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xxxy 終章

 車窓から眺める景色には、まだ雪が少しだけ残っていた。
 バスは、山間の高速道路を疾走している。
 ガラス越しに差し込む日差しは、すっかり春のものだ。時折、紅い花をつけた木が見えるが、あれは梅だろうか? 北国ともなると、もっと春が遅いのだと思っていたが、これなら東京とそんなに変わりがない。雪もさほど降らなかったし、今では、こうして山の上の方に少しだけ残る程度。会社の女子社員が、桜は4月の中旬になってからだ、ということを言っていたが、この分だともう少し早いのかもしれない。
 バスは渋滞に引っ掛かることもなく、順調に高速を南下していく。
 おれは、車窓に流れる景色を見ながら、イヤホンで音楽を聴いていた。双葉が大好きな女性シンガーの曲。最近は、おれもこの歌手に嵌っていて、会社では「意外と趣味が若いですね」などと言われている。
 周りの景色が開けてきた。さすがにこのあたりまで来ると、雪の欠片もない。もう3月も末だ。バスは高速を降りて、仙台の市街へと向かっていた。
 東北最大の都市、仙台は、おれに取ってはなじみのない街だが、さすがに3度目ともなると、景色にも見覚えがあるようになってくる。おれの――並みレベルの――記憶が確かなら、あと5分かそこらで仙台駅の筈だ。
 ここでJRに乗り換えて、更に南下。前回は、1時間以上乗ったが、今回はもう少し短い時間で済むだろう。

 あの札幌の夜から半年以上が過ぎた。
 あのとき、おれは最高のセックスを経験した。おれはおれを突き上げ、おれはおれを締め付け、そして、おれはおれと共に絶頂に達した。おれは、それまでの人生の中で、どんな女を抱いたときよりも気持ちよかったし、夫に抱かれたどのセックスよりも感じた。間違いなく、おれの人生の中で、最高のセックスだった。
 だが、最高のセックスの後には、最低の気分が待っていた。
 おれを最高に燃え上がらせたのは、夫に対する背徳心と罪悪感だった。
 情熱が去ってしまうと、おれの中には、この2つの負の感情だけが残った。
 双葉のおれは、快感から冷めると、バスルームへと駆け込んで、ひたすら自分の体を洗った。双葉の体からおれの匂いを洗い落としてしまうためだ。だが、洗っても洗っても、おれの体におれの匂いが染み付いているようで、気持ち悪かった。裸になって体を洗っていると、知らず知らずのうちに、自分の体を性的に刺激してしまって、おれの女の体がそれに反応してしまうのも、嫌だった。
 結局、1時間近くも体を洗い続けていたが、おれの体に染み付いたおれの匂いを消すことはできなかった。それはそうだろう。おれの体に残っていたのは、おれの匂いではなくて、夫への罪悪感なのだから。実際に、おれの匂いが双葉のおれの体に残っていたわけではなく、おれの完璧な記憶の中から、おれはおれの匂いを再生して、嗅ぎ取った気になっていただけだったのだろうと思う。
 だが、記憶の産物だろうと何だろうと、おれがその匂いを感じたのは事実で、おれは、それを消すために双葉の体を洗い続けた。そんな双葉のおれに対して、元々のおれは何もできなかった。おれの匂いを消そうとしているところに、おれが出て行くわけにはいかない。
 おれは、何もすることがなくて、これ以上双葉のおれを刺激しないよう、ベッドに入って毛布をかぶって寝てしまった。いや、双葉の脳がおれを強制的に眠らせてしまったのかも知れない。
 結局、体を洗い流すことをあきらめたおれは、自分の部屋に戻ることにした。元々のおれは、明日は始発の飛行機に乗らなければならないので5時起きだが、目覚ましもセットせずに寝てしまったので、双葉のおれが代わりにセットしてやった。
 おれは、やってきたときと同じ真紅のドレスを纏ったが、どうやっても、この部屋にやって来たときのような完璧な隙のない美女には戻らなかった。化粧が崩れてしまったこともあるが、それ以上におれの心が壊れかけていた。ドレスの着こなしもだらしなく崩れた格好。ハイヒールを履いて歩いたら、2歩目で躓いて足を捻りかけたので、裸足になって、ヒールを持って歩くことにした。こんな格好で部屋の外へと出たことを園子さんが知ったら、きっと破門されてしまうだろう。鏡を見て、おれは、まるで男に捨てられた娼婦のようだと思ったが、それでは娼婦の人たちに悪いような気がした。幸い、園子さんはもちろん、他の誰にも会うことなく、おれは自分の部屋まで戻ることができた。
 部屋に戻ってからも、シャワーを浴びたが、やっぱり、おれの匂いは消えてはくれなかった。時計は夜の9時を回っていた。強烈な眠気を覚えたおれだったが、こんな状態で、ダブルベッドに入るわけには行かない。おれは、夫のスーツケースから夫がいつもつけているコロンを取り出して、裸のままのおれの体に目一杯振り掛けた。それは、おれがおれを抱く前につけていたものと全く同じコロンだったが、それをつけると、おれは夫に抱かれているような気になって、ようやく眠ることができた。
 呆気なく眠りに落ちたこのときのおれは、まだ自分の変化には気付いていなかった。

 次の日の朝、元々のおれは5時過ぎに起き出した。千歳を7時半の飛行機に乗らなければならない。双葉のおれは、眠ったまま。夫はまだ戻ってきていないだろう。おれは、6時前にホテルをチェックアウトして、空港へと向かった。
 空港へ向かう電車の中で、双葉のおれとつながった。
「双葉?」
 双葉のおれの隣に、夫がいた。夜行のバスで帰ってきたところなのだろう。
「ダーリン!」
 おれは、思わず夫に抱きついた。
「どうしたの、双葉? 裸で――それに、この匂い」
「だって――だって、寂しかったんだよ。ひとりで」
 おれは、嘘をついた。
「ダーリンのことを思って寝たんだよ」
 なんて酷い女なんだ、おれは。
「双葉は、ダーリンなしではいられないの。だから、抱いて!」
 おれは、最低の女だ。昨夜は、別の男に抱かれて死ぬほど感じていながら、今朝は手のひらを返したように夫を求める。
「お願い、ダーリン。双葉を抱いて。お願いだから、双葉をめちゃくちゃにして」
 おれの思考はあれこれめぐっていたが、体は発情したメスの反応を見せていた。
 夫は疲れていたはずだが、おれの懇願に応えて、おれの止め処もない肉欲を充たしてくれた。
「ああっ、違う、違うの、そこじゃない。双葉はここ。ここが感じるの!」
 おれは、昨晩、おれの手で蹂躙されたすべての性感帯に夫の手をいざなった。おれの体をおれほど完璧には理解していない夫だったが、それでもおれをその都度、絶頂へと導いてくれた。おれは無数に絶頂に達し、夫も途中で何度か果てた。
 おれと夫は、繰り返し、繰り返し交わった。
 おれに取っては、これは儀式だった。夫にめちゃくちゃにされることで、昨夜のおれがこの体に残した痕跡を、すべて塗り潰してしまうのが目的だった。だが、頭の中ではそう割り切っていても、おれの体は、発情したメス猫のように、ひたすら夫という男を貪った。
 結局、その日、おれは夫を出発ギリギリまで求め続け、おれたちは危うく帰りの飛行機に乗り遅れそうになった。

 最初、異変に気付いたのは、千歳まで向かう電車の中だった。
 このとき、元々のおれは、飛行機に乗って、羽田へと向かっているところ。とっくに2つの体の間の接続は切れている。双葉のおれは、「野放し状態」の筈だった。
 隣の座席で、夫が経済新聞を読み終えた。何気なしに夫の方を見ていたおれの目は、一面の中段あたりにあった見出しを捉えた。それは、大手食品会社の合併の記事。一応、食品業界に身を置く元々のおれだったが、寝耳に水の話だった。どちらもおれとは部署違いの会社だが、業界全体の影響を考えると、無視できない記事だ。この新聞は、元々のおれも駅や空港で見かけているが、トップ記事でないので気付かなかった。そもそも、最近のおれは、新聞を読むのは双葉に任せてしまっていて、新聞を読むという習慣もなかった。
「ダーリン、ちょっと、これ、いい?」
「いいけど、双葉。経済紙なんて、読めるの?」
「これでも、毎日新聞読んで勉強してるんだよ。ちょっとでもダーリンのお仕事の役に立てればって思って」
 おれは、記事を読み始める。一瞬で読んで、理解できた。関連記事が他の面に載っていたので、そちらも読んだが、これも一瞬だ。夫の目からは、新聞をぱらぱらとめくってみただけのようにしか見えなかったろう。
 おれは、新聞を閉じて、思いを巡らせた。この合併が意味するところと、おれの仕事への影響を考えた。取りあえず、おれが急ぎで動く必要はないが、この食品会社とつながりの深い取引先には、なるべく早くに顔を出しておいた方がいいかもしれない。何にしても、おれとつながったら、このことを情報として伝えないと……。
 ――あれ?
 おれ、今、双葉「だけ」だよな。
 なのに、なぜこんなに普通に考えてるんだ?
 双葉のおれは、考えることが得意ではない。元々のおれとつながっているときでも、考えることはそちらに任せきりだった。元々のおれと切断されてしまうと、論理的な思考がほとんどできなくなってしまう。新聞を読むのだって、ひとつひとつの言葉ごとに、つかえながら何とか読んでいる状態。処理速度が常人に比べて圧倒的に速いので、結果的には人並み以上のスピードで読めるのだが、おれの意識としては、英文を辞書を片手に読んでいるような感覚。だが、さっきは、本当にすらすら読めた。こんなことは初めてだ。
 まさか、今、おれとつながっている?
 これまで、おれの2つの体の限界距離は、おれが双葉の体で新たな性的絶頂を迎えるたびに伸びている。ひょっとして、昨日の自分とのセックスによって、一気に延びたのだろうか?
 だが、おれには、おれとつながっている感じがまったくしない。眠っているのかもと思って、叩き起こそうとするが、やっぱり、元々のおれの意識はどこにも見当たらなかった。
 おかしい。絶対に、変だ。
 そもそも、こうして、あれこれ考えていること自体、双葉「だけ」のおれではありえない。双葉のおれだったら、おかしいなんてこと自体、思う筈がない。
「どうしたの、双葉。終点だよ。時間、ギリギリだから、急がないと」
 気が付くと、電車は空港に着いていた。おれは、夫に手を取られて、空港内を息を切らせながら走り、何とか飛行機に間に合った。
 結局、その後も双葉のおれはいろいろと考えていた。おれの体に何かが起きているということは理解できたが、何が起きていたかまではわからなかった。その日はいつになく早起きだったおれは、走って疲れ果てたこともあり、飛行機に乗ると、あっという間に眠りに落ちた。

 それから数日の間、至るところで、双葉のおれは自分の変化を実感した。
 相変わらず、新聞はすらすら読める。試しに、夫の図書室から、軽めのユーモアミステリーを引っ張り出してきて読んでみたが、ちゃんと面白く読めた。双葉として小説を楽しめたのは、はじめてのことだった。
 旅行から帰って、いつもの生活に戻る――ということは、昼休みには、元々のおれを眠らせて、自慰に耽るということなのだが、胸を揉んだり股間に手をやったりしながらも、今は眠っている元々のおれのために、午後の仕事の段取りを考えてやったりしていた。
 今までの双葉だったら、こんな風に相手のことを考えてやるなんて、絶対にありえない。そう言えば、札幌のホテルでも、元々のおれを眠らせて双葉「だけ」になったときに、元々のおれのために目覚ましをセットしてやったことがある。これまでは、本能と欲望の赴くままに暴走していた双葉のおれだが、ちゃんともうひとりのおれのことを考えられるようになってきたのだろうか? というか、ようやく、人並みに筋道立てて考えることができるようになってきたのだろうか?
 旅行から帰って、双葉のおれの変貌振りにあれこれ頭をめぐらせていたおれだが、実は、元々のおれも変わっていたらしい。旅行から帰った週末に、会社の飲み会があって、たまたま隣の席に座った女子社員から、こんなことを言われた。
「休暇中、何か、いいことでもあったんですか?」
「いや。どうして?」
「だって、休暇明けから、別人のように明るくなったという評判ですよ」
 え。そうなのか? おれとしては、特別変わったつもりはないのだが。
「何ていうか、以前は、何を訊いても、はっきりしない感じだったじゃないですか。どんな些細なことでも、取りあえず、うーん、って考え込んでいたのに、今日の飲み会だって、訊いた途端に、行くって言いましたよね」
 そう言えば、そうだった。大体、おれは、何事につけて、よく言えば慎重。悪く言えば決断力がないタイプで、すぐには物事を決められないのだ。それが、今日の飲み会の出欠も、考えるよりも先に返事をしていた。実は、この日も、週明けまでに仕上げないといけない資料があるのだが、この飲み会が終わってから社に戻ってやればいいと思って、参加したのだ。
 一次会がお開きになると、課長と一部のメンバーでカラオケスナックに行くことになった。このときも、おれは即決で、参加を表明した。資料は土日に出てきてやればいいだろう。
「珍しいな。カラオケ、あまり好きじゃなかったんじゃないか?」
 課長がそんなことを言ってくる。
「そんなことないですよ」
 おれの中には、札幌で夫と行ったカラオケが楽しかったという記憶があって、参加してみようという気になったのかもしれない。
 女子社員が人気女性歌手の歌を歌っている。双葉としてよく聴く曲だったので、何気なしに小声で口ずさんでいたら、さっきの女子社員に聞かれてしまった。
「よく知ってますね。この曲」
「え? いや、何回か聴いたことあるぐらいだよ。喫茶店とかでかかっているのを聴いたんじゃないかな」
「でも、これ、アルバムの中の曲ですよ。シングルも出ていないし」
 そう言うと、彼女はにやっと笑う。
「ひょっとして、若い恋人ができたとか」
「は?」
 当たらずといえども、遠からず――いや、遠いか。
 彼女は、おれが虚を突かれてどぎまぎしているのが面白いのか、興味深そうにこっちを見ている。目元が綺麗な子だな、と何気なしに見ていると、少しだけブルーのアイラインが引かれていた。
「その目、どうやってメイクするの?」
「はい?」
 アイラインが綺麗だったので、思わず訊いてしまった。双葉のおれは、あまりアイラインとか引かないので、どうやってやるのか、知りたかったのだ。
 双葉とつながってから、おれは女性のファッションだとか化粧だとかにも興味を持つようになった。街を歩いていても、きれいな女性を見掛けると、一体どんなメイクしているのだろうと思うこともある。だが、それはあくまで双葉とつながっているときの話、元々のおれだけのときは、きれいな女性は、性的欲望の対象として見ることの方が多くて、洋服や化粧にさほど興味を持ったりはしない。
 もちろん、このときは夜も更けていて、双葉のおれはとっくに眠っている。以前のおれなら、こんなことを気にしたりはしない。いや、それ以前に、見知った会社の後輩とは言え、若い女性とこんなに気安く話したりはしなかっただろう。
「メイクの仕方なんて訊いて、どうするつもりですか?」
「どうするって――なんとなく、目が綺麗だな、と思ったから、どうやったらこんな風になるんだろうって……」
 自分で言ってみて、これではまるで自分で化粧するために訊いているみたいじゃないかと思った。いや、実際、自分でもやってみるために訊いているのだが。
「わかった。若い彼女ができて、その人にさせようとしてるんでしょ」
 彼女は勝手にそう解釈してくれた。そりゃそうだ。まさか、おれ自身が彼女よりも若くてきれいな女として暮らしているなんて想像もつくまい。
 彼女からアイラインの引き方をいろいろ教わっていると、おれにマイクが回ってきた。最近の男性歌手のポップスを歌った。これも、双葉がいつも聴いているような曲だ。自分でも、びっくりするぐらいうまく歌えた。彼女は、それを聴いて、おれに若い恋人ができたに違いないと確信したみたいだった。

 こうなってくると、おれもさすがに自分の変化に気がついてくる。
 これまでのおれは、双葉とつながっているときでも、おれの意識は1つだったが、その体によって、微妙に動きが違っていた。おれという人間はひとりなのだが、元々のおれの体で行動するときは、より元々のおれらしく行動していたし、双葉のおれの体では、いくらか双葉的になっていた。切断されているときなどは、双葉の人格が出てくるというわけでもないが、おれの行動パターンは、完全に双葉的になってしまって、時に暴走することもあった。
 ところが、あの札幌の夜以来、元々のおれでいるときも、双葉でいるときも、同じように行動するようになっていた。
 それはこういうことではないかと思う。
 それまでのおれは、パソコンで言えば、1つの「おれ」というOSで動いてはいたが、元々のおれというハードを動かす時には、元々のおれ用のソフトが動き、双葉というハードを動かすときには、双葉用のソフトが動いていた、という感じだろうか。ところが、あの札幌の夜以来、元々のおれ用のソフトと、双葉用のソフトとが混ざり合って、1つになってしまった。おれ同士でセックスして、同時に達したとき、おれは、1つになったという気がしたのだが、あれは、気のせいでもなんでもなく、おれという人格が本当に1つに統合されたということなのだと思う。
 統合された新しいおれは、以前の双葉に比べたら、格段に頭がいい。まあ、今までの双葉があまりに悪過ぎただけなのだが。
 頭の回転と記憶力だけだったら、双葉の脳は、以前から超人的だったわけだが、今では論理的な思考が普通にできるようになったので、どんなに複雑で込み入った話でも、筋道立ててゆっくり考えれば、理解できるようになった。ゆっくりと言っても、処理速度自体が超高速なので、実際には一瞬だ。おかげで、衝動的に行動してしまって、後で後悔する、という双葉としての典型的な失敗をあまりしなくなった。具体的には、物を落としたり、壊したり、置き忘れたり、体をどこかにぶつけたりということがなくなった。そうなる前に、論理的思考によって危険を察知して、回避できるようになったのだと思う。
 もっとも、それは、あくまで元々の双葉から比べたら、という話で、元々のおれと比べると、まだまだ考えが足りないのだが。
 元々のおれの方は、以前よりも直感的に素早く行動できるようになり、結論を出すのも早くなった。と言ってしまうと、いいことずくめのようだが、実は、おれは双葉とは逆に、失敗をすることが多くなった。以前のおれに比べて、論理的に考えることが苦手になってきているのだ。双葉とつながっているときは、双葉の脳が使えるので、記憶力と処理速度でそれを補っていけるからまだいいが、切断されているときなどは、ある程度まで考えたら、あとはその先の思考を打ち切ってしまって、えいやー、という感じで行動に出てしまうことが多くなった。当然、それでは失敗もする。特に朝や夜は双葉が眠っているので、その傾向が顕著だ。天気予報を見ずに傘を持たずに出掛けて雨に降られた、ということが珍しくなくなった。仕事で商品の手配ミスをすることも多くなったし、仕事の段取りが悪くて、予定していた作業を時間内に終えることができないということもあった。旅行から帰った週末の飲み会の後も、結局飲み過ぎてしまって、土曜日は二日酔いでダウン。日曜日の午後にようやく起き出して、結局、夜遅くまでかかって何とか資料を作り上げた。こちらのおれの方の一番顕著な例としては、帰りの電車に鞄を置き忘れることが何度もあったということだろうか。
 確かに、おれはミスが多くなったが、以前のようにそれを気に病むこともあまりしなくなった。以前は、ちょっとしたミスでも、いつまでもくよくよと悔やんでいたのだが、多少の失敗をしたところで、別に命まで取られるわけではない。そんな風に考えることが多くなった。
 全般的に見れば、おれと双葉は結構いい具合に混ざった、と思うことにしている。

 どうやら、おれと双葉の人格が完全に統合されたらしい、ということに気付くと、おれは、早速それを検証してみることにした。北海道から帰ってきた翌週のことだ。ちょうど、夫が福岡まで出張に出掛けるということで、無理を言って連れて行ってもらうことにした。
「ねえ、ダーリン、お願いだから、双葉も連れてって」
「双葉、これは、仕事で遊びじゃないんだよ」
「わかってるって。ちゃんと双葉の分の旅費は双葉のお小遣いから出すから」
「夜も接待とかあるから、双葉と一緒に食事したりできないよ」
「でも、ホテルには帰ってくるんでしょ。双葉、ダーリンが戻ってくるまで、待っているから」
 なんて言い方すると、まるで、夫に抱かれたくてついていくみたいだが、仕方がない。いや、実際、それも期待してたし。北海道で、毎日のように夫に抱かれるのを経験してしまうと、日曜日まで1週間もおあずけなんて、我慢できない。
 結局、無理矢理福岡までついていくことになった。もちろん、主目的は、おれと完全に切り離された状態で何日か過ごしてみて、双葉のおれが暴走したりしないか、確認することだ。ついでに、夫の図書室から文庫本を1冊借りてきた。日本のミステリー作家のメジャーな作品で映画化もされた作品だが、おれは読んだことがないし、映画も観ていない。切り離された状態で同じ本を読んだときに、おれも双葉も同じ感想を抱くのか、確かめてみたかったのだ。更には、双葉がお気に入りの女性シンガーのニューアルバムがちょうど出ていたので、それも買っておいて、切り離されたときに聴くことにした。
 福岡へ出発したのは午後だったので、その日は特に何事もなかった。空港からタクシーに乗り、ホテルに着いた頃には夕方だったので、そのまま寝てしまった。この日は、元々のおれと切り離されていた時間が短かったので、長くは起きていられない。夫はその時間から得意先に出掛けて行き、夜遅く帰ってきたようだが、おれは、起こされることなく、気がついたときには朝だった。ここまで、特に変わったことはない。
 翌日は、一日中、双葉のおれ単独で行動することになる。取りあえず、夫と一緒に9時前に起きて、ホテルのレストランで朝食を一緒に取った。夫が出掛けてしまうと、特にやることもないので、夫から借りてきた本を読んでみたが、30分で読めてしまった。日本では珍しいアクション系のサスペンス小説で、充分楽しめたのだが、最後にどんでん返しがあるのもよかった。元々のおれは、こういうトリッキーな作りの作品が大好きなのだが、これまでの双葉はこのタイプのものをまったく理解しなかった。「どんでん返し」の面白さについて、何もわかっていなかったのだと思う。だが、このときのおれは、ちゃんと「意外な結末」にびっくりできたし、おもしろく感じた。やはり、双葉のおれは変わったのだということを実感した。
 その後、双葉のお気に入りの女性歌手のアルバムを聴いてみる。これはなかなかいい。今まで双葉の体で聴いていたときと同じように気に入ったし、感動して、ちょっとうるっと来たところもあった。こうして見ると、おれと双葉が「統合された」といっても、ふたりの性格をや嗜好を単純に足して2で割ったわけではなくて、双葉の方が強く出たところや、おれに近くなっているところもあるのだろう。これまでのところ、小説は元々のおれの好みが強く反映されているが、音楽は双葉というようになっているのかもしれない。
 ちなみに、味覚の方は相変わらずのようで、双葉の体で缶コーヒー(といっても、ミルクと砂糖がたっぷりと入って乳飲料扱いになっているような奴だが)を飲んでみたのだが、やっぱり苦くて飲めなかった。味覚や嗅覚などは、体の特質によるところが大きいのだろう。その最たるものが触覚で、やはり、女の体でないと、男に抱かれても感じないのだろうと思う。こればかりは、元々のおれの体で試してみる気はないが。
 小説はあっという間に読んでしまったので、暇を持て余したおれは、福岡の街へと出掛けることにした。部屋にあったパソコンでホテルの近くを調べていたら、おれのマンションに併設されているスポーツクラブの福岡店が、徒歩5分ほどのところにあったので、そこへ行くことにした。VIP会員だと、全国すべての店舗を利用できることになっている。このところ、旅行もあってサボりがちだったので、ちょうどいい。今日はプールで水中歩行の日だったので、水着を借りてプールに入った。いつぞやのように、ビキニなんてつけない。ちゃんとおとなし目の水着を選んだが、それでも、周囲の視線を釘付けにしているようで、恥ずかしかった。うん。これなら、暴走はしてない。もっとも、暴走しているときには、本人にはそんな意識はないわけなんだけど。こんなことを考えていられること自体が、暴走しなくて、ちゃんと自制心を保っているという証明だと思う。
 スポーツクラブを出ると、お昼を大きく回っていたので、ホテルに戻る途中で昼食を取る。本当は、お昼ぐらい夫と一緒に食べたかったのだが、やはり得意先と会食だそうだ。仕方がなく、通りを歩いていると、「ピザ&パスタ」という看板を見つけてしまって、衝動的にそこへ入った。ピザは、北海道旅行に行く前に食べたきりだから、もう10日以上も食べていない。たまにはいいだろう。これは、別に暴走じゃないよな。
 入ってみたら、ほとんど喫茶店と変わらない店だったが、ピザは、物凄くうまかった。といっても、見たところ、宅配ピザと大差ない感じだったので、双葉の舌だからうまいと思えただけだろう。やはり、味覚は双葉のままだ。
 満腹になると眠くなってきたが、元々のおれと切断されたままでどのぐらい起きていられるかも調べておきたかったので、ホテルに戻ってもベッドには入らないようにして眠気を我慢する。
 部屋に戻ると、備え付けのデスクのところに、本が何冊か立ててあるのに気が付いた。本のジャンルもサイズもバラバラだったので、泊り客が忘れていったものや、従業員が持ち込んだものを置いてあるのかもしれない。特にやることもなく、退屈だったので、それを読むことにした。おれは、立ててある本の中から女性向けのロマンス小説を手に取ってみた。こういう機会でもないと、読むことのない本だったが、読み始めたら、これが面白くて、一気に読んでしまった。読んでいる間、おれは、白馬に乗った王子様と恋に落ちるヒロインになりきっていて、ラストで王子様(実際には、青年実業家)に求婚されたときは、感動で涙が出てきた。これまで、歴史小説とミステリーばかり読んできたおれだったが、女性向けのロマンス小説がこんなに面白いなんて、思ってもみなかった。ひょっとして、こういうのを面白いと感じるのも、双葉のおれが混ざったせいだろうか? さっきは、音楽は双葉だが、小説は元々のおれの好みが反映されていると思ったが、そうでもなくて、どちらも双葉の好みの方が強く出ているのかもしれない。もっとも、以前の双葉は、昼過ぎにやっているメロドラマを毎日楽しみに見ていたようだから、こういう本だと、小説を読むというよりも、メロドラマを観る感覚で楽しめてしまうのだろう。
 おれは、近くの本屋まで出掛けて、同じレーベルのロマンス小説を10冊ばかり買い込んできて、ホテルで読んでいた。双葉の脳だと、1冊あたり10分か15分もあれば読めてしまう。どれも似たような筋立てなのだが、どれも物凄く面白かった。意外とセックス描写が濃厚なのもあって、おれの女の体がちょっと――いや、かなり反応してしまった。愛する彼との濃密なラブシーンの際には、おれは我慢できなくなって、本を片手に胸を揉んだり、股間に手をやったりしてしまった。ロマンス小説の濡れ場をネタにして自慰に耽るというのは、女として、どんなものなのだろう? こういう本が好きな世の女性たちも、今のおれのように、ヒロインになりきったつもりで、架空の彼との架空のセックスに身を委ねたりするのだろうか? 本に出てくる相手役の男は、おれの中では、いつも夫の姿をしていた。
 結局、2時間ちょっとで買ってきた本はすべて読み終えてしまったので、また出掛けていって10冊買ってきた。夕食に出かけるときにもまた買って、とうとう、1日で女性向けのロマンス小説を30冊も読んでしまった。おかげで、夫が戻ってきたときには、完全にロマンス小説のヒロイン気分。旅先のホテルというのも、おれをとろけさせたのだろう。この日のおれは、夢心地で夫に抱かれ、素敵な現実のセックスを楽しんだ。ああ。やっぱり、セックスで一番大切なことは、愛なんだ。本当にそう思った。
 もちろん、この間、おれは、本の中の恋に溺れてばかりいたわけではない。取りあえず、夕方になっても、眠くならないことは確認できた。夫とセックスして、眠りに就いたのは、11時ぐらいだから、14時間ぐらい起きていられたことになる。これなら、元々のおれと切り離されてさえいれば、睡眠時間を10時間程度に抑えられそうだ。実際には、1日10時間も寝る大人はまずいないだろうが、かなり人並みの睡眠時間に近付いたことになる。今は、家事も仕事もしていないのに15時間も寝ているため、時間が足りなくて困っているが、睡眠時間を10時間以内にできれば、かなりいろんなことができそうだ。
 夫は、おれが遅くまで起きていて、眠くないか心配していたが、おれが昼寝をしたから大丈夫、と言ったら、安心してくれた。また、夫に嘘をついてしまった。おれって、悪い妻。
 翌日も夫は仕事だが、昼には抜け出せるということで、駅で待ち合わせて、ラーメンの有名店に行った。夫はホテルまで迎えに行くと言ってくれたが、おれは、地下鉄に乗って、ひとりで待ち合わせ場所まで行った。以前だったら、元々のおれとつながっていない状態では、ひとりで電車に乗って出掛けるなんて、危なくてできなかったが、何の問題もなかった。福岡は知らない街だったが、自分で地図や案内板を見て、待ち合わせの10分前に目的地に着くことができた。造作もないことだった。
「双葉、よく迷わずに来れたね。ひょっとして、タクシーで来た?」
 夫は、おれがひとりで来れたのが信じられないようだった。
「ダーリンったら、また双葉のこと、馬鹿にして。地下鉄ぐらいひとりで乗れるよ」
「でも、以前はひとりでは乗れなかったじゃない」
「双葉も、いつまでも子供じゃないんだから。何回も言っているけど、双葉は変わったの」
 そう。おれは、変わったのだ。おれと双葉とが融合した新しいおれへと。
 結局、その日も夫に抱かれて、眠ったのは11時過ぎ。この日も14時間起きていられた。この分だと、慣れれば、睡眠時間が10時間を切るのも夢ではない。
 3泊4日の出張旅行を終えて、おれは丸3日ぶりにつながった。元々のおれと双葉という2つの体を使い出してから、こんなに長い間、切断されたままになっていたのは、はじめてのことだ。再接続されたのは、双葉のおれが飛行機に乗っているときだったが、一瞬意識が飛んでしまうような感じになった。座席についていたので、大事には至らず、隣の席の夫は寝ていたので、気付かれもしなかったが、立っているときだったりすると危なかったかもしれない。
 元々のおれの方は、一瞬どころではなく、数秒の間、フリーズしてしまった。こちらは、得意先での会議中だったため、おれが長期入院していたことを知っている先方に、余計な心配をかけてしまったが、椅子に座っている状態だったので、こちらも大事には至らなかった。
 数秒の後、3日間に亘って別々に行動してきた2人の「おれ」がふたたび1つになった。切り離された状態から接続するという行為は、これまでに何度もやっていたことだが、3日振りともなると、3日分もの情報を交換しなくてはならない。双葉の覚醒した脳に取っては、一瞬の作業だろうが、元々のおれの並みの脳に取っては、負荷が大きかったため、再接続に数秒という時間を要したのだろう。
 おれは、この3日間に2つの体で体験したことを反芻してみる。再統合されたおれは、3日前に切断されるまでの記憶はもちろん、福岡で過ごした双葉の記憶も、東京にいたおれの記憶も、持っていた。どちらも、自分自身で体験した記憶という認識だった。
 まず、確認したのは、双葉が福岡まで持っていって読んだ小説についてだ。元々のおれも、切断されている間にこの本と同じものを読んだのだが、結論から言うと、おれと双葉は、この小説に対して、まったく同じ感想を持った。同じものを読むと言っても、双葉はホテルの部屋で午前中に一気に読み、おれは行き帰りの電車や夜のアパートで途切れ途切れに読んだ、というように、読書環境がかなり違うにもかかわらず、ハラハラした場面や、いいなと思った台詞、ラストのどんでん返しで驚く度合いも、何から何まで同じだった。ある文章のところで、漢字を読み間違えて、意味が通じずに疑問に思ったのだが、どちらも同じところで同じように読み間違えていたのには、笑ってしまった。
 双葉お気に入りの女性歌手のニューアルバムも、元々のおれと双葉のおれで聴き比べたのだが、やはり、これも同じ感想だった。2度聞いた時点で、収録されている曲を気に入った順に並べてみたのだが、このランキングもまるっきり同じだったし、順番を迷ったところも同じだった。
 やはり、おれは1つの人格に統合されたようだ。今のおれは、どちらの体でも、同じ条件さえ与えてやれば、同じ判断をする筈だ。つながっているか、切り離されているかに関わらず。つながっている状態でも、切断された状態でも、双葉も、元々のおれも、どちらも「おれ」という1つの人格なのだと、改めて確信した。

 双葉のおれが福岡から帰った翌週、元々のおれは、会社に転勤を願い出た。
 おれの食品卸会社の本社は東京で、全国展開をしてはいるが、支店があるのは、大阪・名古屋・福岡だけ。あとは全国に子会社がいくつもあって、そこで実質的な支店業務を行なっている。そこの従業員は、事務の女子社員を除いて、ほとんどが本社からの出向だ。特に、バブル期以降は人員を持て余しているので、子会社での現地採用はほとんど行なっていないため、どうしてもそうなる。当然、東京で採用された連中は、地方には行きたがらないので、子会社へ出向するというと、左遷のようなイメージもある。結果、子会社への出向は、常時募集中のような状態で、望めば大抵は希望のところへ行けた。
 おれの会社は元々が同族会社で、今もその傾向が強い。役員の半分は創業者一族が占めていることもあって、並の社員ではなかなか上に上がっていけない。夫の会社のようなベンチャーは特殊としても、成長している会社なら、30代で課長というのも珍しくないだろうが、おれの会社では、40代で課長なら同期の出世頭。上がつかえていてポストが空かないし、会社の規模も安定してしまっているので、新たなポストが増えることも望めない。大半は定年近くまで平社員で、定年間際に係長になって、退職の日に課長の辞令を受け取るというのがお決まりのパターンだ。恐らく、おれもその口だろう。
 ただし、誰もが嫌がる子会社への出向を受け入れれば、何年かのうちに係長になって、定年を何年か残して、課長代理ぐらいにはなれそうだ。一応、本社の課長が子会社の部長、本社の係長が子会社の課長というのが社内での暗黙のルールなので、実質的には同じことなのだが、それでも、給料は役職に応じた分だけもらえるし、わずかだが、出向手当ても付く。おれと同年代の連中は、子供がそろそろ高校受験ということもあって、なかなか転勤で引越しというわけにはいかないようだが、独り者のおれとしては、東京に未練さえ持たなければ、そう悪い話ではない。
 おれは、盛岡の子会社への転勤を希望した。週末に限界距離を調べ直したところ、200キロを突破していた。双葉のマンションを基準にすると、福島県を半分ぐらい過ぎて、そのうち宮城県へと入りそうだった。仙台だと、1年もあれば距離の限界の内側に取り込まれてしまいそうだが、盛岡ならば、数年は持つだろう。

 結局、元々のおれは、双葉のおれとは別れて暮らすことにした。おれが双葉と常につながっていようとしたのは、そうしないと双葉のおれが暴走して何をしでかすかわからないからだった。だが、おれが完全にひとつの人格に統合されてしまったのなら、その心配は無用になる。
 そうなると、むしろ、2つの体がつながっていることによる弊害の方が多い。何と言っても、その最大のものは、双葉の睡眠時間だ。
 取りあえず、元々のおれと双葉、2つの体が接続された状態では、双葉のおれが起きていられるのは、1日9時間が限界。食事をしたり、風呂に入ったり、トイレに行ったり、歯を磨いたり、と、生活する上でどうしても削ることのできない時間も多いので、たった9時間では、やりたいことなど何一つできない。ところが、切断された状態なら、双葉のおれは1日当たり、5時間も余計に起きていられるのだ。この5時間は、まるまる自分の時間にできるわけだから、どうにでも使える。家事に使ってもいいし、毎日遅くまで働いている夫の仕事を少しでも肩代わりしてやることもできるかもしれない。元々のおれとしては、双葉の記憶力と処理能力が使えなくなるのは痛手だが、元来、それほど仕事に熱心だった人生でもないし、今まで通り、のんびりと生きていけばいい。
 おれの転勤願いは受理された。場所は希望通り盛岡。年内は東京で通常業務をこなしながら担当の引継ぎなどを行ない、年明けの3連休で盛岡へと移る事になった。双葉のマンションからほど近いおれのボロアパートは、結局、半年で引き払うことになった。出発の前におれと双葉で会おうかとも考えたが、やめた。札幌での「不倫」は、まだおれの心の傷として残っているし、今更会ったからどうだと思える程、おれは、1つの人格に統合されていた。
 おれは、年が明けると、仕事始めだけ東京で済ませて、盛岡へと旅立っていった。新しい会社は盛岡の繁華街にあり、そこから徒歩10分ほどのところにある賃貸マンションがおれの新しい住処だ。さすがに地方都市。東京のボロアパートよりも安い家賃で、会社に近い場所にそこそこのマンションが借りられた。
 盛岡の町にも新しい会社にもすぐに慣れた。今までのおれだったら、こんなに環境が変わってしまったら、適応できなかったかもしれないが、意外と双葉には適応力があったようだ。東京に比べると、こちらはのんびりしているのも、おれには合っているようだ。東北ということで雪の心配をしたが、太平洋岸の岩手県では、秋田や山形に比べると雪は少ないらしい。それでも、近くに有名なスキー場があるぐらいなので、まったく降らないというわけではなく、はじめての東北の冬に、おれは、少しだけ苦労した。

 元々のおれが盛岡へ去って、双葉のおれの脳は、2つの体を動かしていくという重労働から解放された。
 おかげで、1日の睡眠時間は、10時間程度にまで減った。まだ、幼稚園児並みの睡眠時間だが、一時は16時間も寝ていたことを考えると、大変な進歩だ。慣れればもう1時間ぐらい減らせるかもしれないが、2つの体をコントロールする必要はなくなったとは言え、覚醒した双葉の脳は相変わらず超高速で動いているので、常人に比べたら、疲労度ははるかに大きいのだろう。睡眠時間の切り詰めは、10時間まででよしということにしよう。これなら、朝9時に、夫と共に起きても、夜は11時までは起きていられる。夫の帰りが遅い日は無理だが、早い日は帰ってくる夫を起きて出迎えることもできるようになった。もちろん、夫の帰りが早い日は、夫に抱いてもらっている。
 時間に余裕ができたので、おれは、家事も少しずつやるようになった。食器ぐらいは自分で洗うようになったし、自分の使う部屋は自分で掃除ぐらいはする。まだ、刃物を持つのは怖いので、料理はしていないが、これも、少しずつ慣れていって、いずれは、夫におれの手料理を食べさせてあげたい。園子さんのレシピは全部おれの頭の中に入っているので、あとは、おれが包丁を持てるようになるだけだ。今のところ、まだ鋏やペーパーナイフで紙を切る練習中という段階なので、これはしばらく先になりそうだが、先は長いのだから、ゆっくりと時間をかけてやればいい。一応、3年後の夫の誕生日にはおれの手作りディナーを夫に振舞ってやるのが、おれの目標だ。
 夫の会社にも、おれは時折出掛けていくようになった。月に2、3度は出ているだろうか。以前みたいに短いスカートのチャラチャラした洋服ではなくて、きっちりレディーススーツに身を固めて行く。一応、自分のノートパソコンを持ち込んで、資料を作ったり、スケジュールを確認したりと、ほんの少しだけ夫の仕事の手伝いもする。おれの肩書きは取締役だが、出社したときのおれの役回りは、専務秘書補佐見習いというところだろうか。もちろん、夫の会社には、専務秘書も、その補佐もいない。夫は、おれが会社に出て仕事をすることをあまり快く思ってはいないようだが、それでも、専務室でおれの姿を見られるというのは嬉しいようだ。大至急資料を作る必要があって、人手が足らずに、おれにそれが回ってくるようなことがたまにはあって、そんなときは、おれも夫の役に立っているという気がして、嬉しい気持ちで一杯になる。
 元々のおれは、ワープロや表計算ソフトぐらいは使いこなせるのだが、双葉の指はパソコンのキータッチに慣れていないので、最初のうちはなかなかうまく打てずに苦労した。なまじ、頭の中ではやりたいことがわかっているだけに、ストレスも大きい。以来、自宅にいるときには、ゲーム感覚のキータッチ練習ソフトで訓練を重ねていたのだが、一時期そのソフトに嵌ってしまったこともある。
 そんな甲斐あって、最近は、会社で必要な資料も、ちゃんと作れるようになった。まあ、おれに仕事を頼むようなときは、本当に猫の手も借りたいようなときなのだろうが、それでも、夫の役に立てているということを実感できるのは、嬉しい。この頃は、家にいるときでも、電話で夫から仕事を頼まれることもある。専務秘書補佐見習いのおれとしては、小さな仕事からコツコツこなしていって、そのうち、本当に専務秘書と呼ばれるようぐらいになりたいと思っている。
 夫の出張にも何度かついていった。福岡のときみたいに、ホテルで夫の帰りを待つばかりではなく、夫と共に得意先を訪問して、そのまま夜の接待までつきあったこともある。先方は、おれのことをいたく気に入ってくれたようだ。もちろん、営業としてのおれを認めてくれたのではなく、おれがいい女だから気に入っただけだろうが。今度は1人で来てくれなんて言われたが、昼はともかく、夜の部は夫同伴でないと危なそうだ。一応、おれだって、営業暦20年と、経験だけは夫よりもあるのだから、顔つなぎさえしてくれれば、次からは夫と手分けして回っても大丈夫と思っているのだが、なかなか夫はそれを認めてくれない。夫に取っては、おれはあくまで素人の双葉なのだから、仕方がない。こちらは、これから少しずつ夫の信用を勝ち取って、いずれは夫婦で仕事を分担できるようになりたいと考えている。
 とにかく、忙しい夫の負荷を少しでも減らしてやるのがおれの妻としての務めだ。毎週休日出勤している土曜日も、たまには休ませてあげたいし、夜もその日のうちには帰ってきてもらいたい。金があって、高級マンションに住んでいて、専務などと呼ばれていても、体を壊してしまったのでは元も子もない。実際、おれが半年も入院したときには、夫婦生活も何もあったものではなかったのだ。とにかく、おれは、夫の健康管理だけは気に掛けるようにしている。
 夫は、相変わらず出張が多いのだが、これまでと違って、飛行機や列車の待ち時間におれに電話してくることが多くなった。以前の双葉は、かわいい顔とセクシーな体だけが取り柄の女だったので、電話で話しても、楽しくなかったのか、夫はほとんど電話してこなかった。ところが、最近では、毎日、1度や2度は必ず電話してくるようになった。出張に出たときなどは、旅先の写真を付けて、メールを送ってくることもある。
 これなどは、新しい双葉のおれが、以前に比べて、少しは気の効いたことが言えるようになったからだろう。おれは、顔と体だけの女から、仕事もできて、話していても楽しい女になろうと、いつも考えている。
 会社や出張で夫についていかないときは、おれは、自宅のマンションにいることが多い。相変わらず、女性向けのロマンス小説に嵌っていて、1日に1冊ぐらいのペースで読んでいる。新刊が出るよりも読破する方が速いので、最近は、図書館で借りてきて読むようにしている。大きな図書館に行くと、書庫には結構古いのもあり、それを引っ張り出してもらって借りてくるので、当分は読む本には困らなさそうだ。今では、いくつかのお気に入りのレーベルの新刊だけ買って、あとは図書館で借りてくるというスタイルで定着した。
 自分で買って読んだ本は、夫の図書室に置かせてもらおうかとも思ったが、そんなことをしたら、すぐに折角の図書室が満杯になってしまうので、これは処分することにしている。どう処分するかというと、宅配便で盛岡のおれに送るのだ。当然、双葉のおれと同様、盛岡のおれもロマンス小説に嵌っている。普段は双葉とはつながっていないから、双葉に取っては読み終えた本でも、おれに取っては未読の本ということになるので、1冊の本で2度楽しめる。もっとも、どちらの感想も、いつもまったく同じなのだが……。それでも、同じ本を読んで、同じ感動を2回も味わえるのだから、やっぱり、得をしていると思う。
 双葉のおれは、ロマンス小説ばかりでなく、それ以外の本も読んでいる。基本的に、夫の図書室にある本を、端から順にという感じで、毎日1冊か2冊読み倒している。おれが、本をよく読んでいることに夫も気付いたのか、最近は、新刊でおもしろいのがあると、おれに教えてくれたりする。比較的軽い内容のものがほとんどだが、かつての双葉だったら、ありえないような話だ。近頃は、夫と、お互いに読み終わった本の感想を語り合ったりもする。おれは、昔から本を読むのは大好きだったが、近くに読書の趣味の合う友人がなかなかいなくて、こんな風に読んだ本について語り合うなんていう経験はほとんどない。若い頃は、結婚するなら、読書の趣味の合う女性がいいと思っていて、夫婦で好きな本のことについて語り合えたら最高だ、などと考えていたものだ。それが、まさか、それが今になってこんな形で実現するとは思わなかった。近頃では、メールで園子さんとお薦め本情報の交換などもやっている。
 おれは、以前考えていたように、長大な歴史小説や延々と巻数が伸びているシリーズ物も読んでいる。ただ、どうもおれと双葉が統合されたことによって、好みが微妙に変わってきているようだ。ミステリーは相変わらず好きだが、歴史小説は肌に合わなくなっている感じがする。もちろん、元々のおれもそうだ。ちょっと寂しい気もするが、それが新しいおれなのだから、仕方がないことなのだろう。

 双葉のおれと盛岡のおれ。普段は、2人の「おれ」は別々の人間として生きている。記憶も人格も同じ「おれ」だが、意識はつながっていない。このまま切断されたまま別々の人生を歩めば、やがて、ある時点から分岐した2つの人格になっていくのだろうが、おれは、定期的におれを接続して、記憶の統合を行なうことにした。だってそうだろう。どちらかが外国に住んでいるというのならばともかく、狭い日本の中だけだと、どちらかがちょっとした旅行に出れば、限界距離の内側に入って、意図しなくても接続されてしまう。だったら、定期的に接続して、その間の記憶を統合しておいた方がいい。
 おれは、基本的に、2週間に1度は双葉と統合することにした。今日みたいに、こうして、盛岡から高速バスで南下しているのも、そのためだ。今のところ、福島県から宮城県に入ったあたりが、おれと双葉の限界ポイント。高速バスが仙台駅に着くと、おれは、JRに乗り換えて、更に南を目指した。
 こうしたことも、1月に転勤してから、もう3回目だから、慣れた。これ以外にも、双葉の方が北上することもある。盛岡のおれを中心にすると、限界距離はほぼ東北6県に及ぶ。元々のおれが盛岡のマンションにいるときに、双葉のおれが、新幹線で白河までやってきたらつながった。2月に、雪祭りを見に北海道の園子さんの家に遊びに行ったときは、飛行機で東北の上空を飛んでいるときにつながった。当たり前の話だが、接続の距離は、空の上だろうと関係ないらしい。
 普段は切断されていても、何かの折に、お互いがお互いを必要とすることがあるかもしれないので、連絡方法もいろいろと決めてある。
 緊急を要さない用事、たとえば、接続を予定していた日が都合が悪くなって、何日か前に変更するような場合は、使い捨ての無料メールアドレスから、業者の広告を装って、メールを打つ。「○月×日10時よりタイムセール開催。是非お越しください」とか、「ご用命があれば、こちらからお伺いします」という具合に。おれが考える文面だから、こんな書き方でも、何が言いたいかは、わかる。もちろん、メール送信は、どこかのネットカフェからで、自宅のパソコンは使用しない。緊急の用がある場合は、公衆電話から相手の携帯に直接電話することにしていた。こちらは、夫の目もあるので、元々のおれからは、なるべくなら使いたくない。夫がおれの携帯に出るということはないと思うが、夫がいる前で、電話とは言え、元々のおれと会話するというのは、できれば避けたいものだ。
 一度だけ、双葉のおれの方から試しに元々のおれへと電話してみたことがある。夫が出張でいない日の夜に、盛岡のおれが家に帰った頃を見計らって電話をしてみたのだ。
 不思議なもので、相手先が公衆電話と表示されているだけなのに、そのときのおれには双葉のおれからの電話だとわかった。
「もしもし」
 おれ同士の会話。ただし、接続されていない。不思議な感じ。
「一度、この状態で、話してみたらどうなるかと思って掛けてみたの」
 双葉のおれは、そう言った。おれ同士でも双葉のおれは、女口調で話す。今のおれは、人格はひとつだが、仕草や話し言葉は、それぞれの体に合ったものに自然となる。間違えたりすることはない。右手で物を取ろうとして、左手を伸ばしたりしないのと同じことだ。
 話は弾まない。特に用があるわけでもなかったので、当然と言えば当然だ。取りあえず、切断されてからの近況でも話そうかと思ったが、ここで話さなくても次に接続されたときには記憶が統合されるので、それこそ急ぎの用でなければ、話す必要もない。
「ダーリンに、愛していると伝えておいてくれ」
「あたしの言葉として伝えとく」
「おれもあたしもないだろう。おれたちはひとりなんだから」
「それもそうね」
 そう言って、おれは、電話を切った。最後の会話も、なくてもいい、というか、お互いがどういう言葉を返すか、わかった上での会話だった。会話というよりも、独り言に近い。ここで、嘘やお世辞を言っても、やはり次の接続のときにわかってしまって、自己嫌悪に陥るだけだ。取りあえず、緊急用のテストみたいなものだったから、ちゃんと電話で会話できることが確認できたら、それでよかった。

 電車は、仙台の街を抜けて、田園地帯を走り、やがて山間へと差し掛かった。おれは、双葉から送られてきたロマンス小説のエピローグを読んでいた。おれはヒロインになりきって、山の中のコテージに住むちょっとワイルドだが、その実はやさしいところもある彼との恋を楽しんでいた。40を過ぎた中年のオヤジがこんな本をこんな風に読むというのも不気味だろうが、おれの半分は、24歳の若妻でもあるので、おれの中では何の違和感もない。彼のコテージで彼のたくましい腕に抱かれて、キスをされたところで、小説は終わった。
 よかった。何とか読めた。読んでいる途中でも、双葉とつながってしまうと、その先のストーリーもすべてわかってしまうので、損をしたような気分になる。
 本を閉じて、おれは考える。
 それは、双葉のことだ。今の双葉のおれのことではなくて、元々の双葉。
 おれは、ずっと、元々の双葉のことを気にしていた。
 おれと双葉がつながったとき、双葉は23歳。夫と結婚して1年半だった。それが、不幸にも暴漢に襲われ、意識不明の重態となり、その体の中には、おれが入り込んでいた。おれが意図してやったことではないにしても、結果的に、おれは、これから幸せを掴んでいくべき23歳の女性の人生を奪ってしまった。そのことが、おれの頭の片隅から、ずっと消えなかった。
 だが、最近、おれは、その考えが間違っていることに気付いた。
 双葉は生きている。
 それが今のおれの考えだ。
 おれがこんな風に、あれこれいろいろと考えるのも、結局は、そうすることが好きだからだ。特に、元々のおれは、空想癖があるというか、とにかく、頭の中であれこれ思いを巡らせているのが好きな男だった。
 それに対して、双葉は考えることが苦手だった。論理よりも感情で動く女だった。おれと双葉という2つの体がつながったときから、おれと双葉という2つの人格が混ざりはじめたのだろうと思う。お互いがお互いの人格を取り込み合ったのだろう。その結果、おれという考えることが好きな人格を得た双葉の人格は、元々苦手だった考えることをおれに任せ切りにしてしまったのではないだろうか?
 おれは、考える。だから、おれは、おれだ。そう思っていたが、それは、間違っていたのだと思う。
 双葉は、考えることはやめてしまったが、感じることはやめなかった。むしろ、元々のおれの方が、感じることをやめてしまったのかも知れない。その結果、元々のおれの体が寝てしまったようなときには、双葉の人格が感じるままに動き出した。おれは、それを「暴走」と呼んだ。双葉にしてみたら、感じたことを感じたままに行動しただけなのだろうけど。
 だって、考えたらわかるだろう。
 おれと双葉がはじめて交わった札幌の夜、あれ以来、おれは完全に1つの人格になった。逆に言えば、それまでは1つではなかったということだ。では、何と何だったのか? もちろん、その1つは元々のおれだ。となるともう1つは? 至極簡単な引き算だ。答えは、双葉。元々の双葉しかありえない。
 あの札幌の夜。おれとおれのセックスの最中に、おれは、おれの人格が無数に分裂していくのを感じていたが、それを止めることはできなかった。止め処なく分裂を繰り返し、おれが壊れてしまいそうになったとき、おれの中で、1つの声がした。
(一緒になろうよ)
 そのときはそれが、どの人格だったのかはわからなかった。
(双葉とひとつになろう)
 誰だかわからなかったがこう呼びかけられて、おれは、分裂を防ぐことができ、結果、ひとつになった。
 今、思うと、あれが双葉だったのだろう。元々の双葉――。
 考えたら、あのときほど明確ではなかったにせよ、元々の双葉の痕跡は、おれの行動の至る所に残っていた。最初におれが双葉の体で自慰に耽り、双葉の脳を覚醒させたときもそう。園子さんのとの箱根での一夜もそう。おれの中のかなりの部分は、元々の双葉で占められていた。おれがはじめて夫に抱かれたときも、夫を拒否しようとしていたおれを夫の方へ振り向かせたのは、結局、元々の双葉だったような気がする。そもそも、考えてみたら、元々のおれだけの人格だったら、夫という男を今みたいに愛するようになったりはしなかったろう。いくらなんでも、元々のおれが、男である夫を愛せるようになったりはしない。だが、今のおれは――ひとつになったおれは、夫のことを世界中の誰よりも深く愛している。これからの人生、夫なしでは生きていけないと、心から思っている。
 今のおれが、こんなにも夫のこと愛しているという事実こそが、おれの中には確かに双葉が生きているという証拠なのだと思う。

 山間を走る列車に揺られていると、突然双葉とつながった。
 マンションのおれは、自室の鏡の前で髪を梳いているところだった。
 2つの体に切断されていた間の2週間分の記憶を統合する作業は、双葉の覚醒した脳を持ってしても、負担が大きかった。おれは、一瞬体の制御を失い、持っていたヘアブラシを床に落とした。双葉の脳が統合に要する時間は約1秒。時間にすればたったこれだけの作業だが、再接続を行なう日は、いつもよりも疲れが大きくて、2時間ばかり余計に睡眠時間を必要とするようになる。ちなみに、元々のおれの方は、特に疲れるようなことはないが、再統合が完了するまでに15秒から20秒かかる。この間のおれは、フリーズ状態になってしまう。おれは、いつ意識が途切れてもいいように、鞄を抱えるように持って、座席に深く腰掛けていたので、問題はなかった。
 今日は土曜日だが、珍しく夫が休みだった。木曜日に夫の会社へ行って、資料作りを手伝ってあげたからだろうか。今日は、おれは朝から夫に抱かれていた。つながったのは、1回戦を終えて、シャワーを浴びた後、2回戦の準備のために化粧を直しているところだった。一応、つながる日は決めてあるし、時刻表を調べれば、時間も大体わかるので、その時刻には双葉のおれはなるべくひとりになって、座っているか寝転んでいるようにしていた。
「双葉、まだ? 待ちくたびれちゃうよ」
 部屋の外から夫の声がする。
「ダーリン、ちょっと待ってて。もう少しだから」
 今日は、急に夫が休みだということで、1回目のセックスの後、何とかこの時間を作った。夫はそのまま2回戦に突入したかったようだが、セックスの最中に接続されたりすると、失神しかねない。折角、睡眠時間も人並み近くにまでなって、「完治」と思われているのに、また夫に心配を掛けてしまうのは避けたかった。おれに襲い掛かろうとする夫を、「ダーリンが絶対気に入ってくれる格好を用意してるんだから」となんとか宥め、自室に閉じこもって、化粧をし直して、髪を整えているところでつながったのだ。
 このときのおれは、白のビキニ姿だった。いつだったか、暴走した双葉が下のスポーツクラブに着ていってしまった奴。夫のご機嫌を取るときのための取っておきの格好だ。元々大きなおれのGカップのバストを更に大きく見せるようなタイプの水着で、胸を覆う布がはちきれそうになって、深い谷間ができている。そこに薄いカーディガンを羽織って、ボタンを留めて、前を隠した。それでも、胸のふくらみはよくわかるし、谷間が少しだけのぞいていた。最後に作り物の大きな花を頭につけて、完成。鏡の中には、トロピカルな雰囲気のセクシーでかわいいおれがいた。予想以上の出来映えだ。
「ダーリン、お待たせ」
 夫は、トーストと、ベーコンに目玉焼きという朝食を作って待っていてくれた。夫の視線は、最初はおれの胸の谷間に行き、それから、顔、頭につけた花、そして、長く伸びた足へと行き、再び胸に戻ったみたいだった。よかった。夫に取って、今日のおれは、ど真ん中のストライクみたいだ。
「うわあ、おいしそうだね」
 おれは、夫の向かいの席に座る。座るときにちゃんと前屈みになって、夫の目の前に胸の谷間を見せてあげることも忘れなかった。
 男というものは、さっきまで、裸で抱き合っていた女でも、ビキニの胸元から谷間を覗かせていたら、ついつい見たくなるものだということを、おれはよく知っている。
 夫は、おれのカップにミルクティーを注いでくれた。夫のカップにはコーヒーが半分しか入っていない。待ちくたびれて、半分飲んでしまったのだろう。
 夫と一緒に朝食を取っていると、元々のおれが乗った列車は、山間の駅に着いた。何もない無人駅。折り返しの列車は10分後だ。
 おれと双葉は、普段は別々に生きているが、こうして定期的に接続して、記憶と人格を再統合している。しばらくは、おれはそのためにこうして盛岡から宮城県まで通うことになるだろう。今は、仙台までは高速バスで、そこから先をJRに乗り換えているが、1年以内には、仙台までで事足りるようになるに違いない。更に何年かすれば、双葉のマンションからの限界距離は、盛岡のおれのマンションまで達する筈だ。そうなったら、おれはまた転勤願いを出して、今度は四国か九州の子会社への異動を願い出るつもりだ。理想を言えば、いつも限界距離の僅かに外側にいて、接続したいときにはすぐに接続できるといいのだが、そうも行くまい。恐らく、おれの定年まで、双葉とおれの奇妙な追いかけっこが続くのだろう。おれの会社は、沖縄にも子会社を持っているので、何とか定年まで、双葉とは限界距離の外側で暮らしていけると思う。
 おれが定年を迎える頃には、夫にも引退を勧めよう。元々のおれと夫は3つ違いだから、ほんのちょっとだけ早い引退だ。
 夫は、今の会社をもっともっと大きくしたいと思っているようで、そのために日夜必死になって働いている。だが、これからも、今までのような成長が続くとは限らない。今までは、うまくIT化の波に乗って、ライバルのいない無人のフィールドで業績を伸ばすような格好で、仲間内で始めた小さな会社を上場できるまでに成長させたわけだが、近年では、後発の同業他社や既存の大手がネット化を進めていて、夫の会社の得意分野に割り込もうとしている。今までは攻め一辺倒で大きくなってきた会社も、今後は安定経営に向かうべきだとおれは思うのだが、夫も、創業時からの仲間である社長と副社長も、昔からの拡大路線を捨て切れないようで、どうも、その気がなさそうなのが、おれの心配の種だ。
 本当は、どこかの企業が夫の会社を買収でもしてくれて、今の株価で株を売って、そのまま引退できれば一番いいと思っている。夫は、40前だが、もう充分働いた。とにかく、今持っている株を売れるチャンスがあれば、何としてでも夫を説得して、引退させようとおれは考えている。だって、そうだろう。折角、おれのような若くて美人の女と結婚したのに、ろくに家にも帰れないような生活では、かわいそう過ぎる。引退したら、今のマンションも引き払って、北海道でも沖縄でも、限界距離の外側に引っ越して、元々のおれと分かれて住めばいい。おれの限界距離が日本の端から端まで覆ってしまったら、夫と共に、海外へ移住しよう。
 とにかく、おれは、広いマンションで夜遅くまで帰らない夫をひとりきりで待つのが寂しくて仕方がないのだ。夫が、週の半分も出張で家に帰ってこないなんて生活には、あとどれくらい耐えられるだろう?
 いつも、夫と一緒にいられる生活。おれは、1日でも早く、その日が来ることを願っている。

 おれと双葉が同一人物であるということは、一生、誰にも秘密にしておくと決めている。
 もちろん、夫にも。
 おれは、これからの一生を、夫の前では双葉として生きるつもりだ。できる筈だ。おれの半分は、双葉でできているのだから。
 いや、おれは、既に双葉なのだから。

 折り返しの仙台行きの列車が近付いてきた。おれは、ベンチから立ち上がる。
 先に食事を終えた夫が、待ち切れないという表情で、まだトーストを食べているおれの周りにまとわりついてくる。夫は床に跪いて、白のビキニから伸びているおれの白い太腿を撫で始めた。
「ちょっと。ダーリン、やめてよ。もう、ご飯ぐらい、食べさせて」
 口ではそう言うが、おれは、脚にまとわりつく夫を振り払ったりはせずに、夫のするがままにさせていた。夫は、おれの脚にキスをしはじめたけど、おれは全然嫌じゃなかった。夫にキスされたところから、次第に性感が高まってくる。おれだって、待ち切れないのだ。
 山間の駅に立つおれの目の前で、列車が止まった。おれは、少し迷ったが、列車には乗らずに、ホームに立ち続けた。車掌が、列車に乗り込もうとしないおれを不思議そうに見ていたが、やがてドアが閉まり、列車は出て行った。おれは、立ったまま、走り去っていく列車を見送った。次の列車は1時間後。1本見送って、その間に、おれは夫に抱かれることにした。元々のおれとつながった状態でセックスするのは、久し振りだ。列車に乗って、双葉と切断されたとしても、次に接続されたときには、これから夫に抱かれるときの記憶も、おれの記憶になっているわけだから、このまま帰ってしまっても、結果的には、同じことだ。
 だが、おれは今、夫に抱かれたいのだ。こうして双葉とつながったま、夫の愛を実感したかったのだ。
 夫が、おれの薄いカーディガンのボタンを下から順に外していく。白のビキニをつけたおれの白い素肌が、あらわになった。
「ダーリン、愛してるよ」
 おれは、食べかけのトーストを皿に置いて、甘い声で夫に言った。いつも言っている言葉だが、おれとつながっている状態で、どうしてもそれだけは言っておきたい気分だった。
「ぼくも愛してる」
 夫の囁きも甘かった。
「一生、双葉をダーリンのそばにいさせてね」
 おれが飛び切りの笑顔でそう言うと、夫は、何も言わずににっこりと笑って、おれを抱き上げた。おれは、両手で夫の首につかまると、至近距離で夫と見つめ合った。いつものお姫様抱っこだ。
 おれは、夫に抱かれて寝室へと運ばれていく。
 おれの体が、期待感で熱くなってきた。
 ベッドに降ろされる前に、夫がおれにキスをしてくれた。
 夫のキスはコーヒー味で、おれの舌には苦かったが、それでも、おれは夫のキスに激しく応えた。
 次の列車はしばらく来ない。
 ホームにひとり立っていたおれは、これから始まる快感に身を委ねるために、駅のベンチにゆっくりと腰を下ろして、目を閉じた。


― 完 ―







テーマ : *自作小説*《SF,ファンタジー》 - ジャンル : 小説・文学

コメント

No title

あらためて、お疲れ様でした。
言われてみれば、書かれていない部分もあるんですよね。他の部分の情報量が膨大だったためか、すっかり意識から外れていました(^^;
そのうえでバランスも考えて睡眠の設定を入れられていたとは、驚きです。わたしも都合の悪い部分は切りたいところですが、なかなかこう上手くはいきませんね。

ラストは、やはりあれ以上に綺麗なものは思いつきません。最高の読後感でした。

――ところで、非公開型にて書き込んだコメントの方は、読んでいただけましたでしょうか?

終章のあとがき

改行がうまくいっていないみたいでしたので、コメントが前後しちゃいますが、再送します。

原稿用紙換算で1000枚を超える(わたしに取っては)超大作『xxxy』も、これで終わりです。
最後まで読まれた方、おつかれさまでした。そして、最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。

何度も書いているように、01の冒頭から一旦過去に戻った後は、過去の話をちょこちょこっと書いて、すぐに冒頭部に戻るつもりでしたので、とにかく戻った後の話をいろいろ考えていました。アイディアとしては、「おれ」と双葉だけではなく、3つ目、4つ目の体を手に入れて――というようなことも考えてみたのですが、作者の脳では、なんとか2つの体を動かすので精一杯でした。
03や04あたりを書いている頃には、これは当分冒頭部まで戻れないということがわかってきましたし、戻るまでにかなり膨大な量を書かなくてはならないということも見えていました。膨大な分量を書いて冒頭部に戻って、それから更に新しい物語を始める、というのも難しいと思いましたので、この頃から「どうやって終わるか?」ということを考えていました。
このラストをどうやって思いついたのかは憶えていないのですが、取りあえず、仮のエンディングみたいな感じで、最悪、これでも一応終われるかな、ぐらいの気持ちでした。もっといいアイディアがあったら、変えようと思っていたのですが、他には何も思いつかなかったため、こんなありきたりな終わり方になってしまいました。

とにかく、だらだらと書き続けて、いつの間にか尻切れトンボで終わっちゃうのだけは嫌で、ちゃんと終わろうということはだけは思っていたので、ありきたりでも何でも、それなりに納得のいく形で物語を終えられたのには満足しています。

図書館の方で完結したときに、とてもたくさんの方から、とてもたくさんのコメントをいただきました。
たくさんの方に読んでいただいたんだなぁ、というのと、たくさんの人がGJの一言だけではなく、本当にたくさんの言葉を寄せてくださったというのも、感激しました。
特に、物語の中に入り込んで、あれこれ考えてくださる方がいらっしゃったのが嬉しかったです。
小説は、所詮フィクション。特にこういうファンタジー的作品は、言ってみれば絵空事なわけで、作者が頭の中でこしらえた嘘八百につきあっていただけるかどうかというのが、作者が読者のみなさんに対して抱いている一番の不安なのです。そんな作者の駄文にお付き合いしていただいただけでなく、作者が書いていない未来のお話に想像をめぐらせていただいたり、作者が書ききれなかった(というか、考えていなかった)設定まであれこれ考えていただいたり、と、そこまでこの作品に浸かっていただいた方がいるというのは、本当に作者冥利に尽きます。

作者的には、書きたいことはすべて書いちゃいましたし、幸いにして、書きたくないことはほとんど書かずに済ませられました。

一例を挙げれば、双葉は妊娠したりしないのか? ということについては、ほとんど触れずに済ませした。当然、あれだけやりまくれば、そのうち子供ができる筈なのですが、妊娠して、子供が生まれて、育ててみたいな話になったら、多分わたしの力では収拾が付かないでしょうし、そういった話を書きたいとも思わなかったので、その点については、敢えて無視しました。
最初は、双葉は、グラビアアイドル時代に芸能界の大物への「営業」で妊娠させられ、中絶したため子供が産めない体になった、なんて設定を入れようかとも考えたのですが、わざわざそんな暗い話にすることもないので、その設定はボツになりました。

更に言えば、こういうお話には定番の生理の話やトイレの話なんかも出てきません。これも、作者が好きじゃないからです。
一般的に女性であることの負の要素は、極力書かないようにしました。ただ、双葉であることによるマイナス要素も書かないと、お話として成立させづらいので、味覚とか睡眠時間という性別とは関係ないところでマイナス要素を作るようにしています。

あと、双葉の親兄弟や、友人もまったく出てきません。これも、こういうお話の常として、中身が別人だとばれそうになってあたふたする、という話を書きたくなかったからですね。
とにかく、主人公が秘密を持っていて、それを何とか隠そうとする話って、苦手なんですよ。もう、いたたまれなくって。根が小心者なので、秘密を守らなきゃならない、なんていうだけで、普通の精神状態ではいられません。ドラマなどでそういうシーンがあると、見ていられなくて、チャンネルを替えちゃったりします。
そんなわけで、こんなに盛りだくさんな長い話だというのに、結構「お約束」的な話が欠けていたりします。

続編や番外編については、今のところ、書くつもりはありません。とにかく、ここに書いたことがこのお話のすべてで、書いてないことは、読者の想像にお任せします。
そのあたりは、自由に想像してお楽しみください。

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