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xxxy 03

 おれは、緊張している。
 今まで生きてきて、これ以上はない。そんな緊張感に襲われていた。
 新しい人生を踏み出したことでうきうきしていたのは、病院の玄関を出てから駐車場に着くまでのほんのわずかな時間だけだった。駐車場で夫のセルシオの助手席に乗り込んで、ドアがバタンバタンと閉まった瞬間から、このただならぬ空気が襲ってきた。
 そうなのだ。
 おれは今、男とふたりっきりで車の中にいる。おれがこれまでの人生で経験したことのない事態だった。
 いや。男とふたりで車の中にいることが問題なのではない。そんなことなら、これまでの40年の人生の中で数え切れないほどあった。おれが今抱えている最大の問題は、おれが女。しかも、男なら誰でも飛びつきたくなるような極め付きのいい女になっていることだった。
 おれは、セルシオの助手席のシートに座って、ごくりと唾を飲み込んだ。体が強張っているのが自分でもわかる。
 セルシオに乗るのははじめてだ。随分前に型落ちの中古のクラウンに乗っていたことがあったが、それよりもかなりゆったりした造りだ。脚を伸ばしても大丈夫な広さがあるが、おれは、ちょっと前屈みに縮こまったまま、小さくなっていた。ふと下を見ると、長いスカートに包まれたおれの脚が、大きく開いている。
 あ。そうか。おれは女だった。
 おれは、慌てて脚を閉じた。危ない。もう少しで、胡坐をかくところだった。夫の方を伺ったが、キーを差し込むところで、おれの方を見ていなかったようだ。よかった。
 春の日差しを受けたセルシオの車内は、かなり温度が上がっていた。
「あ、熱いね」
 さっきまで、病院の中を小走りに走っていたおれの体から、どっと汗が噴出してきた。
「上着、脱いだら?」
 夫に言われて、春物の薄手のジャケットを脱ぎに掛かる。いくら、シートが広いといっても、車内のこと。簡単には脱げない。手を後ろに回して脱ごうとするのだが、双葉の体は硬いので、うまく手が抜けなかった。
「ふ、双葉」
 夫が慌てたように、おれに言う。目で何かを訴えていた。視線が上下している。下を向けということか?
 見ると、無理矢理ジャケットを脱ごうとしたため、おれは胸を突き出すような格好になっていた。おれのGカップバストがブラウスのボタンを弾き飛ばしそうなほど強調されている。外を見ると、駐車場を通行中の若い男が、足を止めておれの方を見ていた。
「あ……」
 おれは、慌ててジャケットを脱ぐのをやめて、胸を隠した。
「すぐ、冷房を入れるから。ちょっとの間だけ、我慢しようか」
 セルシオはゆっくりと走り出した。カーステレオでは、女性シンガーのアップテンポの曲がかかっていた。聞き憶えがある曲だったが、誰が歌っているかまではわからない。
 エアコンのスイッチが入っても、すぐには涼しくならない。おれはたまりかねて手団扇で煽いでいたが、その程度で治まる暑さではない。少しでも体を冷やそうと、おれはブラウスのボタンを外して、襟元をパタパタと動かして、服の中に風を入れた。ふう、これでちょっとは涼しくなった。
 車は病院を出て、公道に入った。窓をあけて風を入れようかと思ったが、早速赤信号で止まる。仕方がないので、相変わらず、襟元をパタパタやっていた。
 信号が青に変わる。はい、スタート。と、思ったが、車は一向に動き出さない。不思議に思って運転席の夫を見たら、夫はおれの胸元を食い入るように見つめていた。おれは、はっとして視線を自分の胸元に落とした。ブラウスの中に、2つの大きな膨らみが見える。おれがブラウスの襟元を揺すっていたため、夫の席からも、胸元がちらちらと見えていたのだろう。
「ご、ごめん」
 おれが手を止めたことで、夫も、我に返ったようだ。夫は、慌てて車を走らせた。
 いけない。不用意に夫を興奮させてしまった。なるべく刺激したくなかったのに。
 おれは、急いで胸のボタンを留めて、また助手席で小さくなった。今度はぴったりと脚を閉じ、両手を膝の上に置いて、おとなしくしていたのだが、これはこれでやばい格好だ。両腕をぴったりくっつけることで胸のふくらみが強調される。ちょっと前屈みになった格好も、胸のボリュームを増し、ブラウス越しにもおれの豊満な曲線が見えている筈だ。これでは、夫を誘っているみたいだ。
「さあ、どうしよう。まっすぐ家に帰る?」
 運転席の夫がそう言った。おれは、答えに窮してしまう。夫のひとつひとつの言葉に深読みしてしまって、迂闊に答えられない。
 入院中、夫に取って、おれは言ってみれば愛玩動物のような存在だった。ただ、かわいいだけ。きれいなだけ。それがすべてでその先には、何もなかった。だから、おれも夫の前では、ただかわいく振舞っていればよかった。
 だが、ひとたび退院してしまうと、おれと夫の前には「その先」というものが見えてくる。おれと夫の行き着くところ、それは、間違いなくセックスだ。今のおれは、夫に取っては性的欲望の対象なのだ。さっきの食い入るような視線なんて、まさしくそれだ。
 こうなることは、わかっていた。わかっていて、おれは、あえてそれを考えることを避けてきた。その結果が今のこの状況だ。明らかにおれとセックスしたがっている男と、ふたりっきりで車の中にいる。
 おれのこの体は、女だ。もちろん、処女でもない。おれと夫は夫婦だし、物理的にも道義的にも法律的にも、おれと夫のセックスを阻むものは何もない。
 だが、おれは――おれという人格は、やっぱり男なのだ。40年以上、ずっと男だけで通してきたのだ。それが、たまたま女の体を拾ったからといって、その体で男とセックスするなんて、考えただけでぞっとする。
 今のおれは、かつての双葉の記憶を読み取ることができる。もちろん、かつての双葉が夫とセックスをした記憶だってちゃんとある。ただ、あるにはあるが、それはどうも現実感に乏しい記憶なのだ。特に、覚醒後の双葉が超人的な記憶力を持ち、記憶の細部に至るまでクリアに思い返すことができるのに比べ、覚醒前の双葉の記憶は、まるで色褪せた古新聞の写真のようで、事実関係を知る手がかり程度にしかならないというのが本当のところだ。双葉が夫とセックスしたとき、どんな風に感じていたのかは、正直よくわからない。今のおれは、精神的には、エロビデオを見てセックスがどんなものかを知っているだけの処女と何ら変わりがなかった。
「折角、外に出られたんだから、すぐ帰っちゃうのももったいないかな」
 おれは、帰ったら、夫が即襲ってくるのではないかという気がして、そう言った。ようやくエアコンが効いてきたが、緊張感からか、発汗はますます酷くなったようだ。胸の谷間をひとしずく汗が流れ落ちていくのがわかった。
「じゃあ、ドライブに行こうか」
 それも、困る。ドライブと言えば、帰りはラブホテルに入って、セックスと相場が決まっている。
「双葉、退院したばっかりだから、ドライブはやめとく」
 結局、無難なところで、近くのカフェでお茶を飲むことになった。取りあえず、直前に迫った危機だけは回避した感じだ。何だか、国債で国債の返済分を賄っている日本政府の財政政策のような対応だと自分でも思うが、このときのおれは、目の前の危機から逃れたい一心で行動していた。
 カフェに入ると一息ついて、汗もようやく収まってきた。おれが普通にコーヒーを頼むと、夫が心配そうに言った。
「双葉、大丈夫?」
「だって、病院では全然飲んでなかったんだよ」
 おれは、会社では、日に3杯はコーヒーを飲んでいたのだが、入院して半年というもの、1杯たりとも飲んでいなかったのだから、飲みたくてうずうずしていたのだ。
「本当に大丈夫なの?」
 夫の心配性にも程がある。退院したとは言え、まだ病気療養中ということでコーヒーなど飲まない方がいいと思っているのだろう。
 だが、出されたコーヒーを一口飲んだ途端、おれの考えが間違っていることがわかった。
「にがっ」
 死ぬほど苦い。焼きすぎて炭になった肉だって、もうちょっとましだろうというぐらい苦かった。
「何、これ?」
「無理するからだよ」
 夫はそう言って、おれの手からカップを取り上げ、代わりに自分で頼んだミルクティーをおれの前に置いた。
「それ、飲む気?」
 夫は、おれが苦くて飲めなかったコーヒーを啜った。
「普通においしいよ。と言っても、普通のコーヒーだから、双葉には無理だけど」
 おれは、きょとんとして、夫を見つめる。ひょっとして、双葉って、苦いもの駄目なのか?
 おれは、双葉の記憶を探ってみた。だが、コーヒーが苦手という記憶は見当たらない。嫌いな食べ物ということでは、ピーマンが思い浮かんできた。苦い系ということでは共通してはいるが。コーヒーは嫌いという以前の問題で、飲み物という発想自体がないのかもしれない。
 おれは、水で口の中の苦味を洗い流してから、夫と交換したミルクティーを飲んだ。これなら飲めるが、なんだか物足りない。
「それ、まだ砂糖入れてないよ」
 おれは、コーヒーや紅茶に砂糖を入れない。多分、ここ20年ぐらい入れたことがない。基本的に、甘いものは嫌いなのだ。
「双葉らしくないね。いつも、2杯は入れてたじゃない」
 思い出した。双葉の記憶によると、双葉はミルクティーに砂糖を3杯ぐらい入れて飲むのが好きなのだが、ダイエットのために、いつも2杯で我慢していたのだ。
 おれは、恐る恐るスプーン2杯の砂糖をミルクティーに入れる。スプーンでくるくるとかき回すなんて動作も20年ぶりぐらいの経験だ。夫は、おれのそんな仕草を楽しそうに見ている。
 うまい。
 たった2杯の砂糖を入れただけで、どうということのないミルクティーが甘美な液体に変身した。砂糖の入った飲み物がこんなにおいしいなんて。ずっと、飲み物は砂糖なしだったおれに取って、これは凄い発見かも。おれは、これから元々の体でも砂糖をたっぷり入れたミルクティーを飲んでみようかと思ったが、慌てて思い直す。これは、甘党の双葉の味覚がうまいと思わせているだけなのだ。こんな甘ったるいもの、おれが飲んだら、頭が痛くなってくる筈だ。
 カフェに30分程もいると、あたりが暗くなってきた。病院を出た時間が既に午後遅かったので、あっという間に夕方になる。
「そろそろ帰ろうか。今日は、退院祝いと誕生祝いに双葉の大好物を取ってあるから」
 取りあえず、帰ってすぐ抱かれるわけじゃなさそうなのに、一安心する。すると、夫の言っていた「双葉の大好物」というのが気になってきた。何だろう? 双葉は、焼肉やしゃぶしゃぶは好きみたいだが、これは「取ってある」とは言わないだろう。だったら、寿司だろうか? このあたりは築地も比較的近いし、いい寿司屋もありそうだ。
 すっかり暗くなった頃、セルシオは、夫のマンションの地下駐車場に到着した。
 地上50階地下2階のこのタワーマンションは、臨海部の比較的新しい路線の駅に直結している。3階より下は商業スペース。4階から12階までがオフィスビルになっている。マンションはそれよりも上だが、39階よりも下の階は普通のマンション。40階には、マンションの住民が自由に使えるスカイラウンジがあり、41階より上の高層部分が39階以下とはグレードの違う高級マンションだった。一般部分ではワンフロアあたり6戸という構成だったが、高級部分はワンフロアあたり2戸。大抵は、2世帯住宅が入っていたり、夫のように、1人で2戸とも買ったりしているらしい。単純計算でも、普通の家庭の6倍の面積になるので、夫との2人暮らしには、無駄なほど広いのだが、「ワンフロア買わないと、視界が360度効かないじゃないか」ということで、買ったようだ。同じような間取りの部屋を2つ買っても意味がないので、間取りは大幅にカスタマイズされている。夫は、このマンションを購入するために会社の株をかなり処分したようだ。
 地下の駐車場も、高層部分の住民と、一般住民では別になっている。高層住民用の駐車スペースからは、高層部分まで直通のエレベーターが通じていた。10数世帯に対して2基のエレベーターがあるので、他の住民と顔を合わせることは滅多にない。
 おれは、夫にエスコートされて、エレベーターに乗り込む。一流ホテルのような、落ち着いた、しかし、よく見ると凝った内装が、これからおれが住むことになる住居への期待を高まらせる。夫がICカード式のキーをかざすと、エレベーターが動き出した。
 程なく、エレベーターが停止した。そこには、マンションの一室とは思えないほど、大きくて立派な玄関があった。
「さあ、双葉。久しぶりの我が家だよ」
 玄関を抜けて、リビングに通されたおれは、そこで目を見張った。
 宵闇に浮かぶ無数の色とりどりの光。眼下一面に広がる東京湾の夜景。
「きれい」
 おれは、思わず呟いた。おれが今まで見てきた中で、一番の景色が目の前に広がっていた。
 もちろん、おれには双葉の記憶があるし、双葉はかつてこの部屋から見た夜景のことを憶えている。だが、それはあくまで記憶に過ぎない。おれは、双葉の記憶を持っているが、それを再体験できるわけではないのだ。おれにできるのは、双葉という古新聞の縮小版を読み返すことぐらいだ。新聞で夜景の写真を見ても、その素晴らしさは伝わってこない。夜景は、こうして実際に見て、その大きさを感じなければ、感動は得られない。
 広大なリビングには、いくつものソファが置かれていたが、そのうち、夜景が一番よく見えるところに夫はおれを座らせた、奥から何か箱を持ってきた。
「誕生日おめでとう、双葉」
 箱から出てきたのは、小さなバースデーケーキだった。生クリームのデコレーションにいちごが4つ。真ん中に丸いプレート状のチョコレートが載っていて、白い文字で「HAPPY BIRTHDAY FUTABA」と書かれていた。それを取り囲むようにカラフルなキャンドルが6本。そのうち、大き目のろうそくが2つあったので、これが10歳分。合わせて24歳ということなのだろう。
 夫が「ハッピーバースデー」を歌いながら、キャンドルに火をつけていく。38歳にもなって、こういう無邪気なところが、かわいいと思う……と思っている自分に、おれは考えされられる。これは、どういう感覚なのだろう。ひょっとして、双葉としての母性本能という奴だろうか。
 火をつけ終えると、夫は部屋の灯かりを消す。灯りがないと夜景は一層その美しさを増した。おれと、夫と、キャンドルを灯したケーキ。それだけが、まるで夜の光の中に浮かんでいるように錯覚する。その中で、おれは、ろうそくの火を吹き消した。こんなことをするのは、小学生以来、30年ぶりぐらいの体験だ。一瞬、部屋が真っ暗になって、本当に空中に浮かんでいるような気分になった。
 ほとんどジュースと変わらないぐらいの甘いシャンパンで乾杯して、ケーキを切ってふたりで食べた。これがまた絶品で、一口食べるたびに幸せな気分に包まれた。頬っぺたがとろけそう、というのは、まさにこんな感じなのだろう。夫を見たが、一口だけ食べてやめてしまったところを見ると、これも死ぬほど甘いのだと思われる。多分、おれの味覚に合わせて、自分ではとても食べられない甘いケーキを買ってきたのに違いない。チョコレートもおれが食べた。甘いミルクチョコレート。白い文字は、ホワイトチョコだった。
 ケーキを食べているところに、インターホンが鳴った。夫が応対をしている。どうやら、ディナーが届いたようだ。夫がセキュリティを解除して、エレベーターで昇ってくるように言った。こんな高級マンションに住むセレブ妻のための退院&誕生日ディナーに何が出てくるか、期待に胸を躍らせる。
 玄関までディナーを受け取りに行った夫が戻ってきた。
「さあ、双葉の一番の大好物だよ」
 戻ってきた夫の姿を見て、おれは自分の目を疑った。夫の右手には重そうなレジ袋。左手には、平べったい白い紙製の箱が3段ほど重ねられている。箱には赤いロゴマーク。このマークはおれも知っている。テレビでよくCMを流しているピザ屋のマークだった。
(宅配ピザだと?)
 夫は、さっきまでケーキが載っていたテーブルにピザを広げ始めた。右手に持っていたレジ袋からペットボトルのコーラを取り出して(確か、ピザを頼むと無料でついてくるのだ)一緒に入っていた紙コップに注ぐ。
 おれは、そんな夫の作業を呆然と見ていた。こんな高級マンションの一室で、こんな素晴らしい夜景を見ながらのディナーが、宅配ピザとペットボトルのコーラだなんて。ただの日だったらそんなこともあるだろうが、今日は、おれの退院記念日にして、24歳の誕生日なのだ。こんな特別な日に、この夫、何を考えているのだろう? 一旦ピザを広げておいて、「実は」とか言って、これから高級フランス料理のフルコースでも出してくるんじゃないかとも期待したが、そんな気配は一切ない。となると、これは噂に聞く、あれじゃないだろうか。金持ちの考えることは、わからん、という奴。
「それじゃ、乾杯しよう。さっきは誕生日に乾杯だったけど、今度は退院と半年振りの我が家への帰還を祝して。そして、双葉がこれからずっとこの家で暮らせますように」
 おれと夫は紙コップで乾杯した(当然、音は鳴らない)。夫は、早速ピザに手を伸ばす。さっきのケーキは一口食べただけなので、空腹なのだろう。おれも、手近なところからシーフードピザをひと切れつまんだ。このピザ屋は、おれの会社の近くにもあって、残業で遅くなるときなどには同僚と一緒によく食べていた。このシーフードピザなどはいつも注文した定番のメニューだ。だから、懐かしいと言えば懐かしいのだが、びっくりするほどうまいわけでもない。
 ところが、一口食べてみたところ、びっくりするほどうまかった。溶けたチーズの香りが最高だったし、ケチャップも絶妙だった。このピザ屋、いつの間にこんなにうまくなったんだろう。こんなうまいピザなんて、食べたことないぞ。昔、渋谷の本格イタリアンの店で、びっくりするような値段のびっくりするほどうまいピザを食べたことがあるが、今日のはそれを超えている。
「双葉は、ピザを食べているときが一番幸せそうだね」
 夫がそんなことを言ってきた。どうやら、ピザのあまりのうまさに、顔がとろけていたらしい。
「双葉は、ここのピザを3日に1度は食べていたから、入院中は、余程我慢してたんだよね。退院したら真っ先に食べさせてあげようと、それだけばずっと前から決めていたんだよ」
 そうか、双葉はそんなにこのピザが好きだったのか。もっとも、このうまさだったら、それも当然かもしれない。3日に1度どころか、毎日でも食べたいぐらいだ。ひょっとしたら、このピザは、おれが今まで食べてきたすべての食べ物の中で、一番かもしれない。
 そこまで考えて、ふと思った。そう言えば、今日は、飲み食いするたびにそんなことばかり感じている。こんなうまいものは初めてだとか、逆にコーヒーが苦くてとても飲めないとか。双葉が相当な甘党だということはわかってきたが、それ以外にも、かなり偏った味覚の持ち主なんじゃないかと思えてきた。
 おれは、試しに紙コップのコーラを飲んでみる。うまい。おれは、コーラなんて普段は飲まないのだが、このコーラは絶品だ。普通の市販のペットボトルのコーラだけど。
 段々、わかってきた。
 どうやら、双葉の舌は、甘いものはもちろん、それ以外では、チーズとか、ケチャップとか、味が濃くてはっきりしたものが大好きなのだ。きっと、マヨネーズなんかも好きな口のはずだ。反対に、薄味のものや繊細な味のものは好まない。というより、理解できないのだ。きっと舌がまだお子様なのだろう。焼肉が好きというのも、肉が好きというより、タレの濃い味が好きなだけという可能性が高そうだ。
 おれは、ふと思いついて、夫に尋ねてみた。
「ねぇ、ダーリン。あの病院って、ひょっとして、食事がおいしいって評判だった?」
 おれがそう尋ねると、夫は驚いたように笑った。
「双葉、味がわかるようになってきたじゃないか。そう。あそこの特別病室は、食事がいいことで有名なんだよ。病院だから味は薄いけど、健康的でおいしいって評判だね。何でも、一流レストランから料理人が来て作っているって話だよ」
 そうなのか。全然気付かなかった。それどころか、食事は一般病室も特別病室も同じだと思っていた。あれは単に薄味だったため、双葉には理解できなかっただけなのか。
 そう考えると、何だか腹立たしくなる。半年もの間、毎日うまい飯を食っていたのに、それに全く気付かなかったなんて、悲しすぎる。おれは、セレブ妻になったからには、毎日高くてうまいものをたらふく食ってやる、とも思っていたのだが、この分だと、折角高いものを食べても、ちっともうまく感じない可能性が大だ。そう思って、冷めかけの宅配ピザを口に入れる。きっとバイトが焼いているに違いないこのピザが絶品に思えてしまう双葉の舌が憎い。とは言え、ピザもコーラもこの上なくうまく感じるのは確かなのだ。その部分だけ切り取れば幸せな食事だったが、そのからくりを知ってしまうと、悲しいものがある。おれは、やけ食い気味にピザを片っ端から口の中に放り込んだ。死ぬほどうまかったその宅配ピザは、おれの気分を余計に落ち込ませた。

「双葉、ちょっとおいで」
 食事が終わって、しばらく寛いでいると、夫がやさしく話しかけてきた。上着を脱いで、今はブラウスと丈の長いスカートという格好だ。夫についていくと、おれは寝室に連れて行かれた。
(ついに来た)
 おれの覚悟は――双葉として夫に抱かれるという覚悟は、まだできていない。だが、ここまで来てしまったら、もうどこにも逃げることはできない。おれは覚悟を決めるしかないのか。
 この広い家の中でも、寝室は毎日使う場所だけに、双葉の中にも比較的はっきりとした記憶がある。だが、夫に連れられて入った寝室は、双葉の記憶とは微妙に違っていた。
「ごめん、双葉。今日からしばらくは、ここで寝よう」
 おれは、夫が言っていることがわからなかった。部屋には2つの大きなベッドが置かれている……。
 2つのベッド? ダブルベッドじゃなくて?
 双葉の記憶では、夫婦の寝室は夜景が見える部屋で、大きなダブルベッドが置かれていた筈だ。ところが、ここにはベッドが2つ。部屋には窓もなかった。そうだ。確か、この家にはもうひとつの寝室があった。あまり使ったことはなかったが。
 夫は、手前のベッドにおれを座らせると、自分もベッドに乗って、正座して言った。
「正直に言う。この半年、ぼくは双葉がいなくて、淋しかった。双葉が抱けなくて、つらかった。双葉が退院したら、双葉のことを思いっきり抱きたいって、ずっと思っていた。でも、双葉は退院したけどまだ全快じゃない。双葉に万一のことがあったらと思うと、まだ抱けないんだ。……ごめん」
 夫は、そう言って、おれの前で手をついた。おれは、夫の言葉をきょとんとして聞いていた。夫は、まだおれを抱く気はないと言ったのだ。そして、おれを抱けないことをまるで自分のせいであるかのように、おれに謝っている。
「あ、あの……」
「もうあと少し。あと少しだけ我慢しよう。そうしたら、双葉を思い切り抱いてあげられる」
 夫は、目頭を熱くして、手をついたままおれを見つめていた。おれは、そんな夫が何だか意地らしくなった。夫のそばに擦り寄って、おれを見上げるようにしていた夫をそっと抱き寄せた。おれの豊かな胸が夫の顔を抱きとめた。
「ダーリン……」
 おれは、夫に抱かれてもいいような気になっていた。それが妻の務めだからではなく、夫が愛おしいから。
「双葉……」
 おれの胸の中で夫の呟くような声がする。おれは夫を強く抱きしめた。夫は、しばらくおれの谷間でじっとしていたが、やがて、頭をぶるぶると振って、顔を上げた。
「……ごめん、双葉」
 夫はおれの抱えている腕をほどいた。おれは、うるうるとした目で夫を見ていたが、夫はそれでもおれを抱こうとせず、立ち上がった。
「今日は、疲れただろう。風呂の準備をしてくるよ」
 夫が寝室を出て行った。おれは、その後姿をぼんやりとした目で見ていた。
 おれは、さっきまで夫を抱きしめていた感触と、夫の顔で押し潰された胸の感触を思い返していた。
「ダーリン……」
 そう呟いて、ふと前を見ると、そこには夫の姿はなかった。
 おれは、全身の力が一遍に抜けていくのを感じた。
 このとき、おれは、夫に抱かれずに済んでよかったと思ったのか、それとも、抱かれてもいいと思ったのに、抱いてくれなくて残念に思ったのか、自分でもよくわからない。自分の気持ちをもう一度見つめ直そうとしたが、双葉の体は、もう限界だったようだ。あっという間に睡魔が襲ってきて、おれは眠りに落ちた。

 その日、病院に残った方のおれは、部屋に戻ると、看護師にこっぴどく叱られた。そりゃそうだろう。おれは病院側から見ると、一見健康そうに見えるが、いつ意識を失うかわからない要注意患者なのだ。看護師付き添いの散歩さえも許可していないというのに、走って病室を逃げ出したのだから、ナースルームは一時騒然としたらしい。
 おれ自身も、どうしてあんな行動に出たのかわからない。双葉の姿をこの目で見たいと思ったら、気が付いたときには走り出していたという感じだ。元々、おれはどちらかというと慎重、悪く言えば優柔不断なタイプで、思いついたことを後先考えずに行動に移すような人間ではない。
 実際、今回のことも、何事もなかったからよかったようなものの、ひとつ間違えたらどうなっていたかわからない。特に、おれ同士が会うなどというのは、十分にリスクを考えておかなくてはならないことだった筈だ。
 おれが双葉の姿のおれを見て、双葉の姿のおれが元々のおれを見る。ただでさえ、2つの体を動かすことがまだ完璧にはできないおれなのに、おれとおれの対面などというややこしいシチュエーションに遭遇して、よくフリーズしなかったものだと思う。マイクとスピーカーを近づけすぎたときに起きるハウリングのように、おれとおれの意識が共鳴しあって、最悪フリーズでは済まなかった可能性もあったのだ。
 ただ、結果オーライとは言え、今日のことは収穫がたくさんあった。特に、おれが2つの体を完璧に動かせたということが大きい。それも、いつものように片方が座ったり寝たりした状態ではなく、2人共が走ったり階段を上ったりと複雑な動きができたというのは、大変な進歩だろう。おれ同士が向き合ったり、おれの後姿を双葉のおれが見る。つまり、同じ光景が二重に見えていたりという複雑な状況にも、おれの情報処理能力が全く乱れなかったのも収穫のひとつだ。更には、おれが看護師に不審な目で見られていたとき、双葉があたりを見回して取り込んだ情報を元に、機転をきかせてその場を取り繕ったというのも、2つの体を1つの意識の元に使いこなせたという意味ではよかった。
 その間、おれは、右手と左手を自由に動かすような感覚で、元々のおれと双葉の体を自由自在に動かしていた。今までのように、動かす体を間違えたらどうしようなどということは一切考えなかったし、間違えるという発想自体がおれの中にはなかった。
 まだまだ油断は禁物とは言え、今日のようなレベルにまで達したなら、もうフリーズなどということはないだろうし、そうなれば、病院に残されたおれの退院も近いだろう。看護師たちには顰蹙を買ったが、元気に走り回れたというのも、退院には追い風に違いない。いきなり退院は無理でも、個室から相部屋に移るぐらいのことはできるかもしれない。もっとも、ほとんど寝たきりだったおれの体は、久々の酷使に悲鳴を上げていて、この分だと、明日は本当に寝たきりでいなくてはならないかもしれないが。
 というわけで、おれの体には明るい光が差し込んできたが、明るい光の中に飛び出していった双葉の方は、新たな問題点が照らし出された感じだった。
 まず、思い知らされたのは、おれと双葉の感覚の違いだ。特に、味覚。双葉の体がこれほどまでに甘党だとは思いもよらなかった。会社の女の子がケーキの差し入れにキャーキャー言って喜ぶ気持ちが、初めてわかった。ただ、双葉の舌の幼さには、正直、まいった。これでは、味覚に関して言えば、小学生からやり直すようなものだ。いや、やり直せればまだいいが、双葉の味覚はこれで成長が止まってしまっているという可能性もある。こんな子供みたいな味覚を持った女として、これから生きていかなくてはならないというのだけは勘弁して欲しい。
 おそらく、味覚に限らず、実際に生活していくと、まだまだ2つの体の感覚の違いが出てくるに違いない。
 取りあえず、今日半日、漠然と感じていたのは、体の大きさの違いだ。双葉の身長は159センチで、おれと10センチ以上も違う。目の高さが10センチ低くなると、随分見えるものも違ってくる。たとえば、おれ同士がはじめてお互いの姿を見たあの連絡通路。おれと双葉では通路の広さを違うように感じたのだ。おれの元々の感覚よりも、双葉の感覚では広く感じられるのだ。夫のセルシオに乗ったときも、おれが昔乗っていたクラウンに比べて随分広いと思ったが、双葉の体がおれに比べて小さいことでそう思えるのだろう。
 そして、何といっても考えさせられたのは、夫のことだ。
 薄々気付いていたことだが、どうも、おれは夫のことを好きになりかけているらしい。
 ――などと、おれの元々の体でいるときに考えるのは気色悪いのだが、少なくとも、双葉の体でいるときのおれは、夫のことを好ましく思っているようだ。これは、元々双葉の記憶の中にあった感情に引きずられているというわけではなくて、おれが双葉として夫と接していくうちに、次第に夫に対する愛情が高まっていくのを感じるのだ。
 もちろん、こういう感情には割引が必要なのは、承知の上だ。何しろ、入院中に双葉が見かける男といったら、夫以外には何人かの医師がいる程度。こんな状態では、優しい言葉をかけてくれる夫のことが、いい男に見えてくるのも当たり前といえば当たり前……。
 ――待て待て。これじゃ、まるで、おれが夫のことを「いい男」だから好きになったみたいじゃないか。ほとんど女の発想だぞ、今のは。おれは、自分の思考回路に改めて愕然とする。
 確かに、この頃は、双葉の体では、自然に女っぽく振舞えるようになって来た。夫の前では、以前は「かわいい双葉」として演技しようと思っていたのだが、最近は演技をしなくても、仕草や話し言葉が自然にかわいらしくなっているのが自分でもわかる。
 そして、極め付きが、ベッドの上で、夫の頭を胸で抱きしめたことだ。あのとき、おれは、夫にこのまま抱かれてもいいと思っていた。それほど、夫が愛おしかったというのは事実だが、問題は、実はそこではないのだ。
 今までだって、夫に抱かれてもいい、セックスするのも仕方ない、と思ったことは何度でもある。
 たとえば、夫は、おれにさまざまなものを提供してくれている。この半年間、夫はおれのために、かなり高額な入院費を支払っているし、今住んでいる高級マンションだって、双葉のために買ったようなものだ。服もバッグもアクセサリーも、好きなだけ買ってくれる。まあ、双葉はそれほど物欲のない方だったらしく、部屋を服で一杯にする、などということはなかったようだが。とにかく、これまで夫は双葉のために尽くしてきたし、これからもおれのためにそうするだろう。
 それに対して、おれは夫に何を返すことができるだろう?
 双葉は、家事を全くしてこなかった。週に何度か通ってくる家政婦が掃除・洗濯から食器洗いに至るまでやってしまうので、双葉がやることはない。勤めに出て家計を助けているわけでもなければ、仕事で悩みを抱えた夫の相談相手になったりするわけでもない。多分、そのスタンスは双葉の中身がおれになっても基本的には変わらないだろう。おれには、1日の半分以上の睡眠が必要なので、家事や仕事にかける時間は、あまり作れないだろう。今のおれなら、仕事の悩みでも多少は相談に乗れると思うが、それは夫が最初から求めていない。夫に取っては、「馬鹿だけどかわいい双葉」でいいのだ。
 そして、もうひとつ、夫が双葉に求めるものがセックス。当たり前だろう。妻なんだから。しかも、元グラビアアイドルでダイナマイトバディを持った妻。夫がおれに求めている最大のものは、やっぱりこれだろうと思う。
 ということで、今のおれは、夫が求めている妻の役割をよくて5割。多分、2、3割しか果たしていないのだろうと思う。セレブ妻として贅沢な暮らしをさせてもらう手前、もうちょっと夫の要求に応えないといけないと思っているおれである。となると、やはり、夫に抱かれるより他に手はない。
 理屈の上でも、やっぱり抱かれるべきだということになる。
 そうなのだ。結論はもうずっと前から出ている。セックスをするしかない、と。抱かれても構わない、と。
 しかし、それは頭の中での話。実際に抱かれるとなったら、具体的に何をするのか。それを考えただけで、駄目。絶対無理、と思ってしまう。
 キスはまだいい。いや、男とキスなんて本当はよくないのだが、所詮、口の構造なんて、男女差はほとんどない。女とキスするのも男とキスするのも変わらない、と無理やり理屈を捏ねて納得する。胸を揉まれるのは、まあ、比較的抵抗はない。おれも、何度も自分で揉んでみたが、気持ちよかった。実は、さっき夫の頭を胸で抱きしめたときも、いい気持ちになってきて、思わず谷間に押し付けてしまったのだ。胸は、自分で揉むよりも他人に揉まれる方が気持ちいいという話なので、実は、こっちはちょっと期待している。
 結局、問題は、アレだ。
 だって、おれの中に男のペニスが入ってくるんだぞ。正直、怖い。しかも、気持ち悪い。
 男は、自分の体の中に、他人の体の一部が入ってくることなんて、まずない。せいぜい、歯医者で口の中に指を入れられるぐらいだが、それだって滅多にあることじゃない。一生のうち、一度もそういう経験をしない男だっているだろう。
 だが、女の大半は、自分の中に他人の物を入れるのだ。しかも、指とか舌とかならまだしも、ペニスを入れるのだ。男性限定でアンケートを取ってみるといい。他人の体の中で、一番触りたくない場所は? ほとんどがペニスと答えるだろう。そんなものが、おれの体の中に入ってくるなんて。しかも、勃起した状態で。ありえない。絶対に。
 世の中の女は、どう考えているのだろう? 好きな男ができる。まあ、これはわかる。その男が自分を見て、欲情する。これも、悪い気はしないだろう。でも、その男がペニスを怒張させて、迫ってきたら、百年の恋も一瞬で醒めると思うのだが、違うのだろうか? それとも、女が男を好きになるということは、それすら我慢できるほど、頭のネジがどこか飛んでしまうようなことなのだろうか? あるいは、怒張したペニスすら愛らしく思えてしまうようになってしまうのか?
 そして、おれも、このままダーリンのことがどんどん好きになったら、抱かれてもいい、ではなく、ペニスを受け入れたいと思うようになっていくのだろうか?
 わからなかった。

テーマ : *自作小説*《SF,ファンタジー》 - ジャンル : 小説・文学

コメント

03のあとがき

味覚の話は、書いている途中で思いついたような気がします。
最初は、ピザを取って食べたら、意外にうまかった、程度のことは書こうと思ってはいたのですが、こんなに極端な味覚の持ち主にするつもりはありませんでした。ある設定にすると、それと整合性を取るために、どうしても極端な設定になってしまいがちです。
この設定に合わせて、病院の食事も双葉の方はいいものだった、ということにしました。この時点では02は未発表でしたから(こういうことがあるから、次を書き上げるまでは発表できないのです)、その設定に合わせて02を変更しようとしたのですが、読み返してみて特に変更の必要もなかったので、そのままにしました。
でも、02で、もうちょっと具体的なメニューや食べた感想などを入れた方がよかったですね。元々のおれの病室の食事と比較して、煮付けか何かで微妙に入っているものが違うが、味はどちらも同じようにうまくない、とか。
今、そこに気付きました。やっぱり、こういうことは、後になってから思いつきます。

03の中で一番気に入っている台詞は、「おれ」が苦くて飲めなかったコーヒーを夫が飲もうとしたときの台詞。

「それ、飲む気?」

全然、大したことない台詞なんで、読者の方にしてみたら、「はあ?」という感じかも知れませんが、この台詞を書いたときは、「いいなあ、これ」と自分でも思いました。
それまで、夫の前ではずっと演技してきた「おれ」がはじめて、素で喋った台詞で、しかも、ちゃんと女として、妻として喋ってますから。

個人的には、このタイプのお話では、男の主人公が、段々、女に染まってきて、最後は「乙女心全開!」みたいなのが好きなのですが、この台詞は、その第一歩という感じです。

図書館でのコメントを拝見すると、賛否両論といった感じだった02とは違って、03は好意的なコメントばかりになってきました。その分、ポイントは少なくなっていますが。
要するに、02まで読んで合わなかった人は続きを読むのをやめて、興味を持っていただいた方だけが03以降を読んでいただいているんだろうなぁ、と解釈しています。
まあ、こんな長い話なんだから、合わない人は、適当なところで見切りをつけた方がいいですよね。
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