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xxxy 02

 そのとき、おれは、光を見たような気がする。
 女としての初めての絶頂を迎えたおれは、自分がそれまでのおれでないことを知った。
 おれは、広い空間にいた。現実の世界ではない。頭の中の空間だ。
 それまでのおれの頭は、狭い箱の中に閉じ込められていたみたいなものだった。ところが今は、どこまでも無限に続く草原に立っているようだ。しかも、だだっぴろい場所にぽつんと取り残されているのではなく、その広大な空間を自由自在に飛び回れるのだ。
 この感覚を一言で表現するのは難しい。あえて言うなら、
 すっきりした。
 というところだろうか。
 まるで、頭の中が空っぽになったようなこの感覚。実際には、からっぽになったわけではなく、広大なスペースを得たという方が正しい。
 昔、試験の前に一夜漬けをして、頭の中に知識を詰め込もうとしても、入れたそばからこぼれ出てきたようなあの感覚。今なら、あんなことにはならず、すべて憶え切れそうな気がする。仕事で、複数のクレームが一度に襲ってきて、どれも手をつけられずに、焦りばかりが増していくあの恐怖感。今のおれなら、ランダムに発生するトラブルをきちんと並列で処理していける自信がある。
 おれは、頭の中のこの広大な空間を支配していることを実感した。
 そうだ。今なら、おれと双葉の2人が同時に起きていても、意識を失うということにはならない筈だ。こんなにも頭がクリアなのだ。体の2つや3つ、同時に動かせる気がした。
 おれは、早速、一般病棟で寝たままのおれに意識を飛ばして、おれを起こしてみることにした。

 おれは気付いた途端、未知の感覚に襲われた。
 寝ていたおれを起こした双葉の頭は確かにクリアになっていたが、体の方は、さっきまでのオナニーのせいで、快感の余韻に浸っているところだったのだ。そんな女の快感の余韻が、まるごと男のおれの体に伝わってきた。
 男の快感と女の快感では、まるっきり種類が違う。しかも、女の方が男に比べてはるかに感じるのだ。双葉の体が感じていた快感が、意識がつながった途端に、おれの脳を直撃した。
 それは、まったく未知の快感だった。さっきまで、双葉の体で散々感じまくっていたおれがそんなことを言うのは変な話だが、女の脳で感じる女の体の快感と、男の脳で感じる女の体の快感は、違うのだ。おれの男の体には、女の快感を処理するための器官がついていない。快感というエネルギーを消化する術を持たないおれの体は、それを熱エネルギーとして変換したのか、おれの体は燃えるように熱くなった。同時に、おれのペニスが一瞬のうちに怒張して、破裂寸前になった。
 おれは、がっと目を見開いた。
 何も見えない。
 しかし、そのとき、おれははっきりと理解した。
 おれは2つの体を持っている。元々のおれの体と、双葉の体と。右手と左手が等しく同じ人物の所有物であるのと同じように、双葉の体もおれの体も、等しくおれのものなのだ。そして、その2つの身体を統べるのは、このおれ、ただ一人なのだ。
 おれは、双葉の体から送られてくる女の快感の余韻と、おれの体から送られてくる男のとめどない欲望を同時に感じていた。
 完全に理解した。
 おれは、2つの体が発する信号を同時に受け止めることができる。そして、それがどちらの体から送られてきたものかを判別することができる。
 これで、もう2つの体が同時に起きていたしたとしても、意識不明に陥ることはない。
 今までのおれは、狭い頭の中で、2つの体から押し寄せる情報に混乱してしまったが、今は違う。広大な空間を持つおれの頭の中は、2人分の感覚という情報を分別し、整理するだけのスペースがある。
 もう大丈夫だ。
 おれには、2つの異なる体をどのように別々に動かしたらいいか、答えがわかっている。
 あとは、実行するだけだ。

 ベッドに仰向けに寝ていたおれは、腹筋を使って、がばっと起き上がった。
 すると、ゴツンと鈍い音がして、額に痛みが走った。痛みは、双葉の体からのものだとすぐにわかった。
 どうやら、おれが体を起こしたと同時に、双葉の体もおれの体と全く同じ動きをしたらしい。オナニーの後、洗面台にうつ伏せになっていた双葉は、その体勢から腹筋を使って起き上がるような動作をしたため、洗面台に頭を思い切り打ち付けてしまったのだ。
 酷く痛んだ。大丈夫だろうか? 切れたりしていないだろうか? 双葉のきれいな顔に傷でも付かなかっただろうか?
 おれは心配して、頭に手をやった。大丈夫だ。切れている感じはないし、こぶにもなっていなさそうだ。
 安心して、手を下ろしたときに気付いた。ごつい、男の手。
 おれが手を当てたのは、双葉の額ではなく、おれの額だった。動かすべき手を間違えた。
 おれは、双葉の手を双葉の額に当てた。今度はちゃんとできた。少しこぶになっているだろうか。
 ちゃんとできたのはいいが、おれの方も双葉と同じように意味もなく手を額に当てていた。誰かに見られたら、林家三平の真似でもしているのだろうかと思われたかもしれない。
 取りあえず、双葉のオナニーの後始末をしなければいけない。股間からあふれ出た愛液が椅子や床を濡らしていた。さすがにこれはティッシュで拭くぐらいはして痕跡を隠しておきたい。おれは、洗面台の奥にあるティッシュを取るために立ち上がった。同じように動こうとしたベッドの上のおれが、バランスを崩してすてんと転んだ。同じ立ち上がるという動作でも、元の体勢も違うし、体型もまるで違うから、こうなる。
 ティッシュを取って、濡れた椅子や床を拭き始めると、ベッドでひっくり返って仰向けになっていたおれは、双葉の体の動きに合わせて空中を拭き始める。ほとんどパントマイムだった。

 結局、おれは2つの体を別々に動かすことはあきらめた。確かに、おれは、2つの体を別々に動かす方法を理解した。だが、理屈がわかったからと言って、それがてきるようになるかどうかというのは、別問題だ。本を読んで泳ぎ方がわかったからと言って、泳げるようにはならないのだ。
 おれは、まずは、ベッドから離れている双葉の体を優先的に動かすことにした。そして、これ以上面倒を起こさないためにも、元々のおれの体をベッドから落とさないことを心掛けた。どちらかの体が寝てくれればいいのだが、今はそれは期待できそうもない。双葉の体にはまだ性的快感がほんのり残っているし、さっき打った頭の痛みもある。おれの方も、股間は膨らみっぱなしで、睡眠とは程遠い状態だ。
 とにかく、大きな動きはせずに、少しずつ体を動かしていくこと。そうやって、ときどき動かす体を間違えながらも、何とか双葉の体をベッドに戻した。結局、ほんの10メートルを移動するだけで、1時間もかかった。
 ベッドに戻った頃には、肉体的にはもちろんそうだが、精神的にも疲れ果てていて、おれは、あっという間に眠りに落ちた。

 翌日からおれは、トレーニングを始めた。
 おれの体も双葉の体も、どちらも単独で動く分には問題がないのだ。できないのは、両方の体を別々に動かすこと。理屈はわかっているのだから、あとは実地訓練あるのみ。ひたすらトレーニングだ。
 まずは、目の動きからはじめた。まぶたを開ける、閉じるをひたすら繰り返す。最初はおれの体も双葉の体も同じようにまぶたを開閉した。閉じているときはいいが、開いているときは、2人分の視覚データが同時に飛び込んでくる。これに慣れるのにしばらくかかった。
 コツは、入ってきた情報を解釈する前に、それがどちらの体から発せられた情報かを分類することだと思う。
 人は誰だってそれに似たようなことを無意識でやっている。感覚を認識するのは脳だ。脳には視覚・聴覚・触覚など様々な情報が伝達されているが、誰もが、これは視覚から。これは聴覚。これは触覚でも右手のもの。こちらは左足……という具合に、情報を瞬時に、かつ正確に分類している。
 分類自体は既にできていることなのだ。あとは、これに「発信者」という新たな情報を加えれば、人が視覚データと聴覚データを切り分けるように、おれの感覚と双葉の感覚を切り分けられるようになるはずだ。
 最初の頃は、2つの体が同時に目を開けていると、2つの異なった視覚データが送られてきて、映像がダブった形で見えてしまっていたが、だんだんと2つを分離して見ることができるようになった。
 同じことを聴覚でもやってみる。こちらは視覚よりも意外と難しい、というか、奥が深い。
 元々、人間は単独の音の中で暮らしているわけではなく、さまざまな音が混じりあった中で生活している。ほとんどの人間は、混ざり合った音を分類して聞いているわけではない。だから、情報を得る耳が2つから4つになったところで、得られる情報が増えるだけで、視覚のときのような違和感は感じられない。目と違って、耳は極めて受動的な器官なのだ。見ようとしなければ見えないのが目なのに対して、聞こうとしなくても聞こえてしまうのが耳なのだ。
 しかし、なまじ聞こえてしまうために、おれの4つの耳はそのレベルで落ち着いてしまって、なかなかそれ以上のレベルに上がらなかった。音は問題なく聞こえるのだが、それがおれの耳で聞いた音なのか、双葉の耳で聞いた音なのかを分類できないのだ。退院後は、おれの耳からの情報と双葉の耳からの情報を分類できないと生活に支障をきたす。面と向かって話されるのならどちらに対して話しかけられたかがわかるが、後ろから声をかけられるたびに両方とも振り向いていたのでは、いくらなんでも周囲からおかしく見られるだろう。当面、入院中はその心配はなさそうだが、いずれおれと双葉の聴覚情報を分類できるようにしなくてはならない。最終的には、2つの聴覚情報を聞き分けられるだけではなく、聖徳太子のように10人の話を聞き分けられるようになれる筈だが、それは、退院してからの話だろう。
 いずれにせよ、まずはとにかく体を動かせるようになることだ。2人分の視覚データを分類できるようになってくると、今度は、おれはまぶたを動かすことに専念した。このトレーニングの都合のいいところは、たとえ動かす体を間違えても、痛くも痒くもないところだ。あの日のように、動かす体を間違えても、転んだり頭を打ったりする心配がない。
 まずは、2つの体でまぶたの開閉をまったく同じタイミングで行なう。単調な作業だが、ひたすら回数を重ねた。4つの目が開いているときは、2種類の視覚情報が伝わる。最初は2つの映像がダブって見えたものだが、多機能テレビの2画面分割を見ているように感じられるようになってきた。それも、はじめは違和感があったが、次第にそれが当たり前になってきた。4つの目が閉じているときは、当然、おれの視界は真っ暗になる。
 まぶたの同時開閉が完璧にできるようになると、今度は、おれの目を開けると同時に双葉の目を閉じ、双葉の目が開いたら、おれの目は閉じる、そんなトレーニングに移行する。これで一気に難易度が上がった。通常の人間で言うと、瞬きと、左右交互にウインクするぐらいの違いだ。難しかったが練習あるのみ。まぶたを開閉するたびに、おれが見る視覚情報が切り替わるのに若干の違和感があったが、その違和感はすぐに消えた。慣れたからなのか、ベッドに寝ているおれに見えるのは、どちらも天井で大差がなかったからなのか、わからない。
 まぶたの交互開閉をマスターすると、今度はまぶたをランダムに開閉する練習を始めた。これは難しいかと思っていたが、すぐにできるようになった。同時開閉と交互開閉のトレーニングをみっちり積んだおかげだろう。やはり、何事も基本が大事なようだ。

 ここまで来るのに、2週間もかかった。2つの体のあらゆる部分のうち、まぶただけを自由自在に動かせるようになるのに2週間。こうして考えると、2つの体でそれぞれの生活を送れるようになるには、どれだけの時間がかかるか想像もつかない。
 もっとも、おれはこの2週間、まぶたのトレーニングだけして過ごしてきたわけではない。トレーニングは2つの体が両方とも起きている時でないとできない。
 普通に生活していた頃、おれの睡眠時間は6時間ぐらいだったろうか。ところが、この入院生活では10時間は寝ている。医師たちに取っては、いつ意識を失ってしまうかわからないおれは、まだ立たせてリハビリをするには危険すぎるし、かと言って、特別悪いところがあるわけでもないため、「喰って寝るだけ」の生活になっていた。要するに、退屈なのだ。
 一方の双葉の体はというと、何と1日16時間以上も睡眠を取っていた。とにかく、双葉の体はすぐに眠くなるのだ。結局、トレーニングに割ける時間は1日6時間が限度だった。

 あの夜、おれが双葉の体で初めてオナニーをした夜以来、おれはトレーニングの合間にいろんなことを考えたし、いろんなことがわかっても来た。
 まず、あの夜以来、おれは双葉の過去の記憶を読み取れるようになっていた。そもそも、「ふたば」という音を「双葉」と表記するということからして、あの絶頂を迎えた瞬間からわかっていた。

 おれは……双葉は、23歳。3年前までは、FUTABAという芸名でグラビアアイドルをやっていたらしい。地方の高校を出てすぐに上京。小さな芸能プロダクションに入って、グラビアアイドルとしてデビューした。DVDを2枚出したが、大して売れなかった。「FUTABAのFはFカップのF」というのが売り文句だったようだが、実際にはEカップだった。ちなみに、今はGカップになっている。
 デビュー2年でほとんど仕事がなくなり、水着撮影会のモデルをして食いつないでいた頃に今の夫と出会った。
 夫が金持ちだというのはわかっていたが、その正体はネット系の旅行会社の重役だった。いわゆるIT長者という奴らしい。
 IT長者たちの飲み会で、双葉は今の夫とはじめて会った。金にあかせて、現役のグラビアアイドルたちがコンパニオン代わりに呼ばれたのだった。呼ばれた中には、テレビにも出ていて名の売れている女もいた。双葉は、ほとんど人数合わせのような形で呼ばれた。誰もFUTABAなんて知らず、相手にもされなかったが、今の夫が見初めてくれた。彼もその飲み会の中では下っ端で、やはり誰かの代わりにやってきて所在無くしていたのだが、席の一番端に座る者同士で惹かれあったのかもしれない。
 その後、1年ほど付き合い、その間にFUTABAの芸能活動は自然消滅のような形になって、引退。2人は結婚した。結婚して1年半になるが、子供はいない。
 夫は38歳。15年前に大学の同級生2人から、会社を立ち上げないかと誘われた。宿泊予約の代行サービスのような仕事だった。
 その頃の彼は、両親を交通事故で亡くしたばかり。生命保険と慰謝料で1億という金を持っていた。どうやら、2人はその金が目当てだったらしい。会社の資本金の半分を夫が出し、残りを2人が折半した。この2人の金は、夫からの借金。要するに、今の会社のスタートは、丸々夫の金だったということになる。
 その後、IT化の波に乗って事業は成功。何とかジャスダック上場にこぎつけた。今では、その会社の専務。もっとも、創業仲間の2人は社長と副社長だから、やっぱり3人の中では最初の金蔓という立場で、上場を果たした今では下に見られているみたいだった。
 夫が今持っている株の時価総額は10億程度。発行株式の15%ぐらい。いつの間にか他の2人の持分の方が大きくなっていた。時価10億と言っても、これだけ大量の株式を売却しようとすると株価が一気に下がるので、実質的な資産価値はもっと少ない。その他に双葉との結婚生活をスタートさせるときに買った都内の高層マンション。50階建ての45階すべてが夫の所有で、これが3億5000万した。車はセルシオ。フェアレディZも発売当初に買ってはみたが、実際のところあまり興味はないらしく、ガレージに陳列してあるだけのようだ。
 双葉の方は免許を持っていない。

 双葉は、自宅マンション近くを歩いているときに事故に遭った。買い物から帰る途中、後ろからスクーターで近づき、双葉の抱えていたバッグをひったくった男に突き飛ばされた。その拍子に地面のアスファルトで頭を強く打って、意識不明の重態となったのだ。
 バイクの男は、双葉のバッグを拾って逃走した。悪質な強盗傷害事件だった。
 双葉の体でおれが目覚めたとき、警察は、被害者から事情を聞きたがったが、目覚めたおれが何も憶えていないことや事故後の回復が思わしくないことから、事情聴取を断念したらしい。
 だが、あの夜以降、双葉の記憶を読み取れるようなったおれは、その事故のときの光景を思い起こすことができるようになった。
 双葉は、倒れて意識を失っていくまでの僅かな時間に、バッグを拾いに戻る男の姿とスクーターのナンバープレートを記憶していた。
「あたし、思い出しちゃった」
 夫が見舞いに訪れたとき、おれは、そう言って双葉の記憶を話して聞かせた。ナンバーと男の人相が警察に伝えられると、警察は再び事情聴取を求めてきた。刑事が何度か来たらしいが、なにしろ双葉の体は1日の3分の2の時間を寝て過ごしているし、起きている時間の大半も、おれと意識がつながっているため、何もできない状況だ。24時間のうち、双葉がちゃんと応対できるのは、2時間程度。滅多にその時間に当たるものではない。結局、おれは警察に何度も無駄足を踏ませ、そうしているうちに犯人が逮捕された。その男には余罪が山程あるようで、そちらの追求に忙しいのか、おれは結局警察とは会わなかった。

 暇を持て余しているおれは、いろんなことを考える。
 一番考えるのは双葉はどうなってしまったのか、ということだ。
 おれが感じる限り、双葉の体の中には、これまでこの体を23年間動かしてきた双葉という存在は感じられない。
 どこかに双葉というもうひとつの人格があって、おれが寝ている隙などに体を動かしている、というようなこともなさそうだ。
 この体の中には、おれしかいない。おれは、おれであって、双葉じゃない。
 ということは……。
 双葉は死んでしまったとしか考えられない。
 しかしおれは――双葉の体をしたおれは、生きている。
 今のおれは、こんな風に考えている。
 人間に、魂のようなものがあるのだとすると、肉体の命と魂の命は微妙に違っているのかもしれない。肉体と魂が全く同時に死を迎えるのではなく、多少のタイムラグがあるのではないかと思う。
 双葉として目覚める前、おれは悪夢を何度も見た。体が酷く痛んだり、意識が遠のいていったりする夢だった。今考えると、あれは夢ではなかったのかもしれない。あの頃、おれの体は死にそうだった。肉体の寿命が尽きようとするとき、魂は、別の肉体を捜しに行くのではないだろうか? おれの魂は、魂が先に死んでしまった肉体を探して入り込む。しかし、魂が死に絶えたような肉体が健康であるはずがない。おれの魂が入ったはいいが、程なく死んでしまう。それがあの夢だったのではないだろうか?
 幸か不幸かここは病院だ。特に、ここのように規模も大きく、救急車が急患を運んでくることの多い病院は人の死で溢れている。死に行く肉体には事欠かないのだろう。毎日のように他人の死を繰り返していたおれの魂は、いつものように魂の空きのある肉体を見つけて入り込む。それが双葉の肉体だった。
 双葉が他と違ったのは、肉体は死なず、回復したということだ。もしも、おれの魂が入らなかったら、魂のない双葉は、そのまま死んでしまうか、よくても植物人間というところだったかもしれない。
 もうひとつ、このケースで特異なのは、双葉の肉体に入り込んだおれ自身の肉体も回復したということだ。もしも、双葉の体の中に入り込んだ後、おれの肉体が死んでしまっていたら、どうなっていたのだろう? おれは、完全に双葉として生きていくことになったのだろうか?
 それとも、おれの肉体が死んでしまうとおれの魂が消滅し、双葉も死ぬのだろうか?
 このあたりは、さまざまな可能性が考えられるが、最終的には、よくわからない、としか言えなかった。  
 たとえば、前者だとした場合、この世には、自分の肉体が死を迎えたときに運よく新しい体に入り込み、別人として生き続けるというケースが結構あるのではないだろうか? 少なくとも、おれは今までにそんな話(少なくとも、世間一般から事実と思われている話)は一度だって聞いた事はない。だが、だからと言って、それはそんな事実はないという証明にはならない。別人の体で生きていくことになった人間が、それを世間に公表するとは思えないからだ。実際、このおれだって、双葉の体の中にいるのが実は中年の男だとは誰にも言わないだろう。そんなことをして、世間からいらぬ好奇の目を向けられたりするのは御免だし、最悪、拘束されてどこかの研究機関でモルモットとして一生を過ごすということになりかねない。
 そうやって考えると、自分の体を失った後、別人として生きている人間がこの世に相当数いるような気もしてくる。

 しかし、そもそも、魂が自分の体を離れ、他人の体にたどり着くなどということが、起こりうるのだろうか?
 もちろん、現実におれがそうなったのだから、起こりうることは確かなのだろう。だが、おれのケースが極めて特殊だったということも考えられるのだ。世の中のほとんどの人間が持っていない能力や体質というものがあって、たまたまおれがその能力を持っていた、あるいは、その体質だったという可能性も高そうだ。今にして思えば、おれは、会社で突然倒れたということだが、いくら急性とは言え、盲腸でそんな倒れ方をするのだろうか? あれは、肉体的な問題ではなく、魂の問題。簡単に言えば、おれの魂が体から抜け出してしまったために起きたことだったのではないだろうか?
 そもそも、死にかけている肉体から、魂だけが彷徨い出るということが滅多にないことならば、他人の体に別人の魂が宿るなどということは、ほとんどないことだろう。
 そう考えると、おれのように2つの体を持つに至ったというようなケースは極めて特異で、世界中にも例を見ない。いや、ひょっとしたら歴史上でもはじめてのケースかもしれない。
 そう考えると、今のおれという存在が、なんだか恐ろしくなり、寂しくもあった。

 おれは、今後のことを考えてみる。だが、おれには選択肢がほとんどないことに気付かされる。
 退院したら、それぞれの体で以前からの生活を続けていく。結局はそうするしかない。
 おれは、相変わらず、今の会社に通い続ける。独身のまま定年まで今の会社にい続けることになるだろう。
 一方の双葉の体も大差はない。今の夫の妻として生きていくしかない。
 そんなことがおれにできるのか?
 やるしかない。夫と別れるという選択も考えてみたが、向こうに浮気などの落ち度がない限り、離婚してしまったら、おれは無一文同然で世間の荒波に放り出されることになる。23歳、高卒、資格なし。今更芸能界には戻れないだろう。こんな女がどうやって生きていけばいいか?
 考えてみたが、スーパーでレジを打つぐらいしか思い浮かばなかった。あとは水商売。双葉の売り物は、結局のところ、この顔と体だ。キャバクラ嬢にでもなるのか。いっそ、風俗? 確かに、この顔と体ならそれなりに稼げるかもしれない。そうしているうちに、金持ちの男を見つけて……駄目だ。それだったら、最初から離婚する必要がない。
 結局、どちらも今の生活を続けていくのがベストというか、ほとんど唯一の選択肢だった。
 それ以外の選択肢として考えられたのは、双葉が今の夫と別れて、おれと結婚するというもの。
 正直、ピンと来ない。
 おれとしては、双葉のような若くてきれいな女を妻にできるというのは、いい話、どころか、奇跡に近いような幸運だと思うのだが、でも、中身はおれなのだ。双葉の立場からすると、金持ちの男と別れて、こんな中年のしがないサラリーマンと一緒になるというのはどんなものだろう? そもそも、おれとおれが一緒に暮らすことに、メリットがあるのだろうか?
 2つの体を持つということの最大のメリットは何か? 全く異なる場所、全く異なる立場で情報を得られることだと思う。双葉でしか得られない情報をおれが使う。逆もまた同じだ。
 例えば、双葉は夫の会社の株価を左右するような情報を得られる立場にある。それで双葉が株取引をすれば、インサイダー取引だが、おれが売買する分には問題ない。もっとも、そんな有益な情報がそうそう双葉の目の前に転がり込んでくるとは思えないが。
 どちらにしても、おれの2つの体は、いざと言う時、どちらかがもう片方をサポートできるようにしておいた方がいい。それには、全くの無関係であった方が有利だろう。通常の人間関係だったらいざと言う時のために、なるべく親密な関係を築いておくほうが有益なのだろうが、おれと双葉に限っては、そんなものは必要ない。おれと双葉は「同一人物」というこれ以上ない強い絆で結ばれているのだから。

 ということで、将来の展望ということでは、基本は現状維持という方針。ただし、双葉としてのおれと夫との関係がどうなるか、正直、おれには自信がない。その部分については、取りあえず実際に暮らしてみてから、ということで、問題を先送りにすることにした。
 おれに取って、当面の課題は、1日も早く2つの体を自在に動かせるようになること。とにかく、これができないことには、話にもならない。

 おれのトレーニングは、右手を握る作業に移行した。しばらくは、地道なトレーニングを繰り返すことだ。やってはいけないことの第一は、ベッドから落ちたりする危険のある行為。次は、周囲の人間に怪しまれる行動だった。
 とにかく、おれの体や双葉の体に異常があるように見せてはいけない。周囲に異常を感知されると、動きを制限されて、トレーニングを行なえなくなる恐れがあるし、それだけ社会復帰も遅くなる。最悪、おれと双葉のつながりが発覚する可能性だってある。だから、トレーニングは布団の中の目立たないところで、少しずつ、だが、確実にこなしていった。

 あの夜以来、おれは、ひとつ気付いたことがある。
 おれと双葉は、見えない線でつながっている。理屈はわからない。とにかく、おれの体と双葉の体は無線回線のようなものでつながっていて、お互いの感覚を共有している。共有といっても、それを感じる人格は、おれ1人だ。
 では、おれはどこにいるのか?
 どうやら、双葉の脳にいるらしい。
 いや、その言い方は正確ではない。どちらか片方だけしか起きていないとき、おれは、その体の方にいる。だが、両方の体が起きていて、つながっているときは、おれは双葉の方にいるようなのだ。というより、双葉の脳でなければ、2つの体を操ったりすることはできないらしい。
 なぜ、そんなことがわかるのか?
 あの夜、双葉としてはじめて女の絶頂を迎えたとき、おれは頭の中に広大な空間を得たような感覚になった。その感覚は今でも続いているのだが、元々のおれだけが起きているとき、つまり、双葉の体が眠っているときには、あの感覚を感じないのだ。相変わらず、狭い箱の中に閉じ込められている感じ。そもそも、それが当たり前だと思っているから、閉じ込められているようにすら感じない。要するに、あの感覚は、双葉の脳によるものなのだろう。
 双葉が起きているとき、それは、おれとつながっているときも、そうでないときもなのだが、おれの脳は物凄い働きをする。
 おれは、それを「覚醒」と呼んでいる。双葉の脳は、あの夜、絶頂感を味わったことで、覚醒したのだ。

 双葉の脳が覚醒して、常人に比べてはるかに高い能力を発揮するようになったものが3つある。
 1つは、記憶力。今のところ、双葉の記憶容量は無尽蔵に思える。とにかく、どんな細かいことも忘れないのだ。意識して憶えているわけではない。映像や音声という形で、自動的に記憶されてしまうのだ。基本的に、五感すべてが記憶されるらしい。
 実は、覚醒から数日して、双葉が夜中に一人で目覚めたときに、オナニーに耽ってしまった事がある。おれは、喘ぎ声を漏らさないよう苦労したほど感じまくっていた。それは、病み付きになりそうな感覚なのだが、昼間に双葉1人が起きているようなときには、付き添いでいる看護師の手前、布団の中とは言え、胸や股間を弄りまくるというわけにはいかない。そんなときは以前のオナニーの感覚を再生して、楽しんでいる。もちろん、本当に手で触るほどは感じないのだが、気持ちいいことには違いない。
 ということで、双葉の記憶力は、ハードディスクレコーダーもびっくりという感じの大容量なのだが、あくまで記憶されるのは、双葉の目や耳を通したものなので、近眼気味の双葉の視覚データの解像度はかなり悪い。まあ、そのおかげで無駄に脳内の記憶容量を圧迫しなくて済んでいると思っている。
 2つめは処理能力。コンピュータで言えば、CPUの能力が高いということだ。とにかく、計算が速い。新聞の株式欄を一目見れば、あっと言う間に株価の平均値が出せる……筈だ。目さえよければ。計算と言うことに関して言えば、目という入力装置がネックになって、性能を発揮する機会がないという感じだろうか。肉体的制限がなければ、どのぐらいの性能が出せるのかはよくわからない。以前、眠れない夜に羊の数を数えてみたことがあるが、あっという間に1万匹を超えてしまったので、怖くなってやめてしまった。
 この能力で一番役立っているのは、おれの実感としては薄いが、記憶の検索速度だろう。とにかく、膨大な量のデータを無駄に記憶しているので、脳の処理能力が低かったら、折角記憶したことがいつまで経っても思い出せないということになる筈だ。そもそも、処理速度が遅くては、大量に記憶すること自体が不可能になるだろうが。
 3つめは、多重処理能力。いちどきに異なった複数のことを行なう能力だ。今のところ、この能力がおれに取ってはもっとも重要なものだろう。おれが今やっているトレーニングは、この能力を高めるためだと言ってもいい。この能力がなくては、おれは2つの体を別々に動かすことができないのだ。

 これらの能力は、すべて、双葉の脳の能力だ。おれの脳は、「覚醒」してはいない。双葉とつながっているときは、双葉の脳を使うことができるが、元々のおれの体だけのときは、おれは、相変わらずの無力な中年サラリーマンに過ぎなかった。
 こうして考えると、双葉の脳の「覚醒」は、おれが双葉という2つめの体を得たということに関連しているとしか思えない。体を動かしているのは脳だが、2つの体を動かすには、2つの脳があればいいのかというと、そんなわけには行かないのだろう。単純に体を動かすだけではなく、2つの体の間の通信制御や、情報の振り分けなどで、余計に脳を使うことになる。実際、「覚醒」前のおれは、その膨大な情報量を処理仕切れず、機能停止せざるを得なかった。こうして考えると、「覚醒」とは必要に迫られて起きた脳の進化なのかもしれない。
 「覚醒」が片方の脳だけで起こったのも、それを裏付けるひとつとも考えられる。脳に多大な負荷がかかるのは、2つの体がつながっているときだけだ。だとすれば、2つの体のうちどちらか一方だけ「覚醒」すればいい。結局、それに双葉の脳が選ばれたということだろうが、なぜ元々のおれの脳ではなく、双葉の脳だったのか?
 たまたま、「覚醒」したときに使われていたのが双葉の脳だったからなのか。あいるは、単に双葉の方が若いからか。それとも、おれは、おれの脳に馴染み過ぎていたため、覚醒できなかったのか。確かに、あのとき、おれは双葉の脳で女の性的快感という。かつてないような衝撃を受けた。それほどの衝撃があって、はじめて「覚醒」が起きたのかもしれない。 

 「覚醒」から2ヶ月が経った。それは、おれが2つの体を自在に動かすためのトレーニングを始めてから2ヶ月が経ったということでもある。
 トレーニングは、ベッドの上で寝転んだままできることはほぼ終えていた。取りあえず、おれは2つの体、と言っても、ほとんどの場合それは腕なのだが、それを別々に動かすことができるようになっていた。最悪の場合、どちらかの動きを完全に止めてしまえば、もう片方の体を何とか動かすことができるようになったので、これまでのように突然フリーズして、持っている物を落としたりすることはなくなっていた。
 最近では、食事もベッドで座って食べられるようになった。付添い人がいれば、廊下を散歩させてもらえるようにもなった。もっとも、それは片方の体が寝ているときに限るのだが。最初の頃はまったくできなかった聴覚情報の分類も、少しずつできるようになってきた。突発的に聞こえる音がどちらの耳で聞いたものかを判断することはまだできないが、周囲の状況を加味して判断を下すことはできつつあった。
 次の目標は、2つの体がつながっているとき、片方の体は動きを止めておいて、もう片方の体で歩けるようになることだった。これができるようになれば、行動範囲は一気に広がる。
 もうひとつ、おれが力を入れ始めたトレーニングがある。それは、喋る、ということだった。最終目標は、2つの体が、同時に全く違う話ができるようになること。それは、イメージとしては、おれの頭の中では完全に出来上がっているのだが、実践トレーニングは不可欠だった。
 特に、このトレーニングは注意を要する。おれはともかく、双葉の喋り方というのは、特徴的だ。たまたま、双葉だけが起きているところに夫がやってくると、おれは、こんな風に言うのだ。
「ダーリン、来てくれたの。双葉、嬉しい!」
 あとで、1人になって冷静になればなる程、恥ずかしさがこみ上げてくるのだが、本当におれはこんなことを夫に対して言うのだ。しかも、ちょっと舌っ足らずで、幼くて甘えたような口調。顔には天使のような満面の笑みを浮かべて。
 双葉は、夫のことを「ダーリン」と呼んでいたらしい。まだ、双葉の記憶がわからなかった頃、おれは、夫のことを無難に「あなた」と呼んでいた。そのときから、夫の顔に暗い影があるような気がしていた。おれは、多分双葉として何かを間違えている、ということは薄々感じていたのだが、それが夫に対する呼び方だとは思っても見なかった。それも、「ダーリン」だなんて。
 覚醒の2日後、見舞いにやってきた夫に対して、無意識のうちにおれは、「ダーリン」と呼んでいた。その瞬間の夫の顔は忘れられない(覚醒後の双葉の脳だから、当然忘れたりはしないのだが)。それまでどことなく影を帯びていた夫の顔が、急に一転の曇りもない晴れやかな表情になって、おれの手を握り締めたのだ。
「双葉、あれから、初めて、ぼくのことをダーリンって呼んでくれたね。ああ、あの頃の双葉がようやく帰ってきてくれた」
 この男、意外に鋭いかも。確かにこのとき、おれは双葉の記憶を得てから初めて夫に会ったのだ。夫も、それまでの双葉が別人のようだと感じていたに違いない。
 以降、夫のことはダーリンと呼び、いつも甘えたような口調で話しかけている。
 ちなみに、おれは双葉のときは、自分のことを基本的に「双葉」と名前で呼んでいる。23歳にもなって(もうちょっとで24になる)自分のことを「双葉は……」などと呼ぶというのはどうかとも思うのだが、夫は全面的にこれを支持しているようだ。その方が、かわいいから。どうやら、夫は双葉に対してひたすら、「かわいくあること」を求めているらしい。おれとしては、この夫の愛する妻でい続けなくてはならないし、この豪華な病室の費用を支払わせている手前もあって、夫の求める双葉を演じていこうという気になっている。
 実際のところ、そのあたりのことは抜きにしても、おれも、双葉としてはかわいくありたいと思っている。夫と話していると、ときどき、今の喋り方、かわいかったかな、と気にしているおれがいることにふと気付く。おれ的には、それはどうなのかと悩んでしまうこともあるのだが、双葉としてのおれは、紛れもなく若い女性なのだから、かわいくありたい、と思うことは、ある意味自然なことなのだろうと、自分を納得させるのであった。

 そんなわけで、双葉の口調と発する言葉は、若くてかわいい女性のみ使用が許されるような「喋り」なのだ。最近では、おれは、「ダーリン、愛してる」なんて上目遣いに言ったりすることもあるのだ。双葉の口から発するつもりの言葉を、まかり間違って、おれの口から発てしまい、それを看護師に聞かれでもしたら、正直、おれはもうこの病院にはいられない。それどころか、この世から消えてしまたいと思うだろう。
 そんなわけで、「喋る」というトレーニングは、周囲の状況を見計らった上で、慎重に進めている。なるべく、特におれの元々の体の回りに人がいないことを見極めて。万一のことを考えて、なるべく小声で。

 おれは、2つの体がつながっているときは、機会があるたびに散歩に出ることにした。これはかなり大きな一歩だ。散歩をするには、その旨を看護師に話しかけないといけないから、これは自動的に「喋り」のトレーニングにもなっている。
 当然のことだが、散歩と言っても、1人でふらふら出してはもらえない。万一倒れても、すぐに抱きかかえられるように誰かがついていかなければならない。必然的に、散歩に出るのは双葉の体の方が多くなる。特別病室の住人である双葉には、常に看護師が付添い人としてついているが、一般病室のおれは、看護師の手の空いたときでないと散歩に出してもらえないのだ。
 おれは、双葉として病院の廊下を散歩することが多くなった。

 双葉の散歩は、おれの場合と違って、いろいろと面倒だ。おれの場合は、病院の寝巻きの上にガウンを羽織り、スリッパを履いて出かけるだけだが、女性である双葉の場合はそうはいかない。
 看護師がまずブラジャーをつけてくれる。寝巻きやガウンだけでは何かの拍子に前がはだけたときに、おれの巨乳がポロリ、なんてことになりかねないので、一応つけておくのだ。ほぼ寝たきりの生活だったおれは、ずっとノーブラだったので、このときまで、ブラジャーというものをしたことがなかった。女になって、3ヶ月経っての初ブラジャーだった。生まれて初めてつけるブラジャーがGカップという女は、珍しいだろうと思う。
 ちなみに、おれは、まだ自分でブラジャーをつけたことがない。いつも、担当の看護師につけてもらうのだが、担当はその時々によって替わる。いろんな看護師につけてもらったが、みんな、微妙に反応が違う。ベッドの上に座って、寝巻きをはだけて上半身裸にしたところで、必ず何らかの間があるのだ。一番年嵩のベテラン看護師は、毎回「はーっ」と感嘆のため息をついて、おれの張りのある乳房をぱんぱんと軽くたたいてから、装着作業にとりかかる。30代半ばでおれの夫と同年代の女は、「やっぱり、若いっていいわぁ」とおれの胸に羨望のまなざしを向ける。これが、20代、おれと同世代(もちろん、双葉の体と同世代、という意味だが)ぐらいの女になると、基本的には何もリアクションがない。てきぱきと作業に余念がないのだが、たまに視線があったりすると、明らかにその目は敵意に燃えているのだ。「何よ、この女、ちょっと胸がでかいからっていい気になって」という思いが視線と共におれの滑らかな肌に突き刺さってくるのだ。おれとしては、若くて結構美人な彼女のことを気に入っているのだが、女としての敵愾心を燃やされるというのも複雑な思いがする。まあ、若くて美人の女だからこそ、同じように若くて美人のおれに敵愾心を燃やすのだろうが。
 中に1人、30歳ぐらいの看護師で、レズっ気があるんじゃないかという女もいた。毎回、上半身裸にした後、なかなかブラジャーを手にしないのだ。おれの前に回って、その芸術的なふくらみを鑑賞し、その後、背中に回って、後ろから胸の周りを撫でて、「痛いところはないですか?」などと訊くのだ。アクシデントを装って、乳首を触られたこともあった。不意を突かれたおれは、危うく声を出すところだったが、何とか耐えた。もっとも、表情まではごまかしきれていないような気がするが。
 そんなこんなで、ブラジャーを装着されたおれは、かなり大きめのTシャツを着せられ、胸のふくらみをわかりにくくしておいてから、寝巻きとガウンを羽織る。一度、間違って小さめのTシャツを着せられたことがあったが、あのときは、おれの胸がぼいーんとふくらんでいるのがTシャツの上から見て取れて、恥ずかしかった。そう言えば、あのとき、Tシャツを間違えて持ってきたのは、あのレズっ気看護師だったから、あれは彼女の計画的犯行だったのかも知れない。

 おれは、散歩のときはゆっくり歩く。動かす体を間違えないように。そうやって慎重にしていても、ときどき間違える。
 片方の体を動かさないようにして、もう一方の体を動かすことにも、次第に慣れてきた。次は、いよいよ、同時に2つの体を動かす段階に入るのだが、ときどき間違えて体を動かしてしまうということがネックになってきた。ミスを減らそうとがんばってはいるのだが、間違いはなくならない。緊張からか、却ってミスが多くなることもある。
 ここが勝負どころだとおれは感じていた。このところ、おれはどちらの体でも意識を失ったりはしていない。ただ、どちらかの体が動いているときは、もう一方の体はなるべく動かさないようにしていたため、ベッドから起き上がれないような時間も長かった。この状態だと、なかなか退院という話にはなってこない。
 だが、同時に2つの体を動かすとなれば、見た目にも回復したように見える。今まで、はるかかなたに霞んでいた退院の2文字が、おぼろげながら見えはじめるだろう。だからここは何としても、うまくやる必要がある。間違って、怪しまれるような行動を取るわけにはいかない。以前のように意識を失うなんてもっての他だ。
 おれは、順調にトレーニングをこなしていった。今度は以前と違って、2つの体を同時にトレーニングできるので、効率もいい。
 そんなある日、おれがおれの体で散歩に出ているとき、例のレズっ気看護師が双葉の病室にやってきた。体温や血圧を測ると言いながら、必要以上におれの体に密着してくる。何も言わないでいたら、彼女はおれの寝巻きの胸元から手を入れてきた。乳房を触れられ、思わずおれは叫んだ。
「きゃっ、やめて!」
 結構大きな声で叫んだ筈だった。ところが、レズっ気看護師は、そんな叫び声など聞こえなかったかのように、おれの乳房への愛撫を続けている。
 一方、病棟内を散歩中だったおれは、ちょうど売店の前に差し掛かったところだった。このあたりは、入院患者や見舞い客が多い場所だ。おれの周りにも何人かの男女が立っているが、みんな、おれの方を見ていることに気付いた。全員が全員、変なものを見るような目で、おれを見ていた。
(間違えた!)
 双葉の咄嗟の叫び声は、間違って、おれの口から出てしまったのだ。
 おれは、この大勢の人の中で、「きゃっ、やめて!」などという女の子のような悲鳴を挙げてしまった。おれの顔から血の気が引くのがわかった。おれは、「覚醒」後、はじめて2つの体の動かし方がわからなくなった。フリーズしたおれは、その場で意識を失い、倒れ込んだ。

 先に意識を取り戻したのは、双葉の方だった。あれから何時間も経過していたが、おれの元々の体は意識を失ったままだった。
 おれはショックを受けていた。双葉としてのおれはかわいくありたいと思っているが、それは、元々のおれとは正反対の姿だ。双葉の姿ならかわいいと思われても、おれがやったら気持ち悪いだけだ。変質者と思われたかもしれない。一部始終を目撃した付き添いの看護師から、病院中におれの異常な行動が広まっているのではないかと、気が気ではなかった。次におれの体が目覚めたとき、おれは、看護師たちに向かって、どんな顔をすればよいのだろう?
 いやだ。こんな記憶は封印してしまいたい。
 しかし、双葉の覚醒した脳は、おれの体とつながっているときであれば、おれの見聞きしたこと、感じたことをすべて記憶に刻み付けてしまう。封印してしまいたいと思っても、そのことによって、却って記憶が甦ってくるのだ。
 元はといえば、あのレズっ気看護師のせいだ。彼女がおれに迫ってこなければ、動かす体を間違ったりしなかったし、そこさえ間違えなければ、あんな屈辱的なことにもならなかった筈だ。
 おれの、双葉の脳の中で、そのときの記憶が超高速で再生される。
 散歩するおれ。乳房を触られるおれ。
 その後は、もう二度と思い返したくないシーン。
 女の子のように叫んでしまう元の体のおれ。

 ……。

 あれ?
 どういうこと?
 双葉の記憶には、女の子のように叫んでしまう元の体のおれ、というシーンはなかった。売店の前でしばらく立ち尽くしたおれの意識が途絶える。そこで終わり。
 もう一度思い返してみる。あのとき、おれの体と双葉の体が何をしていて、おれが何を考えていたのかを。
 うーん。なんだろう、この感じ。
 おれは、意識不明中のおれの体に呼びかけて、起こしてみることにした。双葉の脳は、記憶力や計算能力は超人的なのだが、思考力は今ひとつなのだ。これまでの人生で、論理的に考えるということをしてこなかったのだろう。これまで、ああでもないこうでもないといろいろ考えていたのは、ほとんどがおれの元々の(覚醒していない)脳での思考なのだった。
 意識不明だったおれの体は、双葉の脳に起こされた。
 おれは、元々のおれの脳で、何が起きたかを考える。双葉の脳と違って、処理速度は並だが、論理的な思考ができる。
 わかった。
 結果だけいえば、おれは、おれの元々の体は、叫んだりしなかった。
 おれは、2つの体を同時に動かすとき、双葉の脳を使ってそれを制御しているが、双葉の脳はすべてを掌っているわけではない。基本的には、個々の体を動かす指令は、それぞれの脳が行なっている。覚醒した双葉の脳は、歩いたり喋ったりという動作をどちらの体で行なうべきかという振り分けをしているに過ぎない。
 今回の場合、レズっ気看護師に胸を触られて動転した双葉が、叫ぶという動作の振り分け先を間違えたのだ。双葉から「叫べ」という指令を受けたおれの脳は、肺やら声帯やら体の各所に命令を発して、双葉からの指令を完遂しようとする。
 ところが、この時点で双葉の脳は自分の出した指令の間違いに気付く。いつもなら、たとえば、まぶたの開閉といったどうでもいいことだったら、間違った指令をそのままにしておくところだが、双葉の脳は今回のミスを重大なミスと判断した。おれの元々の脳の動きは、双葉に比べると、止まっているかのように遅い。そこで双葉は、おれの脳を飛び越えて、おれの体の各所に直接働きかけて、「叫べ」という指令をキャンセルしてしまったのだ。まるで、課長経由で部下に振込みの命令を出した部長が、間違いに気付いて直接部下を追いかけて、振込み用紙をひったくったようなものだ。中間管理職に過ぎないおれの脳の方は、指令を出し終えているので、おれが指令通りに叫んでしまったと思い込んだらしい。
 実際には、おれは、一瞬顔を引きつらせ、「い」とか「き」とか、言葉にならない声を上げただけで済んだようだ。周囲の人たちも、奇声を上げたおれを奇異な目で見ていただけだったらしい。

 このことは、おれにひとつの発想の転換をもたらした。
 これまで、おれはとにかく動かすべき体を間違えないようにと、そればかりを考えていた。ところが、今回のように、重大なミスに対しては、双葉の脳が物凄いスピードで本来の命令を追い越して、キャンセルできることがわかったのだ。
 これまでのおれは、ミスに怯えるあまり、自分の2つの体を動かすことに対して、必要以上のプレッシャーを感じていた。それが、なかなか2つの体をうまく動かせなかった原因だったとも言える。だが、ミスをしても取り返す方法があるのだとしたら、これからおれは、ミスに怯えなくて済み、結果的に、今以上に2つの体をうまく動かせるようになると思う。
 おれは、ひとつの光明を見出した気持ちがした。

 そもそも、おれは、双葉の体が欲しくて手に入れたわけじゃない。おれは確かに冴えない中年サラリーマンだが、おれであることに特別大きな不満も抱いていなかった。それがどういうわけだか、双葉の体をうっかり拾ってしまい、こんなことになったのだ。
 そう。「うっかり拾った」という表現がぴったりだ。
 おれは、双葉の体を「うっかり拾った」ばっかりに、たかが盲腸ぐらいで何ヶ月もの入院生活を強いられているのである。当然、溜まっていた有給は既に使い果たし、来年には勤続20年で貰える筈だった長期休暇も前借して使ってしまった。来年の有給も前借して、それでも足りなくなったので、今は欠勤扱い。収入がなく、貯金を切り崩して入院費を払うという状態になっている。
 実を言うと、おれは、自殺を考えたこともある。自殺と言っても、殺すのは双葉の体の方だが。
 双葉の体は、明らかにおれの足枷になっていた。だから、双葉の体を殺してしまえば、元の身軽なおれだけの体に戻ることができるのではないか? そう考えたのだ。
 だが、実際にはなかなか思い切れるものではない。何しろ、双葉の体とおれの体はつながってしまったのだ。この状態で、どちらか片方の体が死んでしまったらどうなるか? それは誰にもわからない。
 どちらか片方が寝ているときは、残りの体だけで活動できているのだから、大丈夫のような気がする。しかし、「気がする」というだけでそれに挑むにはリスクが大きすぎた。
 それに、死ぬとなれば相当なダメージを体に与える必要がある。患者に対する監視の目の行き届いたこの病院で、自殺することは難しいだろう。万一、死に切れずに後遺症が残るような状態になってしまったら、目も当てられない。それに、そもそも、おれの経験から言っても、「死ぬ」というのはあまり気分のいいものではない。双葉の体は、文字通り、「死ぬ思いをして」手に入れたものなのだ。うまく動かないからといって、簡単に捨ててしまうのは惜しい。
 そもそも、双葉の体は、「うまく動かせない」ということだけが問題なのであって、そこさえクリアできれば、何の問題もないどころか、これ以上ないというような理想的な体なのだ。
 双葉の記憶によると、夫の家は、東京湾が一望できる高層マンションらしい。夜景も素晴らしい高級マンションでのセレブ妻の生活に興味がないと言ったら、嘘になる。
 大体、こんな極上の体がおれのものになったというのに、おれは、この体をまだ1人でまともに見たこともほとんどないのだ。1日の大半は寝て過ごし、起きている間も、ほとんど看護師に付き添われていては、おれに行動の自由なんてない。おれの男の本能は、このダイナマイトバディを大きな鏡に映して、体の隅々まで見たり触ったりしてみたいという欲情に駆られるのだが、入院中の身では、とても無理な話だった。
 とにかく、おれは、1日も早く2つの体を自由自在に動かせるようになって、この病院から退院したかったのだが、おれの感触ではまだまだそれは先の話になりそうだった。しかし、この事件によって、おれは2つの体を上手な動かし方のヒントを得た。これによっておれは退院までの時間を大幅に短縮できるという手応えを掴んだのだった。

 とは言え、現実的な問題として、おれが大きな痛手を被ったというのも事実だった。
 最近のおれ(元々のおれの体の方だ)は、かなり自由に院内を歩かせてもらっていて、退院間近とはいかないまでも、個室から相部屋に移れそうなところまでは漕ぎ着けていた。ところが、この事件によって、おれはまたベッドから出してもらえなくなった。これでおれの退院は当分なくなった。
 散歩中のおれが意識を失うと同時に、ベッドにいた双葉の体も意識を失ったのだが、双葉の方の生活に変化はなかった。おそらく、レズっ気看護師が双葉が意識を失ったことを報告しなかったのだろうと思う。そりゃそうだろう。患者の胸を触っていたら、失神しましたなんてことを言えるわけもない。おかげで双葉の方は相変わらず散歩にも出してもらえている。レズっ気看護師も、この一件以来、おれに迫ってきたりはしなくなった。

 おれは、戦略を切り替えることにした。
 それまで、おれの体と双葉の体。先に退院するのは、間違いなくおれの体だと思っていた。一見、特に問題はなさそうなおれの体に比べて、双葉の体は、やたらと睡眠を欲するという問題点があったからだ。おそらく、覚醒した双葉の脳は、常人の何倍もの活動をしているため疲労の度合いが大きく、より多くの睡眠時間が必要になるのだろう。双葉の睡眠時間は、1日のうち16時間以上。1/3も起きていられないということになる。明らかに異常な数値だ。この状態では、なかなか退院の許可は下りないとおれは思っていた。
 しかし、おれの元々の体が当面退院できそうになくなると、おれは、そうも言っていられなくなった。少しでも見込みのある双葉の体が退院できないか考えるようになった。
「ねぇ、ダーリン」おれは、甘えた声で夫に話しかけた。「双葉、もうすっかり元気なんだよ。早くおうちに帰りたいよ」
 おれは、ベッドの上で体を起こして、体の前で「おねがい」とばかりに手を組んでみた。双葉の記憶にあるテクニックを使って、両腕でGカップのバストを寄せてみる。寝巻きの間から、ちゃんと谷間が見えているだろうか? 元々にやけ気味だった夫の顔が更に緩んだ。
「だって、双葉は起きていられないだろう」
 夫の台詞から察するに、やはり、医者が一番問題視しているのはそのあたりのようだ。
「だって、病院って退屈なんだもん。こんなとこいたら、誰だって眠くなっちゃうよ」
 おれは、いやいや、とばかりに体を揺すってみた。おれの胸がぶるんと揺れると、夫は恥ずかしそうに視線をそらす。この男、意外と純情なところがあって、妻相手でも時折こんな反応をするのが面白いのだが、このときは、そんな余裕はない。色仕掛けでも何でもいいから、まずは夫をこちら側に引き込んで、病院側と退院交渉をしてもらうように仕向けないことには、始まらないのだ。
 おれの勘では、夫は早くおれを抱きたくて仕方がないのだ。だって、こんな美人でナイスバディの若妻だ。病院のベッドに寝かせておくには、あまりに惜しいだろう。ということは、当然、おれが退院すれば、夫に抱かれるということになるのだろうが、この際、おれにそんなことができるのかどうかなどということは、考えないことにした。まずは、この病院から出ることが先決だ。
「大丈夫だって。双葉、ちょっと眠たいだけで、どこも悪くないんだから。どうせ入院してたって、先生に診てもらうのは、1日に1回だけなんだから、それだったら、おうちから通ったって一緒だよ」
 そう言って、今度はちょっと拗ねて見せた。多分、かわいい表情ができたはずだ。
 おれとしてはありったけの、そして、後で思い返してみると、死ぬほど恥ずかしい色仕掛けを試みてみたのだが、夫はなかなかうんとは言わず、結局、その日は仕事があるとか言って帰ってしまった。
 それから1週間、おれは、看護師の目を盗んでは、鏡の前で必殺技の猛特訓をした。もちろん、必殺技というのは、夫を篭絡する表情のことだ。おれは、双葉の怒った顔が意外とかわいいのを発見し、この技の完成を急いだ。基本的には、ほっぺたをふくらませる技なのだが、その加減が難しい。ふくらまし方が足りないと、本当に怒っているように見えるし、ふくらましすぎると、滑稽なだけだ。おれは、鏡の前で絶妙のほっぺたのふくらまし加減を研究した。更に、双葉が元々持っていた無邪気な笑顔にも磨きをかける。これは、双葉が結婚する前から夫に対して使っていた伝統的な必殺技だった。この2つの必殺技のコンビネーションで攻めれば、どんな男もおれの「おねがい」を無碍には断れないだろう。
 1週間後、必殺技を完成させたおれは、夫が来るのを待った。
 夫は、基本的には出張などがない限り、毎日見舞いに来る。元々自宅近くで倒れた双葉が運び込まれたこの病院は、夫の自宅に近いし、夫は会社に近いところにマンションを買ったので、会社にも近い。仕事で毎晩遅い夫は、会社帰りではなく、昼休みかそれに近い時間に見舞いに来ることが多かった。
 その日、おれは午前中から夫を篭絡するための作戦を練っていたが、午後になっても、一向に夫は現れなかった。2時を過ぎて、眠気に耐え切れなくなって、寝てしまった。起きたら夕方で、目の前に夫の顔があった。どうやら、おれの寝顔を覗き込んでいたところみたいだ。
「ああ、ちょうどよかった。今起こそうと思っていたところなんだ」
 夫は、にこにこしながらそう言った。両手を背中の後ろに回している。何か隠しているみたいだ。
 おれは、「夫篭絡作戦」の手筈を思い出してみる。何でもいいから、とにかく双葉が気分を害したように見せて、まず必殺技A(意外とかわいい怒り顔)を見舞ってやりたいところだが、こんな満面の笑みでは、怒れない。
「はい、これ」
 夫は、背中に隠していたものをおれの前に見せた。
 赤いリボンをつけた白い封筒。そこには、「御招待状」の文字。
「?」
 おれは、わけがわからず、取りあえずそれを受け取った。
「あけていいの?」
 夫がうなずく。リボンをほどいて、開封した。パーティーの招待状だった。場所は夫のマンション。日付は2週間後。その日付には慣れ親しんだものを感じる。
「何のパーティー?」
「決まってるだろ、双葉の退院祝いパーティーに。パーティーと言っても、出席者はぼくと双葉の2人きりだけど」
「えっ?」
 一瞬、何を言われているかわからなかった。
「先週、言ってたじゃないか。もう退院して、家に帰りたいって。あの後、先生とも相談したんだ。何とか退院させてもらえないかって。そしたら、まだ、全快というわけじゃないけど、自宅療養という形ならってことになったんだ。まあ、他にもいろいろ条件をつけられたけどね。毎日通院するとか、看護師の資格を持った人に常に一緒にいてもらって、万一のときに備えるとか。もちろん、そのときまでに今までみたいに意識を失ったりしないというのは、絶対条件だけどね」
 何を言っていいかわからなかった。まさか、夫がおれのためにそんな動きをしていてくれたなんて思ってもみなかった。
「それに、ほら。ちょうど、この日は……」
「あっ!」
 招待状にあった見覚えのある日付。それは、双葉の24回目の誕生日だった。
 夫は、ちょっと照れたように頭をかきながらこう言った。
「退院祝いのついでみたいになっちゃって悪いんだけど、その日は双葉の誕生パーティーも一緒にやろう」
「ダーリン、ありがとう!」
 おれは、思わず夫に抱きついていた。演技とか計算とか全く抜きにして。
「双葉……」
 ダーリンがおれを抱きしめてくれた。おれは、必殺技のことなんてすっかり忘れていた。

 翌日から、双葉は退院に向かって動き出した。ちなみに、おれの体の方は、上半身を起こすのがやっとで、まだ散歩には出してもらえない。
 まず、夫は、忙しい仕事の合間を縫って、おれにつける看護師の手配に奔走していた。24時間誰かが付き添うということなので、普通に考えれば、最低3交替。休日も考えると4、5人でシフトを組む必要があるのだが、人が入れ替わり立ち替わりやってくることによるおれのストレスを考慮して、おれたち夫婦と一緒に住んでくれる看護師の人を探すということになったようだ。そうなると、24時間休日なしの勤務ということになるのだが、労働基準法とか大丈夫だろうか? そのあたりが後で問題になって、夫が苦境に立たされないか心配したが、双葉の口から労働基準法なんて単語が出てくるのもおかしいので、言わずにおいた。会社の経営に携わっている夫のことだ。そのあたりはうまくやるだろう。
 退院の話が決まってから、2日後、双葉の病室に、銀座の有名デパートの名刺を持った中年の女がやってきた。退院のときの服だの靴だの帽子だのを揃えるのだそうだ。別に旅行に出かけるのでもないし、自宅まで車でほんの15分の外出に過ぎないのにそんな大げさな、と断ろうかともたが、おれ個人としては、双葉として初めての「帰宅」なのだから、夫の好意に甘えてみることにした。デパートの女(肩書きは課長となっていた)は、まず全体のコンセプトを決めると、次々に人を呼んでカタログを見せた。服とか靴とか帽子とか、それぞれに担当者が違うらしい。ただ、全体を取り仕切るのは女課長のようで、「奥様、こちらのお召し物などはいかがでございますか?」とか言われて、試着用に持参した服に袖を通してみる。さすがに、双葉は何を着ても似合うのだが、どれがいいかと訊かれても、おれのファッションセンスではとても判断できないので、全部女課長にお任せということになってしまった。
 担当者がおれの体を隅から隅まで採寸した。退院の数日前に一度完成したものを持って来るらしく、そのときにアクセサリーを選んでくれと言われたが、多分これも女課長の言いなりになるのだろう。退院当日には、おれのために美容師やメイクアップアーティストがやってくるらしい。化粧までしてくれるのは、おれとしては、ありがたい。元々、双葉も洋服のコーディネートや化粧は苦手だったらしく、芸能活動をしていた頃は、ほとんどがスタッフ任せだったようだ。おれは、退院したら、洋服のセンスを磨いて、コーディネートの腕を上げようと秘かに決意した。折角こんな美人でスタイルのいい女になったのだから、どうせなら、最高に着飾った双葉を自分で見てみたいと思ったのだ。
 退院までの2週間、おれは、そのための第1歩のつもりで、暇があると病院の売店で買い集めてきたファッション雑誌を眺めて過ごした。

 いよいよ、その日が来た。
 おれは、前の日から遠足を翌日に控えた小学生みたいに、気持ちが昂ぶって眠れなかった。もっとも、眠れなかったのはおれの元々の体の方で、双葉の体は相変わらず大量の睡眠を貪っていたのだが。
 双葉の体は、朝食の寸前まで寝ていて、看護師に起こされた。あのレズっ気看護師だった。おれが目を開けたとき、彼女の手がおれの左胸を掴んでいた。しばらくこんなことをしてこなかったが、今日を限りに退院ということで、「最後のひと揉み」のつもりだったのだろうか。
 午前中に最後の診察を受け、異常なしということで、最終的に退院の許可が出た。「もういつ出て行っても構いませんよ」という医師の声を聞いたときには、さすがにほっとした。と言っても、デパートの着せ替え部隊がやってくるのは午後なので、それまでは出て行くことはできない。空いた時間でおれは一眠りした。
 昼食のために起こされ(今度はレズっ気看護師ではなかった)、この病院で最後の食事を取った。特別病室とはいえ、病院の食事なのだから薄味で、正直、そんなにうまいものではなかったが、鏡で見る双葉の衰えぬ美貌を見る限り、双葉の健康と美容には貢献してくれたのだろう。食べ終えたときには感謝を込めて、手を合わせて「ごちそうさまでした」と言った。
 食後にうとうとしていたら、ついにデパートの女課長が見慣れた顔と見慣れない顔を引き連れてやってきた。見慣れた顔は、洋服や靴の担当者。見慣れない方は、美容師やメイクアップアーティストだろう。
 まず、病院の寝巻きから一旦動きやすい普段着に着替えて、美容師に別室でヘアメイクをしてもらった。長く伸びた髪を適度に切り揃え、丁寧にブラッシングして、軽くウェーブをかけてもらった。それだけで、おれの美貌が5割増しになった。魔法みたいだ。
 次に、メイクアップアーティストの手に渡され、入念にメイクを施される。ファンデーションから始まって、何種類もの化粧品がおれの顔に塗られていく。塗る、というよりも、やさしく染み込ませるという感じで、意外と気持ちがよかった。化粧に関しては、おれは肌はきれいだし、スッピンでも十分美人なので、多少のメイクぐらいではそんなに変わらないと思っていたが、鏡を見てびっくりした。
「きれい」
 思わず呟いてしまった。基本的にはいつも鏡で見ている双葉の顔と変わらないが、目元や口元にほんのちょっとアクセントを加えただけで、見違えるように美しくなった。
 おれは、これまで、双葉は美人と言っても、かわいいに近い美人だと思っていたし、夫に対しても、かわいく見せるのが効果的だと思っていた(それは、半分夫の好みの問題もあるのだが)。だが、今おれの目の前の鏡には、モデルのような美貌を持った女が映っている。
 おれが、呆けたように鏡を見ていると、メイクを終えたアーティストが、優しくこう言った。
「奥様、そこで口元をきりっと引き締められますと、美しさがより一層引き立ちますよ」
 そう言われて、おれは半開きだった口元を閉じた。それだけで、きりっとした隙のない美女という印象になる。
「そうです。もう少し口を強めに閉じる感じで。ええ。そんな感じです。それでは、そこで少し笑っていただけますか? いえ、口をあけてはいけません。目と口元だけで、ほんの少しだけ笑って……」
 鏡の中の女は、今度は小悪魔的な表情でこちらを見ていた。鏡の中のおれは、美貌の中にどこかしらかわいらしさ、愛らしさを備えていた。おれは、ちょっとしたメイクによるおれの変身振りにも、僅かな表情の変化による印象の変わり具合にも驚くばかりだった。
「いかがです?」
 おれは、言葉もなかった。
「奥様は元がおきれいでらっしゃいますし、表情が豊かといいますか、見栄えのする表情をたくさんお持ちなのです。お化粧の仕方と表情の組み合わせで、それこそ、無数の魅力的な奥様を表現できるようになると思いますよ」
「でも、あたし、お化粧あんまり得意じゃないし……」
「誰でも最初はそうなんですよ。どうしたら自分かきれいになれるかをいつも考えてお化粧していれば、自然に上手になりますよ」
 おれは、思い切って、メイクアップアーティストに化粧の仕方について、細々と質問してみた。取りあえず、今やってもらった手順で化粧をすれば、また今みたいにとびきりきれいなおれになれるのだろうか? 化粧の手順については、もちろんおれは完璧に憶えている。化粧品も同じものを手に入れればいい。あとは、化粧をするに当たって、必要な注意事項をひととおり聞いておきたかった。
 先日、ファッションセンスを身につけるという目標を立てたばかりだったが、もうひとつ、化粧を上達するという目標も加えることにした。

 メイクを終え、マニキュアを塗ってもらうと、いよいよ外出着に着替えることになった。ストッキングとスカートというこれまでの人生で無縁だったものを2つもはかされた。
 幸い、というか、初めてのスカートは足首近くまである丈の長いもので、ちょっと頼りない浴衣ぐらいの感じだった。できれば、スカートではなくパンツ類にしたかったのだが、嬉々としてスカートを勧めてくるデパートの女課長に対して、「スカートは嫌です」とはどうしても言えなかった。本当は、もうちょっと丈の短いスカートを勧められていたのだが、それは必死の思いで断って、これで許してもらったのだった。
 服や靴に関しては、2日前に出来上がったものを1度試着しているので、鏡に映して見るのは、初めてではない。でも、この日の鏡に映るおれは、2日前とは全然違って見えた。髪形も、メイクも、それだけで本当に素晴らしかったのだが、どちらも、この服を着るときのためのものだったということにようやく気付かされた。もちろん、靴も、帽子も、アクセサリーも。これがトータルコーディネートという奴なのか。洋服を着て、これで完璧と思っていたら、最後の最後にクリスタルのイヤリングをつけられた。もちろん、そんなものを耳につけるのは初めての経験だ。2日前に試着してみたときは、違和感があったので一旦は断ったのだが、女課長は、これだけは譲れないらしく、当日つけてみて気に入らなければ代金はいらないとまで言ってきた。
 実際、完璧にコーディネートされた後にイヤリングをつけると、おれの印象ががらっと変わった。頭を少し動かすたびに、小さなクリスタルがかすかに揺れてきらきらと光るのだ。さっきまでは、一枚の絵のようだったおれの姿は、この小さな耳飾り2つで生き生きとした色鮮やかな動画に変わった。ポーズを取って記念写真を撮るだけだったらイヤリングなんてなくてもいいが、少しでも動くのであれば、これがあった方が絶対いい。女課長が譲らない筈だ。おれは、女課長の深慮遠謀に舌を巻かざるを得なかった。
 女にとってファッションというのは、きっと一生を賭けた大事業なのに違いない。おれは、これから一生を賭けた大事業に女として踏み出していかなければならないのだ。おれは、女のおしゃれの奥深さに眩暈がしそうになった。

 一通りの準備が終わった。おれが鏡の前でポーズを取ったり、様々な表情を作ったりしていると、夫が花束を抱えて病室に入ってきた。
 夫はおれを見るなり、一瞬動きが止まった。危うく、持ってきた花束を落としそうになった。おれのあまりの美しさに息を飲むのがわかった。
「ああ、双葉。やっぱり、君は凄いよ」
 そう言って、おれに花束を差し出す。
「はい、退院祝いと誕生日祝い」
 よく見ると、花束は2つあって、1つは真っ赤な薔薇の花束。もうひとつは、白やピンクといった淡色系の花の詰め合わせ。どちらがどちらなのかは、おれにはわからない。
 おれは、花束を貰って喜ぶような男ではなかったはずだが、双葉の体で貰うと、何か嬉しかった。
「ありがとう、ダーリン」
 おれは、さっき鏡の前で研究したさまざまな表情の中から、一番基本的な表情、にっこりと夫に向かって微笑みかけた。

 夫が退院の最終的な手続きを済ませ、医師や看護師に挨拶を済ませ、いよいよ、病室を後にすることになった。
 何ヶ月も過ごした病室。あまりいい思い出のなかった部屋だが、おれのもうひとつの人生が始まった場所だ。ここを去るとなると、自然と、感傷的な気分になる。
「さあ、双葉、行こうか」
 夫に促されて、おれはさっき貰った花束のうち、淡色系の方だけを持って鏡の前に立ち、最終チェック。言われたとおり、ほんの少し口元を引き締めて、きりりとした美貌が作れているのを確認した。
「やっぱり、きれいだ」
 おれは、一般病室のベッドで寝転がっていた元々のおれの体は、思わずそう呟いていた。
「えっ、何か言いました?」
 ちょうど午後の体温・血圧を測りに来ていた若い看護師がおれのひとりごとに反応した。この娘も、おれの病室にやってくる看護師の中ではかわいい方なのだが、それでも、双葉と比べたら、月とスッポンだ。
(会いたい)
 突然、そう思った。
(おれを、双葉をこの目で見たい!)
 そう思うと、いてもたってもいられなくなった。上半身をがばっと起こす。
「どうかしました?」
 心配そうに看護師がおれの顔を覗き込む。
「出かけてくる」
 おれは、布団を跳ね上げてベッドから降りた。
「あ、ちょっと」
 おれを捕まえようとする看護師の脇をすり抜けて、おれは病室を出る。ガウンもなければ、スリッパもない。寝巻き1つの姿で、おれは、駆け出した。

 その頃、双葉の方のおれは、夫と共にエレベーターに乗り込むところだった。荷物は花束がひとつだけ。服やら小物やら、細々としたものが山程あったが、あとで夫の会社の人が家まで運んでくれるらしい。
 双葉のいる特別病室のあるJ病棟とおれが今走っている一般病室のあるB病棟では、建物からして違う。ここは、いくつもの病棟を複雑に建て増して大きくなった大病院だ。どこでどうつながっているのかわからない。
 双葉を先にエレベーターに乗せて、夫が1階のボタンを押した。それを見て、走っていたおれは、階段を見つけて、そこを下った。おれが入院しているのは3階だから、2フロア下に行けば、取りあえず1階には着く。たった2フロア降りるだけだったが、ほとんど寝たきりだったおれには、死ぬほどの苦行だった。
 エレベーターはすぐに1階に着いてしまった。おれは、ようやく2階までたどり着いたところ、脚がふらついてきた。
 エレベーターを降りたおれは、双葉の目であたりを見回した。B病棟という看板を探したが、双葉の0.6という視力では、細かい表示はまるで見えない。
「行こう、すぐそこに車を置いてあるから」
 夫の視線の先は玄関だった。
「あ、あの、ダーリン、ちょっと待って」
「何?」
「えっと、その、忘れ物。そう、忘れ物したから取ってくる」
「何忘れたの? いいよ。後で会社の者が荷物を運んでくれることになってるから。そのとき一緒に持ってきてもらおう」
 そう言って、夫は携帯を取り出そうとする。
「え、あぁ、そうだったね。いや、そうじゃなくて……」
「うん?」
「……トイレ」
 おれは、小さな声で言った。双葉の口から夫の前でトイレと言うのは、なぜだか恥ずかしかった。
「ごめん、ダーリン。すぐ戻ってくるから、ちょっとここで待ってて」
 おれは、呆気に取られている夫に持っていた花束を押し付けて、駆け出した。夫の「トイレならそこに……」という声には、聞こえない振りをした。取りあえず、奥行きがあって、他の病棟とつながっている可能性が高そうな方角へと走り出す。靴は、ハイヒールというわけではなかったが、男の常識からしたらやたらと踵が高くてバランスを取るのが難しい。その上、大きな胸が揺れて走りづらいことこの上なかった。
 一方、階段を降りていたおれは、ようやく1階までたどりついた。へたり込みたいほど疲れていたが、そんな不審な動きをしたら、手近なところにいる看護師に捕まって連れ戻されてしまう。おれは必死に平静を装いながら階段の手すりに掴まって立ち、周囲を見回す。今、おれも双葉も同じフロアにいるのだ。2対の目が、何か同じものを見つけることができれば、それを頼りに邂逅を果たすことができる。おれは、ありったけの視覚情報を双葉の脳に送り込んだ。
 双葉の方は、見るからに高級な造りのJ病棟から、比較的に庶民的な造りのH病棟へと移動していた。単純にアルファベットの順番で言えば、B病棟に近づいているはずだ。
 B病棟の階段のところで息を整えていたおれは、通りかかった看護師を捕まえて訊いてみることにした。
「すいません、H病棟って、どう行けばいいんですか?」
 振り向いた看護師がおれの姿を見ると、たちまち不審そうな顔になる。
「H病棟にどんな御用ですか?」
「どんなって、あの……」
 そのとき、H病棟を通過中のおれは、周囲を見回していた。どうも、さっきからおなかの大きな女性をよく見かける。産婦人科。受付のところには、はっきりとそう書かれていた。
 なるほど。見舞い客ならともかく、男の入院患者が産婦人科の病棟はどこだと聞くのは明らかに不審だろう。しかも、寝巻き1枚という姿で、スリッパもしていないのでは、まともだと思う方がどうかしている。
「あれ、外科はH病棟じゃなかったっけ?」
 とぼけて、なんとか誤魔化そうとする。
「外科はC病棟。ほら、そこを曲がったところです」
 おれは、逃げ出すように看護師に教えられた方へと向かった。C病棟に入ると、確かに外科の外来受付があった。午後の診察の時間のようで、長椅子に人が溢れていた。診察を終えて帰る人、入れ替わりにこれから診察を受けに来る人と、人の出入りも慌しい。
 おれは、ふと思って、診察を終えて帰る風情の親子連れの後からついていった。しばらくすると、玄関に出る。そこにおれが求めていたもの、館内の案内図があった。
 やった。これでおれの位置関係がわかる。
 それによると、おれが入院しているB病棟は、敷地の一番端にある。双葉がいたJ病棟とは、正反対の位置だ。どうやら、建物は大きく2つに分かれていて、A病棟からE病棟までの比較的古い建物がひと固まり。F病棟からJ病棟までのいわゆる新館がもうひとつの固まりになっていた。2つの建物群を結ぶのは、D病棟とF病棟を結ぶ連絡通路だけ。ということは、おれがこのままD病棟へ行き、双葉の体もF病棟へ行けば、連絡通路で落ち合えることは間違いない。
 おれは、建物の平面図を双葉の脳に記憶させて、まずは、D病棟へと向かう。双葉の体も、H病棟を通り過ぎてG病棟をかすめ、F病棟へと入った。
 D病棟を早足で通り過ぎたおれは、ついに「新館方面」という案内板の出ている連絡通路までやってきた。全長30メートルほどのその通路は、両側に窓があり、普通の廊下とは違うことを物語っていた。双葉の方も、まもなくF病棟側の連絡通路に差し掛かる頃だ。
(やっと、会える)
 同じ病院に何ヶ月も入院していたのに、ただの一度もお互いの姿を見かけたことすらなかったのだ。それが、もう目と鼻の先まで近づいている。
 おれは、自然に早足になって、通路を渡り始めた。双葉も早足になる。
 おれは、連絡通路を半分過ぎた。双葉も通路に入ってきた。もう、相手の姿が見える筈だ。
(?)
 おれは、連絡通路を渡り終えてしまった。双葉はまだ通路を渡っているところ。
(どうして?)
 おれは、一斉に立ち止まって振り向いた。どちらの目からも振り向いてこちらを見ている相手が見えると思ったのだが、そんな人間の姿はどこにもなかった。
 おれは、F病棟の入り口で、呆然と立ち尽くした。双葉も通路の真ん中で周囲を見回している。おれのそばを時々医師や看護師が通り過ぎるが、2つの視覚に同じ人物は現れてはこない。道を間違えたのだろうか? おれは、双葉の脳に記憶された平面図を思い返してみるが、間違えたとは思えない。どちらも、正しく連絡通路を目指し、そこを通過したはずだ。あるいは、この平面図自体が間違っているのか……。
 おれは、F病棟の入り口からもう一度連絡通路を見た。向こうの方が明るいため、多少は見づらい感じもするが、だからと言って双葉のような美女を見逃すとは思えない。
(光?)
 おれはもう一度周囲を見回した。連絡通路のうち、F病棟に近い部分が多少暗くなっているのは、このあたりには窓がないからだ。だが、双葉が通った連絡通路は、通路の始まりから窓があった。
「そうか!」
 おれと双葉の2つの口から同じ言葉が発せられた。
 おれは、さっきの平面図を双葉の脳から引っ張り出した。どこかに必ずそれはあるはずだ。
 あった。
 おれの体の方が近い。F病棟の奥に10メートルほど入ったところにそれはあった。
 階段だ。
 そこには、おれの考えが正しかったことを示す表示があった。B1。
 おれも、双葉も1階を歩いていた。だから、1つしかない連絡通路の両側から入れば、必ず会えると思っていた。それが出会わずにすれちがってしまったということは、おれを導いた平面図が間違っているということになる。
 いや、平面図は間違っていなかった。正しく、この病院の構造を「平面で」表していた。おれは、実際の建物が立体であることをすっかり忘れていたのだ。
 恐らく、この病院の新館は、坂の上に建っているのに違いない。元々建っている地面に段差があるので、新館の1階が旧館でも1階ということにはならないのだ。新館の1階は旧館の2階に当たるのだろう。逆に、旧館の1階は新館の地下1階ということになる。D病棟とF病棟を結ぶ連絡通路も、実際は2階建ての建物なのだ。双葉は、F病棟の1階から連絡通路の2階部分を半分渡り終えたところ。おれの方は、D病棟の1階から、連絡通路の1階部分を通って、F病棟の地下1階に入ったところだ。いつの間にか地下部分に入ってしまったため窓がなくなってしまったのだ。
 おれは、F病棟の地下1階から、ワンフロア分必死に駆け上がる。双葉も半分渡り終えた連絡通路を引き返す。
 階段を半分上って、踊り場で折り返した。足はもうほとんど動かなくなっていたが、気合で動かした。
 F病棟の1階の廊下が見えてきた。そこをでっぷりと太った医師が通り過ぎたのが見えた。そのとき、双葉も、自分に向かって歩いてくる太った医師の姿を認めた。おれの目と双葉の目。2つの視線がはじめて同じ人物の姿を捉えた瞬間だった。
 ついに、おれは階段を上りきった。あと数歩で廊下に出る。そこで連絡通路の方を向けば、双葉の姿を見ることができるはずだ。
 おれが双葉の姿を見ようとしたとき、おれに取っては聞き慣れた、と同時に、はじめて聞く男の声がした。
「双葉!」
 思わず、おれは双葉の方ではなく、声のした方に顔を向けた。
 おれの目には、F病棟の奥から、早足でやってくる花束を持った夫の姿が見えた。同時に、双葉の目を通して、早足でやってくる花束を持った夫とそれを見ている病院の寝巻きを着たおれの後姿も見えている。
 おれは、意を決して、おれを見ている双葉の方に振り向いた。
 そこにおれがいた。
 まず、おれが思ったのは、寝巻き1枚、ガウンもスリッパもなく、裸足で立っているおれの姿の異様さだった。息を切らせながらここまで来たため、寝巻きも半分はだけてしまっている。これでよく途中で取り押さえられなかったものだ。おれは、今更ながら、はだけた寝巻きを整えた。
 そして、もうひとつ。
 目を引いたのは、双葉の姿をしたおれの美しさだった。美貌に目を奪われるという言葉は、比喩的表現だと思っていたのだが、このときのおれは、まさにその状態だった。双葉のこの姿をおれはさっき鏡で見ているが、今の方が数段素晴らしい。おれのパーツは、隙のない引き締まった顔も、すらりと長い手足も、ボリューム感たっぷりの胸も、どれをとっても一級品だが、全体像として立ち姿を見ると、各パーツのバランスが絶妙にマッチしていて、余計に美しく見えるのだ。
 おれは、さっき教わったとおり、口元をきゅっと引き締めてみた。どこにも隙のない完璧な美女がおれを見ている。おれは、おれが見た自分の表情に満足して、今度は目と口元だけで笑って見せた。この微笑みは何だ。天使なのか、悪魔なのか、どちらにしても、この世のものとは思えない美しさだ。おれがかすかに顔を動かすと、耳元でクリスタルのイヤリングが揺れる。耳飾は、揺れるたびにきらきらと輝いて、おれの美しさをますます際立たせていた。
 おれは、肉眼でおれの、双葉の姿を見ることができた感動で震えていた。「客観的に」見て、そこにいたのは、おれが今まで見てきたすべての女の中で、もっとも美しい女だった。そして、その美貌に満ちた女が誰あろう、このおれ自身なのだ。おれは、おれの美しさに陶酔しきっていた。

「双葉、どこ行ってたんだ。こんなとこまで」
 夫がやってきてしまった。本当は、このままおれ同士でずっと見つめあっていたかったのだが、その時間は終了となった。おれは、一般病棟の中年患者と、この夫を愛する若妻に戻らなくてはならない。おれは、おれが見た双葉の美しさを双葉の脳に焼き付けた。
「ダーリン、ごめん。今すぐ行くから」
 おれは、夫の方を向いて、手を振りながら言った。生まれてはじめて聴く双葉の声。自分の声が聞こえるという不思議。双葉の声は、自分で喋っていたときの印象よりも、意外と澄んだ声だった。もっと、甘ったれてべたべたした声だと思っていたので、予想外に美しく、聞き取りやすい声に驚いた。
「用はもう済んだ?」
 おれの脇を夫が通り過ぎた。夫の目にはおれのことなんて全く見えていないかのようだ。双葉としてのおれは、夫に、と同時に夫のうしろにいるおれに、笑顔で答えた。
「うん。もう大丈夫だから」
 夫が双葉の前までやってきて、「はい」と預かっていた花束を双葉に返した。おれは、花束を受け取ると、夫の腕を掴んだ。
「行こっ」
 おれは、夫と共に歩き出した。すぐに、廊下で立ち尽くしていたおれの脇を通る。
 今まで一度も会ったことがなかった者同士がすれ違う。
 おれとおれは、会話はもちろん、視線を交わすこともしなかった。

 こうして、ついにおれは(まだ双葉の方だけだけど)退院した。
 おれは、双葉の体でははじめて外の世界に出た。病棟の玄関を出たときに、風を感じた。これまでずっと感じられなかった感覚。風がスカートをたなびかせる。これも、はじめての体感だった。
「まぶしくない?」
 外の世界には太陽がある。光と影のコントラスト。ちょっとまぶしかったが、それも心地よかった。
 そして……。
「わあっ。きれい!」
 満開の桜。そう。外の世界は春なのだ。
 おれが倒れて入院したのは、秋のはじめ。まだ、残暑が厳しかった。それがいつの間にか冬を迎え、知らぬ間に年を越し、気付けば、春。半年以上振りの外の世界だった。
 おれは、満開の桜並木の下、新たな人生に向かって歩き出した。

テーマ : オリジナル小説 - ジャンル : 小説・文学

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02のあとがき

01が予想外に好意的に受け止めていただき、調子に乗って、1週間足らずでアップしたのがこれです。
基本的には、わたしは次の章ができてからアップするので、1週間足らずで書いたというわけではないのですが。

テキストファイルで69KBもあります。原稿用紙100枚ぐらい。
こんなに長いのに、エロシーンもありません。01を読んで、そういうのを期待して下さった方は、「騙された」という感じだったのでしょうね。実際、当時のコメントを見ても、特に最初の方の人は、微妙なコメントになっていますね。

正直、否定的なコメントを見ると落ち込むわけですが、その後の好意的なコメントを見て、勇気付けられました。
もちろん、今では、否定的なコメントも、ありがたいご意見だと思って、受け止めています。

本当は、どこかで2つに分けたかったのですが、分けるとすると、物凄く前の方になっちゃいますので、結局、分けられませんでした。
多分、今書くと、前半部分が倍ぐらいに膨らんじゃうんでしょうねぇ。
01と02の前半は、今読んでも、明らかに密度が違います。

個人的には、後半の「おれ」同士が会おうとする場面は、割と気に入っています。
本当は、もうあと2アイディアぐらい盛り込んで、盛り上げたかったのですが、これで精一杯でした。
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