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呪遣いの妻 04

 その日の夕方、小娘が「今日は秘書室長のマンションに行きますから」とおれに告げた。
「行くって……」
「もちろん、お泊りってことですよ」
 秘書室長と言っても、社長の愛人の1人なのだから、社長が買い与えているマンションに泊まることは当たり前のことだ。
 だが、秘書たちにマンションを買い与えたのは、おれであって、小娘ではない。
「それも、妻の命令なのか?」
「そうじゃないですけど」
「だったら、キャンセルだ。いいか。あいつらは、おれの秘書だ。お前のじゃない」
 ここのところは、はっきりさせておかなければならない。おれたちの生殺与奪権を握っている妻の命令なら、おれも従わざるを得ないが、小娘が勝手におれの物に手を出すなんてことは許されない。今は一時的に体を入れ替えられているとは言え、入れ替えられたのは、体だけ。元々の立場――おれが「旦那さま」で小娘は妻の「侍女」というところは変わっていない筈だ。
「でも、社長秘書ですよ。今は、あたしが社長なんだから、あたしの好きにしたっていいじゃないですか」
 それも違う。いくら体が「社長」でも、小娘に社長の仕事ができるわけではない。実際に、部下に指示を出したり、決裁の判断をしているのは、おれなのだ。ただ、小娘の体ではおれが「社長」というわけにはいかないから、やむなく、小娘に「社長のふり」をさせているだけだ。「社長のふり」をしているだけの小娘がおれの言うことを聞かずに好き勝手なことをやりだしたら、おれの会社はあっという間に傾いてしまう。
「駄目だと言ったら、駄目だ」
「だってあたし、今日の午後は、秘書のお姉さま方を呼ぶのを我慢して、社長の仕事をいっぱいしたんですよ。もうこれ以上、我慢できません。今すぐにでも、誰でもいいから、女の子を抱きたいって気分なんですから」
 そう言って、「おれ」の姿をした小娘は、おれの方を好色そうな目で見た。
 おれは、背中に「ぞくり」としたものを感じ、思わず小娘から目をそらす。
「だ、第一、彼女と一晩も一緒にいたら、おかしいと思われるだろう」
「大丈夫ですって。だって、今のあたしはどこからどう見ても旦那さまにしか見えないんですから」
「お前にはおれとしての知識も記憶もないだろう。あいつは勘がいいから、しばらく話してたらおかしいことにすぐ気付くぞ」
「はは。危なくなったら、キスして黙らせちゃえばいいんですよ」
 小娘は、平気でそんなことを言う。
「しかしだな――」
 小娘と言い争っていると、おれの机――秘書用の机の電話が鳴った。一瞬、小娘と目が合ったが、仕方なく、おれが受話器を取る。
 電話の主は、秘書室長だった。
「社長に、準備ができたから、いつでも出られるって伝えて」
「――」
 なんでおれが、おれの愛人を寝取ろうとする小娘に取り次がなくちゃならないんだ。
 いっそ、電話を叩き切ってやろうかと思ったが、それより早く、小娘に受話器を奪い取られた。おれは、強く受話器を握り締めていたつもりだったが、いとも簡単に取られてしまった。
「ああ、おれだ。わかった。すぐ行くよ」
 小娘は、それだけ言うと、おれに向かって、「おれ」の顔で楽しそうに笑った。
「それじゃ、あたしは、これから秘書さんと帰りますから。――あ、旦那さまも、あたしの他の秘書のところに行ってもいいんですよ。あの子達、みんな、旦那さまのことをかわいくて仕方がないって思ってるみたいですから、きっと朝までかわいがってくれますよ」
「ふ、ふざけるな」
 おれは、出て行こうとする小娘の腕を両手で掴んで引き止めようとした。だが、「おれ」の姿をした小娘が軽く腕を払っただけで、今のおれの細い腕など簡単に振りほどかれてしまった。おれは、反動で社長室の床に倒れこんだ。
「旦那さまも、いい加減に学習しましょうよ。その体では今のあたしにかなうわけないって」
「なっ――」
 おれは、床に倒れたまま「おれ」の姿をした小娘を睨み返すしかなかった。
「あーあ。旦那さま、ワンピースの裾からパンツが見えてますよ。女の子なんだから、もっと恥じらいを持たないと」
「お、おれは男だ」
「へえ、そうなんですか。だったら、この場で確認してみましょうか」
 そう言って、「おれ」の姿をした小娘は、服を脱ぎ出そうとする。
「や、やめろ」
 おれは、床に倒れたまま、転がるように小娘に背を向けて、這うようにして逃げ出した。
「何逃げてるんですか。冗談に決まってるでしょ。あたしは、これから秘書さんを抱きまくりなんですから。旦那さまみたいなお子様を相手にするわけないでしょ」
 そう言い残すと、小娘は、床に倒れたままのおれを置いて、社長室を出て行った。
 社長室には、おれ1人が残された。
 おれは、床に横たわりながら屈辱にまみれていた。
 何だ、あの態度は。今はこんな姿をしているが、おれはお前の主人なんだぞ。
 それに、あの物言いは何だ。「あたしの秘書」だと? いつおれの秘書からお前の秘書に変わったんだ?
 許せない。あの小娘、元に戻ったら、屋敷から追い出してやる。
 いや、それだけでは飽き足らない。
 元に戻ったら、精力絶倫の体になったら、お前のことを一晩中犯し続けてやる。この間やられたように、平手で顔を張り倒してやろう。おれのものを無理矢理押し込んでやろう。泣こうが喚こうが、絶対に許してやらない。
 おれは、元に戻ったおれが、逃げようとする小娘を力づくで押さえつけ、無理矢理犯している様を頭に浮かべた。
 ――?
 何だ、これは?
 おれの頭の中に、「おれ」が「小娘」を犯している映像が流れている。
 おれは、小娘を陵辱することを想像した筈なのに、おれの意識は、大男に陵辱される小娘の感覚を思い描いていた。
 小娘の「おれ」に顔を張られ、男のものを股間に押し込まれた感覚が蘇る。
「い……い、いゃーっ!」
 おれの口から、思わず、悲鳴のような声が出た。紛う事なき若い女の声。
 おれは、自分の口に手を当てて、呆然とする。
「どうしたの? 何かあった?」
 しばらくすると、秘書の1人が飛び込んできた。
「今、悲鳴のような声が上がったけど」
「あ――」
 ようやく我に返って見上げると、一番若い秘書が不安そうにこちらを見下ろしている。
 社長室の壁は分厚いので、少々の物音なら漏らすことはない筈だが、どうやら、小娘が出て行くとき、ドアを閉めていかなかったらしい。
「どうしたの? 社長はさっき出て行ったから、誰もいないよね」
「何でもない――な、何でもありません」
 慌てて言い直して立ち上がる。
「あ、ちょっと」
 おれは、不審な目で佇む秘書の脇を抜けて、駆け出した。
 おれは、秘書室を駆け抜け、総務の脇を必死に走った。
 目には涙を浮かべていたかもしれない。ピンクのワンピース姿の少女が会社の中を泣きながら走っていったのだ。周囲から好奇の目で見られたに違いないが、そんなことよりも、一刻も早く、この会社――おれの会社から逃げ出したかった。おれの会社で、こんな惨めな姿を晒すなんて、おれには耐えられない。
 幸い、エレベータはおれ1人だった。
 1人になると、おれの目からぼろぼろと涙がこぼれてきた。おれは、下りのエレベータの中で、ひとり声を上げて泣いた。
 まただ。この娘の体は、どうしてこんなにも涙もろいのか。
 おれは、後から後から止め処なく出てくる涙をハンカチで拭った。妻から与えられたそのハンカチは、レースの縁取りがかわいらしい少女趣味のものだった。
 エレベーターが下に着く頃、携帯電話が鳴った。
 妻だった。
 こんなときに。
 出るのをやめようかと思ったが、そうもいかない。今の屈辱にまみれた現実をひっくり返すことができるのは、呪の力を持った妻だけなのだ。何があっても、妻の機嫌を損ねるわけにはいかない。
「もしもし」
 できだけ冷静に、落ち着いた口調に聞こえるように言った。いや、自分では言ったつもりだったが、駄目だった。
「まあ、どうなさったのですか? 何だか声が震えているようですが、あなたさまの身に何かあったのですか?」
「う、うるさい」
 おれが泣いていたことを、妻は感じ取ったに違いなかった。
「おい、いい加減にあの小娘を何とかしてくれ」
 おれは、自分の心の動揺を悟られまいとするように、妻に喰って掛かった。
「あらあら、どうなさったというのです」
 おれの怒りとは裏腹に、妻の口調は、幼子をあやすようなものだった。
「あの小娘、今日はおれの秘書のところに泊まる、と言い出したんだぞ」
 おれは、怒鳴るような口調で言ったが、甲高い小娘の声なので、キンキンと喚いているようにしか響かない。
「それは仕方がないでしょう。今のあの娘は、あなたさまの体から湧き出す欲望を抑えきれないのですから。このわたくしとて、そうそう毎晩相手をしてはいられません。かと言って、街で行きずりの女と済ますというわけにもいかないでしょう」
 確かに、どこの誰とも知れない女との間に「おれ」の子ができてしまうのだけは避けないといけない。だからと言って――。
「それに、あなたさまは、今の姿で秘書たちのところに泊まる、というつもりはないのでしょう」
 妻は、当然秘書たちから昨夜のおれの痴態についての報告を受けている筈だ。おれは、黙ってその言葉を聞き流す。
「だったら、今は、秘書たちのことなど放っておけばよいではありませんか。どうせ今のあなたさまに取っては、必要のないおもちゃなのですから。それに考えてもみてください。あの娘が秘書のところへ行くということは、今夜は、わたくしとあなたさまの2人きり。邪魔な侍女はいないのです。あなたさまも、使用人用の狭い部屋で過ごす必要はありません。いつものわたくしたちの寝室で、久しぶりに夫婦水入らずで過ごしましょう」
 確かに小娘がいなければ、おれはあの狭い使用人用の部屋で縮こまっている必要はない。妻と2人きりなのだから、体は小娘のままとは言え、今までのようにあの家の主人として振舞えばいい。
「そ、そうかな」
「いい厄介払いができたと思えばよいのです」
「ああ」
 妻にそう言われると、そんな気がしてくる。それまで、おれの中で燃え盛っていた小娘に対する怒りがすーっと収まっていった。
 そう言えば、この電話は妻からのものだった。一体どんな用があったのだろう?
「実は、駅前の洋菓子店でケーキの予約をしてあったのですが、受け取るのを忘れてしまったのです」
 それをおれに取って来て欲しいということらしい。屋敷の最寄り駅にある店だから、確かに帰り道だ。
「久しぶりにあなたさまと夫婦水入らずでいただきましょう」
「おれは、ケーキなんてあまり好きじゃないぞ」
 この店は妻のお気に入りの店らしく、週に1度は買ってきて食べているようだ。一度だけおれも付き合って食べたことがある。生クリームとフルーツがたっぷり載ったショートケーキだったが、おれには甘過ぎて、1口食べただけで、気分が悪くなった。
「今の体ならば大丈夫です。1口召し上がれば、女の子が甘いものに目がない理由がわかりますよ」
 確かに舌は小娘のものだから、味覚も変わっている筈だ。実際、この体になってから、何を食べてもうまくない。というか、ちっとも腹が減らないので、食欲というものが湧かない。高級ワインも苦いばかりだし、何か1つぐらいはうまいと感じるものがないと割に合わない。
 おれは会社を出て、タクシーを拾おうとしたが、道路は大渋滞。車は、歩くようなスピードでしか流れていない。これでは、仮にタクシーを拾えたとしても、ケーキ屋に着くのはいつになるかわからない。あと30分で閉店だと言っていたので、とてもじゃないが間に合わない。
 仕方がないので、地下鉄で行くことにした。地下鉄なら、おれの会社から屋敷の最寄り駅まで1本。ものの10分で着く筈だ。
 そう言えば、この体になってから、こうしてひとりで外を歩くというのは初めてのことだ。そのことが、おれの気持ちを心細くさせていた。小娘の体に入れられてから、大半は屋敷と会社の中で過ごしたし、社外に出るときも、常に小娘か秘書たちと一緒だった。移動はすべて車だったので、外を歩くこと自体ほとんどなかった。
 夕方の帰宅時だったためか、会社帰りのサラリーマンやらOLやらが大勢道を歩いている。その大半が、おれよりも背が高い。大抵、頭ひとつぐらい見下ろされる感じだ。彼らと目が合うたび、おれの体が狙われているのではないかという不安に駆られる。か弱い少女の体で、どこの誰とも知れない者たちの間をひとりで歩くというのが、これほど心細いものだとは知らなかった。小娘の「おれ」と一緒にいたときには、感じなかったことだ。「おれ」のような背が高くて屈強な男と一緒にいる女を襲おうとする奴はいないだろう。「おれ」の体をした、あの忌々しい小娘が一緒にいれば、こんな不安な気持ちにならずに済んだのだと思うと、それも何だか悔しかった。
 地下鉄の階段を下りるとき、地上に上ってくる乗客とすれ違う。今のおれは、裾の短いワンピース姿。下から、上がってくる奴らにパンツを見られているんじゃないかと不安になるが、裾をびったりと押さえて歩くというのも変だろう。風で裾がめくれないように気をつけながら、なるべく階段の端の方をゆっくりと下りていく。すれ違う男たちが、おれの細くて白い脚を舐めるように見ている気がして気色悪い。
 階段を降りると、自動販売機で切符を買った。地下鉄に乗るなんて何年ぶりだろう。会社が大きくなってからは、都内の移動はほとんど車だった。
 切符を自動改札に入れようとしたら、投入口がなくて焦った。どうすればいいんだ? 自動改札の前で立ち往生していると、「切符の人はこっち」と駅員に別の自動改札口を指示された。どうやら、ICカード専用の自動改札機だったらしい。おれも機械メーカーの社長だから、最近の自動改札機は、切符の投入口がないため、低コストでできるということは知識としては知っていたが、実際に切符を入れる口がない自動改札機に出くわすと戸惑ってしまう。おれはもちろん、Suicaなんて持っていない。
 夕方の地下鉄のホームは混んでいた。ちょうど電車が入ってきたが、ドアのガラスに乗客の顔が張り付くぐらいの混雑だった。通勤ラッシュの電車に乗るなんて、それこそ、学生時代以来のことだ。あまりの混み具合に1本見送ってしまった。あんなところに入ったら、この小さな体は押し潰されて、無事ではいられない気がした。
 一旦閑散としたホームも、次から次へと乗客がやってきて、すぐに混雑し始めた。僅かの間に乗降口には列が出来ている。
 少しでも空いているところを見つけて列の後ろに並ぼうとした。下を見ると、床には「女性専用車」と書いてある。最近は、痴漢対策として、こういう車両があるのだということを思い出した。確かに並んでいるのは女性ばかりだ。半分以上は、痴漢の心配など無用な女だったが。
 列の長さからすると、女性専用車の方が若干空いていそうだが、おれは、躊躇した。今のこの体なら、おれが女性専用車に乗ったって、誰も文句を言わないだろうが、それではまるで女性専用車に逃げ込むみたいで、おれのプライドが許さない。どうしても、会社の女子トイレで泣いたときの惨めな気持ちを思い出してしまう。かと言って、隣の一般車に乗るのも気が進まない。ひどい混みようなのはさっきの電車を見てわかっているし、それ以前に、痴漢に遭ったらどうしようという不安があった。
 おれ個人としては、こんなどこにも肉の付いていない骨と皮ばかりの少女を触りたがる奴らの気が知れないのだが、こういういたいけな少女をいたぶることに喜びを感じる変態がいることも、おれは知っている。おれ自身が、そんな奴の贄となるなんて、絶対に御免だった。
 おれがどちらの列に並ぼうかと考えていると、後ろからいきなり腕を掴まれた。
「はい、こっちに並ぶよ」
 背中で女の声がして、無理矢理女性専用車の方に連れて行かれた。
 若い女だった。結構背が高い。今のおれより20センチぐらい大きかった。頭ひとつ見下ろされている感じ。うちの秘書たちと同じぐらいだろうか。体型はほっそりとしていて、中性的な顔立ちだった。知らない女だ。おれの会社の従業員だろうかと思ったが、おれの知る限り、社内にこんな女はいない。
「駄目だよ。あんたみたいな可愛い子があっち行ったら、男共の思う壺だよ」
 女は小声でおれに話し掛ける。隣の列の男たちに聞こえないように声を落としているようだ。
「あんた、地下鉄、乗り慣れてないだろ。見てればわかるよ。さっきも、改札で迷ってたよね」
 どうやら、女は、おれが自動改札に切符を入れる口がなくて戸惑っているあたりから、おれのことを見ていたようだ。きっと、おれのことを世間知らずの田舎娘とでも思ったのだろう。無知で無力な娘を男共の魔の手から救い出すべく、こちら側へ連れてきてくれたらしい。
 女は、更に声を落として言う。
「あんたの並ぼうとしていた列の前から2番目の男。――そう。黒縁の眼鏡で頭の薄い奴。あれは、多分、痴漢の常習者だね」
「えっ?」
 女に言われて、そちらを見ると、脂ぎった感じの小太りの中年男だった。言われてみれば、いかにも、という感じの男だ。
「先週もこの路線で痴漢騒ぎがあったんだけど、そのとき、走って逃げていったのが、多分あいつだね。ああいうのは懲りないから、またやるんだよ。こうして、女性専用車の隣の車両で、女性専用車からこぼれてくる獲物を狙うのさ」
 もう一度、その男の方を見る。普通に立っているだけなのに、汗をかいている。改めて見ると、こいつに体を触られたらと思うとぞっとするような男だった。
 やがて電車がやってきた。女性専用車も半端ではない混みようだ。久々の通勤ラッシュ。しかも、慣れない体ということで、つらいものがある。おれは、列の最後尾から体を何とか車内に押し込み、扉が閉まると、ドアに体をもたれかけるように立っていた。他の乗客(もちろん、全員女だ)との間に多少の隙間はあるが、体の向きを変えるのも難しい状態だ。これが女性専用車でなかったら、どうなっていたことか。
「あんた、どこまで行くの?」
 おれの後ろに立つことになったさっきの女が訊いてくる。おれは、屋敷の最寄り駅の名前を言った。ここからだと5つ先の駅だ。
「そこに住んでるの?」
 おれは無言でうなずいた。
「いいとこ住んでるね。ひょっとして、あんた、どっかのお嬢さまか何か?」
 急にそんなこと言われて、戸惑っていると、背中の襟元をつままれるような感触がした。
「い?」
「へえ。このワンピ、いいモノじゃない。結構するよね」
 この女、おれのワンピースの襟元をひっくり返して見てるらしい。
「ちょ、ちょっと――」
 振り向こうとしたが、車内は満員で体の向きを変えることはできない。
 せめて、顔だけでも向けて抗議をしようとしたそのとき――。 
「ひっ」
 いきなり、ワンピースの胸元に手を突っ込まれた。おれより20センチは身長の高い女が、おれの肩越しに、胸元に手を入れてきたのだ。 
 あまりのことに思考が停止した。
 女の手がおれの胸元で妖しく動いている。
 Aカップのブラ越しに、おれのふくらみかけの乳房がねっとりとした手つきで揉まれている。
「あ――」
 思わず声が出た。声を出したおれは、それが何を意味するのかわかっていない。頭は完全に活動を停止している。
 電車が揺れて、おれは、少しだけ現実に引き戻された。
(駅だ)
 いつの間にか電車は止まっていた。地下鉄だから、すぐに駅がある。おれが体を預けている扉が開くかと思ったが、開いたのは、反対側の扉。相変わらず、おれは小さな胸をまさぐられていた。今の駅で更に乗客が増えたようだ。おれは、満員の乗客に横から扉に押し付けられ、背の高い女に上から押さえつけられて、身動きできないでいた。
(やめろ)
 言葉にしようとしたが、声にならなかった。
 電車が動き出して、また揺れた。おれの体が後ろに傾く。おれの小さな尻が何かに押し付けられた。
 いや、そうじゃない。
 尻をまさぐられる感覚だ。誰かの手がおれの尻の上で、もぞもぞと動いている。女は2本の手でおれの胸と尻の両方をさわっているようだ。ぞわりとした感覚が背中を駆け上ってきた。
(こ、この)
 相変わらず声が出ない。
 そうしている間にも、胸を揉んでいた手はAカップのブラの中に進入しようとする。女の柔らかな手がおれの小さなふくらみに直接触れたとき、ようやくおれは声を発するとこが出来た。
「あんっ」
 思わず発した声に、おれの前にいた別の女が横目でおれの方を見た。おれの声が艶かしいものだったからだろう。おれは、何食わぬ顔で視線をそらそうとしたが、顔が紅潮してくるのを抑えられない。
「子猫ちゃん、感じているの?」
 おれの後ろにいた女が、おれの耳元で小声で囁く。
「ねえ。もっと、声を聞かせてよ。恥ずかしがらなくていいよ。ここにいるのは、女ばかりなんだからさ」
 そう言いながらも、女の手は止まらない。尻の方の手は、ワンピースの裾をめくり上げ、ショーツの上からおれの尻を撫でている。
 電車がまた揺れて、次の駅に止まったが、またしても、開いたのは反対側のドアだった。おれは、相変わらず動けない。おれは、女にされるがままだった。
「や……やめて――」
 おれは、力なくそう言った。おれに頭をくっつけているこの女だけに聞こえるような小さな声だった。こんなこと、他の乗客の女たちには聞かせられない。
「もっといい声で鳴いてくれたら、考えてあげる」
 その間も、女の責めは続く。ついに、ブラの中の手が、おれの小さな乳首を探り当てた。
「ひゃんっ」
 いつもにも増して、高い声が出た。後ろの女がおれの右の乳首を摘み上げたからだ。女は、おれが挙げた嬌声に気をよくしたのか、ブラの中の手を動かして、左の乳首も摘み上げた。体中に電流が走った。
「んっ」
 おれは、何とか声を上げないように必死に抵抗する。
「我慢しないでいいの。声出しちゃえば楽になるし、気持ちいいよ」
 耳元で悪魔が囁いている。体中が敏感になって、熱くなっているのがわかる。昨夜、ホテルで秘書たちに弄ばれたときと同じ感覚だ。絶対に認めたくないことだが、快感が――女の快感が、おれの体から湧き上がってくる。甘く、とろけるような感覚。できることなら、この感覚をいつまでも味わっていたい。――いや、これよりももっと凄い快感を味わってみたい。彼女の言うとおり、我慢なんてせずに、思い切り声を出せば、もっと気持ちよくなれるのだろうか。
 そうするうちにも、おれの尻を這っていた女の手が、ショーツの中に潜り込んできた。
 ぞくぞくする。
 気持ちよすぎて立っていられない。満員電車の中でなかったら、とっくに倒れてしまっていただろう。
 こんな状態で、感じるところを触られたら、どんな声を出してしまうかわからない。
 そう思ったとき、電車が減速して、駅に止まった。
 今度は、おれのもたれ掛かっていた扉が開いた。
 ほとんど立っていられない状態だったおれは、よろめきながらホームに放り出された。このまま、床に倒れこむ、と思った瞬間に、誰かの手で抱きとめられた。
「子猫ちゃん、大丈夫?」
 その声で、ようやく正気に戻った。
 あの女だ。さっきまで、おれの胸や尻を触りまくっていた女。
「ちゃんと立てる?」
 そう言って、女は抱きとめていた手を離して、おれをその場に立たせた。
「ごめんね。あたし、この駅で降りるから。よかったら、また声かけてね。それじゃ、ごちそうさま」
 そう言うと、女は、満面の笑みで手を振りながら最寄の階段を駆け上がっていった。
「そ、そんな――」
 おれは、ホームに呆然と立ち尽くす。おれが乗っていた電車はいつの間にかドアが閉まっていた。
 結局、騙されていた、ということか。
 おれに親切ごかしに近寄ってきて、「あいつは痴漢だから気をつけろ」と言っておきながら、その実、自分が痴漢――女だから痴女か――だったというわけだ。痴漢扱いされた男は、たまたまあそこにいただけの奴だったのだろう。
 東京に出てきたばかりの田舎娘と見られたのか、地下鉄の乗り方も知らないお嬢さまと思われたのか、どちらかはわからないが、あの痴女に取っては、おれはいいカモだったというわけだ。生き馬の目を抜くビジネスの世界で、詐欺師まがいの男たちとの騙し合いを勝ち抜いてきたおれが、こんなことに引っ掛かるなんて――。
 おれの前をおれたちがさっきまで乗っていた地下鉄が通り過ぎていく。
「はあ……」
 急に力が抜けて、おれはホームにぺったりと座り込んだ。


 結局、そのままホームで後続の電車をもう1本やり過ごし、ケーキ屋には閉店間際に着いた。
「あら、ギリギリ間に合ったね」
 店に入るなり、30歳ぐらいの女性店員から声をかけられた。残り物のケーキを全部食べているんじゃないかというような丸々と太った女だった。どうやら、彼女は小娘とは顔見知りのようだ。この店は、妻が贔屓にしているところだから、小娘が予約しておいたケーキをこうして受け取りに来ることも頻繁にあったのだろう。
 おれとしては、小娘としてどんな態度で接したら不自然でないかがわからない。取りあえず、元の小娘のように、おとなしくしていようと思い、無言で会釈だけしたら、笑われた。
「どうしたの? 今日は元気ないね。熱でもあるんじゃないの? いつもは、鬱陶しいぐらいによく喋るのに」
 そう言って、太った店員が、がははと笑う。店は高級住宅街にある小洒落た洋菓子屋という雰囲気なのだが、この店員は、下町の居酒屋のおかみという風情だった。
「今日はまた、かわいい服着てるね。ひょっとして、このあたりのお嬢さまの振りでもしようってかい? 確かに、あんたは元がいいんだから、いいもの着て、黙っていれば、お嬢さまに見えなくもないねえ」
 おれは、ちょっと意外な気がした。おれの記憶にある小娘の姿と言うと、朝食のとき、妻の横で黙って立っているというものだ。いつも、伏目がちに無言で立っていたので、無口でおとなしい娘という印象しかなかったのだが、この店では、よく喋る娘として認識されているようだ。確かに、最近の小娘の言動など見ていると、そっちの方が本性だという気がするが。
 おれは、やたらと話しかけてくる店員を適当にやり過ごし、さっさとケーキを受け取って店を出ることにした。小娘と体を入れ替えられてから、小娘のことを知る人間には今まで出会わなかったが、実際に出くわしてみると、面倒なことこの上ない。おれに小娘の振りなんてできないから、極力会話などせずに済ますしかない。相手によっては、「無視された」ということになり、人間関係にヒビが入るかもしれないが、まあ、いい。所詮は小娘の人間関係だ。
 店を出るとすっかり暗くなっていた。ここから屋敷までは歩いて10分と言うところだが、閑静な高級住宅街ということもあって、人通りも少ない。
 おれは、屋敷までタクシーで帰ることにした。僅かな距離だったが、小娘の体で暗い道を歩くなんてことはしたくない。道行く人間が、あの痴女のように何かを企んでいる気がして、怖かったのだ。
 屋敷に帰ると、妻が玄関で迎えてくれた。
「お帰りなさいませ」
 結婚してから、必ずこうして迎えに出てくれていた妻だったが、小娘と入れ替えられてからは、これがはじめてだ。
「これでいいか?」
 ケーキの箱を差し出すと、珍しく、妻が少女のように嬉しそうに笑った。こうしていると、歳相応――20歳の娘に見える。
「お食事はいかがなさいますか?」
「今日もあいつのせいで、昼飯に肉を食わされたんだ。腹は減っていない」
 おれは、これまで屋敷に帰ったら、まずはリビングで寛ぐことにしていた。10畳分以上の広さのある豪華な洋間だ。この屋敷を建てた明治の頃には、訪問客をここでもてなしたらしい。おれは、いつものようにリビングへ向かう。妻は、おれが持ってきたケーキの箱を大事そうに持ってついてくる。
「それでは、早速ケーキをいただくことにしましょう」
「腹は減っていないと言っただろう」
「あら、あなたさまは、甘いものは別腹、という言葉をご存知ありませんの?」
 妻は、ケーキの箱を持ってキッチンへ向かう。おれは、ひとりでリビングに入った。いつもなら上着を脱ぎ捨て、ネクタイを外すところだが、ワンピース姿では、何も脱ぐものがない。
 おれは、取りあえず、リビングのソファにどっかと腰を下ろした。体が小さくなったのでソファが巨大に思える。ふかふかのソファに呑み込まれる感じがした。いつものように脚を組むと、ワンピースの短い裾から自分で自分のパンツが見えそうだった。
「お茶が入りましたよ」
 そう言って、妻がリビングに入ってくる。紅茶を淹れてくれたようだ。おれは、本来ならコーヒー党なのだが、小娘の舌ではコーヒーのような崇高な飲み物は理解できないらしい。会社にはおれのお気に入りの豆が置いてあるが、自分で淹れて飲んでみたら、苦くて飲めなかった。
 テーブルにはミルクティーが2つ。
「お砂糖は2杯にしますね」
「甘過ぎないか?」
「あの娘は、いつも3杯は入れてましたよ」
 そう言って、妻がおれのカップに砂糖を入れる。甘ったるいミルクティーになるだろうが、多分、この小娘の幼い舌は、これぐらいでないと、うまいと感じないのだろう。
 おれが持ってきた箱に入っていたケーキは2つ。チョコレートケーキと、フルーツのショートケーキ。ショートケーキの方は、以前、1口食べて、気分が悪くなるほど甘かった奴だ。おれは、チョコレートケーキの方に手を伸ばしたが、妻に先に取られてしまった。
「あなたさまは、こちらをお召し上がりください」
 そう言って、妻はショートケーキの方をおれに差し出す。
「おれもチョコレートの方がいいんだが」
 こんな生クリームだらけのケーキなんて、考えただけでも気持ち悪くなってくるが、チョコレートだったら、何とか食えるだろう。
「駄目です。このザッハトルテはわたくしのもの。あなたさまといえども、お譲りするわけにはいきません」
 妻にしては、珍しく、子供っぽいことを言う。旧華族の令嬢にして、上場企業の社長夫人の台詞とは思えない。やはり、スイーツというものには、妻のような女でさえも、普通の20歳の女の子に戻してしまう魔力があるのだろうか。
「それに、あなたさまの今の体では、このチョコレートは、苦すぎます。あの娘もそうでしたから。こちらのショートケーキは、あの娘がいつも好んで食べていたもの。きっと、あなたさまのお口に合う筈です」
 そう言って、妻はおれの前にショートケーキを置いた。
「さあ、どうぞお召し上がりください」
 妻にそう言われて、おれは、恐る恐るショートケーキの生クリームの部分を少しだけ口に運んだ。
 うまいっ!
 何だ、これは。
 生クリームは、おれが予想していたよりも何倍も甘かった。だが、それは不快な甘味ではなく、うっとりするような甘さだった。
 クリームがおれの口の中でじゅわっと溶けると、おれの脳もとろけそうになる。
「どうです?」
「凄い――」
 言葉が続かなかった。それよりも、先を味わいたい思いがおれの手を動かした。スポンジもふんわりしていて、生クリームの甘さを引き立てているようだ。スポンジの間に生クリームと共に挟み込まれたオレンジやマンゴーのほのかな酸味も絶品だ。ケーキの上に載っている小さくスライスされたメロンの熟し切った芳醇な甘さに、思わず顔が緩むのが自分でもわかる。真ん中に載っていたいちごを指で摘んで食べたときには、おれはこの上なく幸せな気持ちになっていた。
「そうやって食べている姿は、あの娘と見分けがつきませんね」
 妻にそう言われて、はっ、となった。
 おれは、取り繕うように険しい表情を作って見せたが、妻の前では無駄な努力だったろう。
「お味はいかがです?」
「う、うまい」
 何とか、それだけ言った。はっきり言って、この小娘の体になって、物を食べてうまいと思ったのは、はじめてだった。それどころか、元の体のときも含めて、こんなうまいものを食べたのは、記憶にない。物を食べて、幸せな気持ちになったというのは、初めての体験だった。
「女の子が、甘いものに目がないことがおわかりになりました?」
「ああ」
 確か、さっきのケーキ屋で払ったのは2つで1200円だった。安くはないが、このあたりの高級住宅街のケーキ屋としては、びっくりするほど高いものではないだろう。それで、これほど脳をとろけさせるということは、この小娘の舌は、甘いものなら何でも絶品と感じるに違いない。実際、砂糖2杯のミルクティーも、甘くて、おれを幸せな気持ちにさせている。
「女の子には、こういう楽しみもあるのですよ。わたくしが、18歳の女の子であることを楽しみなさい、と言った中には、こういうことも含まれているのです」
 おれは、これまでランチのときは、早々に満腹になってしまって、デザートを食べられないでいた。今更ながら、そのことが悔やまれて仕方がない。こんなことなら、無理に肉なんて食べずに、デザートだけ食べておけばよかった。秘書室の歓迎会のときも、フルコースだったから最後にデザートが出た筈なのだが、おれは酔い潰れてしまって、食べていない。高級フレンチのデザートだから、きっとこんな1000円にも満たないケーキどころではない旨さだった筈だが、何が出たのかさえ知らないというのが、無性に悔しくなった。
「あのケーキ屋さんは、わたくしが5歳のときにできたお店なのです」
 おれは、早々にショートケーキを平らげてしまったが、妻の前には、まだチョコレートケーキ――妻はザッハトルテと呼んでいた――が半分残っている。妻は、半分になったケーキを愛おしそうに見ていた。
「その頃のわたくしは、呪の力を持って生まれてきたということで、この家の当主たるべく、厳しい教育を受け始めたところでした」
 珍しく、妻が自分のことを語りだした。妻の子供の頃の話なんて、これまで聞いたことがない。
「呪、とやらの練習でもしてたのか?」
 おれがそう言うと、妻は笑った。
「以前にも申し上げたではありませんか。わたくしは、明治以来、100年ぶりに力を持って生まれてきた者。呪の力を持った者などわたくし以外にいないのですから、誰もわたくしに呪の指導などできはしないのです」
 妻は、一旦、言葉を切って、ザッハトルテを口に運び、幸せそうな笑顔を見せた。
「そもそも、呪の力とは、訓練によって高められるものではないのです。その力を持って生まれてきたかどうか。それがすべてです。呪の力を持っていれば、その使い方は最初からわかっています。古くから伝えられている文書に、かつてどのような呪が使われたのかが記されていますが、それを見ただけで、自分にどれができて、どれができないか、わかってしまうのです」
 妻は、言葉を一旦切って、紅茶を一口飲んだ。
「幼いわたくしが受けてきたのは、この家の当主としての教育です。謂わば、帝王学とでも申しましょうか。当家は、呪を扱う当主が出たときに栄えてきた家です。わたくしは、生まれたときから、明治以来、衰退を続けているこの家を再び栄えさせる使命を帯びていました。
 我が家は決して裕福ではなかったのですが、亡きおとうさまは、無理をしてでも、わたくしのために、各界の一流の人を呼んでくれました。小学校に上がるかどうかという女の子に、毎週1人ずつ、各分野でこの国でも有数の大人が会いにやってくるのです。今思えば、不思議な光景だったのでしょうが、当時のわたくしにはそれが当たり前のことでした。毎週、その方たちと、いろんなことを話しました。もちろん、小さな女の子にとっては、それほど面白いことではありません。はっきり言って、退屈な時間でした。そんなわたくしの興味をつなぎとめるために、亡きおとうさまは、『お茶会』と称して、このケーキをわたくしに与えてくださったのです。このザッハトルテは、その頃からのわたくしのお気に入りでした。毎週、1度だけ、お客様が来る『お茶会』のときだけに食べられるザッハトルテ。それ以外の日には、決して買ってはくれませんでした。苦しい家計の中から、決して安くないケーキ代を工面していたのでしょう。ですから、小さい頃のわたくしは、大きくなったら、我が家をもっと裕福にして、毎日、このザッハトルテを食べられるようになりたい、と願ったものです」
 妻は、言葉を切って、紅茶を1口啜った。こうして、幸せそうにケーキを食べている様子は、他の20歳の女の子と何ら変わりがない。とても、呪などという得体の知れない力の持ち主とは思えなかった。
「『お茶会』は、おとうさまが亡くなるまで続きました。父の死後は、誰かが訪ねてくることはなくなりました。あなたさまと一緒になってからは、できれば、あなたさまと『お茶会』をしたかったのですが、あなたさまは、甘いものが苦手なご様子。仕方なく、週に1度、あの娘と一緒にこの店のケーキをいただいていたのです。今日がその週に1度の『お茶会』の日。こうして、あなたさまと一緒に『お茶会』をできるなんて、こんな嬉しいことはありません」
 実際、妻は、いつになく上機嫌だ。ひょっとして、この『お茶会』のために、小娘をけしかけて、今夜は秘書のところへ追い払ったのではないかという気になってくる。
「そんなにこのケーキが好きだったら、毎日でも食べたらいいだろう。今は、そのぐらいの余裕はあるんだから」
 おれがそう言うと、妻は困ったように笑う。
「あなたさまのおかげで、家計が立ち行くようになったことには感謝しております」
 妻はそう言って、小娘の姿をしたおれに軽く頭を下げた。
「もちろん、今なら、毎日でもこの店のケーキを買うことはできるのですが、さすがに毎日ケーキと言うわけにもいきません。こういうものは、週に1度だからいいのです。それとも、あなたさまは、もっと丸々と太った妻をお望みなのですか」
 そう言って、妻はいたずらっぽく笑った。
「先程の店に、よく太った女性がおりましたでしょう。あの方は、あの店のオーナーのお嬢さんなのですが、開店当初は、それはほっそりとしたきれいなお姉さんでした」
 要するに、毎日ケーキなど食べ続けていたら、すぐにあんな体型になってしまうというわけか。
「わたくしは、こう見えても、努力家なのですよ。この家の当主である以上、当然のこととして、学業でも常に学校で一番であることを求められました。わたくしが通っていたのはいわゆるお嬢さま学校で、裕福な家の子が多かったのです。ですから、同級生たちの多くには、家庭教師がついていたようですが、わたくしは、家庭教師どころか塾にさえ通えませんでした。この屋敷の維持費と毎週来ていただくお客様への謝礼で、いつも我が家の家計は火の車でしたから。わたくし自身の努力と創意工夫で成績を上げるしかなかったのです」
「試験なんて、呪の力で何とかならなかったのか」
「呪というものは、他の人の答案を盗み見るような都合のよい力ではないのです。仮に、他人の考えを覗けたとしても、それが正解かどうかはわからないではありませんか。そもそも、クラスにはわたくし以上に成績の良い子はいなかったのですから、他人に頼るくらいなら、自分で勉強した方が確実だったのです」
「だったら、教師から試験問題を漏らしてもらえばよかったじゃないか」
 妻は、「あ」と口に手をやった。その考えには、今はじめて思い当たったようだ。
「確かに、呪の力を使えば、事前に先生から試験の問題を入手することは可能でしたね。でも、それをやってしまうと、今度はそのことを口止めするためにまた呪を施さなくてはなりません。ただ、これが難しいのです。呪によって何かをさせるのあれば、そのとき限りのことですから簡単ですが、何かをしないようにするというのは、半永久的に呪をかけ続けることになりますから、難しいのです。しかも、それを全教科行なうわけですから、大変な手間です。それだったら、自分で試験勉強した方が簡単です。それ以前に、わたくしには、試験で点数さえ取れればいいという考えはありませんでした。常に一番の成績でいるというのが目的ではなく、ちゃんとした知識や応用力を身につけることが重要だとわかっていましたから」
 その後も、おれは妻と随分いろんな話をした。亡くなった父親のこと。数少ない友人のこと。結婚してから数ヶ月が過ぎたが、こんなに妻と話したことはなかったかも知れない。
 ひょっとしたら、おれがいつもの姿ではなくて小娘の姿だったため、妻は威圧感を感じることなく、気安く話すことができたということなのだろうか。


 『お茶会』の後は、風呂に入ることになった。
 この体で使用人用以外の風呂に入るのは、初めてだ。秘書たちの「歓迎会」のときは、朝、シャワーを浴びただけだった。
 屋敷にあった元々の風呂は、旧式のタイル張りのもので、傷みが激しかったので、石造りの立派なものに全面改装してある。浴槽は4人が同時に脚を伸ばして浸かれる広さのものだ。他にもちょっとした仕掛けが施してある。
 脱衣所で、朝から着せられていた恥ずかしいワンピースをようやく脱ぐことができた。下着姿になると、あまり役に立っているとは思えないAカップのブラを取り、ショーツを脱いだ。浴室に入るガラス戸に、中学生みたいな少女の裸体が映っていた。
 予想通りと言うか、小娘の体で入る風呂は、広大に感じた。この体なら、4人どころか6人ぐらいは同時に入れそうだ。
 壁にもたれて湯船に浸かっていると、体が温まって、リラックスした気分になってくる。男のときとはまた違った気持ちよさを感じる。小娘の体になってたった数日だが、段々と違和感を感じなくなりつつあるようでちょっと怖い。
 湯自体は、使用人のユニットバスと同じものの筈だが、この豪華な風呂で浸かっていると、まるで違う感じがする。小娘のきめ細かな肌の上でお湯が滑るようで心地よい。
 お湯を体に馴染ませるように自分の肌に触る。これも、すべすべで気持ちよかった。わずかにふくらんだ胸を触ってみると、昨夜秘書たちに触られた――というか、弄ばれたことを思い出す。そう言えば、ここは、秘書たちだけではなく、さっき「痴女」にも撫で回されたところだ。そんなことを考えると、体が熱くなってきた。
 どうも最近、この体が敏感になってきたような気がする。ちょっと胸を触っただけで、性的に感じてしまうようだ。
 無意識に、股間に手が伸びそうになっていたとき、脱衣所から声が聞こえてきた。
「ご一緒してもよろしいですか?」
 股間に伸びようとしていた手が、はっとして止まった。
 妻の声だ。
 おれが、どう答えようか迷っていると、沈黙を諾と取ったのか、妻が入ってきた。当然、全裸だ。
 結婚してから、妻と一緒に風呂に入ったことは何度かある。わざわざ、そのために何人かで入れる風呂を作ったのだ。だが、それはいつも妻が入っているときにおれの方から押しかけたもので、最初から一緒に入ることを妻が承諾したことはなかった。ましてや、おれが入っているときに、妻の方から押しかけてくるというのは、一度もない。明らかに、妻はおれと一緒に風呂に入ることを恥ずかしがっていた。
 それが、今日は妻の方から入ってくる。やはり、これは、おれが男の体ではなく、小娘の体になってしまっているからだろうか。
 元々のおれの眼から見た妻は、まだ僅かに幼さを残す体つきで、胸も腰も物足りなく感じたものだった。いつも、秘書たちの豊満で女性美に満ちた肉体に慣れ親しんでいたためにそう感じたのだろう。だが、こうして、小娘の眼を通して見る妻の裸体は、どこかふくよかで、艶かしく感じられた。何と言っても、今のおれよりも妻の方が体が大きいというのが違うし、比べる対象も小娘の中学生のような貧弱な体なので、余計にそう感じるのだろう。
 妻は、お湯で体を流すと、湯船に入ってきた。
「気持ちいいですね」
 妻がおれの隣に体をくっつけるように座る。2人並んで風呂の壁にもたれて湯船に浸かる。端から見たら、仲のいい姉妹が一緒に風呂に入っているようだろう。おれの方が妹に見られるだろうが。
「いかがです。女の子のお風呂は。また違った気持ちよさがあるでしょう」
 こうして座っていても、おれの方がひと回り小さいことがよくわかる。といっても、僅かな違いだ。今のおれから見ると、秘書たちは、とんでもない大女に見えて怖ささえ覚えるが、このぐらいの差であれば、さほど違和感を感じない。
 妻の胸が透明なお湯の中で揺らめいた。妻はCカップだ。Cカップぐらいでは物足りないと思っていたおれだが、今のおれの手に余る程度の大きさの乳房で、かえってそそる。
 おれは、久しぶりに男の欲望を覚えた。
 おれの細い手がお湯の中を通って、妻の胸へと伸びた。小娘の手で掴む妻の胸は、秘書たちの胸よりも大きく感じられた。
「んっ」
 突然胸を掴まれて、妻が声を出す。おれの手を振りほどこうと、体を捩ったため、ばしゃばしゃと水音がした。
「こんなところで……。おやめください」
 妻の言葉を無視して、体を寄せて、キスをする。小娘の唇だと、キスの味も微妙に違う気がする。
 口では嫌がっていた妻だが、逆におれの唇を貪ってきた。
「ん?」
 突然のことで驚いた。舌を入れられて、変な気になる。
 こうなると、体格差が出てしまう。妻の胸を掴んでいた手は引き剥がされ、気が付けば、妻に抱きかかえられるような格好になっていた。今のおれは、女の中でも華奢な部類に入る妻にさえ、まったくかなわないようなか弱い少女なのだということを改めて思い知らされた。
「おいたは駄目ですよ、あなたさま」
 妻は、小さなおれを抱きかかえるようにして、上から見下ろしている。まるで、おれたちの力関係を、おれに確認させるかのように。
 妻の手が湯をすくって、それでおれの頬を撫でた。
「かわいらしいですわ。あなたさま」
 妻の手がおれの小さな胸にあてがわれた。
「んっ」
 刺激に、声が出そうになる。
「お声も、かわいい」
 体が僅かに痺れてきた。うっとりとするような、心地よい痺れ――。
 妻は、おれの胸から手を離し、おれを抱き上げたまま立ち上がった。
「それでは、あのお部屋へ参りましょう」
「えっ?」
 妻は、おれを抱いて浴槽を出る。おれは、何とか妻の腕を逃れたかったが「暴れないでくださいね。危ないですから」と釘を刺された。
 妻は、浴室の石の壁に近づき、そこに体を預けた。
 石の壁だった部分がゆっくりとスライドする。
 これは、この屋敷を改装したときに、おれが妻には内緒で作らせた機能だった。スライドした壁は、人が2人通れるぐらいのスペースがあり、その向こうには、ラブホテルのようなダブルベッドが置かれていた。
 風呂場で妻に欲情したとき、すぐに抱けるように、浴室に隣接して作った部屋だ。普通は石の壁を押しても開かないようにロックしてあるのだが、妻は事前にそれをはずしておいたらしい。
 この隠し部屋には、結構な金がかかったが、この屋敷の中でも、おれのお気に入りの設備だ。最初に妻を抱きかかえてこの部屋に入ったのは、新婚旅行から帰ってから、はじめてこの屋敷に入った日だったが、そのときには、突然動き出した石の壁とその向こうに現れた部屋にさすがの妻も目を丸くしていた。以来、妻が入浴中のところに押しかけていったときには、ほとんどこの部屋を使っていたが、こんな風に妻の方からこの部屋に連れてこられるのは初めてだった。
 妻は、大きなバスタオルをおれにかけてびしょ濡れの体を軽く拭き、おれをベッドの上に横たえた。
 おれと妻は、ダブルベッドの上で横たわりながら、顔を見合わせていた。
 昨夜、秘書たちに弄ばれたように、ここで妻にもいいようにされるのかと思ったが、妻は秘書たちのように性急におれの体を責めては来なかった。
 妻は、そっと手を伸ばし、おれの首筋や脇腹をやさしく撫でてくれた。触れるか触れないかというような微妙な感触だったが、それでも、おれの体にほのかな快感が湧き上がってくる。
「なあ」
 おれは、弱々しい声で言った。
「この体に、何か呪をかけたのか?」
 妻は、静かな笑みをおれに向けてくる。
「ふたつほど」
 その間も、妻の手は妖しく動き続けていた。
「ひとつは、あの娘からお聞きになったでしょう。その体を一時的に妊娠できなくする呪。昔は、よく使われた呪でした。当家の記録にも数多く見られます。権力者の寵妃が身籠らぬよう、この呪を施したのでこざいましょう」
 確かに、一夫多妻制の時代には、誰が跡継ぎを生むかで後の権力構造が変わってくるので、重宝された力だろう。
「もうひとつは、あなたさまも、薄々感じておられるもの」
「あんっ」
 思わず声が漏れた。妻の手が突然おれの股間へと下りてきたからだ。
「五感をより敏感にする呪でございます。実際には、脳が五感から伝わる信号を実際以上の大きさで受け取っているということなのですが。また、五感と言いましても、視覚や聴覚は、目や耳と言う器官に負うところが大きいのか、あまり変化はないようです。味覚や嗅覚はそこそこ敏感になるようですが、一番影響があるのは触覚だと言われております」
 そう言って、妻はおれの小さな乳首をつまんだ。今度は何とか声を出すのを抑えることができた。
「あら、あまり効いてはいないのでしょうか。――本来は、こういうことに使うのではなく、感度を下げることによって、痛みを抑えるといった使われ方だったようです。麻酔薬などない時代には、これも重宝したに違いありません。この呪は、感度を極限まで下げてやると体から脳へ何も伝えることができなくなり、一種の昏睡状態をもたらすことができるようです。呪詛によって殺されたケースのほとんどはこの手法が取られたものと思われます。もっとも、完全に五感と脳とを遮断するような強力な呪は困難で、多くの場合は、覇気がなくなり、急に老け込んだようになって、やがて死に至ったようですが」
 妻の言葉は物騒だが、今は、おれの体はそれどころではない。
 妻は、言葉を一旦区切ると、おれの胸に口を当て、乳首を舌で転がした。
「ひゃうんっ!」
「今しがた、もう少しばかり感度を上げてみました。この呪のこうした使い方は、わたくしがはじめてかも知れませんが、あなたさまには、女の子のこうした楽しみ方というのも知っていただきたいのです」
「ひゃっ、ひゃっ、ひゃんんっ」
 声が止まらない。
 なんだ、これは。昨夜、秘書たちに弄ばれたときも、物凄い快感だったが、今のはそれどころじゃない気持ちよさだ。駄目だ。もう、何も考えられない。
「もちろん、あなたさまの元の体にも呪をかけさせていただきました。新陳代謝を促し、回復力を高めてあります」
 妻が何か言っている。
「時の権力者ともなれば、子孫を残さねばなりません。そのため――」
 駄目だ。聞き取れない。
 そんなことどうでもいい。何か、来る。凄い。もっと、凄いのが……。
「ひぃゃぁああーーーっ!」
 おれは、今まで経験したことのない物凄い快感という激流に流されるばかりだった。


 結局、おれは気を失ったらしい。
 これまで、無数に女を抱いてきたが、相手を失神させたことなど一度もない。それが、妻に小娘の体にされて、性感を高められ、イカされて、気を失ってしまった。
「お気付きですか」
 妻は、おれの頭を撫でているところだった。まだ裸のままだ。おれが気を失っていたのは僅かな時間のようだった。
「いかがでした、女の子の感じは?」
 凄くよかった、などと言える筈がない。確かに、男の体では味わうことのできない感じ方だった。
「取りあえず、体の方は元に戻しておきました」
 そう言われて、おれは、自分の小さな胸を触った。まだ快感のかけらは体に残っていたが、あの狂おしい程の感じは消えていた。
 おれは、「はあ」と小さなため息をつく。
「いい加減に元の体に戻してくれないか」
 妻に向かってそう言ったが、おれの言葉に、妻は静かに笑って見せただけだった。
「何か、問題でもありましたか?」
「問題だらけだ!」
 おれは、声を荒げて言う。
「最近、あいつはおれの言うことをちっとも聞かないで勝手ばかりなんだぞ」
「それは、あの娘が言うことを聞くように、あなたさまが仕向けていただきませんと」
「それはそうだが――。だけど、おれと2人きりのときはともかく、秘書たちの前では、おれは、あの小娘として振舞わなければならないんだぞ。この体では、秘書たちの前であいつの暴走は止められないだろう」
「それをうまく操縦するのがあなたさまの腕ではありませんか」
「――」
「そもそも、これは罰だったのです。ですから、あなたさまが多少の不便や不自由を感じるのは、致し方のないこと。もちろん、それによって、会社の運営が滞ったりしたら問題ですが、そのようなことはございませんのでしょう?」
 確かに、そう言われてしまっては、文句の言いようがない。今日も、決済書類はちゃんと片付けたし、社内会議や顧客との面談も、なんとか無事にこなしている。
「あなたさまは、折角18歳のかわいい女の子になったのです。若い女の子の多くは、今のあなたさまのような、かわいくてほっそりした体になってみたい、と思っているのですよ。こんな経験は、あなたさまの一生で、もう2度とないこと。でしたら、女の子として、一通りのことは経験してみるべきだとは思いませんか? 女の子であれば、今みたいに気を失うような快感を味わうこともできるのですよ」
「お、おれは、男だ。女の振りなんてできるか」
「わかっております。でも、今だけはあなたさまは女の子。わたくしとあの娘以外には、このことを知っている者はひとりもいないのです。わたくちたちの見ていないところで、女の子として振舞っていても、誰も怪しむものはおりません」
 確かに、さっきの地下鉄でも、おれは、完全に若い娘として扱われていた。だからと言って……。
「先程のケーキにしてもそうです。あなたさまが今まで味わったことのないような甘美な味だったのではないですか? 世の中には、あれと同じような――いえ、もっと美味しいスイーツがたくさんあるのですよ」
 そう言われると、先刻食べたショートケーキのうっとりするような甘さが脳に蘇ってくる。おれは、思わず唾を呑み込んだ。
「それでは、あの娘が1度は食べてみたいと言っていたスイーツのお店をお教えしますから、明日は、それを会社で取り寄せてみてはいかがですか。若い女の子に人気の店ですから、とても甘くて、今のあなたさまにぴったりだと思いますよ」
「教えてくれ」
 考えるよりも先にそう言っていた。言ってしまってから、後悔したが、さっきのケーキよりも、甘くてうまいものがあるのなら、是非食べてみたいというのは、本音だった。
「お風呂を上がったら、お教えしましょう。――そうですね。それでは、1ヶ月、ということでいかがですか?」
「は?」
「あなたさまを元の体に戻す時期ですよ。その体で1ヶ月過ごしてみたら、元に戻す、ということでいかがでしょう?」
「1ヶ月? それはまずい。2週間後に、重要な会合があるんだぞ」
 おれの会社は、これまで同業他社を吸収して大きくなった会社だが、今後は、他業種の会社にも手を伸ばしていくことになっている。その手始めとして、ある電機メーカーに狙いをつけているところなのだが、その会社の経営陣との会合が2週間後に予定されているのだ。
「会合と言っても、細かい話は部下の人たちがするのでしょう。あの娘には、挨拶と最初の二言三言を喋らせればいいだけ。社長は口数少ない方が、威厳があって、よろしいのでは?」
「それはそうだが――」
「では、こういたしましょう。1ヶ月後には、あなたさまを元の体にお戻しいたします。1ヶ月が過ぎなくても、あの娘が元の体に戻りたいと言ってきたら、双方の希望が一致したということで、その時点で戻しましょう」
 妻の提案について、考えてみる。
 ということは、小娘に根を上げさせればいいということだが、それなら、もう1つ条件を捻じ込んでおいてやろうと考えた。
「だったら、こうしてくれ。あの娘が社長の仕事を放棄するようなことがあったら、即刻戻してくれ。会社の業務を滞らせるわけにはいかないからな」
「かしこまりました。そのようにいたしましょう」
 よし。妻の言質を取り付けた。
 あの小娘は、女を抱いたり、うまいものを食ったりしたいだけで、社長の仕事などしたいわけではない。明日から仕事漬けにしてやれば、1ヶ月どころか、1週間もすれば、そのうち根を上げるだろう。元に戻ると口に出さなくても、社長の仕事をしなくなったら、それで終わりだ。
 そうだ。明日から毎日、『お茶会』と称して、スイーツを取り寄せて、あいつの前で食ってやろう。飛び切り甘いのにすれば、「おれ」の体の小娘は、食べられないからな。秘書たちも甘いものは好きだろうから、全員であいつの前でこれ見よがしに食ってやれば、元の体に戻りたいと思うだろう。
「さあ、それでは、先程の続きをいたしましょう」
「え?」
 おれの胸に再び妻の手が忍び寄ってきた。鎮まっていた体が、急激に熱を帯びてきた。妻が呪の力を使ったらしい。「もう終わりじゃなかったのか」という台詞を言う暇もなく、おれは再び女の快感の虜にされた。


 翌日、おれは定時前から会社に出て、社長室で小娘を待った。
 事前にメールにも目を通す。決済書類も結構溜まっていた。
 今日は、社内会議や取引先との会談がいくつも入っているので、書類を見ている暇はあまりなさそうだから、とても定時までにはすべて片付けることはできないだろう。俄か社長の小娘にとっては、つらい1日になりそうだということで、おれはほくそ笑んだ。
 小娘は、10時過ぎに秘書室長を伴って、上機嫌でやってきた。何発やったのかはわからないが、いつもは隙のない秘書室長が、小娘の死角になったときに、珍しく一瞬だけ眠そうな顔を見せたので、ひょっとしたら朝までやりまくっていたのかもしれない。
 「おれ」の方は、そんなことなど感じさせないぐらい元気いっぱいだ。この点では妻の呪の力は本当に素晴らしい。おれは、一刻も早く元に戻って、この無尽蔵の体力と精力を自分のものにしたいと思わずにいられなかった。
 今日は、小娘と2人で社長室に籠もって、午前中はひたすら書類に目を通させる。片っ端から社長印を押させるのではなくて、ちゃんとすべて目を通して、内容を理解させてから押させたので、とにかく時間が掛かる。昼休みになっても、未決箱の山はほとんど低くなっていなかった。
 小娘は、昼飯は、秘書連中を引き連れて、焼肉を食いにいくと言い出した。まったく、毎日毎日肉ばかりよく食べられるものだ。おれは、肉は程々にして、デザートのレモンシャーベットを堪能した。昨日食べた生クリームたっぷりのケーキも甘くてうまかったが、冷たいシャーベットも程よい酸味があって美味だ。こうして、毎日昼飯でデザートが食べられるのなら、肉料理も悪くないと思った。
 昼休みから戻ると、早速、妻に教わったスイーツの店に電話して、注文をしておく。
「旦那さま、どこかけたんですか? 今、旦那さまのかわいらしいお口から、『プリン』という言葉が聞こえたような――」
 小娘には、何も言わないで電話したのだが、案の定『プリン』という言葉に食いついてきた。
「この店のプリンがうまいと妻から聞いたんだ。買ってきて、みんなで食べてみようと思って注文したんだが」
 そう言って、朝のうちにパソコンから印刷しておいたその店のパンフレットを小娘に見せてやる。
「ほんとですか? あたし、前から一度でいいからここのプリン食べてみたかったんですよ。え? お昼過ぎの会議の後ですか? うわあ。楽しみです」
 「おれ」の姿をした男がプリンの話で目を輝かせるというのはやめて欲しいのだが、仕方がない。小娘はプリンが食べられると喜んでいるようだが、ここのプリンは生クリームがたっぷり載っているような代物なので、「おれ」の体の小娘には、甘過ぎて食べられない可能性が高い。1口食べてこいつがどんな反応を見せるか、おれの方こそ今から楽しみだった。
 配達はやっていないということだったので、早速、一番若い秘書に取りに行かせることにする。本来なら、入ったばかりの小娘のおれが取りに行くべきなのだが、「社長の傍を離れられない」ということにして、代わりに行かせた。
 午後の会議は、単なる業務報告。気になることがいくつかあったが、あとでメールで指摘すればいいレベルだ。昨日までは、おれが社長のアドレスを使って指示メールを出していたが、今日からは、そういったメールも小娘に作らせよう。
 会議が終わって、社長室の中の「居間」で『お茶会』ということになった。プリンを買ってきた一番若い秘書がついでにコーヒー、紅茶を淹れて待っていた。これも小娘のおれに回ってきてもおかしくない仕事だったが、うまく逃れることができた。昨日まで、慣れない秘書の仕事をやらされて鬱陶しかったが、こうしてうまく「社長」に張り付いていれば、大半の仕事は他の秘書たちに振ってしまえそうだ。
 居間のテーブルに小娘の「おれ」と秘書5人が座る。箱を開けたとき、「きゃーっ」という秘書たちの黄色い歓声が上がった。
 最初に社長の姿をしている小娘の前にプリンが置かれる。小娘の顔がとろけきっている。「おれ」の顔でそんなだらしない顔になるのは勘弁して欲しいが、幸い、他の秘書たちも、プリンに夢中で社長の顔なんて見ていなかった。
 小娘が最初にプリンをスプーンで掬う。たっぷりの生クリームと一緒に口へ運んだ。
「甘っ」
 1口食べて、「おれ」の顔が歪んだ。
「何これ、甘過ぎるよ」
 小娘が1口食べるのを待って、秘書たちが一斉に食べ始めた。
 1口食べ終えた秘書室長が、口を開いた。
「これは、社長のお口には、甘過ぎるのではないかと」
「え?」
 小娘は、きょとんとした顔で、手元のプリンを見つめている。
 おれも、1口食べて、それからこう言った。
「甘いです。おいしいです。わたし、こんな、甘くて美味しいの、はじめて」
 ちょっと恥ずかしかったが、18歳の少女らしく言ってみた。
 言い方はわざとらしかったが、言っている内容は本心だ。昨夜のショートケーキなんて目じゃないほど、甘くておいしかった。おれは、プリンを1カップあっという間に食べてしまった。
 凄い。世の中にこんなうまいものがあるなんて。こんなうまいものが味わえるのなら、この体になってよかったとさえ思えてくる。
 小娘の方は、1口食べたきりカップの中身が減っていない。それを見て、おれが、わざと甘えるような声で言ってやる。
「あれぇ。社長、食べないんですか、こんな美味しいもの」
 自分で言ってみて、死ぬ程恥ずかしかったが、ここは我慢だ。小娘は、確実におれの攻撃でダメージを受けているのがわかる。おれは、止めを刺すように、こう言った。
「食べないんだったら、それ、あたしがもらっていいですか」
 小娘が持っているプリンに手を伸ばそうとすると、突然「おれ」の体の小娘が立ち上がった。心なしか、顔が赤い。怒らせることに成功したようだ。よしよし。
 と思っていたのは、おれだけで、他の秘書たちは、社長が不機嫌になったのを見て、凍り付いている。「おれ」はこの会社の専制君主なのだ。怒らせたら、何をされるかわからない。それを、空気を読めない小娘が、神経を逆なでするようなことを言って、怒らせてしまった。なんてことしてくれるの、という感じで、おれは秘書たちから睨まれた。
「ちょっと、来い」
 そう言うと、「おれ」の姿をした小娘は、その大きな手で、おれの細い腕を乱暴にひっ掴んで、歩き出した。左手には、食べかけのプリンを持ったままだ。
「お前らは、席に戻ってろ!」
 小娘は、秘書たちに怒鳴る。そうしている間にも、小娘は、おれの腕を掴んだまま、大股で部屋の奥へと入っていく。
「ちょ、ちょっと」
 抵抗する術もなく、おれは小走りになって小娘についていくしかない。
 小娘が向かっている先にあるものを思い浮かべて、おれは、サッと血の気が引いた。
 おれは、「寝室」に連れ込まれてしまった。
「痛いっ」
 思わずおれの口から甲高い声が漏れた。小娘に、力任せにベッドへと投げつけられたからだ。おれは、ベッドの上に倒れ込む。見ると、「おれ」の顔が真っ赤になっている。
「なんで、全然おいしくないんですか? 折角楽しみにしていたのに」
 小娘が左手のプリンを掲げてそう言った。このプリンが甘過ぎて「おれ」の口に合わないことが、余程悔しかったらしい。
「おれの体なんだから仕方がないだろ。おれは、甘いものは苦手なんだから。ちなみに、お前の体で食べるプリンは無茶苦茶うまかったぞ。こんなうまいもの食うのは、はじめてだ」
 おれがそう言うと、小娘は悔しそうな顔で、おれの顔と左手に持ったプリンを交互に見比べている。
「だから、今の体じゃ無理だって。おれが食ってやるから、よこせ」
 おれは、ベッドに横たわったまま、手を伸ばす。小娘は、そんなおれを、しばらくじっと見ていたが、意を決したようにカップのプリンを自分の口に放り込んだ。
「あっ」
 なんて、もったいないことをするんだ。
「お前、その体でそんな甘いものを一度に食ったら、気分が悪くなるぞ」
 実際、小娘の「おれ」は、苦虫を噛み潰したような顔をしている。食べたものが甘過ぎて「苦虫」というのも変な話だが。「おれ」の体は、しばらくの間ひどい胸やけがするに違いない。
「どうして、旦那さまの体は甘いもの駄目なんですか。不公平です」
 そう言って、小娘は、ベッドに横たわったままのおれに顔を近づけてわめいた。
「お前の体だって、酒もコーヒーも受け付けないだろう。おあいこだ」
「だって――」
 小娘は泣きそうになっている。スプーンも使わずに無理矢理1口でプリンを押し込んだものだから、口の周りに生クリームがいっぱいついている。
 ごくり。
 おれは、思わず、「おれ」の口の脇についている生クリームに食いついてしまった。
 やっぱり、うまい!
 とろけるような甘みがおれの口の中で広がった。
「何するんですか、そんなにキスしたいんですか?」
 はっと気付くと、目の前の「おれ」の顔がにやけていた。やばい。
「そうじゃない」
 と声を出す間もなく、小娘の方からキスしてきた。おれは、力強い腕で抱きしめられて、動けなくなる。服の上から抱きしめられているだけだというのに、快感が背中を駆け抜けた。
(何だ、これ?)
 自分でも力が抜けて、無抵抗になっていくのがわかる。いくらこの体が呪の力で敏感になっているからと言って、男に抱きしめられて、感じちゃってるのか、おれは?
 キスしたままの「おれ」の舌が侵入してくる。キスは、プリンと生クリームの甘い味わいだった。
「旦那さま、ついでにこのままやっちゃいましょ」
 小娘が、おれの耳元で囁いた。
「や、やめろ」
 おれは、快感に流されそうな体を、奮い起こさせて、必死になってもがいた。
「この後、予定が入ってるだろうが。そんな暇はないぞ」
「ええっ。すぐ済ませるから、いいでしょ」
「駄目だ!」
 おれは、何とか身を捩って、小娘の下から抜け出した。
「はあ、はあ」
 息を切らしながら、小娘の顔を見ると、笑っていた。
「逃げられちゃった。残念」
 どうやら、本気でおれを抱くつもりはなかったらしい。「おれ」の体の小娘が本気になれば、今のおれがどんなに抵抗しても無駄だということは、痛いほどよくわかっている。
 だが、ここは、1つ釘を刺しておいた方がいいだろう。
「昨夜、妻とも話したんだが、1ヶ月後には、おれたちの体を元に戻すそうだ」
 小娘はきょとんとしている。さすがにこの話は初耳だったらしい。
「1ヶ月ですか。だったら、結構ありますね。秘書の子を日替わりで抱いたとしたら、あと7回ずつぐらいは抱けるってことですね」
 こいつ、休日も関係なしに秘書たちを抱くつもりでいやがる。というか、妻は、その中には入っていないのか。
「ただし、お前が戻りたいというのなら、いつでも戻してやると言っていたぞ。何なら、今日にでも戻らないか? そうしたら、さっきのプリンを好きなだけ食べさせてやる」
 小娘は、一瞬だけ考え込んだが、すぐに「いやいや」と首を振る。
「何食べ物で釣ろうとしてるんですか。だって、1ヶ月後には戻れるのだから、プリンはそのときのお楽しみですよ。よく考えたら、旦那さまの体は、甘いものは駄目だけど、焼肉やしゃぶしゃぶやステーキは、こっちのが断然美味しいし、ワインやブランデーやビールはこの体でないと飲めないんだから、そっちを楽しまないと。こうなったら、あと1ヶ月、社長ライフを思い切り楽しむことにします」
 社長ライフを楽しむって――。駄目だ。こいつ、戻る気はさらさらなさそうだ。だったら――。
「このままでいるのなら、当然、社長の仕事はきっちりこなしてくれないと困るぞ。もしも、お前が社長の仕事を放棄するようなことがあったら、そのときは即刻元に戻すことになっているからな」
 これだけは、はっきり言っておかないといけない。
「そんなの大丈夫ですよ。ちゃんと仕事はやりますから」
「昨日は、仕事をほったらかしにして、秘書を抱いたじゃないか。今だって、このあと取引先との打ち合わせがあるのに、おれを抱こうとしただろう」
「今のは冗談に決まっているでしょ」
 小娘は、そう言って「ははは」と笑った。
「まあいい。どっちにしろ、今度、あんなことがあったら、即刻元の体に戻してもらうから、そのつもりでいろ」
 取りあえず、言うべきことは言った。少なくともこれで、仕事中に小娘に襲われる気遣いはない筈だ。そんなことをしたら、即刻仕事放棄と見做してやる。
 昨日までは、小娘の好き勝手にされていたが、これからはそうはいかない。いい加減こちらも反撃に転じていかないと。
 その後は、取引先の社長が来ているので、応接室で会談。小娘には、決められたとおりの台詞を言わせて、落着した。細かい話は、部下たちが請け負った。基本的に、会議でも何でも、おれは、あまり口数は多くない方なので、小娘でも何とかなる。
 残った時間は社長室に戻って、書類の決裁だが、ちょっと席にいない間に、未決箱にはうずたかく書類が積まれていた。こんなに溜まるのは、年に数回という量だ。
 1つずつ小娘に説明してやって、印を押させる。投げ出したら元に戻す、と言ってやったせいか、小娘はおとなしく仕事をしていた。
 そうこうするうちに定時を迎えた。
「全然終わらないじゃないですか」
 さすがに小娘にも泣きが入ってきた。書類の山は、ほとんど減っていない。これを今日中に終わらせようとすると、深夜までかかるかもしれない。
「今日は切り上げて、続きは明日にしましょう」
 小娘が能天気なことを言うが、おれは認めない。
「明日になったら、明日の書類が来るぞ。今日の分は今日中に終わらせろ」
「だって、今日は、これから秘書の子のところに行くつもりだったんですよ」
 またか。聞けば、今日は2番目に若い秘書が相手らしい。いつの間にそんな予定を入れたのかと思ったら、今朝、会社へ向かう車の中で直接電話したらしい。
「残った書類を片付けないのなら、仕事放棄と見做すが、それでいいのか?」
 そう言ってやったら、小娘は黙り込んだ。いい気味だ。残業で仕事の大変さを思い知るがいい。
「わかりました。やればいいんでしょ。ほら、早く次の書類渡してください」
「何言ってるんだ。もう退社時間だぞ。18歳の女の子に残業させるつもりか?」
「うわ。ずるい。こんなときだけ、女の子だなんて。昨日は、おれは男だ、とか言ってたのに」
「どこからどう見ても、おれは18歳の女の子だからな。いや、見た目は中学生だろ。こんな子供を夜遅くまで働かせてたら、総務の連中が何言い出すかわからないぞ」
「でも、旦那さまがいなかったら、書類に判を押していいかわからないじゃないですか」
「そこを判断するのが社長だろうが」
 実際には、社長印を押さずに差し戻す書類は、あらかじめ分けておいたので、今、机に載っている書類は、片っ端から社長印を押していけばいいのだが、当然、そんなことを教えるつもりはない。
「ああ、そうだ。今日、泊まる予定だった秘書と一緒に残業すればいいだろう。お前の残業で、向こうも予定が空いちゃったわけだからな」
 そう言って、おれは、帰り支度を始める。
「旦那さま、本当に帰っちゃうんですか?」
「おれは、何の責任もない新人秘書だからな。それじゃ、社長、責任持って、お仕事頑張って」
 おれは、わざとらしくそう言って、社長室を出る。
 今日は、久しぶりに溜飲が下がる思いだ。これまでやられっぱなしだった小娘をだいぶやり込めることができた。
 秘書室では、秘書たちがまだ仕事をしている。
「社長が、残業つきあってほしい、って言ってました」
 2番目に若い秘書に「伝言」を伝えた。さすがに、小娘1人にしておくのはまずいが、監視の意味でこいつを残しておけば大丈夫だろう。
「えっ。社長、残業なの? 今日はうちに『お泊り』だと思っていたから、いいもの食べられると思ったのに」
「だったら、お寿司とか出前してもらったらどうですか」
 小娘を押し付けてしまった侘びのつもりで、そう言っておいた。
「それじゃ、お先に失礼します」
 若い女の子っぽい口調で、秘書室の面々に挨拶をして、おれは、ひとり会社を後にした。

テーマ : *自作小説*《SF,ファンタジー》 - ジャンル : 小説・文学

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