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xxxy 06

 おれとのキスを堪能した夫は、大急ぎで朝食を平らげた。夫と向かい合って座ったおれと、朝食を楽しむ暇なんてありはしない。おれがご飯を三口ばかり食べた頃には「ご馳走さま」と言って、着替えに入った。パンツの前が膨らんだままなのを見たときは、妻として、どんな反応を見せたらいいかわからなかったので、取りあえず、気付かない振りをした。
 そう言えば、このところおれの周りの男たちは、おれも含めてそんなのばっかりだ。もちろん、それだけおれがいい女だということなのだが。
「双葉。カバン、カバン」
 カバンを忘れかけた夫が、玄関のところでバトンを受け取ろうとするリレーのランナーみたいに待っている。
「はい、ダーリン」
 夫の書斎から持ってきたカバンを渡した後、いってらっしゃいのキスを強要されたので、言われるがままにおれが頬にチュッとキスしてやると、夫は喜色満面といった感じで会社へ出掛けて行った。おれが夫と迎える初めての朝の後半戦は、前半戦とは打って変わって、慌しく過ぎていった。
 それにしても、大丈夫だろうか? 結局、夫はおれとキスしただけで抜いてないわけで、却って欲求不満が溜まるんじゃないかと、おれは男として夫のことを心配してやる。実際、着替えるときのパンツの膨らみがそれを物語っている。
 夫も、さすがに、この半年もの間セックスレスとも思えないから、どこかで抜いているんだろう。今日も案外、ソープに寄ってからの出社だったりして。
 夫を慌しく送り出すと、おれは、体の力が一気に抜けてしまった。今日は朝から濃厚、かつ、慌しすぎた。たった8時間分しか積まれていないおれの燃料タンクは早々に空になってしまったのか、おれはその日一日中呆けていた。
「双葉さん、どうしました?」
 園子さんは、この台詞を1日に6回も言った。この日のおれは、余程腑抜けた感じだったのだろう。
 いつものように病院へ行って、いつものように風呂に入り、いつものように日のあるうちに寝た。
 退院したおれの中で、「いつもの生活」が形作られようとしていた。ただひとつ、朝の夫とのキスを除いて。これから先、朝はいつものように夫とディープキス、というようになっていくのだろうか? おれは、極力そのことについては、考えないようにした。
 午前中のおれは、化粧も服装も対夫用の装備だったが、午後は通院用に変えなくてはならない。化粧をやり直して着替えるのだが、そのときに、シャワーも浴びた。朝から汗を掻き過ぎたからだ。
 本日2度目のシャワー。そのことについては、園子さんは何も言わなかった。女の身だしなみとしては、当たり前のことだったからなのか、おれが汗を掻いた理由を察したからなのかはわからないが。
 とにかく、この日のおれは、朝の夫との出来事について考えないようにするため、必死だった。
 後になって思えば、だが。

 空いた時間には、余計なことを考えないようにするために本を読んだ。先日、園子さんに薦められて買った文庫本。
 双葉の体で文章を読むのは初めてのことだったが、これが慣れなくて苦労した。何しろ、双葉の脳の処理速度はとてつもなく速いので、視覚的な制限があるとは言え、物凄いスピードで文字を読み取ることができる。ところが、双葉の脳の読解力は著しく低いので、読み取られた文字を文章として認識するのに時間がかかってしまうのだ。感覚としては、英語を読むような感じに近いだろうか。アルファベットはわかる。単語も読めるし、大半は知っているのだが、ところどころ知らない単語が出てくる上、言い回しに慣れていないので、文章全体の意味がよくわからない。辞書を引いたりして、ようやく理解できるという具合。
 この場合の辞書に当たるのが、元々のおれの脳だ。一旦、双葉の脳で読み取った文章をおれの脳に渡して、おれがその意味を双葉の脳に返す。意識してやっているわけではないが、実際にはそんなことが行なわれている筈だ。基本的に、考えるのはおれの脳の仕事なのだ。その考えが正しいとすると、元々のおれが寝ているときには、双葉のおれは、文章をまともに読めないということになる筈だが、試してみようとは思わない。たとえ、元々のおれが試してみようと思っても、双葉だけのときのおれは、そんなことをやりたいとは思わないだろう。いずれにしても、双葉による読書は手間が掛かることこの上ないので、ストレスが溜まる。
 と言っても、手間を掛けているほとんどは、双葉の覚醒した脳なので、実は読むスピードは元々のおれに比べて圧倒的に速い。大体、1ページあたり10秒もあれば読んで理解してしまう。おかげで、300ページ近い文庫本を1時間弱で読んでしまった。おれの5倍ぐらいのスピードだろうか。
 ただし、ちっとも面白くない。英語の小説を辞書を片手に読んでも、詰まらないのと同じことだ。
 若い男女が出会って、若い男女が別れて、というよくあるような恋愛小説……と思ったら、最後に意外な仕掛けが――。
 元々のおれが読めば、最後の仕掛けがなくても、普通に読めるし楽しめる話だと思う。以前の双葉も、自宅で映画やドラマのDVDばかり見て過ごしていたようなので、恋愛もの自体は楽しめる筈。多分、そういうことも考えて、園子さんはこの本を薦めてくれたのだろう。ところが、恋愛ものであっても、それを文章から紐解くというような作業は、双葉の脳は苦手なようだ。それ以前の問題として、双葉の脳には、小説を楽しむという回路がないのかもしれない。
 ラストの仕掛けに至っては、驚くことすらできなかった。本来のおれだったら「ええっ!」と声を上げていたような驚愕のラストだったのに。落語で、みんなが笑っているのに、意味がわからず、「今のはどこが面白かったかというと……」と説明されているような情けない感じ。
 おれは、この本を読み終えたとき、物凄く損をしたような気分になった。うまい筈の鍋やうどんをちっともうまく感じなかったときと同じ気分だ。
 園子さんに、読み終わった後の感想を訊かれたときは、どう答えたらいいか戸惑った。正直に「全然面白くなかった」というわけにもいかない。かといって、おれだったらこう感じた筈だ、というのをストレートに言ってしまうのも変だ。あまりに男っぽい意見になりかねないし、とても読書初心者の感想とは思えないだろう。仕方がないので、本来のおれならどう感じただろうかということから、この作品の評価をして、その作品に対して、読書初心者の24歳既婚女性がどう感じるかを推測し、それを双葉的にアレンジして感想を述べた。
 言ってることが自分でもよくわからない。疲れた。自分でも、何をやっているのだろうと思ってしまうような不毛な作業だ。
 一応最後に「また面白いのがあったら教えてください」とは言ってみたが、今度はせめて、おれが読んだことのある本にしておこう。既に読んだことがある本を双葉としてまた買って読むのも無駄な気がするが、元々のおれとして読んだことのある本なら、おれなりに評価できているから、感想を述べるのもちょっとは楽になるに違いない。何より、未読の良作を双葉の体で先に知ってしまうなんて、もったいない。
 ということで、双葉としての読書は、実に期待はずれな結果に終わった。実は、覚醒した双葉の処理能力であれば、そこらの速読法など目じゃないぐらいのスピードで本を読み倒していけるし、大量の本を買う金にも困らない。ハードカバーが文庫に落ちるのを待つ必要もない。面白いとは聞きながら、あまりの巻数の多さに読みはじめるのを自重していたシリーズものや、長大な歴史小説を双葉の体で読みまくってやろうという夢も儚く消えた。どんなに速く読めたって、楽しめないのでは意味がない。
 ただ、おれよりも双葉の方がはるかに速く文章を読めるし、理解もできるということがわかったのは収穫だ。今日は初めてだからこんなものだったが、文字を目で追うことに慣れれば、もっと速く読めるようになるだろう。楽しむためではなく、情報収集のための読書、例えば、新聞を読むことなどは、双葉の体でやった方がいい。双葉の脳は論理的な思考が苦手だが、新聞を読むことが論理的な思考のトレーニングになるかもしれない。そもそも、双葉の脳に自制心が欠けているのは、「あれをすれば、こうなる」「それをしなければ、こうはならない」といった論理的な思考能力が欠けているために、結果の予測を立てないまま行動するからではないかと思う。論理的な思考能力を鍛えていけば、ちょっとは自制心もできてくれるのではないか。そのための最初のステップとして、新聞を読もう、と決めた。

 翌日は土曜日だったが、おれは病院へ行かなければならない。夫も休日出勤ということで、平日と変わらなかった。
 今日も8時半に起床。早起きにもちょっと慣れた。といっても、園子さんに起こしてもらわないと起きられないけど。隣で寝ている夫を起こしてしまっては悪いので、目覚まし時計を使うわけにはいかない。
 シャワーを終えると、園子さんが衣装を広げて待っていた。昨夜のうちに園子さんが、おれが着る服をクローゼットの中からいくつか選んでおいてくれたらしい。満面の笑顔で「お好きなのをどうぞ」と言われた。ひょっとして、園子さん、おれを着せ替え人形代わりにして楽しんでるのかも。
 おれは、実際に鏡の前で何種類もの服を体に合わせてみる。さすがに園子さんが見立てただけのことはあって、どれもおれによく似合いそうだが、その中からおれはピンクのワンピースを選んだ。ワンピースを着るのも今日が初体験。ワンピースは上からばさっと被って、ウエストのところでリボンを結べばそれで終わりなので、とても楽だ。ただし、この洋服も裾は短めで膝上10センチ。その上、着てみてはじめて気がついたのだが、胸元がV字に開いていて、下を向くとおれの丸い胸の形がしっかりと見えた。鏡で見ても、谷間がくっきりと見える。ちょっと体を斜めにすると、谷間だけでなく、中まで見えてしまっていけない。
「ブラが見えちゃいますね、これ」
 それはそれで夫は喜ぶかもしれないが、やっぱりこれじゃ変だろう。
「はい」
 おれが鏡を見て困っていると、園子さんが代わりのブラを手渡してくれた。広げてみると、ストラップがなくて、下から持ち上げるタイプ。このタイプは初めてだが、ひとりで付けられるだろうか? 何より、ストラップなしでおれの大きな胸を固定できるのか、ちょっと心配だ。
「パンツは自分で選んでね」
 おれは、一旦ワンピースを脱いでブラからやり直し。箪笥からストラップレスのこのブラと合いそうなパンツを探す。昨日もそうだったが、大量の女性下着が詰まったこの引き出しを物色するというのは、男としては、やっぱり抵抗がある。何だか下着泥棒にでもなった気分で、罪悪感を感じずにはいられない。救いは、これが全部自分のものだということ。万一、園子さんが身に付ける下着を持ってきてくれなんて頼まれたら、おれは、正気を保っていられるかどうか、わからない。
「これでどうでしょう?」
 色や生地の感じが似ているパンツを何とか探して園子さんにお伺いを立てると、笑顔でOKサインを出してくれた。ふう。
 下着を脱ぎ捨て、一旦全裸になって新しいブラとパンツを身に付ける。病院で寝ているおれは、おいおい、と言いたくなった。今日の午前の危機は乗り切ったと思ったのに、こんなところで双葉のストリップショーが始まるとは。検温の時間までに必死で下半身を落ち着かせる。必死になったからと言って、どうなるものでもないのだが。
 ストラップレスのブラは意外と強力で、下から胸をぐいと持ち上げてくれた。ちょっと苦しいが、夫が出て行くまでの我慢だ。再びワンピースを着ると、さっきよりも胸が強調されて、胸元から覗く谷間が凄いことになっている。正面から見てもこれなのに、ちょっとでも前屈みになったりすると……。
「うわっ」
 実際に前屈みになって鏡を見たら、ウエストのリボンを結ぶのを忘れていたので、ワンピースの中の谷間越しにパンツまで見えた。慌ててリボンを結ぶが、不器用な双葉の手では形よく結べない。何度やってもきれいにできないので、見かねて園子さんが結んでくれた。
「双葉ちゃん、やっぱりスタイルいいわぁ。思った通り」
 V字にカットされた胸元から覗く大きくて形のいいバスト、短い裾から伸びる適度にボリューム感のある白い脚。その2つをつなぎとめるウエストは、リボンできゅっと締まっていて、おれの見事なスタイルを際立たせていた。確かに素晴らしいと思うが、正直言って、これで外に出るのは今のおれにはちょっと無理。こんな露出の多い服は恥ずかしすぎる。園子さんに見られるのも恥ずかしくて仕方がない。なんでこんな服が家にあるのだろう? 双葉はこんなの着て外出していたんだろうか?
 取りあえず、この格好にエプロンをつけて朝食のお手伝い。エプロンで胸元を隠せて、ちょっとほっとするおれ。
 今日も和風の朝ご飯。昨日と違うところは、鮭がアジの開きに変わったのと、半熟卵が目玉焼きになったところ。おれは、皿を並べてパックの納豆とビニール袋に入った海苔を載せた。
「それじゃ、今日もがんばって行ってらっしゃい」
 園子さんのエールをもらって、おれはワゴンを押して寝室に向かう。部屋に入る前にエプロンは園子さんに没収された。これで、V字の部分も夫からよく見える筈だ。ワゴンを押すときは前屈みになっているので、ワンピースの胸元は思い切り見えている筈。おれが寝室に入るときに夫が起きていれば、双葉のグラビア時代にも滅多になかったようなセクシーシーンを見せることになったのだが、当然のごとく、夫は布団の中でいびきを掻いていた。ちょっぴり安心すると同時に、ちょっとがっかりもしている自分に気付いて、複雑な心境になる。
「ダーリン、朝ですよ」
 努めて明るく言ったつもりだが、緊張感は隠せない。何しろ昨日はあんなことになったばかりだ。
 今日もキスしないと起きてくれないんだろうか? だとすると、更に前屈みにならないといけないので、ただでさえ大きく開いた胸元がほとんど全開状態になりそうだ。もっとも、昨日と同じパターンだったら、夫は目を瞑っていて、折角のお宝シーンを見逃す可能性も大なのだが。
「早く起きないと……」
「うん」
 おれが2つ目の台詞を言い終えないうちに、夫が返事をして、むくっと体を起こした。
「おはよう」
 静かに言う。落ち着いた響きだ。いや、むしろ、不機嫌なのじゃないかとさえ思う。おれの方をちらっと見たが、このおれのセクシーな格好に対して、特に反応はなかった。なんで?
「お、おはよう」
 取りあえず、挨拶だけは返した。
 夫は、パジャマの上にガウンを羽織って、寝室内で食卓代わりに使うテーブルに座る。
「今、用意するね」
 おれは、慌ててワゴンに載ったトレイを夫の前に置いた。慌てていたので、コップの水がこぼれそうになった。あらかじめ小さなお櫃に小分けしてあったご飯をよそう。均等にふんわりよそったつもりだが、なぜかご飯が片側に寄ってしまった。ちょっと見には、だれかの食べかけといった感じがして、あまりおいしそうに見えない。
「ダーリン、はい」
 おれはそのまま夫に茶碗を手渡した。本当はもっとおいしそうに見えるよう、直したいのだが、不器用な双葉の体では、手を加えれば加えるほど悲惨な状態になることは目に見えている。夫は、相変わらず無言で、おれの方を見ようともせずに茶碗を受け取って、食べ始めた。
 どうしたんだろう? 何か、怒ってる? それとも、単に寝起きで不機嫌なだけだろうか?
 ひょっとして、この格好、夫にアピールできてない?
 いや、そんなことはない、と病院で寝ているおれの下半身が自信満々に主張した。
 どっちにしても、折角、おれがセクシー系で迫ってやっているのに、ここまで無関心でいられては、おれの女としての自尊心に傷がつく。昨日は、あんなにおれのことを欲しくてたまらないという感じで迫ってきたのに、この落差はなんだ? ひょっとして、昨夜、ほんとにソープで一発抜いてきたとか?
 その可能性は大いにありそうだ。昨日のおれとのキスで、夫の下半身には火が点いたに違いない。当分、おれとはセックスしないと決めた以上、そんな悶々とした状態でまたおれの元に戻ってきても、欲求不満が溜まるだけだ。おれだったら、絶対どこかで抜いてくる。間違いない。こいつ、昨日は絶対ソープに行ってる。
 おれも男だから、おれの代わりにソープの女を抱くというのは許してやる。だからと言って、昨日とは打って変わったこの態度はない。おれは、だんだん腹が立ってきた。こいつ、ソープの女を抱いて、翌朝、おれのことは無視とはいい度胸だ。そんなにソープの女の方がいいのなら、さっさと食べて、ソープだろうがキャバクラだろうが、どこへでも行ってしまえ。
 おれは、保温式の鍋の蓋を取って、乱暴な手つきでおたまで味噌汁を掬った。中の味噌汁がこぼれるぐらいの勢いで、乱暴に夫の前にどんと置いてやろうと思ったのだが、その前にお椀を持つ左手に自分で熱い味噌汁をかけてしまった。
「熱っ!」
 おれは、思わずお椀を手放した。中の味噌汁がこぼれて、ワゴンの上がびしょびしょになる。
「大丈夫か、双葉」
 おれの異変に気付いて、夫が立ち上がった。今朝、はじめて夫が関心を示してくれたのが、こんなドジなおれだというのが何だか無性に悔しい。
「園子さん!」
 夫が声を掛けると、即座に寝室のドアが開いて、園子さんが例の鞄を持って飛んできた。本当に部屋のすぐ外で待機してくれているみたいだ。
「どうしました?」
「双葉が味噌汁をこぼして」
 夫の言葉を途中まで聞いただけで、園子さんがおれの左手を取った。
「掛かったのは、左手だけですね?」
 おれがうなずくのを待たずに、園子さんはコップに入っていた水をおれの左手にぶっかけた。味噌汁で大変なことになっていたワゴンの上が、ますます酷いことになった。
「しばらく水道で冷やしましょう」
 おれは、園子さんに連れられて、キッチンへ向かう。まるで、時代劇の最後でお白洲から連行される悪人みたいで、情けない。
「双葉さんは、わたしが責任を持って処置しますから、ご主人は、お食事をなさっていてください。あのお味噌汁でしたら、それほど温度は高くありませんでしたので、大丈夫だと思いますけど、念のため、冷やしておきます」
 おれは、夫が食事をしている間、園子さんに付き添われて、水道で左手を冷やしていた。
 なにやってるんだろう。
 おれは、自分のあまりのドジさ加減に自分で自分が嫌になる。怒りで我を忘れていたとは言え、自分で自分の手に味噌汁をかけちゃうなんて、ありえない。先日の包丁のときもそうだったが、どうなっているんだ、双葉の体は。
 そもそも、ドジの原因になったその怒りだって、おれが勝手に想像しただけで、本当はソープに行っていたかどうかさえわからないのだ。自分の想像を突っ走らせておいて、怒りに燃えて、ドジやらかすなんて、最低だ。ひょっとして、この想像――というより、妄想に近い――も、双葉の脳の暴走か? 考えてみたら、あのときのおれは、一瞬のうちにいろんなことを想像して、怒っていた。双葉の脳でないとできない芸当だ。
 結局、夫はおれが左手を冷やしているうちに朝食を終えて会社へ向かった。今日は、いってらっしゃいのキスもなし。おれは、空いた右手を小さく振っただけだった。

 おれは、その日もほとんど口をきかなかった。味噌汁をかけてしまった左手は、念のため病院でも診てもらったが、なんともなかった。
「今日は、ご主人と何かあったの?」
 病院から帰って、湯船の中で重い乳房を浮かせてリラックスしているときに、園子さんがおれにそう言った。さすがに、これだけずっと黙っていられては、園子さんも心配になったのだろう。
「わかりますか、やっぱり」
「そりゃあね。双葉ちゃんったら、昨日と全然表情が違うんだもの」
 え? 確かに夫の様子は昨日と今日では一変していたけど、おれ自身は、どちらも黙り込んだままで、同じようなものだった筈だ。
「昨日の双葉ちゃんは、もう幸せ一杯って顔だったでしょ」
 幸せというより、夫のことで戸惑っていたと思うんですけど。
「体中が幸福のオーラで包まれてるっていうか。わたしが声を掛けても上の空。『そんなことより、わたしを見て。双葉は世界一幸せな女の子よ』って声が聞こえてきそうなくらい」
 ええっ? そんな感じでした? 昨日のおれって、世界一幸せな女の子だった――の、か?
 おれは、急いで昨日の記憶を呼び戻す。特に、園子さんに何度も「双葉さん、どうしました?」と声をかけられたが、そのあたりを重点的に。
 例えば、これ。夕食のときに、おれが茶碗を持ったまま、しばらくぼんやりしていたときのこと。
 おれは鏡を見ていたわけではないので、そのときのおれがどんな顔をしていたのかはわからない。そのときのおれは、朝、夫にキスされたときのことを思い出して……。
 あれ?
 おれ、ちょっと笑ってなかったか?
 顔の筋肉の動きからして、そんな感じもする。そのときの目の前の園子さんの表情は、ちょっと呆れ顔。でも、怒っているのではなく、笑っている。ひょっとして、この微笑みは「この子ったら、また幸せそうににやけちゃって。何がそんなによかったの?」って意味?
 おれは、他の記憶も片っ端から再生してみるが、全部同じような具合だ。
「それに引き換え、今日はもう不幸のどん底という感じでしょ」
 園子さんは、おれが記憶を再生している間も、そう続けた。
「手をやけどしそうになってショックなのはわかるけど、双葉ちゃん、それだけとは思えないような落ち込みぶりだったもの。誰がどう見ても、愛するご主人と喧嘩しちゃったのかなって、思うじゃない」
 わかりやすく言うと、昨日のおれは、夫にキスされて幸せ一杯になり、今日はキスしてくれなかったので不幸のどん底に突き落とされた、と。
 なんだ、それ。
 それじゃまるで、おれの方が夫にキスしてもらいたがっているようじゃないか。
 そもそも、愛するご主人って。園子さん、おれの気持ちとしては、夫ではなくて、あなたの方が好きなんですが。
「もう、双葉ちゃんったら、わかりやすすぎ」
 そう言って、園子さんは、おれのほっぺたを指でつんとつついた。何だか、お姉さんに恋の手ほどきを受けている恋愛初心者の女子中学生みたいな扱いだ。
「でも、いざとなったら、双葉ちゃんには、こんな凄い武器があるんだから」
 園子さんは、そう言うと、今度は湯船に浮かぶおれの胸をつんつんとつつきだした。
「や、やめてください」
 おれは、慌てて胸を隠して湯船から出た。折角、乳房を浮かべてのリラックスタイムも、これで終わりだ。園子さんも、こっちから胸の話をしたら怒る癖に、こんな風に人の胸をつつくなんて。というか、好きな女性に乳房をつつかれてしまうおれって……。
 おれは、そのまま脱衣所に向かいながら考える。
 大体、昨日のだって、別に夫を愛しているとかそういうのじゃなくて、ただ、単にキスされたのが気持ちよかっただけ。そりゃあ、あのときは、キスだけじゃなくて、体中が敏感になってたから、思わず、あんな風に自分から体を押し付けたりしたけど、あれは好きとか嫌いとか言う感情ではなくて、単なる女としての生理現象だろう。いくらおれが元は男だといっても、こっちの双葉の体は女なんだから、女として男に反応しゃうのは、当たり前……。
 あ――。
 やばい、思い出したら、体がうずいてきた。
 ふと、胸元に目を落とすと、乳首が立ってる。それどころか、下半身からも何かが溢れ出す感じ。体中が火照ってきた。
 まずいよ。園子さんの前で、恥ずかしい。
 おれは、回れ右をすると、急いで湯船に向かって歩き出す。
「ふ、双葉ちゃん?」
 園子さんが何事かと声を掛けるが構っている暇はない。乳首が立った胸をぶるんと揺らして、おれは湯船に駆け込んだ。
「どうしたの、急に?」
「双葉、寒かったから、もうちょっとあったまります」
「寒かったって」
 おれの肌は、風呂で温められたのと性的興奮で、ピンクに染められている。もう十分温まったし、むしろのぼせそうなぐらい。おれの言葉には説得力のかけらもないが、取りあえずこう言うしかなかった。
(はあっ……)
 おれは、湯船の中で、乱暴にざぶざぶと顔を洗った。考えなしに手を動かしたものだから、敏感になっていた胸に腕が当たって、声を出しそうになった。
(――疲れる)
 おれの恥ずかしい姿を誤魔化すために情緒不安定な双葉を演じるのにも、いい加減、嫌気が差してきた。こんなことをしていたら、そのうち本当に情緒不安定な女になってしまいそうだ。これで、その場を凌いだはいいけど、それで事態が好転するわけでもなく、園子さんは確実におれのことを子ども扱いするようになるだけだ。そもそも、今のだって、園子さんはおれが性的に感じてしまったことをわかっちゃっているかもしれないのだ。
 それでも、おれは、体がおさまるまで湯船を出ることができなかった。園子さんももう一度湯船に戻って付き合ってくれた。
 自己嫌悪に包まれながらお湯に浸かっていると、何とか体の火照りがおさまってきた。
 風呂から上がる頃には、おれはのぼせる寸前だった。

 今夜の夕食は、カレー。と言っても、おれの舌に合わせるので、超甘口。ニンジンやら玉ねぎやら野菜がふんだんに使われているところに、園子さんの意思が感じられる。スパイスがほとんど入っていないので、園子さんに取っては、黄色いシチューみたいなものだろう。ちなみに、おれに取っては、辛くなくて無茶苦茶うまいカレーだった。あとで、アニメのキャラクターの入った子供用カレールーの空き箱を見つけたときはちょっと落ち込んだが。
「きっと、ご主人は、双葉さんの体のことを考えていたんだと思いますよ」
 夕食のとき、園子さんはそう言った。おれが「そうですかねぇ」とあまり気のなさそうな返事をしたので、その話題はそれっきりだったが、本当は気がないどころか、おれの頭の中はそのことで一杯になった。
 夕食後、寝るまでの僅かな時間の中で、おれは園子さんのこの言葉の意味について考える。
 園子さんの言葉を素直に受け止めると、今日の夫は、おれの体を気遣って、わざと冷たい態度を取ったのだということになる。確かに、おれの体に万一のことがあってはと、おれとのセックスを我慢し続けている慎重な夫のことだ。万が一にも男の欲望に負けて、おれを抱いてしまわないよう、最初から冷たい態度を取っていたのかもしれない。
 実際のところ、昨日の朝の行動について、夫が反省している可能性は、大いにあると思う。昨日の夫は、キスぐらいならと考えてあんな行動に出たのかもしれないが、おれが自分から夫に体を密着させていったことまでは、予想外だったのだろう。キスだけで終わる筈が、セックスの一歩手前まで行ってしまい、夫もうろたえたのだろうか。さすがの夫も、男としての欲望を押さえる自信がなくなったのかもしれない。
 だとしたら、やはり、今朝の夫の行動は、おれのためだったということになる。うん、それならいい。
 ――いやいや、そうじゃない。確かに、おれの将来の安定した暮らしのためには、夫の愛を常に確認しておくことが必要なのだが、問題は、そういうことではない。
 問題は、おれが今考えたようなことと同じことを園子さんも考えたのではないかということだ。
 おれの推論は、昨日の夫のキスとそれに応えてしまったおれの行為、更には、今朝の夫の冷たい態度という事実を基にしたものだ。だが、園子さんは、昨日の夫がおれにキスしたことも、ましてやおれがそれに応えてしまったことも知らない筈なのだ。なのに園子さんが、おれと同じ結論に達して、こういったことを言い出すということは、園子さんはおれと夫が寝室の中で何をしているか、気付いているということだ。
 今日だって、おれがやけどしそうになって、夫が呼んだときに、園子さんは即座に寝室に入ってきた。ということは、基本的に園子さんはいつでも寝室に入れるようなところに待機しているということだろう。さすがに、このマンションの各部屋は普通に話していても声が外まで筒抜けというわけではないが、大声を出せば声が外まで届く。だとしたら、昨日のおれの痴態も、園子さんには筒抜けだったのだろうか?
 おれは、もう一度昨日の朝の夫とのディープキスを思い出す。いや、あまり詳しく思い出すと、また体が火照ってくるので、おれがどんな声を出していたかだけ。
 ――。
 やっぱり、部屋の外まで聞こえるような声を出していたわけではない。だとしたら――。
 園子さんは、昨日のことを夫から聞いた――。
 考えてみれば当たり前のことだが、夫と園子さんは、おれが寝ている間に会っている。園子さんは、ずっとおれの傍にいてくれるわけだが、それも夫が帰ってくるまでのこと。夫が帰ったら、おれのお守りを夫に引き継いでいる筈だ。そのときに、その日のおれの様子を夫に報告しているに違いない。逆に、夫の方も、おれと夫がふたりきりでいたときの様子を園子さんに知らせているのかもしれない。その折りに、昨日のディープキスの話を園子さんにしているような気がする。
 普通なら、そんな夫婦間のことを他人には言う筈もないが、園子さんはおれのことを一任している看護師さんなのだ。夫が園子さんに夫婦間の事細かなことまで話している可能性は高そうだ。ひょっとしたら、今日の夫の態度も、園子さんのアドバイスがあってのことかもしれない。園子さんは、自分のアドバイスが効きすぎて、おれが酷く落ち込んでしまったために、風呂場で声をかけてきた――。
 辻褄は合う。
 きっと、その通りだというような気がした。
 そう思うと、何だか――何だか、嫌だった。
 何が嫌って、夫と園子さんがおれの知らないところで、おれのことを話しているというのが嫌だった。
 もちろん、ふたりとも、おれのためにそうしてくれていることはわかっている。わかってはいても、やっぱり嫌な気持ちがするというのは、どうしようもない。
 嫌なものは嫌。そうとしか言いようがない。
 だが、このときのおれは、一体、何が嫌だったのか、まだ気付いてはいなかった。

 翌日は日曜日。この日は週に一度の通院しなくてもいい日だ。
 夫も会社は休み。休日出勤もない。
 ということで、ドライブに出掛けることにした。もちろん、おれと夫と園子さんの3人で。
 目的地は横浜。あのディープキスした朝、泣き出したおれに夫が「横浜までピザ食べに行こう」と言ったが、その約束を果たすためだ。あんなのは、子供のご機嫌取りみたいなその場限りの言葉だと思っていたのに、案外律儀な奴だと夫のことをちょっと見直した。
 この日の夫は、一昨日のようにおれにキスを強要するでもなく、かといって、昨日のように不機嫌でもなく、それなりに機嫌よく、それなりに落ち着いていた。うーん。やはり、夜のうちに園子さんと相談している可能性は高そうだ。昨日のおれがあまりに落ち込んでいたので、不機嫌で無関心を装うのもどうかということになったのだろうか。
 朝食は、昨日と同じメニュー。園子さんからしたら、昨日はまともに食べてくれていないので、リベンジのつもりだったのかもしれない。
 朝食の後、洋服を選んで化粧をするのに約1時間。通院ではブラウス系ばかりだったので、今日は花柄のプリントワンピースでお出掛け。裾や袖のところがレースになっていて、微妙に透けているところがポイントだ。胸のカットはなくてちゃんと胸は隠してくれるおとなしめのデザイン。それでも前屈みになると、谷間が見えてしまうので、気をつけないといけない。裾は膝小僧のわずかに上と、おれとしては、ギリギリの許容範囲。まあ、こんなかわいい服を着て出歩くこと自体が、おれとしてはまだ気恥ずかしくて仕方がないのだが。
 正直、今のおれのレベルでは、いろんな服を組み合わせて、それをうまく着こなすなんて、到底無理。まだ、座っているときに無意識のうちに脚を開かないように気をつける、という段階なのだから、ボロを出さないことで精一杯。家の中で、夫1人を相手に着飾るのであれば、まだ何とかなる。夫は、おれがすることだったら、大抵何でも笑顔で受け入れてくれるし、いざとなったら、笑ってごまかすという手が使える。
 だが、外で不特定多数の人の目に晒されて、堂々と女らしく振舞うなんてことは今のおれには荷が重い。ということで、お出掛け時には、双葉の元々の素材のよさに、ワンピースのような1枚ものの服を貼り付けるようなファッションが一番無難みたいだ。
 ついでに言うと、今のおれは「かわいい」から「きれい」への過渡期にあるのだろうと思う。要するに、今日みたいなかわいい系のファッションも、退院したときのように隙のない美女的なファッションも可能なのだが、やはり、おれの女性スキルでは、美女系はちょっとつらい。姿勢を正してすまし顔で立っていれば、絵になると思うのだが、長続きはしない。一歩でも歩いた途端にボロが出る。その点、かわいい系であれば、脚だけ閉じておいて、あとは笑っていれば、何とかなる。ずっと笑っているのも馬鹿みたいなものだが、元々双葉のような女は少々お馬鹿なところがかわいいのだから、それでいい。そりゃあ、おれがどんなにがんばったって、園子さんみたいな知的で有能な女性にはなれないだろうから、当面は「かわいい双葉」でいようと思う。「美しい双葉」にはこのあといくらでもなれるだろうが、「かわいい双葉」でいられる時間は限られているだろうから。

 夫が運転するセルシオで11時過ぎに出発。園子さんはいざというときのためにおれの隣に付き添う必要があるので、おれと園子さんが後部座席に並んで座った。タクシーみたいな配置になってしまい、夫が「お客さん、どこまで行きましょう?」などとおどけてみせた。
 カーステレオからは、モーツァルトのピアノ協奏曲。園子さんが持ってきたCDらしい。おれも知っている有名な曲だが、双葉の耳にはクラシックは退屈だったらしく、おれは、春霞の東京湾を見ながら、半分はうつらうつら眠っていた。
 車は海沿いを走り、ベイブリッジを渡って横浜の街に入った。高速の出口で少し時間が掛かったが、概ね順調なドライブだった。
 港の見える丘公園で車を止めて、しばらくあたりを散策しようとしたが、おれは5分と歩かないうちに足が痛くなってきてしまった。途中から、脱水症状を起こした駅伝のランナーみたいに足が進まなくなり、最後は、ほんの10メートル先のベンチまでもたどり着くことができずに、芝生の上に倒れこむように座り込んだ。脚がどんな角度になっているか、気にしている余裕は全くなかったので、パンツが見えてしまったかもしれない。
 双葉の体は元々体力がない上に、長期にわたる入院生活ですっかり鈍っていたのはわかっていたが、ここまで酷いとは思わなかった。こんな調子では、気軽に外出もできない。買い物の途中で力尽きて、路上で遭難などということも考えられる。これは、暇を見つけて少しでも運動するようにしないと、自分ひとりでは家から一歩も出られない、なんてことになりかねない。
 結局、おれがそんな調子だったので、一旦車に戻って、近くのカフェで時間を潰し、2時過ぎに石川町のイタリアンレストランに入った。夫婦ふたりでやっているようなこじんまりした店で、中途半端な時間でもあったので、他に客は誰もおらず、ほとんど貸し切り状態。夫の旅行会社は、飲食店の紹介サイトも持っているので、こういう穴場的な店もよく知っているのだろう。
 各自ひとつずつスープを注文して、あとは適当にパスタや魚料理やサラダを頼んでいく。おれはもちろん、ピザを頼んだ。
 ピザは石釜で焼く本格的なもので、かなりうまかった。いつも食べてる宅配ピザに近いぐらいに。――という評価基準は、自分でも情けなくなってくるのだが、そう感じてしまうのだから、仕方がない。
 夫と園子さんは、魚料理を盛んに褒めていたのだが、薄味で、おれの舌には物足りなかった。何か、仲間はずれにされたようで、ちょっと悔しい。
 ただ、最後に出てきたジェラートは、本当にうまかった。うまかったと言うよりも、幸せになった、と言った方がいいかも。口の中で冷たくて甘いクリームが溶けるのと一緒に、おれの体もとろけそうになる。それは、園子さんも同じだったらしく、園子さんにしては珍しく、顔がとろけきっていた。デザートというものは、かくも女を狂わせるのか。
 食事をしたら、すぐに帰宅。折角横浜まで来たのに、もう帰ってしまうのは惜しいが、帰って風呂に入ったら、おれはもう、おねむの時間になる。毎日大量の睡眠時間を消費するこの体が恨めしい。夫は、園子さんにそのことを詫びていた。最後に「今度は双葉が寝ているときにゆっくり来ましょう」と冗談を言うが、おれはその言葉に本気でふくれて見せた。
 帰りの車内、満腹になったおれは、ほとんど寝ていた。最近は、午後3時を回れば、眠くなってくるので、いつものリズムといえばその通りなのだが。

「――何日か前に、下の本屋さんへ行ったぐらいですね」
 病院のおれは、いきなり園子さんの声を聞いた。それは、双葉の体が眠りから醒めたことを意味する。 
 双葉のおれは、意識はあるが、まだまどろみの中。何だかふわふわと浮いている感じ。目を開けるのも惜しいほどの安穏とした時が流れている。もう少しこの感触を味わっていたくて、おれはそのままじっとしていた。また眠ってしまうなら、それでも構わない。
「時間があるときに読む本をまとめ買いしておいたんです。双葉さんも、わたしがお薦めした小説を買っていましたよ」
 どうやら、おれと園子さんの生活ぶりについて話しているらしい。先日行った本屋の話のようだ。おれは、夫と園子さんとの会話というものを聞いてみたくてそのまま寝た振りをしていた。
「双葉が本を?」
 夫の声は驚いたような響きだった。
「だって、あの子は本どころか、漢字も満足に読めないんですよ」
「そんなことはないでしょう。ちゃんと読んでいましたよ。しかも、読むのが結構速かったので、びっくりしました。文庫本一冊を正味1時間ぐらいで読んじゃいましたから」
 あれ。まずかったかな。一気に読んだわけじゃなくて、何回かに分けて読んでいたので、読むスピードが尋常でないことはばれてないと思っていたのだけど。
「本をぱらぱらめくってただけなんじゃないですか?」
「わたしもそう思って、感想を聞いてみたんですけど、ちゃんと本を読んだ人の感想でしたよ」
「ネットの読書系のサイトで、感想だけ拾い読みしたとか?」
「まさか。第一、わたしがご一緒してるときは、双葉さんは、パソコンなんて触ってもいないですし」
 夫の「うーん」という唸り声が聞こえてきた。夫にしてみれば、ろくに漢字も読めなかった筈の双葉が、物凄いスピードで小説を読んだとは俄かに信じがたいのだろう。
「双葉と結婚してもう2年になりますけど、あの子が本を読んでいるところなんて、一度も見たことなかったですよ。新聞も、テレビの番組欄以外は興味ないし」
「昨日は、ご主人が出掛けられた後、新聞も読んでいましたよ。それも、政治面や経済面、国際面を」
 園子さん、そんなところまで観察しているのか。うーむ。さすがに、いきなり政治面を読むのはまずかったかなあ。これからはもうちょっと気をつけないと。
「双葉が自分から何かを読むだなんて……。そもそも、あいつは、ぼくの図書室に一度も入ったことないんじゃないかな」
「えっ、図書室があるんですか?」
 急に園子さんの声のトーンが変わった。夫の書斎があるのは知っていたが、図書室があったなんておれも知らなかった。双葉の記憶にはそんなもの、ない。
「あれ、言ってませんでしたっけ?」
「わたし、図書室がある家なんて、はじめてです。外国の小説なんかだと、大きな家には、よく図書室が出てくるので、そんな家に憧れていたんです」
 園子さん、話し方もいつもと違って、明らかにテンションが高い。本好きなのはわかるが、おれと話しているときとは全然違う。やっぱり、おれのような年下の女相手のときと、年上の男相手のときでは、自然と態度も違ってくるのだろうか。その年上の男がおれでなく、夫であることが、ちょっと悔しい。
「図書室といっても、本専用の物置みたいなものですけどね。書庫というのが一番近いかな。一応、本を読むための椅子とテーブルは置いてあるので、自分で図書室と呼んでいるだけです。昔から本はよく読んでいましたけど、最近は出張のときの飛行機や電車の中でずっと読んでますから、本が溜まっちゃって仕方がなかったんですよ。ぼくは、どうも、本を捨てることができない性分なんで、昔は押入れから溢れそうなぐらいになっていたんですが、あのマンションを買ったとき、思い切って、図書室を作ったんです。帰ったら、ご案内しますよ」
「いいんですか?」
 いつも冷静な園子さんの声とは思えないほどトーンが高くなっている。園子さん、憧れの図書室と聞いて、舞い上がっちゃってないか?
「もちろん。もし、読みたい本があったら、勝手に読んでくださって結構ですから」
 ところで、さっきから気になっていることがひとつある。園子さんの声の聞こえ方が変なのだ。何だか右耳ばかりで聞こえるような気がする。最近のおれは、聴覚の方も双葉の耳と元々のおれの耳を区別して聞けるようになってきた。おれの体は病院にいるので、自由に音楽を聴くこともできないが、退院したら、両方で違う音楽を聴いたらどうなるかなど、試してみたいことはいろいろある。取りあえずは、耳の方も生活に支障のないレベルにまでなってきた。
 だが今は、どうも聞こえ方がおかしい。双葉の方の左耳が機能していないような気がして仕方がない。双葉の脳がうまく処理できていないのだろうか?
「あら、双葉ちゃん、気がつきました?」
 園子さんの声。やっぱり、右の耳からだけ聞こえてくる。どうやらおれは動いてしまったらしく、起きていることを悟られたようだ。
「もうすぐおうちですよ。そろそろ起きますか?」
 おれが目を開けると、前部座席の背中が見えた。どうやら、横になって眠ってしまったようだ。
 え? 横になって?
 セルシオは国産車の中では高級車だが、それでも後部座席に2人乗っているうちの1人が横になれる程広くはない。ということは――。
 おれの左の耳は、何か柔らかい物に押し付けられていた。それで、聞こえにくかったみたいだ。それじゃ、右耳がやたらとよく聞こえた原因は?
 おれは、右耳の方向、つまり、上を向いてみた。そこでは、園子さんが至近距離でおれに微笑みかけていた。
 つまり、その――おれは、園子さんに膝枕をしてもらって寝ていたらしい。おれの左耳を塞いでいたのは、園子さんの太腿だったのだ。いつの間に?
「双葉ちゃん、おはよう。よく眠れた?」
 おれの上から園子さんが挨拶をしてきた。おれは、慌てて起き上がって、後部座席で姿勢を正した。
「双葉、もうちょっとで着くから、寝ててもいいよ」
「ご主人も仰ってますから、さあ、どうぞ」
 園子さんは、再び膝枕でおれを寝かせるつもりらしい。そりゃあ、おれとしては、園子さんの膝枕は嬉しいが、何だか、夫と園子さんから子ども扱いされているようで、悔しい。だって、そうだろう。この3人の中で、本当はおれが一番年上なんだから。
 結局、おれは頑なに姿勢を正したまま家に着くまで動かなかった。夫と園子さんからは、些細なことで拗ねてしまっている子供というように見えていることだろう。そのことが、またしてもおれを憂鬱な気分にさせる。
 おれは、夫と園子さんから子ども扱いされるのも嫌だったし、夫と園子さんが、おれに対して同じ思いを抱いているであろうことも嫌だった。

 図書室は、随分広かった。
 ふかふかの絨毯、アンティークな木製の書棚、ずらりと並ぶ同じ背表紙の文学全集や百科事典、というのが園子さんが言っていた「外国の小説に出ている図書室」だと思うのだが、それとは全然違っていた。どちらかというと、最近建てられた公立の図書館に近い。
 床は、寒くない程度の薄い絨毯で、書棚は図書館にあるようなスティール製。並べてある本は夫が読み終えた本ばかりなので、大半が文庫と新書。それに、マンガが少し。中にはぼろぼろになっているような古いものもある。
 内容は、エンターテインメント系の小説がほとんど。基本的にはおれと似ているが、おれがほとんど読まない時代小説の大家の本がずらりと並んでいたりする。おれと比べると、方向性は似ているが守備範囲はかなり広い、といったところか。ハードカバーもあるが、新しいものばかりなのは、経済状況が好転した最近になって、ハードカバーも買えるようになってきたということだと思われる。一角に、ビジネス書が少しだけ。これは、仕事の関係で読まなければならなかったものだろうか。書棚の数とひとつの段に収められている本の数からして、ざっと2千冊から3千冊はあるだろう。若い頃から、1年に100冊ずつ読み貯めていくと、そのぐらいの数字になる。
 夫が車内で話していたように、奥には読書をするためのテーブルと椅子、それにソファが置いてある。
「最終的には、このテーブルやソファも取り払って、書棚と本で埋まる予定なんですよ」
 夫が得意気に説明する。園子さんが、夫の方を尊敬のまなざしで見ているのが、おれには気に入らない。
「最終的って?」
「ぼくが死ぬときかな」
 そう言って、夫は照れたように笑った。
「書棚は本が増えるたびに新しいのを入れていくんだけど、一応、今のペースで100歳になるまで増え続けても、大丈夫な広さはあります」
「ここにある本は、全部読まれたんですよね」
「その筈です。買った本は、どんなにつまらなくても、最後まで読まないと損した気になるので、意地でも読み終えるんですよ。つまらない本を読み続ける方が時間の無駄だろうって言われるんですけどね」
「その気持ち、わかります。本好きな人って、そうですよね。読み終わった本で、二度と読まない本でも捨てられないとか」
 おれも、その気持ちはわかる。わかるんだけど、双葉の立場では、それを口に出して言えないのがもどかしい。ああ、ストレスが溜まる。
「ここにある本だったら、気軽に読み始めて、つまらなければ、やめても大丈夫ですから、どんどん読んでやってください。二度と読まれることのない運命だった本がまた読まれるとしたら、それは嬉しいことですよね」
「はい」
 何だか、夫と園子さんのふたりで勝手に話を進めて、おれは完全においてきぼり。
「双葉も読んでいい?」
 悔しいから、おれもふたりの話に割り込むことにする。夫がいるときは、一人称が「双葉」にならざるを得ない。
「いいけど、双葉に読めるようなやさしいのはないぞ。漢字にふりがなは振ってないし」
「大丈夫。少しぐらい読めない字があったって、雰囲気でわかるから」
 本当は、記憶力がいいから、どんな難しい字でも読めるだけでなく書けるのだが、そんなことは知らない夫は、笑っておれの頭をぽんぽんと撫でた。
「あっ、この本――」
 書棚を見て回っていた園子さんが声を上げる。見ると、園子さんが今読んでいる英国の作家の小説が並んでいた。
「ちょうど今、この人の作品に嵌っているところなんです」
「そうなんですか。女性の方でこの人に嵌ってる人って、珍しいんじゃないですか?」
 夫がそう言った。こいつ、おれが思っていたことと同じことを言ってる。
「でも、わたしに薦めてくれた友人も、女性ですよ。とにかく、この人の話は、主人公の男がかっこいいって」
 確かに、この作家の本に出てくる主人公たちは、ほとんどが30代の男性。意志が強くて、優しくて、大金持ちではないけれど、平均かそれ以上の経済力があって、独身で、と、ある意味女性たちの理想の男性像だったりする。あまりに女性のツボを得ている男が出てくるため、実は、本当は奥さんが書いているという噂もあるぐらいだ。
「確かに、本当は奥さんが書いているんだって噂もあるぐらいですからね」
 こらっ。それ、今おれが思ったことだ。勝手に言うんじゃない。
 おれは、園子さんに言いたいことを全部夫に言われてしまって、気分が悪い。園子さんは、夫の言葉に「ええっ、そうなんですか?」などと、おれと話すときには絶対にしないような口調になっているのも、腹立たしい。
「双葉、その辺の本を見てくる」
 おれは、夫と園子さんと一緒にいるのが嫌で、そう言い置いて、ふたりの傍を離れた。いつもは、おれについてくる園子さんも、目の前にある本の山と、あれこれ本の解説をして聞かせる夫の言葉に夢中になっているのか、ついてきてくれないのも、淋しかった。
 夫と園子さんは、件の作家の棚を離れ、国内ミステリーの棚へと移動して行った。入れ違いに、おれは、翻訳ミステリーの棚に向かう。
(これ――)
 おれはそこに、先日、書店で園子さんが手に取って見ていた本を見つけた。英国の女流作家の歴史ミステリー――メイドと令嬢のレズシーンがある奴。そうか。これ、夫も読んでいたのか。まあ、日本でも評判になった作品だから、夫のような本読みだったら、持っていても不思議はないが。
「ねえねえ」
 おれは、声を上げて夫を呼んだ。夫と園子さんが書棚を回って一緒にやってきた。
「双葉、これ読みたい」
 この本だったら、おれは読んだことがあるし、内容もちゃんと憶えていて、本の評価もできている。あとで感想を求められても、双葉としての意見を言うのに、そんなに困らない。
「双葉、その本のタイトルのところに、上という字が書いてあるだろう。その本は上巻で、もうひとつ下巻もあるんだよ」
「そのぐらい、双葉だって知ってるよ」
「物凄く長いけど、大丈夫か?」
 おれが「うん」とうなずくと、夫は園子さんの方に向かって言った。
「この本、読んだことありますか?」
「これ、随分評判になった本ですよね。以前から読みたいとは思っていたんですが、実は、まだなんです」
「だったら、双葉、1つ約束してくれたら読んでいいよ」
「約束?」
 おれは、首をかしげた。夫が一瞬にやけたところを見ると、今のおれの表情はかわいかったに違いない。
「この本を読んでも、内容は一切園子さんに言わないこと」
 あ、そうか。確かに、この本は内容については一切予備知識なしで読んだ方がおもしろい。
「わかった。じゃあ、借りてくね」
 おれは、上下2冊の文庫本を持って、図書室を出た。
 借りたはいいが、今日は読む時間はなさそうだ。日が傾いてきているので、おれは今日のところは風呂に入って寝るだけ。
「双葉ちゃん、お風呂なんだけど、やっぱり、ご主人と入りたい?」
 図書室から戻ると、園子さんがいきなりそんなことを言い出した。
「えっ、ええっ?」
 おれは、うろたえる。しまった。これは、予想外の展開。
 いつもは、夫が帰ってくるときにはおれは寝てしまっているが、休日だとおれの入浴時間には夫も家にいるのだ。おれの元々の体だったら、男同士であの広い展望風呂に入るのも、別に何とも思わないが、女の体で夫と風呂に入るのは、いくらなんでも危険すぎる。先日は、服を着ていてもあんなことになってしまったのだ。全裸のおれを見て、夫の自制心が性欲を抑え切れるとは到底思えない。
 夫との入浴を回避する言葉を何か考えないと。おれは、必死になって考える。1つだけ、言い逃れの方法が見つかった。
「でも、園子さん、お風呂のような危険な場所に、あたしひとりで入れるわけにはいかないって言ってたじゃないですか」
「確かに、言ってましたよ。だから、わたしも双葉さんとご一緒させていただきます」
「あたしと一緒って――うちの夫と一緒ってことなんですけど……」
「わたしは別に構いませんよ」
 構いませんよって、それ、絶対おかしいでしょ。だって、いつも一緒に入っているおれはともかく、夫も一緒なんですよ。裸の夫と一緒に風呂入るんですか? 園子さんも裸になって――。
「やだ」
 おれは、ぽつりと小さな声でそう言った。
「え? 今、双葉さん、何て――」
「やだやだやだやだやだやだやだやだ」
 おれは、目を瞑り、首を振って、髪を揺らしながら、そういい続けた。
 そんなの絶対に嫌だ。夫と園子さんが一緒に風呂に入るだなんて。たとえ、おれも一緒に入るんだとしても、そんなの嫌だ。絶対にダメ。認めない。却下。ナシ。否決。絶対やだ。ありえない。ダメ――。
「そ、園子さん、ぼくはもっと後で入りますから、双葉と一緒に入ってください」
 夫は、おれの尋常でない嫌がりぶりに、慌てて自分の書斎の方へと出ていった。
 おれは、夫が出て行って、園子さんとふたりっきりになってもまだ、首を振り続けていた。おれは、自分の中に突如として湧き起こってきた感情を処理しきれないでいた。この感情って――。
 嫉妬。
 ジェラシーだ。
 おれは、夫と園子さんの仲に妬いているのだ。
 おれが寝ている間に、夫と園子さんがおれのことについて話しているに違いないと気付いた時から、ふたりのことを思うたびに、この感情がおれの心の中に蓄積されてきたのだ。おれが寝ている間に、ふたりが何か話しているだろうことも。今日のレストランで、おれがうまいと思わなかった魚料理をふたりで褒めていたときも。図書室で、ふたりが本の話で盛り上がっていたときも。ふたりが一緒に風呂に入りそうになった今も。
 おれは、嫉妬に狂う女のように――いや、実際、嫉妬に狂う女以外の何者でもなかった。
 でも――。
 でも、おれは、何に嫉妬をしているのだろう?
 おれの園子さんが尊敬のまなざしを送る夫に?
 それとも――。
 おれの夫と仲良く話している園子さんに?
 どっちだ?
 たぶん――たぶん、両方。
 男としてのおれは、夫に。
 女としてのおれは、園子さんに。
 嫉妬していた。

テーマ : *自作小説*《SF,ファンタジー》 - ジャンル : 小説・文学

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06のあとがき

基本的に、病院とマンションだけで進んできたこのお話ですが、このあたりから、やたらといろんな場所に出掛けることになります。実際、その中には、作者が行ったことのある場所も、実は行ったことのない場所もあるのですが、最近は、ネットで地図を簡単に見られたり、特に観光地でないような場所でも、いろんな情報があったりして、知らない場所のことについても、書けるようになりました。
どこが作者の行ったことのある場所で、どこに行ったことがないのかは内緒です。

05から06にかけて、本の話が結構でてきます。作中で触れられている本は、タイトルは書いてありませんが、基本的には実在する本のことを書いています。

その中で、「メイドと令嬢のレズシーンがある英国の女流作家の歴史ミステリー」というのがありますが、これは、サラ・ウォーターズの『荊の城』という本です。これは、お薦めの作品(実は、レズシーンは大したことないですが)。わたしは、この本を開いて、最初の1行で心を持っていかれました。
この本は、おもしろさも抜群ですが、わたしに「こんな小説を書けたらいいなぁ」と思わせる作品でもあります。
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