘いものを食べる係なんです。ダイエットは、来週のあたしにお任せ」
「あんたなあ……」
 元に戻ったときに、小娘が体重計に乗ってびっくりするかもしれないが、そんなことは気にしていられない。
「だって、このガイドブックに載ってる店、まだ半分も行ってないんですよ」
「ちょっと、そのガイドブック、見せてみ」
 おれのベッドの枕元に置いてあったガイドブックを京大娘が取り上げて、中をぱらぱら見ていた。 
「何や、この印ついとるとこが行ったとこかい。仰山行ったなあ。――せや。あんた、苦いのは駄目言うてたけど、抹茶は大丈夫なん?」
「抹茶ですか? そのまま飲むのはちょっと苦手ですけど、お菓子になれば大丈夫ですよ。抹茶のアイスクリームとか、大好きですし」
「そんなら、明日は、宇治に行こ」
「宇治、ですか?」
「宇治茶って、聞いたことあるやろ。宇治は、昔からお茶の産地やさかい、お茶の老舗が仰山ある。そういうとこが、お茶を使うたお菓子とかも作ってんねん。見てみ。有名な店が結構あるで。あんたも、京都の街中ばっかやったら、飽きるやろ。決めた。明日はちょっと足伸ばして宇治に行こ」
「足伸ばしてって、遠いんですか?」
「大したことないよ。隣町やもん。そこに京阪の駅があるから、あっという間や」
 京大娘はその日は一旦自宅に戻り、翌日の朝、7時半といつもより早めの時間に朝食バイキングにやってきた。
「さあ、今日も食うたるで」
 京大娘は、いつものように、トレイに大量の料理を載せて席に戻ってきた。彼女は、最初にこのホテルに泊まった翌朝には、バイキングに出てくる料理を全品制覇するのだと息巻いていたが、最近では、毎日日替わりで新しい料理が出てくるため、制覇への道はちっとも進まないと嘆いていた。
「ふう。今日も食ったなあ」
「さすがに、毎日これやってたら、太りますよ」
「ええねん。今週のあたしはたらふく食べて、来週のあたしがダイエットするから」
 あんたの場合は、来週になっても、あんたのままだろうが。
 取りあえず、部屋に戻って、身支度をする。Tシャツ、短パンにスニーカー。結局、これが一番動きやすくて、出かけるには最適だ。昨日は、近くのデパートで買った白いワンピースで出かけてみたが、短パンの方が涼しいし、何より、スニーカーだと、歩きやすさが全然違う。
 京大娘に連れられてホテルを出たのが午前8時半を過ぎたところ。タクシーで行きたかったが、彼女と一緒では電車にせざるをえない。そろそろ通勤ラッシュも一段落する頃だろうか。
 高瀬川沿いの小さな道を歩き、大通りに出て、鴨川を渡ったところに、京阪の地下駅があった。ここまでものの5分といったところだ。ホームでしばらく待っていたら、大阪方面の特急が来たのでそれに乗った。途中の駅でも人が乗ってきて、結構混んでいたが、ラッシュのような酷い混みようではない。もちろん、おれたちが乗ったのは、女性専用車両だ。さすがに、通勤電車で一般車両に乗る勇気はまだない。
 いくつかの停車駅の後、京大娘にうながされて乗り換える。今度は各駅停車のローカル線のようだ。車内は空いていて、おれは京大娘と並んで座った。
 電車は川沿いを走る。結構な広さの川だ。川の脇には屋形船が浮いていたりする。
「これが宇治川な。この川の向こうがあたしんち。うちは、京都市内言うても、ほんとにはずれなんよ。ほとんどの京都市民は、この川の向こうまで京都市やなんて知らんねん。鞍馬とか大原みたいな山奥が京都市やってことは知ってるのにな」
 きっと、彼女は大学でも京都市民と認めてもらっていないのだろう。
 やがて、電車は川から離れ、普通の住宅街を走る。電車に揺られて、うとうとしてたら、終点だった。
「やっと着いた。やっぱ、遠いな」
 と言っても、電車に乗っていたのは、30分ぐらいだ。まだ9時半にはかなり間がある。
 駅を出ると、すぐに川沿いの道に出た。
「これ、さっきの宇治川ですか?」
「せや。ちょっと上流に来たって感じかな」
 確かに、中州の石も結構大きいし、川底も浅く、水の流れがよく見える。涼しげな風景だ。
「この宇治川と、ホテルの近くにあった鴨川、嵐山のとこの桂川なんかが一緒になって、淀川になるんやで」
「淀川って、大阪の?」
「せや。京都の水は、みんな大阪に流れてくいうわけやな。ほなら、逆に、この宇治川の上流には何があるかわかるか?」
 上流を見ると、すぐに山が迫っている。この先に、有名な渓谷やダムでもあるのだろうか?
「この上流にあるのは、琵琶湖」
「琵琶湖って、あの滋賀県の? でも、琵琶湖の周りって、結構平野だったと思うんですけど」
「この山越えるとな、また平野になって、そこに琵琶湖があるんよ。琵琶湖に流れ込む川は仰山あるけど、出てく川はこれ1本なんやて。滋賀県では瀬田川言うんやけどな。あんたも新幹線で来るとき、瀬田川を渡っとる筈やで」
 もちろん、そんなこと憶えているわけがない。
「あのでっかい琵琶湖から海に向かって流れる唯一の川がこのちっちゃな宇治川なんて、信じられへんけどな。せやから、琵琶湖って、湖や思うとるけど、実は、あれ、淀川の一部なんよ。琵琶湖って、一級河川なんやて」
 そんなことを話しながら川沿いを歩いていると、木でできた古風な橋に出た。よく見ると、木でできているのは欄干だけ。道路は普通にアスファルトで舗装されていて、片側2車線の交通量の多い道路となっている。
「さあ、のんびりしとる暇ないで。どんどん行こか」
 おれは京大娘と一緒に宇治市内の甘味処のハシゴをはじめた。お団子、水ようかん、かき氷、パフェ、チーズケーキ。これに、みんなお茶が入っている。2人連れのいいところは、1つの店で2人で違うものを注文して、交換して少しずつ食べることができるということ。小食なおれにはぴったりだ。抹茶チーズケーキなんて、どんな味がするのかと思ったら、チーズの濃厚さに抹茶の上品な風味がうまくマッチしていて、何とも言えない味に仕上がっている。これは1人でまるごと1個食べてしまった。
 他にも、最中のようなお茶が入っていないお菓子もあったが、これは抹茶とセットで出てきた。いつもだったら、きっと飲めなかったであろう抹茶だったが、最中の餡がこの上なく甘かったからか、お茶が上等だったからか、違和感なく飲むことができた。おいしかった。
「あかん、もう満腹や。しばらく食べられへん」
 駅の近くの店を3軒ばかりハシゴした後、京大娘がそんなことを言い出した。
「だから、朝ごはん食べすぎなんですよ」
「だって、バイキングなんよ。食べ放題なんやから、仰山食べんと損やないの」
 損も何も、彼女が金を出しているわけではないので関係ないと思うのだが。
 そうはいっても、おれの方もいい加減満腹になってきたので、しばらく甘味処のハシゴは中断ということにする。
「しゃあない、腹ごなしにあそこ行こ」
「どこですか?」
「宇治ゆうたら、平等院やろが」
「ええっ、お寺ですか。興味ないです」
「何言うてんねん、この子は。せやったら、源氏物語ミュージアムにするか?」
 そう言えば、道を歩いているときに、そんな看板を見かけたような気がするが、そっちは更に興味がない。結局、平等院へと連れて行かれることになった。
 宇治川にかかるさっきの橋を渡って、参道を少し歩く。暑かったので、途中のお茶屋でアイスグリーンティーを飲んだ。200円ぐらいするかと思ったら、1杯50円。安い! これは、砂糖が入っていて、甘くて冷たくておいしかった。京大娘は、2杯飲んでた。
 参道を抜けると、程なく平等院に着いた。いくらも歩いていない。宇治というのは、駅から歩いて行けるようなところに観光地だの老舗の店だのがかたまっているコンパクトな街だ。
 意外と広い敷地の中に池があって、そのほとりに平等院の目玉・鳳凰堂が建っていた。観光客は、みんな十円玉を取り出して、見比べている。おれも、財布から十円玉を取り出して、見比べた。
「なあ、ぶっちゅけ、どう思う?」
 鳳凰堂を見ているおれに京大娘が訊いてきた。
「正直に言って、いいですか?」
「本音で言うたらええ」
「この建物はきれいだと思うんですけど、十円玉に描かれた絵は、あんまりだと思います」
「せやろ。あたしも、昔からそう思うとったんよ。折角立派な建物なんやから、もうちょっと上手に描いたりいなって」
「なんだか、定規で線を引いただけみたいな絵ですよね」
「それは、しゃあないんちゃうか。所詮は十円玉やもん。仮にも国宝、今は世界遺産よ。十円玉ごときで、世界遺産の素晴らしさを余すことなく表現されたら、百円玉や五百円玉の立場がのうなるよってな」
 あんまり暑いので、帰りにも参道でグリーンティーを飲んだ。その後、また老舗のお茶屋さんへ。京大娘は4時から京都市内でバイトがある。時間的にもここが最後になりそうだったし、少し歩いて小腹も減っていたので、宇治金時のカキ氷、冷やしぜんざい、抹茶アイス、抹茶ゼリーと、ありったけ注文して、彼女と2人で手分けして食べることにした。
 次々と出てくる甘い食べ物に京大娘と一緒にとろけていると、彼女の携帯が鳴った。
「――うん。せやよ。4時前には入るつもり。え? なんやて? ――他にいてへんの? うん。あ、そうか。旅行や言うてたもんな」
 口ぶりからすると、相手はバイト関係の人間だろう。何やら、トラブルが起こったようだ。
「わかった。ちょっと、待って。心当たりに聞いてみるから」
 彼女は携帯を切ると、おれに向かって言った。
「あんた、今日、このあと空いてるやろ」
「はあ。まあ、そりゃ、空いてますけど」
「せやったら、バイトせえへん? うちのうどん屋で」
「バイトですか?」
「実はな、今日の夜番の子が2人急用で休んでもうたんよ。シフト外れてる子も、今日は旅行で京都におらんねん。1人少ないぐらいは何とかなるけど、2人も休まれると、さすがに仕事回っていかへんからな。そもそも、あたしが月曜日に急にシフト変わってもろたやろ。あのとき、代わりに仕事出てくれた子が熱出したんやて」
 それって、元はといえば、おれのせいということなのだろうか?
「でも、あたし、バイトなんてしたことなくて……」
「ええって。食器片付けたり、テーブル拭いたりする簡単な仕事しかさせへんから。4時から8時まで、4時間だけ頼めんかな。ちゃんとバイト代は払うし、終わったら、うどんも食わせたる」
 正直、バイト代もうどんもいらないのだが、京大娘にしつこく頼まれたのと、元はおれのせいではないかという引け目が合って、引き受けてしまった。
「ありがとうな。あとで店長に掛け合うて、まかないのうどんに天ぷら入れたげるから」
 いや、別にいいから。
 その後、3時までゆっくりとお茶屋で抹茶づくしのお菓子を楽しんで、京都に戻る事にした。
「あと1時間しかないですけど、大丈夫ですか?」
「ちゃんと間に合うから、心配せんでええって」
 とは言うものの、お茶屋から駅まで戻るだけでも、少し歩かなくてはならない。と思っていたら、京大娘は来た道とは違う方向へ歩いていく。すぐに別の駅があった。
「さっきのは京阪の駅な。こっちはJR。帰りはJRで行こ」
 少し待つと、快速列車がやってきた。京都駅まで15分。あっという間だ。そこから地下鉄に乗り換えて、2駅。地下鉄を降りて徒歩5分で店に着いた。4時までにはまだ10分以上も余裕があった。
 早速、店長に引き合わされる。30歳ぐらいの恰幅のよい男性だった。まったくの未経験だと正直に申告したが、かまわないと言われた。京大娘と一緒に、お揃いの制服へと着替えて、帽子をかぶった。
「よう似合うとるな。写真撮っといたろ」
「やめてください」
「こんなかわいいと、店のホームページに使われるかもしれんで」
 結局、しっかりポーズを取らされて、写真を撮られてしまった。はあ。
 この店は、セルフタイプのうどん屋だ。客が天ぷらなどのトッピングやおにぎりなどのサイドメニューをトレイに載せ、最後にうどんを注文する。店員がうどんを茹でて汁をかける。うどんができたら会計を終えて、客は好きな席に着く、というシステムになっているようだ。京大娘は、会計を担当していた。
 食べ終えた客は、トレイを食器返却口へと返す。おれの仕事は、返ってきたトレイを厨房側から取り出して、割箸や残った汁などを分別して捨てて、どんぶりや皿を食器洗い機の中に放り込むことだった。あとは、定期的にフロアに出て、テーブルを拭いたり、給水機のところに新しいコップを持っていったりということもするようにと言われた。
 4時あたりは、まだ客もまばらだったが、5時を過ぎる頃からどんどん客が増えてきた。トッピングコーナーには行列ができるようになり、店内の席もほとんど埋まってきた。うどんの専門店で、酒やソフトドリンクは置いていないので、回転が速い。次々に返却口にトレイが置かれるようになった。おれは、それを片付けていくのだが、食べ終わった食器とはいえ、どんぶりが結構重いし、汁が残っていたりするので、おれの細腕に取っては、案外力仕事だった。
 返却口の方が一段落すると、フロアに出て、新しいコップを給水機のところに持っていく。ついでに、汚れたテーブルを見つけると、ふきんでさっと拭いてくる。この店はセルフサービスだが、食べ終わったトレイを返却口に返してくれない客もかなりいるので、それを返却口まで持って行ったりもした。
「ねえちゃん、醤油はどこや?」
 フロアに出て行くたびに、かなりの確率で、そんな具合に呼び止められるので、客のところに醤油を持って行ったり、天かすの場所を教えたりした。厨房で京大娘と顔を合わせたとき、そのことを言ってみた。
「そんなん決まってるやん。あんたみたいなかわいらしい子がおるんで、声かけとるんやがな。まあ、お尻触られんよう気いつけとき」
 そんなことを言われたものだから、次から、フロアに出るときには、やたら緊張して、周囲に気を配らないといけなくなってしまった。
 6時を過ぎると、本当に目の回るような忙しさで、それどころではなくなった。フロアでテーブルを拭いたりして戻ると、食器の返却口は一杯になっている。それを何とか片付けて食器洗い機に放り込むと、返却口が満杯の間に、返却されないままのトレイがテーブルに残っていて、新しく入ってきた客にどやされる。そちらを片付けていたら、返却口が一杯になるという繰り返しだった。
 7時半ぐらいまでそんな状態が続き、ようやく入ってくる客も一段落してきた。あと30分で終われる、と思っていたら、店長から「8時半まで延長お願いできるかな」と言われて、力が抜けそうになった。それでも、あと1時間、なんとかがんばった。最後の方は、客が少なくなったから、何とかできただけという気もするが。
「お疲れさま。これ、今日のバイト代。延長分も入ってるから。中身確認して、ここにサインしてな」
 店長からバイト代の入った封筒を貰う。死ぬほど忙しかったが、たかだか4時間半のバイトなので、中身は知れている。老舗の甘味処を何件か回ったら、なくなってしまうような額だ。でも、何だか嬉しかった。
 おれは、久しぶりに「働いた」という気になっていた。父親が死んで、町工場を継いだばかりの頃は、こんな風に目の回るような忙しさだったような気がする。体力的にはきつかったが、今思うと、充実していた。それが会社が大きくなって、おれの仕事は相変わらず忙しかったが、それは、どこそこで誰々と会う、だとか、事務処理を片付ける、とか、報告書に目を通す、という忙しさで、こんな具合に体を動かす忙しさを味わうのは、久しぶりだった。
「それじゃ、着替えたら、うどん食べてってよ」
 おれは、京大娘と一緒に着替えて、うどんを食べることにする。さすがに腹が減った。
「うどん、何にする?」
「一番小さいのでいいですから」
 店長が作ってくれて、それに京大娘がかきあげを載せてくれた。
「これ、約束の天ぷらな」
 基本的に、まかないの場合はうどんの量は増やせるが、トッピングは自腹なのだそうだ。店長のおごりか、京大娘のおごりか、どちらかはわからない。
 うどんはかなりうまかった。腹が減っていたこともあったが、格安のうどん屋にしては、信じられないぐらいうまい。と言っても、半分食べたところで満腹になってしまったが。結局、うどんもかきあげも半分近く残してしまい、おれが残した分は、京大娘が食べた。
 京大娘がおれをホテルまで送ってくれた。ホテルまで歩いて15分。地下鉄に乗っても行けないことはないのだが、乗換えがあるので、歩いた方が速いのだという。
「今日は楽しかったです。宇治も、バイトも。ありがとうございました」
 ホテルのおれの部屋でしばらく休んで、京大娘が帰るときに、おれはそう言った。
「こちらこそ、ありがとうやで。バイト、ほんま、助かったわ。ほなら、また明日の朝来るから」
 京大娘は、そう言って、帰っていった。
 おれは、久しぶりに――この体になって、はじめて――充実した1日を過ごせたような気がした。






 それは、土曜日のお昼過ぎのことだった。
 Tシャツが汗で素肌に貼りつきそうなぐらい、暑かった。
 土曜の京都は、観光客の数がいつもの何倍にもなっていて、甘味処の有名店はどこも人で溢れていた。
 祇園にある老舗の甘味処で行列に並んでいたおれは、あと1人で席に座れるというところで、携帯電話の呼び出し音を聞いた。
 ポシェットから、おれには似合わない真っ黒い無骨な携帯を取り出す。京大娘だろうと思っていたが、ディスプレイには、11桁の番号が表示されているだけだった。
「もしもし」
 おれが通話ボタンを押して、携帯を耳に当てると、スピーカーから聞き慣れた「おれ」の声が聞こえてきた。
「ああ、やっとつながった。旦那さま、ずっと携帯の電源、切りっぱなしだったでしょ。これまで何回電話したと思ってるんですか」
 小娘だ。おれのプライベートの真っ黒い無骨な携帯の方に小娘がかけてきたのだ。
「いいですか。奥様からの伝言です。1回しか言わないから、ちゃんと聞いてくださいよ。今日の夜10時、旦那さまとあたしの体を元に戻すそうです。場所はお屋敷。もしも遅刻したら、そのときは、旦那さまは戻りたくないんだって判断しますから、そのつもりで」

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