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ヒロシの愛したシキ

 あれ?
 目覚めたときから何だか変だった。
 天井には見覚えがある。視線を横にずらすと、壁に貼ってあるパルマの中田のポスターが見えた。机の上には懸賞で当たった巨人の松井のサイン色紙。その脇に掛けてある高校の学生服。
 どう見たって、ぼくの部屋だ。
 でも、何かが違う。
 そうだ。昨日は確か、シキとのデートだった筈。シキと映画を見に行って、その後、シキを送っていく途中で……。
 いつの間に家まで帰ってきたのだろう? ついさっき、シキの愛くるしい笑顔を見ていたような気がするのに。
 ――少し頭が痛い。
 ぼくは、体を起こしてみる。
 ばさっ。
 何だ、これは。
 か、髪が伸びている。
 手に取って見ると、細いさらさらした髪。それを持つ手も、細くて、白くて――女のような手。
「なんだ、こりゃ」
 思わず叫んでしまった。その声もぼくの声じゃない。妙に甲高い女の声だった。
 ぼくは、視線を落として、自分の体を確認する。
 ぼくは、ピンクの薄い布地の服を着ていた。もちろん、こんな服、持ってない。
「パジャマ? にしては、薄いけど」
 そして、そのピンクの薄い布が胸のところで膨らんでいるように見える。
 ぼくは、その胸のふくらみに手を当てる。ぼくの右手が、何だか柔らかいものに当たる感触がした。と、同時に、ぼくの胸が何かで押さえつけられているように感じた。
 ぼくは、パジャマ(?)についていたボタンを急いで外す。
 中から出てきたのは、たわわに実った大きな胸と、それを包むブラジャー。
「ぼ、ぼくにおっぱいがある」
 しかも、大きい。前に一度だけシキのを見たことがあるが、それとは比べ物にならないぐらいでかい。
 でかいどころか、それがぼくの胸についている。
 ってことは。
「ひょっとして、ぼく、女になっちゃった?」
 ぼくは、服の上から股間に手をやった。服の構造はよくわからなかったが、自分の体がどうなっているかぐらいは、わかった。
「女だ――」
 ぼくは、あたりを見回した。机やベッド、壁紙やカーテンは間違いなく、ぼくの部屋のものだ。だが、部屋の片隅に見慣れないものがあった。鏡のついた机。確か、シキの部屋にも似たようなのがあった。ドレッサーって言うんだっけ。女の子が化粧をするための机。まだ中学生の妹が、親に買ってくれとせがんでいた。そんな女子専用の机が、男子高校生であるぼくの部屋に、さも当然といわんばかりに鎮座していた。
「なんでこんなものが」
 ぼくは、ベッドをおりて、ドレッサーの前に飛んでいった。ぼくの胸についている2つのふくらみが揺れた。
「だ、誰だ?」
 ドレッサーの鏡には、女が映っていた。
 見たことがない女だ。ぼくの彼女のシキにちょっと似ているだろうか。だが、シキじゃない。シキは、ぼくと同級生の17歳。年上の女の人の年齢はよくわからないが、鏡の中の女は、どう見ても20歳は過ぎている。20代半ばぐらいだろうか。
 シキは、どちらかというとかわいいタイプだが、鏡の中の女性は、ものすごい美人だった。
 鏡の中の年上の女の人が、困ったような顔でぼくを見つめていた。
「そうか。これが、ぼくなのか」
 鏡なのだから、そこに映っているのは自分に決まっている。このものすごい美人がぼくということだ。
 ぼくは、自分の胸元に目落としてみた。そこには、鏡に映っている女と同じブラジャーに包まれたバストがあった。
 ぼくは、女の子の胸に1度だけ触ったことがある。もちろん、シキの胸だ。かわいらしいふくらみだった。それよりも、大きなバストがぼくの胸についている。ぼくは、自分の胸に触ってみた。
「あっ」
 思わず声が出た。大人の女性の声だ。
「シキよりもやわらかいかも」
 シキのは、もうちょっと小振りで、ハリがあったと思う。
「でも、いい感じだ」
 ぼくは、女物の薄いパジャマを脱ぎ捨てた。上半身裸で、ブラジャーだけをつけた美女がこっちを見ていた。
「すごい。何、このでかい胸」
 ぼくは、ブラジャーの上から胸を揉む。ぼくの手――白い女の手では、掴みきれないぐらい大きな胸だ。
「ものすごく柔らかい。――あんっ!」
 コリっとしたところを触ったときに思わず声が出た。
「今のが乳首? すごい敏感……」
 その後も、ブラジャーの上から胸を揉んでみた。
「ブラが邪魔だな」
 ブラジャーを外そうと思うのだが、外し方がわからない。シキのときはどうやったんだっけ?
 確か、シキのブラは、フロントホックって奴だった。
「胸の前で引っ掛けるタイプかな」
 ぼくは、シキのブラジャーを外したときのことを思い出しながら、自分がつけているブラジャーのホックを外そうとする。
「巨乳だ」
 ぼくの体についている大きなバストを両側から挟みこむようにしたので、ぼくの胸がブラジャーからこぼれそうになった。
「あっ」
 不意にホックがはずれた。ぼくの胸がぷるんと揺れて、大気に触れた。
 ブラジャーの下から、真っ白で形のいいおっぱいが姿をあらわした。
「す、すごい。おっきくて、やわらかくて、シキの胸とは全然違う」
 ぼくは、自分の胸を両手でこねくりまわした。ぼくの大きな胸は、両側から寄せてやると、谷間を越えてバスト同士がくっついた。こんなこと、シキの小振りな胸ではできなかった。
 両胸をくっつけた状態ですりすりしてやると、とても気持ちがよかった。ときどき、乳首に指が当たると、「あんっ」という鋭い声が勝手に出た。
「な、なんか、変な気分だ。触ってるより、触られてる方が、気持ちいい」
 鏡の中の女性は、いつの間にか、顔を紅潮させている。表情も切なげで、目がトロンとなっていた。
「はあ、はあ。何、これ。これが女の感覚。――やばい。やばいよ」
 胸を揉む手が止まらない。胸だけじゃ物足りない。もっと体中を触りたい。いや、触って欲しい。
「だ、駄目っ。なんか、変。変だよおっ」
 無意識のうちに、ぼくの手が下半身へと伸びていく。パジャマを掻き分け、パンツの中に手を入れる。
「何、これ。す、すごい。すごいよ。あっ、あっ」
 ぼくの手がパンツの中で蠢いている。ぼくの手が動くたびに、鏡の中の女はいやらしい悲鳴を上げる。
「あんっ、駄目。何かくる。もっと、もっとおっ!」
 ぼくは、大人の女の体がもたらす快感に耐え切れなくて、悲鳴を上げ続けた――。



 あたしは、今日も午前7時に目が覚めた。
 いつも、隣の部屋の物音で起こされる。この7年間というもの、ほとんど毎日だ。
 隣はヒロシおにいちゃんの部屋。あたしの大好きなおにいちゃんの部屋。
 あたしは、ベッドを降りて、机の写真立てに目をやった。
 そこには3人の人物が写っている。
 あたしと、ヒロシおにいちゃんと、おにいちゃんの彼女のシキさん。
 シキさんがはじめてうちに来たときに撮った写真だ。
 おにいちゃんとシキさんが、すごく幸せそうに笑っている隣で、あたしは、少し不機嫌な顔をしている。一緒に写真を撮ろうとシキさんに誘われて、渋々フレームに入った記憶がある。今になって思うと、もっと笑顔で写っておくべきだった。でも、こんな顔でも、この1枚を取っておいてよかったと思う。
 この3人が1枚の写真に収まることはもうないのだから。永遠に。
 7年前、ヒロシおにいちゃんとシキさんは付き合っていた。2人が高校生の頃の話だ。
 最初、まだ中学生だったあたしは、おにいちゃんを取られたみたいな気がして、シキさんのことが好きじゃなかった。でも、何回かシキさんと会ううちに、シキさんの優しさに触れて、あたしはシキさんのことをお姉さんみたいに思うようになっていた。いつか、本当に「おねえさん」と呼ぶ日が来るんじゃないかって、漠然と思っていた。
 実際のところ、おにいちゃんとシキさんは、どこまで関係が進んでいたのかはわからない。ひょっとしたら、おにいちゃんに訊いたら答えてくれるかもしれないけど、今のおにいちゃんにそれを聞くのはルール違反だと思ので、訊いたことはない。でも、お兄ちゃんの言動から察するに、1回ぐらいはやっていたんじゃないかと思う。
 そんなヒロシおにいちゃんとシキさんとの関係も、7年前のあの日に突然壊されてしまった。
 雨の日のデート。映画を見て、シキさんを家まで送っていく途中、2人は、飲酒運転で前方不注意のトラックにはねられた。
 そのとき、ヒロシおにいちゃんは、シキさんのことを咄嗟に庇ったんじゃないかと思う。
 その結果、おにいちゃんの体は、見るも無残な形に潰された。おにいちゃんが庇ったシキさんの体は、骨折程度で済んだのだけど、頭の打ち所が悪く、シキさんの脳は、永久に活動を停止してしまった。
 一瞬にして、ヒロシおにいちゃんの体と、シキさんの人格は、この世から消えてしまった。
 かろうじて、ヒロシおにいちゃんの脳と、シキさんの体が、この世に残された。
 2人が担ぎ込まれたのは、とある大学病院。脳外科手術では有名なところだったらしい。
 医者は、おにいちゃんの脳をシキさんの体に移植した。
 もちろん、世間にはそんなことは公表されていない。
 聞いた話だと、脳移植手術の成功例は、世界で何件かあるそうなのだ。倫理面の理由から、すべて極秘裏に行なわれるため、一般には知られていないのだという。手術を行なった例は、その何十倍もあるそうだ。要するに、ほとんど成功しない手術、ということだ。
 そんな手術、人体実験と変わらないと思うのだが、うちの両親とシキさんの両親は、それを望んだ。うちの両親は、どんな姿であれ、息子に生きていて欲しいと願った。シキさんの両親も、娘の人格は失われようと、自分たちの遺伝子を受け継いだ人間がこの世に残ることを希望した。
 極秘裏に手術は行なわれ、その奇跡的な確率をクリアして、ヒロシおにいちゃんとシキさんは、脳移植手術の世界で何例目かの成功例となった。


 ヒロシおにいちゃんは、シキさんになった。
 最初の数ヶ月は、寝たきりだったシキさんの体も、おにいちゃんの脳とシキさんの体がなじんでくるにしたがって、徐々に動けるようになった。それから、リハビリが始まったが、若いシキさんの体は、順調に回復して、手術から1年後には、普通に動けるようになった。
 心配していた拒絶反応も見られず、おにいちゃんの脳が入ったシキさんの体は、若い健康な女性となんら変わらなかった。
 そう。シキさんの体には何の問題もなかったのだ。
 問題があったのは、ヒロシおにいちゃんの脳の方。
 あの事故のとき、おにいちゃんの脳は、既にダメージを受けていたのだろう。
 おにいちゃんの脳には、ある種の記憶障害が残ってしまったのだ。


 おにいちゃんの脳には、あの忌まわしい事故の記憶は残っていない。
 おにいちゃんの記憶は、映画を見て、雨の中、シキさんと一緒に歩いていた、というところで終わっている。
 それまでのことだったら、おにいちゃんの記憶力は普通の人と変わらない。変わらないどころか、7年も前のことだというのに、つい昨日のように憶えているのだ。
 ただし。

 おにいちゃんの記憶は、80分しかもたない。

 あの事故の日以来、おにいちゃんの新しい記憶は、80分後には、消えてしまう。
 事故の前の記憶はちゃんとあるのだから、普通に生活することはできる。7年前の常識の範囲内の生活であれば。
 だけど、今日のこと、たとえば、朝ごはんに何を食べたかということは、お昼の頃にはすっかり忘れてしまっている。そもそも、朝ごはんを食べたことすら憶えていないのだ。7年前のデートでシキさんと見た映画の内容は、克明に憶えているのに。
 80分しか記憶がもたないおにいちゃんは、一晩眠ってしまったら、寝る前のことはすべて忘れて、7年間前のおにいちゃんに戻ってしまう。
 おにいちゃんは、毎朝、自分がシキさんの体になっていることを発見する。
 寝たきりだった頃は、違和感を感じる間もなく、時が過ぎ、おにいちゃんが感じていたであろう違和感も、80分という時間と共に、忘却のかなたへ消え去っていたので、特に問題にはならなかった。
 リハビリ中も、リハビリに集中させることでなんとかごまかせた。
 でも、シキさんの体が健康を取り戻してしまうと、もう駄目だった。
 恋人と歩いていた筈なのに、気が付いたら、自分がその恋人になってしまっている。
 おにいちゃんは、毎朝、そんな特異な体験をしているのだ。
 最初、あたしたちは、おにいちゃんの身に起こったことを毎日説明していた。
 おにいちゃんとシキさんが事故にあったこと。おにいちゃんの体とシキさんの脳は死んでしまったので、お兄ちゃんの脳をシキさんの体に移植したということ。そして、おにいちゃんの記憶は、80分しかもたない、ということ。
 おにいちゃんには、知る権利がある。どんなに悲しい事実だとしても。
 その信念の元、あたしたちはおにいちゃんに真実を告げた。
 おにいちゃんは、あたしたちの説明を聞くと、泣き叫んだ。それはそうだ。恋人が既にこの世の人でないと聞かされたのだ。そして、自分の体も既になく、恋人の体で生きていかなければならないのだから。
 この光景が、毎日繰り返された。
 悲しみを癒すのは時だけだ。
 でも、おにいちゃんは、悲しみを癒すだけの時を記憶することができない。
 翌日には、すべてを忘れてしまい、また最初からやり直し。
 そして、おにいちゃんは、また同じように、泣き叫ぶのだ。シキさんの体で。
 あたしたちは、少しでも、おにいちゃんがショックを受けないような説明の仕方を模索した。でも、結果は同じ。少なくとも、シキさんが死んだ、という事実を告げる限り、おにいちゃんがショックを受けないということはありえないのだ。


 結局、あたしたちはあきらめた。おにいちゃんに、真実を告げることを。
 たとえ、翌日にはきれいさっぱり忘れてしまうのだとしても、毎日毎日悲しい事実を告げて、おにいちゃんを絶望のどん底に突き落とすよりも、自分の体が恋人のものになっているという不思議な体験をして、不思議なまま1日を終えさせるという方を選んだのだ。
 それでも、最初のうちは、あたしたちは積極的におにいちゃんと関わった。
 特に、妹のあたしは、突然女の子の体になって戸惑っているおにいちゃんをサポートする役を買って出た。あたしの役目は、女の子になって戸惑っているおにいちゃんを勇気付けること。そして、「シキさんがどうなっているのか?」ということに対して、疑問を抱かせないこと。
 最初の頃は、あたしが思うようにおにいちゃんが行動してくれなくて大変だったけど、おにいちゃんの思考パターンがわかるようになってくると、思い通りにおにいちゃんの思考を誘導できるようになった。毎朝、事故の日の状態にリセットされるおにいちゃんの頭は、コンピュータのプログラムのように、同じ条件を与えてやれば、同じ動きをするのだ。
 あたしは、シキさんの姿をしたおにいちゃんと、毎日同じお芝居をしている役者のような生活を送っていた。そのうち、あたしと同じように、シキさんが「おにいちゃん」という役を演じているんじゃないかとさえ思うようになった。
 いろいろと試行錯誤を繰り返すうちに、あたしたちは、おにいちゃんを放っておいても、案外大丈夫だということを発見した。
 取りあえず、おにいちゃんの部屋は事故のときのままにすることにした。ただし、カレンダーや新聞など、日付を知ることができるものは、すべて排除した。事故当時の世界に生きているおにいちゃんに取っては、それはすべて「未来」のもの。ありえないものだった。お兄ちゃんは、パソコンや携帯電話を持っていなかったので、日付を知られることもなかったし、メールで誰かに連絡を取られることもなかった。今なら携帯を持っていない高校生なんて天然記念物という感じだが、7年前はそんな子も珍しくなかったのだ。
 もうひとつ好都合だったのは、事故の日が土曜日だったこと。だから、おにいちゃんは毎朝日曜日の感覚で起きているみたいだ。おかげで、学校へ行く、とか言い出すことがなくて、助かっている。
 おにいちゃんの体がシキさんに変身してしまっていることだけはどうしようもなかったが、それは「不思議な出来事」と思ってもらうしかなかった。ただし、不思議はそれ1つだけ。他の事はいつも通りと思わせておくことが重要だった。
 とにかく、情報を遮断してやれば、シキさんに変身してしまったおにいちゃんは、部屋から出てくることはまずなかった。基本的な発想として、おにいちゃんは、自分がシキさんの体になってしまったこと、シキさんの中におにいちゃんがいる、ということを隠そうとするみたいだった。だから、放っておけば、おにいちゃんは家族にバレないように、部屋に閉じこもったままで過ごした。さすがに、トイレのときは出てこないわけには行かないが、おにいちゃんの部屋とトイレの間には家族は近寄らないようにして、おにいちゃんがこっそりトイレに行けるようにした。
 慣れてくると、あたしたちはなるべく昼間は出掛けるようにして、おにいちゃんを1人家に残し、おにいちゃんの「誰かに見つかるんじゃないか」という緊張感をやわらげるようにした。おかあさんが、おにいちゃんの食事を作っておいて、「出掛けるから留守番お願いね」と声だけ掛けていなくなるのが日課になった。誰もいない間におにいちゃんはこっそり部屋から出てきて、トイレに行ったり、お母さんの作った料理を食べたりしてた筈だ。お風呂も沸かしておいたから、入浴もしたに違いない。
 シキさんの体になってしまったおにいちゃんは、どんな気持ちでお風呂に入ったのだろう?
 自分が大好きな女の子の体になってしまった17歳の男子高校生の考えることなんて、決まっている。シキさんの体を――ということは自分の体を、興奮しながら、見たり、触ったりしたに違いない。当時、中学生だったあたしは、それが嫌でたまらなかった。あたしのおにいちゃんがそんないやらしいことを考えて、行動に移すなんて、耐えられなかった。
 あたしは、おにいちゃんの行動を、何度か隠れてこっそり覗いてみたことがある。おにいちゃんは、午前中のうちはなんとか我慢しているみたいだけど、午後になってしまうともう駄目だった。特に、お風呂に入ってしまうと手が付けられなかった。それはそうだろう。大好きな女の子を裸にして、体の隅々まで洗うのだ。劣情を催さない筈はない。
 おにいちゃんの記憶は起きている間もどんどん失われていくから、きっとシキさんの体に「慣れる」ということは一切なかったのだろう。それに対して、シキさんの体は、少しずつ興奮が蓄積されていき、次第に抑えがきかなくなっていったのかもしれない。
 夜になると、壁1枚隔てたおにいちゃんの部屋から、シキさんの淫らな声が漏れてくるようになった。我慢できなくなったおにいちゃんが、シキさんの体の隅々まで探索しているのだ。家族にばれないように、部屋に閉じこもっている筈のおにいちゃんが、妹に声を聞かれることぐらいわからないのだろうか? きっと、そのときのおにいちゃんは、いや、シキさんの体は、そんなことなど気にならない程、理性が飛んでしまっているのだろう。
 あたしも年齢を重ね、17歳のまま止まってしまったおにいちゃんの精神年齢を追い越してしまうと、年下の男の子の気持ちとして、それを理解し、許せるようになったけど、昔のあたしは、そのことが本当に嫌だった。
 だから、そんな頃のあたしは、積極的にシキさんになったおにいちゃんの前に姿を現すことにした。さすがに、妹が近くにいれば、おにいちゃんもエッチなことを我慢するだろうと考えたからだ。
 不思議なことに、おにいちゃんは、両親には、自分がシキさんになってしまったことを隠したがったが、妹のあたしにだけは、シキさんの姿をしているが、自分が兄なのだ、と主張した。あたしは、シキさんの体になってしまったおにいちゃんの妹として、家族には内緒で食事を持ってきたり、お風呂に入れたり、運動させたり、と、いろんな世話を焼いた。おにいちゃんと秘密を共有する妹、という振りをした。
 もちろん、おにいちゃんの頭の中では日曜日でも、現実の世界で平日だと、あたしは学校に行かなくてはならない。だから、あたしがおにいちゃんと接触できるのは、早朝と、夕方家に帰った後だけ。それでも、何とかおにいちゃんの新しい1日を、不思議だけど平穏な1日にするように努力した。おかげで、中学2年までがんばったテニス部は辞めざるを得なかったけど、それでもよかった。テニスより、おにいちゃんの方がずっと大事だったから。


 でも、時は残酷だった。
 あたしが中学を卒業して、高校に入った頃から、おにいちゃんはあたしのことを不審な目で見るようになった。高校生になったあたしは、中学生の――おにいちゃんが知るあたしに比べて、背が高くなり、大人びていった。
 おにいちゃんは、自分の記憶に比べて大きくなっているあたしのことを不審に思うようになった。最初のうちは、体の小さなシキさんの体になっているので、あたしのことが普段よりも大きく見えるだけだ、と言ってごまかしていた。そのうちに、顔つきが大人びてきて、ごまかしがきかなくなったが、わざと下手な化粧をして、おませさんが化粧に失敗してこうなっちゃいました、と素顔を見られないよう繕った。
 あたしは、大人になんてなりたくなかったけど、時は無慈悲だった。大学生になる頃には、あたしと顔を合わせても、自分の妹だとは認識してもらえなくなった。中学生の頃のあたしは、地味で、小さくて、ぱっとしない女の子だったけど、今のあたしは、結構背が高くて、整った顔立ちの美人だと言われている。久しぶりに会う近所の人は「見違えるようにきれいになった」と言ってくれるのだけど、ちっとも嬉しくない。大学の友達で、背の低い子からは、「あんたはモデルみたいに背が高くてきれいで羨ましいよ」なんて言われるけど、羨ましいのはあたしの方だ。きれいになんてなりたくなかった。あのころの地味なあたしのままがよかった。おにいちゃんにあたしだと、ずっとわかってもらえる姿でいたかった。
 だから、あたしは最近はおにいちゃんとは会っていない。今の姿で出て行ったら、あたしはおにいちゃんに取っては、不法侵入した見知らぬ女だ。だから、こっそり、おにいちゃんに見つからないように、部屋の外からおにいちゃんの様子を伺うだけだった。


 最近のおにいちゃんは、自分の体がシキさんであることすらわからないようだ。
 17歳だったシキさんの体も、もう24歳。完全に成熟した女性になっている。
 おにいちゃんの知っているシキさんは、かわいくてほっそりした感じの女の子だったけど、今のシキさんは、美人で胸やおしりが大きくて、どちらかというと、豊満な感じの女性になっている。昔のシキさんに似ているといえば似ているけど、年が全然違う。まさか、これが自分の彼女の7年後の姿だなんて、思いもよらないに違いない。
 最近のおにいちゃんは、自分の――シキさんの体を触っている時間が長くなっている気がしてならない。
 今の24歳のシキさんの体は、17歳の男子高校生を興奮させるに充分な体なのだろう。ある意味、高校生の男の子からしたら、見たり、触ったりせずにはいられない体じゃないかと思う。それに、おにいちゃんに取っては、その体が大切なシキさんのものではなく、(少なくともおにいちゃんの認識では)見知らぬ女性のものであるということも、一線を踏み越えやすくしているのかも知れない。
 おにいちゃんは、今朝もシキさんの体をドレッサーの鏡に映して弄んでいるみたいだ。
 ドレッサーなんて、元々のおにいちゃんの部屋にある筈のないものだが、これがないと、おにいちゃんは自分の姿を確認するために、鏡を求めてすぐに部屋を出て行ってしまう。鏡を置いてやれば、取りあえず、半日は部屋から出てこないということがわかったので、不自然だけど、ドレッサーを置くことにした。
 食事は、誰もいなくなった後、こっそり部屋から出てきて、おかあさんが作ったものを勝手に食べるから、心配はしていない。お風呂も大抵は入ってくれる。問題は下着だ。今日女になったばかりのおにいちゃんに、自分で新しい下着を用意して、風呂上りに着替えさせるというのは、かなり難しい。一応、あからさまにドレッサーの横に着替え用の下着を置いてあるのだが、着替えてくれないことも多くて困っている。
 あと、もう1つの問題は運動。放っておくと、家の中をうろうろするだけなので、週に1度は有無を言わせず連れ出して、町内を散歩させている。見た目がまるで変わってしまったあたしと違って、両親は、多少ふけた程度なので、おにいちゃんは両親のことは認識しているようだ。もちろん、おにいちゃんとして扱うわけには行かないので、遠くから泊まりに来たおかあさんの友人の娘ということにする。おにいちゃんは、物凄く不審な顔をしているが、どう思われようと、それで言い張ってしまうしかない。1日ぐらいなら、何とかなる。毎日これだと、こっちが疲れてしまうので、この手は週に1回ぐらいしか使えないけど。


 どっちにせよ、おにいちゃんをこれ以上煙に巻くというのは、難しい、とみんな思っている。
 少なくとも、自宅のおにいちゃんの部屋では、かなり困難になってきていると思う。
 だから、あたしは考えている。
 大学を卒業して、就職したら、シキさんの体のヒロシおにいちゃんと一緒に家を出よう。
 どこかで部屋を借りて、一緒に暮らそう。
 もう、兄と妹としては一緒に暮らせないけど、ルームメイトとしてなら大丈夫だろう。
 おにいちゃんが朝起きると、見知らぬ部屋で見知らぬ女性になっている。その部屋には見知らぬルームメイトがいる。ルームメイトが、同居人の中身が別人になっていると看破する。
 そんなストーリーなら、なんとかやっていけそうな気がする。
 両親は反対するだろう。あたしの両親は、いつまでも、兄の元を離れようとしない娘を本気で心配しているのだ。
 でも、あたしは、おにいちゃんと離ればなれになるなんて、嫌。ずっとシキさんの姿をしたおにいちゃんと一緒にいたい。たとえ、おにいちゃんがあたしのことを妹だとわかってくれなくても。
 だから、あたしはおにいちゃんと一緒に家を出る。
 きっと――。



 トントントン。
 階段を昇ってくる足音。
 そのリズミカルな足音は、間違いなく妹のものだ。
 妹は中学2年生。正直、美人というわけでも、かわいいというわけでもない地味な女の子だ。ただ、面倒見だけはよくて、妹のくせに、ぼくにあれこれ世話をやいたりする。
 足音は隣の部屋の前で止まり、扉を開け閉めする音が聞こえた。
 時計の針は、11時過ぎを指している。もう寝るのだろう。まだ子供で、夜が苦手な妹にしてみたら、かなり遅い方だ。
 ――。
 ぼくの身には、今、異常な事態が起こっている。
 ぼくの体が見知らぬ女になってしまっているのだ。
 どうしてこんなことになってしまったのか、全く心当たりがない。
 確か、シキと映画を見に行って、その後、シキを送っていく途中で――。
 ――その後、気付いたらぼくの部屋にいて、体が見知らぬ女になっていた。
 どうしたらいいのだろう?
 両親に相談してみようか。
 駄目だ。この姿では、ぼくだとわかってくれないだろう。
 だったら妹は?
 妹なら、話せば何とかわかってくれる気がする。
 でも、万一、わかってくれなかったら、ぼくは、不法侵入した女として、警察に通報されてしまうかもしれない。
 それはまずい。
 だったら、何もせず、この部屋にいた方がいい。
 だいたい、今、起こっていることが現実のこととは思えない。
 ふと気付いたら、見知らぬ女になっていたなんて、合理的な説明がつけられない。
 いや、唯一、合理的な説明はある。
 それは、夢。
 ぼくは、夢を見ている。
 それ以外に考えようがない。
 そもそも、ぼくには、起きたという記憶もない。
 気が付いたら、自分の部屋で女の姿になっていたのだ。
 やっぱり、夢だとしか考えられない。
 ――。
 だから。
 ぼくは眠ることにした。
 これは全部、夢の中の出来事。
 一眠りして、明日になればすべてが元通り。
 こんな不思議な経験をしたことすらも忘れてしまう。
 明日になれば、元に戻れば、またシキに会える。
 だから、それまで。
 おやすみ、シキ。







テーマ : *自作小説*《SF,ファンタジー》 - ジャンル : 小説・文学

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