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呪遣いの妻 13

 休暇は終わった。
 最初に思ったのは、そのことだった。
 京都に来てから――東京を逃げ出してきてからの1週間、おれは、甘いものを食べ歩き、気に入った洋服を買い漁った。この間、おれは何も考えていなかった。会社のことも、妻のことも、小娘のことも。東京に置いてきたすべてのことを頭から追い出して、ただただ、遊び回っていた。
 でも、それも、終わりだ。
 いつまでも、こんなことを続けていられるわけがない、ということは最初からわかっていた。時が来たら、終わりにするのだということも、きっと心のどこかで決めていたのだと思う。ついにそのときが来てしまった、ということだ。
 時計を見たら、午後2時を回ったところだった。
 おれは、行列から1人はずれ、大通りへと歩いていった。おれの後ろに並んでいた客が、折角席に座るまであと少しというところまでやってきたのに列から外れて帰ってしまった少女を不思議そうな顔で見ていた。
 強い日差しの下を少し歩き、大通りに出ると、タクシーを止めて、行き先を告げた。京大娘がバイトしているうどん屋だ。今の時間なら、話す暇ぐらいあるだろう。
 土曜日の京都の道は混んでいた。5分もあれば着くかと思っていたが、渋滞に巻き込まれて、思っていた倍以上の時間をかけて、ようやくうどん屋に着いた。
 店は、昼時を過ぎていたため、空いていた。レジのところにおれは京大娘の顔を見つけた。
「どしたの、急に? うどんでも食べに来たん?」
 驚いた顔の京大娘に、おれは首を振った。
「あたし、急に帰らないといけなくなって」
「帰る? また、急な話やな。なんぞ、あったん?」
「うん」
 おれは、俯いただけで、何も言わなかった。彼女も、最初は不思議そうな顔をしていたが、それ以上は特に何も訊いてこなかった。
「まあええわ。これから帰るんか?」
「ええ。それで、ちょっとお願いがあって」
 おれは、京大娘にホテルの鍵といくらかの金を渡して、部屋に残したままの服や荷物を東京のホテルまで送ってくれるようにと頼んだ。
「なんやの。ホテルに帰る暇もあらへんの?」
「ええ。すごく急いでるんで。お願いできますか?」
「ええよ、そのぐらい」
「部屋は月曜の朝まで取ってありますから、月曜まで朝食は付きます。何なら、誰かと2人で泊まってもいいですよ」
 おれと京大娘の名前で取ってあるホテルだ。京大娘が使う分には、何ら問題ない筈だ。彼女は、おれが京都に来た日にバイトを代わってもらった子を誘ってみる、と言っていた。
「それじゃ、ほんとにどうもありがとうございました」
 そう言って、彼女の手を握ったら、途端に涙が溢れてきた。
「どないしたん? 何泣いてんの? 泣くことあらへんがな。東京と京都なんて、新幹線乗ったらすぐやないの。会いとうなったら、今回みたいに、来たらええねん」
「うん」
 おれは、溢れてくる涙を拭いながらそう言ったが、今日、別れてしまったら、彼女ともう2度と会うことはない。「もう2度と会えないんです」と言えないことがつらかった。
「さよなら」
 おれは、店を出るときに、もう一度言った。
「本当に、ありがとう」


 うどん屋を出ると、地下鉄で京都駅に向かった。タクシーを拾うよりも、こっちの方が早そうだったからだ。とにかく、今のおれには、ほんの僅かでも時間が欲しかった。
 京都駅で一番早いのぞみの席を取る。3時の列車に乗れた。列車に乗り込むと、席には向かわず、そのままデッキで電話をかけるために携帯を取り出した。このところ、ずっと電源を切っておいたピンクの秘書用携帯だ。飾り気のない携帯に、イルカのストラップだけが踊っていた。
 6日ぶりに電源を入れると、着信履歴が山程溜まっていた。大半は、秘書たちから。小娘からのものもいくつかある。妻からのものはなかった。当たり前だ。妻は、もう1つの真っ黒い携帯の方の番号を知っているのだ。連絡したければそっちにかければいい。今日も、小娘にその番号を教えて連絡を取らせたのだろう。
 1日に1回ずつ、決まって夕方にイケメン秘書からの電話が入っていた。最後は、昨日の18時47分。おれは、ディスプレイに表示された履歴をじっと睨んでいる。
 今日は土曜日。彼からの着信はまだない。平日じゃないので、いつもと同じように、夕方に連絡があるのかどうかはわからない。あったとしても、その時間では、遅すぎるかもしれない。おれは、10時までに屋敷に帰っていなければならないのだ。
 おれは、意を決した。話すことを全部頭の中で復唱してから、イケメン秘書の番号をコールする。
「お電話、ありがとうございます」
「もしもし――」
 おれは、イケメン秘書の声が聞こえると、決めてあった台詞を口に出そうとした。だが、スピーカーから聞こえる彼の声は、おれの言葉を無視して、こう続けた。
「ただいま電話に出ることができません。伝言のある方は――」
 留守番電話だった。はあっ、とため息をついている間に、ピーっというメッセージを促す電子音が鳴った。
「あ、あの――」
 突然のことで、何を言ったらいいかわからない。さっき、彼に話そうと思っていた内容は、すっかり頭の中から消えていた。それでもおれは、必死に台詞を搾り出した。
「あ、あたしです。え、ええっと……」
 次の台詞を探している間に時間が過ぎていく。
「――今日、これから会って欲しいんです。どうしても。――だから、お願い。電話。すぐに――」
 それだけ言ったら、時間切れになった。自分でも、何を言っているかわからないようなメッセージになってしまったが、会って欲しいこと、電話が欲しいことは言えた。こちらの意図は伝わるだろう。
 その後は、ひたすらデッキで待った。彼からの電話がいつかかってきても、すぐに出られるように。
 ピンクの携帯を握り締めたまま、乗降口の小さな窓から外をぼんやり見ていた。列車が川を渡る。川の向こうに大きな湖が見えた。あれが琵琶湖だとすると、今の川が先日京大娘が言っていた宇治川へとつながっている川だろうか?
 彼からの電話がないまま、2つの駅を通過した。電話してから30分近くが経過している。こののぞみが東京に着くのは夕方の5時半。妻に指定された夜10時までには、4時間半しか残らない。これには移動の時間も含まれているから、実際に彼と会うことに使える時間は3時間半というところだろう。少しでも時間を有効に使うには、早めに彼に連絡して、彼に東京駅か品川駅の近くに来てもらって、そこで会うという段取りにしたかった。
 もう1度電話した方がいいんだろうか、と思い始めた頃、車内から荷物を持った客がデッキの方へぞろぞろと出てきた。次の停車駅に着くらしい。おれは、邪魔にならないように、デッキの奥にある洗面所の前に移動した。
 列車が止まって、客が次々に降りていく。
 と、そこで、おれのピンクの携帯が鳴った。彼からだ。
「もしもしっ」
 大急ぎで通話ボタンを押して、そう言った。
「ああ、やっとつながった。月曜日から、何回電話しても、電源が切れてたんで、どうしたのかと心配したよ」
「ご、ごめんなさい」
 小娘のときと同じようなことを言われた。電波の状況が悪いのか、あるいは、駅の喧騒のためか、彼の声が、聞こえづらい。
「あの、会って欲しいんです」
「今日? 実は、今日は――」
 その後は、雑音が入って聞き取れない。彼の声が小さくなっていく。「今日は」の後に続く言葉がわからなかった。今日は、どうしたというのだろう?
「もしもし?」
「――」
 こちらで喋るのと、向こうが何か言うのが一緒だった。携帯なので、音声にタイムラグがあり、どうしてもこうなりがちだ。彼が何か喋っているということはわかるのだが、内容までは聞き取れなかった。おれは、会話するのをあきらめて、彼の言葉を聞くことに専念しようとした。「実は、今日は――」と彼は言った。その後に続く言葉が何なのか? おれは、必死で考えた。
「――」
 また、彼が何か言っている。だが、その声も、ホームに鳴り響いた発車のベルにかき消された。いつの間にか、デッキを通る人の流れは逆になっていて、みやげ物の袋を持った乗客が乗り込んでくるところだった。「名古屋名物」と袋に書かれているところを見ると、ういろうか何かだろうか。
「あっ!」
 突如、閃いた。
「降ります! 開けてください」
 おれは、デッキを歩く人の流れに逆らって駆け出した。発車のベルは鳴り終わっている。ドアを見ると、最後の1人が乗り込んでくるところだった。
「降りまーーす!」
 そう叫んで、乗り込んでくる客とすれ違うように列車の外へとジャンプした。
 外へ出た、と思った瞬間、背中でドアが閉まった。
 降りた、と思って振り向いたら、ポシェットがドアに挟まっている。挟まっているのは、端のほんの少しだけ。力いっぱい引っ張ったらポシェットがドアから外れた。ついでに、ポシェットの紐も切れてしまった。お気に入りのポシェットだったのに。
「どうしたの? 何かあったの?」
 携帯の向こうで彼が言っている。
「大丈夫です。何でもありません」
 とは言うものの、駅員が来る前に、おれはホームから階段を下りて逃げ出した。
「あの、さっきよく聞こえなかったんですけど――」
 階段を下りたところにあった女性トイレに駆け込んだ。洗面所の鏡の前に立って、携帯で話す。周囲が静かになったためか、電波の状況が改善したためかわからないが、彼の声が聞き取れるようになっていた。
「何て言ったんですか?」
「ああ、さっきの話ね。実は、今日は出張で東京にいないって、そう言ったんだよ」
 やっぱり。思った通りだ。それで――。
「そうなんですか。じゃあ、今、どこなんですか?」
「今日も気まぐれな社長のお供。今は社長の実家にいるとこ」
「社長の実家っていうと?」
「名古屋。おとといから、ずっと名古屋なんだ」
 おれは、思わず拳を握った。ビンゴだ!
 鏡の中では、携帯を耳に当てたTシャツ姿の美少女がガッツポーズをしている。
「あたしが今、どこにいるかわかりますか?」
 おれは、笑いがこぼれてくるのを押さえて、そう言った。
「どこって、どこかの駅だよね。発車のベルが聞こえていたから」
「あたし、今、名古屋駅にいるんです」
「えっ、なんで?」
「実は、あたし、昨日まで、京都にいたんです。京都から東京に向かう新幹線に乗ってて、ちょうど名古屋駅に着く頃にこの電話があったんです。周りが騒々しくて、言葉はよく聞き取れなかったんですけど、何だか急に、ここで降りなきゃいけないような気がして……。それで、衝動的に降りちゃったんです。名古屋で。あのまま電車に乗っていたら、名古屋を通り過ぎちゃってたんですけど、自分でもよくわからないうちに、体が勝手に動いて、気が付いたらホームに降りていたんです。――そうか、名古屋にいたんですね。きっと、2人の間で何かが引き寄せ合って、あたしを新幹線から降ろしたってことですよね。凄いです。運命を感じます」
 おれは、このとき、ほんの少しだけ嘘をついた。彼の言葉がよく聞き取れなかったのは本当のことだが、僅かに聞き取れた内容から、彼が出張に出ているのではないかぐらいのことは、推測できていた。出張だとすれば、一番可能性の高い場所はどこか? 女社長の実家がある名古屋だろう。そうやって、予測を立てた上で新幹線を降りたのだ。
 仮に、予測が外れていて、彼が出張ではなく、東京にいた場合でも、新幹線などいくらでも走っているのだから、次ののぞみに乗ればいいだけの話だ。10分かそこらのタイムロスで済む。逆に、彼が名古屋にいるのに、おれがそのまま新幹線に乗っていたなら、東京までの往復4時間がまるまる無駄になる。その後、また東京まで帰ることを考えると、おれがこの美少女の姿で彼と会うことは、2度とできなかっただろう。
 そういった打算を働かせた上で、おれは、新幹線を降りたのだ。でも、彼には、そんなことは話さない。まるで、それが神様のお告げか何かであるかのように、これからおれたちが会うことが、運命だったかのように話した。
 もちろん、彼がそんな「運命」を信じるかどうかなんて、わからない。でも、彼に、おれが「運命を信じている女の子」であることをアピールできた筈だ。
 おれは、そのために、彼に熱っぽく語りかけた。何て運命的なんだろうって。そうやって話していると、何だかこれが本当に運命だったように、自分でも思えてきた。
「それで、今、大丈夫なんですか?」
 夢見がちな女の子のように喋り通してから、ふと不安になってそう訊いた。
「取りあえず、ぼくの仕事は、さっき一段落したところ。これから、社長はご友人たちと会食なんだけど、今日のエスコート役は、別の秘書だから、ぼくの役目はなし。会食が終わって、夜、実家のお屋敷に戻るときにそこにいればいいから、それまでは自由時間」
 よかった。会えるみたいだ。折角名古屋で降りたのに、「会えない」なんて言われたら、それこそ押しかけていって、彼を奪ってでも会ってやろう、と思っていた。
「君の方は時間あるの?」
「それが、あんまりないんです。今夜は、10時までに東京のお屋敷に戻らないといけなくて」
「10時ということは――7時半ぐらいには新幹線に乗った方がいいかな」
 だとすると、あと4時間切っている。
「本当なら、ぼくが車で名駅まで迎えに行くべきなんだろうけど、時間がないから、地下鉄で途中まで来てもらって、落ち合おうか。その方が断然早い」
 彼に、降りる駅とそこまでの行き方を教えてもらって、改札を出た。改札を出たところに地下鉄へ下りる階段があった。階段の数は多かったが、距離は結構近い。ほとんど階段を下りるだけで、地下鉄のホームまで行けた。
 できれば、東京までの帰りの席を押さえておいた方がいいと言われて、携帯で予約を取ることにする。そんなことやったことなかったが、秘書用として会社から支給された携帯なら、そのぐらいできるだろうと言われた。そう言えば、以前、急に出張に出たときに、秘書の誰かが携帯で何かやってたような気がする。
 地下鉄は空いていた。そこそこいた乗客も、3つ目ぐらいの駅までに大半は降りてしまい、あとはガラガラだった。携帯からの予約は、走行中は電波が切れてしまったりして悪戦苦闘したが、何とかできた。7時半ののぞみの席が取れた。
 予約が取れたところで、目的の駅に着いた。ここまで20分弱。ホームに下りてから、彼に電話する。
「着きました」
「ぼくは、今、駅に向かっているところ。近くまで来てるから、君が階段を上る間に着くよ」
 彼は、そう言って、おれに出口の番号を指示した。おれは、改札を抜け、案内板でその番号の出口を確認すると、紐の取れてしまったポシェットを持って、走りはじめた。この路線は、かなり深いところを走っているらしく、どこまでも上り階段が続いている。息が切れたが、おれが足を止めることはなかった。スニーカーを履いていてよかった。
「はあ、はあ」
 やがて、地上の光が見え、空気に熱が感じられるようになった。Tシャツの中から汗が噴き出してくる。
 階段を上りきった出口のところに、人影が見えた。
 彼だった。
「会いたかった!」
 階段を上りきるなり、おれは、そう言って、彼の胸に飛び込んだ。
「ぼくもだよ」
 彼は、しっかりとおれを抱きとめてくれた。おれが彼の胸に顔をうずめると、彼は、おれの髪をやさしくなでてくれた。
「取りあえず、うちのマンションへ行こうか」
「マンション持ってるんですか、こっちにも」
「ぼくのじゃなくて、会社のね。社長がこっちに来たときには秘書の誰かがついてくるんだけど、そのとき秘書が泊まる部屋。会社が2部屋持っていて、そのうちの1つは今日はぼくの専用。他の人が来ることはないから、心配しなくていいよ」
 路上にエンジンをかけたまま止まっていた彼の車に乗って、ほんの5分で目的地に着いた。街中の8階建てのマンションだ。
「このあたりは普通の住宅地だけど、その辺の道を1本越えると高級住宅地になるんだ。そこにうちの社長の実家があるので、東京からついてきた秘書たちは、ここで泊まって待機するってわけ」
 彼がそんなことを話すが、今のおれにとっては、女社長のことなんて、どうでもいい。
 それよりも、おれの興味を惹いたのは、彼が車から降りるときに持って出たコンビニのビニール袋だ。
「何ですか、それ?」
 彼は、何も言わず、笑いながら、ビニール袋の中身をおれに見せてくれた。
「わあっ」
 思わず黄色い声が出た。カップに入ったミニパフェだった。300円ぐらいのものだったと思うが、プリンが入っている結構おいしい奴だ。以前、秘書たちと食べたことがある。
「ちょっとだけ時間があったから、そこのコンビニで買ったんだ。よかったら、一緒に食べよう」
 部屋は、7階の一番奥から2番目。一番奥の部屋は、今日はもう1人の秘書が使っているらしい。
「さあ、入って。何もないところだけど」
 部屋は、2DKとコンパクトな造り。テレビや冷蔵庫の他には、家具らしい家具はほとんど何もなかった。マンションと言っても、秘書の誰かが入れ代わり立ち代りで泊まっていくため、マンションというよりホテルという感じなのだろう。
「空調が効いてくるまで暑いけど、ちょっとだけ我慢してね」
 フローリングの床に丸いテーブルを置いて、2人で座った。いつだったかホテルのスイートルームでお茶を飲んだときとは比べようもない質素なティータイムだ。
 さっきのミニパフェを2人で食べた。おいしい。生クリームもプリンも絶品だ。彼のはマンゴーがいっぱい入ったパフェで、マンゴーを2切れもらった。嬉しかった。甘いアイスミルクティーもあって、幸せだ。ミルクティーは缶入りのだったけど。
 彼は、パフェをほおばるおれをやさしい目で見ている。以前、言ってくれたみたいに、「甘いものを食べているときの君は、本当に幸せそうな顔をする」とでも思っているのだろうか。
 ミニパフェを食べ終え、アイスミルクティーを飲み終えたところで、ようやく空調が効いてきた。
「シャワー浴びさせてもらっても、いいですか?」
 消しゴムでも借りるみたいな調子でそう言った。まあ、彼だって、おれが何をしにここへ来たか、わからない筈がない。彼が、バスルームの場所を教えてくれた。バスタオルは、洗ってあるから、自由に使ってもいい、と言われた。
 Tシャツを脱ぐ段になって、着替えも何も持ってきていないことにようやく気が付いた。なんて、間抜けな。汗をたっぷり吸ったTシャツを洗濯しようかと思ったが、帰るまでには乾かないだろう。時計を見たら、もう4時を回っていた。この部屋には、あと3時間もいられない。着替えを買いに行くなんてことに時間を使いたくはなかった。仕方がないので、服も下着も、脱衣所のところに吊るして、せめて自然乾燥させるようにした。
 シャワーを浴びて、汗を洗い流す。この後のことを考えただけで、おれの小さな乳首は、もう尖っていた。
 シャワーを終えると、おれは、髪と体を拭いて、新しいバスタオルを体に巻きつけた。
 その格好で出て行くと、彼がちょっと顔を赤らめた。
「じゃあ、今度はぼくがシャワー浴びるね」
 そういって、彼が脱衣所へ向かおうとする。
「だ、だめぇ」
 おれは、慌てて脱衣所に向かおうとする彼を押し留める。脱衣所には、下着を吊るしたままだった。
「見ちゃ駄目」
 そう言って、脱衣所に吊るしてあった服と下着を慌てて片付ける。
「恥ずかしいの?」
「だって……」
 彼には、何度も抱かれたのだから、今更下着が干してあるのを見られるぐらい、いいじゃないかと、頭の隅では思うのだが、恥ずかしいものは恥ずかしい。
 おれは、彼がシャワーを浴びている間、バスタオルを体に巻きつけただけの格好で、マンションの中を徘徊して、彼に見つからないような干し場所を探した。だが、2DKの狭いマンションでは、そんな場所はない。ベランダに干そうかと思ったが、万一、風で飛んでしまったりしたら、このマンションを出るときに着る服がなくなってしまう。仕方がないので、キッチンの奥に紐を張って、そこに吊るした。おれが帰るまでの間に料理なんてしないだろうから、ここが一番使われない場所だろう。
 おれは、ベッドルームに入った。
 大き目のベッドは、こういったことを想定してのものなのだろうか。
 シーツは新しかった。おれがシャワーを浴びている間に、彼が取り替えてくれたのかもしれない。
 おれは、体に巻きつけたバスタオルを脱ぎ捨て、大きなベッドの上で、真新しいシーツにくるまって、彼を待った。
 彼に抱かれるのは、先週の日曜日以来、6日ぶりだ。この6日間、彼はもちろん、他の誰とも肌を交えてはいない。おれの体は飢えていた。
 京大娘は、おれにこう言った。
 人を好きになったときに、取るべき道は3つしかないと。奪うか、妥協するか、あきらめるか。
 結局、おれは、どれも選べなかった。選ぶよりも前に時間が尽きてしまったのだ。もうすぐ、おれにかけられた魔法は解けてしまう。
 魔法が解けてしまったら、おれは彼のことをあきらめるしかない。だけど、魔法がかかっている今だったら、おれは、女の子として彼に抱かれることはできる。
 だったら、もう、彼の気持ちがどうかなんて、考えるのはやめようと思った。本当なら、彼のことをあの女社長の手から奪ってやりたい。だけど、今日1日でそれ成し遂げるのは無理だった。ならば、おれの選ぶ道は、妥協する、しかない。
 彼の本心がどうであれ、彼は、おれにやさしくしてくれる筈だ。彼は、おれを愛している恋人の振りしてくれるだろう。だったら、おれも、彼に愛されて幸せを感じている女の子の振りをしよう。そう心に決めた。
 多分、女の子として抱かれるのは、これが最後だ。こんな快感に身を委ねることは、もうないかもしれない。
 だから、最後の思い出に、この先どれだけ生きていても、2度とできない経験するのだ。
 この貴重な時間を、1秒も無駄にせず、味わいつくしてやろうと、おれは思った。
 彼を待ちきれず、自分の胸をまさぐっていたら、ようやく彼がやってきた。
 彼は、ベッドの中に潜り込み、おれの耳元で言った。
「今週は、寂しかった。君に会えなくて」
 その言葉で、おれは体中が熱くなった。
「あたしも」
 おれは、彼のたくましい胸板に顔をうずめた。
 彼は、今週、おれがいなくなってしまったことについて、それ以上は何も言わなかった。おれの髪をなで、背中に手を回した。
「あんっ」
 背中を触られて、声が出た。もう、すっかり彼は、おれの感じるところがわかってしまったみたいだ。
 だから。
 あとは、すべて彼に任せればいい。 
 彼が、おれの顔を起こして、キスしてきた。やさしいキスだった。
 その後は、いつもの通りだったけど、おれは、いつもの何倍も感じていた。
 おれは、キスがこんなに気持ちいいなんて、知らなかった。
 セックスが、こんなに素敵だなんて、知らなかった。
 女の子が、こんなに素晴らしいなんて、知らなかった。
 おれは、最後の最後まで、彼が与えてくれる快感を、女の子の体から湧き上がってくる歓びを、この美少女の体全体で味わい尽くした。


 夢の時間は終わった。
 おれは、シャワーを浴びて、キッチンに干してあった下着と服を身につけた。汗は落ちていないが、取りあえず乾いてはいた。このマンションにやってきたときと同じTシャツ短パン姿の美少女ができあがった。
 彼が、名古屋駅まで車で送ってあげる、と言った。
 車の中では、会話は弾まなかった。彼は、いつものように、楽しそうな話題を振ってくれるのだが、おれがそれに反応しなかったからだ。次第に、雰囲気は沈んでいき、やがて、彼も喋らなくなった。
 この間、おれは、ずっと彼への別れの言葉を考えていた。
 彼と会うのは――少なくとも、この姿で会うのは――これで最後だ。これまでの関係を小娘へと引き継ぐわけにはいかない。この少女と彼との関係は、ここで終わらせなくてはならないのだ。
 街が次第に暗くなってきた。夜7時。車は、やけに広い道を走っている。彼は、名古屋には毎月――下手したら、毎週のように来ているのだろう。地元の人のように道をよく知っていた。彼が、7時半の新幹線なら、充分間に合いそうだと言った。
 車は、駅前らしきところに出たが、そのまま通り過ぎてしまった。
「まだ時間があるから、新幹線口に回るね」
 そちらの方が歩く距離が少なくて済むらしい。彼と一緒にいる時間が少しでも長くなって、おれも嬉しかった。
 ガード下をくぐって、再び、駅前に出て、彼が車を止めた。僅かな延長時間もあっという間に尽きてしまった。ついに、別れのときが来た。
「それじゃ、また。今度は東京で会おうか」
「あ、あの……」
「うん?」
 おれが何か言いたげなのに気付いて、彼がやさしい目でおれの方を見た。
 おれの気持ちが揺らいだ。
 おれは、彼の胸に飛び込んでいきたい衝動に駆られた。
 このまま東京の屋敷に戻らず、この体のままで生きていきたい。そんなことを思った。
 小娘も言っていた。おれが、女社長の「妹」になると言えば、彼をおれの専属執事にするよう女社長に頼んでくれる、と。そうすれば、これから毎日、彼と夢のような時間を過ごすことができる。会社の経営なんて煩わしいことに頭を悩ませることもなく、毎日甘いものを食べて、かわいらしい服を着る。争いとも、責任とも無縁な世界。彼に抱かれて、快感をむさぼる毎日。
 今、ここで彼の胸に飛び込んでしまえば、それが簡単に手に入る。
「どうしたの?」
 だけど――。
 本当にそれがおれの望むことなのだろうか?
 会社をもっともっと大きくするんじゃなかったのか?
 もっと多くの女を抱くんじゃなかったのか?
 妻に、おれの後継者となる子供を生ませるんじゃなかったのか?
 おれは、やさしい目をした彼を見た。だが、今のおれは、彼の目をまともに見ることができない。
「お別れです」
 うつむき加減で、消え入るような声を搾り出すようにして言った。
「これで、お別れなんです」
「え?」
「もう、会えないんです。お会いできるのは、これが最後なんです」
 彼は、驚いたような顔で、おれを見つめていた。おれは、彼の視線に耐えられなくなって、後ろを向いた。おれが、彼から顔を背けると、おれの背中で、彼がポツリと言うのが聞こえた。
「――そう」
 急速に、おれと彼との間の空気が冷えていくのを感じた。彼は、「また会いたい」とは言ってくれなかった。「そんなことを言うな」とおれを抱きしめてくれたりもしなかった。それどころか、別れ話を切り出したおれに、「どうして?」という一言すら投げかけてはくれなかった。
 おれは、できるだけ無表情を装って、彼の車から降りた。
「今までありがとうございました。さよなら」
 早口でそう言うと、ぺこりと頭を下げて、おれは、その場を駆け出した。
 涙が溢れてきた。
 彼がおれと付き合ってくれているのは、それが仕事だから。そんなことはずっと前から分かっていたし、納得もしていたけれど、最後の最後にこうしてその事実を冷酷なまでに突き付けられるなんて。
 彼の仕事は、夢見がちな少女を甘い恋の世界に誘うこと。でも、少女が夢から醒めてしまったのなら、彼の仕事はもう終わりなのだ。それ以上、少女に付き合う必要はないし、ましてや、少女を夢の世界にとどめておくという義理はない。今頃、彼は面倒な仕事を終えられて、安堵しているのかもしれなかった。
 おれは、帰りの新幹線の中、ずっと泣き通しに泣いた。
 泣きながら、彼のことを必死で忘れようと努力した。あんな、女社長の下僕のような男なんて忘れてやる、と何度も何度も自分に言い聞かせた。
 ようやく涙も涸れて、新幹線の洗面所でメイクを直し終えたときに、品川に着いた。品川駅からタクシーに乗って、屋敷に戻る。タクシーの中で、会社近くのカフェのケーキセットのことを思い出した。7つあるケーキのうち、6つまでは食べたが、残りの1つをまだ食べていない。最後の1つはショートケーキ。定番のものを最後に取っておいたのだ。
 だが、おれにはそれを食べる時間は、もう残ってはいなかった。


「お帰りなさいませ、あなたさま」
 屋敷では、妻が出迎えてくれた。約束の10時まで、あと5分という時間だった。
 おれは、リビングへと通された。小娘の姿はない。訊くと、地下の部屋で待たせてある、という答えだった。
「今日は、土曜日ですが、特別に『お茶会』といたしましょう」
 妻はそう言った。週に1度だけ。駅前のケーキ屋からケーキを取り寄せて行なう「お茶会」。元々は、子供だった妻の英才教育のため、各界の一流の人間を招いて行なっていたものだ。妻の父が亡くなり、各界の一流の人間を招くこともなくなると、「お茶会」も絶えていたが、おれと結婚してからは「侍女」である小娘と一緒に「お茶会」が行なわれ、おれと小娘の体が入れ替わってからは、おれと一緒に「お茶会」を行なうようになっていた。
 そう言えば、今週は、おれが不在だったわけだが、「お茶会」はどうなったのだろう? おれが不在でできなかった「お茶会」をこれからやろうということなのだろうか?
 妻は、紅茶を淹れて、おれの前にティーカップを置く。ケーキは、いつものように妻がザッハトルテ。おれはショートケーキだった。会社近くのカフェのショートケーキは食べられなかったが、意外な形でショートケーキにありつけた。
「こうして、あなたさまとケーキを食べながら『お茶会』をするのも、最後かもしれませんね」
 妻が、ザッハトルテの焦茶色の塊を口に運びながらそう言った。妻にしては珍しく、顔がとろけていた。やはり、妻は、このケーキを食べているときだけは、普通の20歳の女の子のように見える。
「別に、お茶ぐらい、いつでも付き合うぞ」
「ですが、元の体に戻ったら、ケーキまでは付き合っていただけないのでしょう」
 おれは、シュートケーキの甘さに心をとろけさせているところだった。確かに、元の体に戻ったら、こんな甘いケーキは食べられない。妻の言うとおり、一緒にケーキを食べるなんて、これが最後かもしれない。そう考えて、妻は「お茶会」をしようなどと言い出したのかもしれない。
 おれは、きっと最後になるであろう甘い生クリームの感触を、心に刻み付けるようにしてショートケーキを食べた。
 「お茶会」が終わると、妻は、おれを地下の1室へと連れていった。1ヶ月前、おれと小娘が体を入れ替えられたあの地下の部屋だ。そこには、既に「おれ」の姿をした小娘が待っていた。
「よく、お帰りになられました」
 3人が揃ったところで、妻が厳かに宣言した。
「それでは、ただいまより、あなたさまを元の体にお戻しいたします」


 地下の1室では、おれと小娘が並んで座り、その前に妻が座った。
 3人の中で、少女の姿のおれは、一際小さかった。隣に座る「おれ」の姿の小娘は、体重で今のおれの倍はある。目の前に座る妻は、そこまで大きくはないが、今のおれよりも大きいことには違いがない。何より、おれと小娘を睥睨して座っている妻からは、体の大きさ以上の威厳のようなものが伝わってきて、おれはますます、自分が小さく感じられた。
「1ヶ月もの間、あなたさまをその娘の体に閉じ込めてしまったことについて、まず、お詫びを申し上げなければなりません」
 妻は、最初にそう言って、おれに頭を下げた。
「できれば、もう少し早く元の体に戻して差し上げたかったのですが、この入れ替えの呪は、大きな力を必要とするもの。その力を使った後、しばらくは、入れ替えの呪を使うことはできないのです。それで、わたくしの力が回復して、再びこの呪を使えるようになるまで、1ヶ月もの時を要してしまいました。この1ヶ月、ご不便をお掛けして申し訳ありませんでした」
 妻は、そう言って、もう一度おれに頭を下げた。妻が頭を下げるのは、おれに対してだけ。小娘は、妻の侍女なのだから、頭を下げる必要はないのだろう。
「さて」
 今度は、妻は、おれと小娘、2人に向き合った。
「元の体に戻す前に、あなたさま方には、約束をしていただかなくてはなりません」
「約束……」
 おれの声が小さくなる。
「そんな、心配なさるようなことではありません。当たり前のことを約束していただくだけです」
 妻は、おれが怪訝な顔をするのを見て、そう言った。おれにしてみれば、ここで変な約束をさせられて、また怪しげな術をかけられてはたまらない。
「この1ヶ月の間、お互い、慣れない体で過ごしたのですから、いろいろなことがあったでしょう。中には、相手がしたことに対して腹が立つこともあったかもしれません。ですが、それはすべて、本日このときをもって、水に流して欲しいのです。元に戻った後も、お互いに対して、意趣返しなどしないと、そう約束していただきたいのです」
 妻のその言葉には、おれは黙っていることができなかった。
「水に流せだと? こいつは、この1ヶ月間、おれの体で好き放題やってきたんだぞ。それを水に流せというのか?」
 おれは椅子から立ち上がって、「おれ」の姿をした小娘を指差しながらそう言った。
「ええっ、旦那さま、そんなこと言うんですか?」
 おれが小娘を糾弾すると、今まで黙っていた小娘が「おれ」の声で反論する。
「あたしは、ちゃんと社長の仕事をして、会社に多大な利益をもたらしたんですよ。ほめてもらうことはあっても、非難されることなんて、何もないじゃないですか」
 小娘は、平然とした顔で、そう言ってのけた。
「おれの秘書たちを好き勝手に抱いただろうが」
「あんなのは、社長の役得じゃないですか。ちゃんと仕事をやった上でのことなんだから、別にいいと思いますよ。それに、あの子たちも、あたしに抱かれて喜んでいたんだから、何の問題もないでしょ。お互い同意の上だったわけですから。それに、好き勝手やってたのは、旦那さまの方ですよ」
「な、なんだと?」
「この1週間、仕事を放り出して、どこ行ってたんですか? あたしの体を持ち逃げされたんじゃないかって心配してたんですよ。どうせ、あたしの体で遊び歩いて、男に抱かれまくってたんでしょ。人の体だと思って、好き勝手やってたのは、旦那さまの方です」
「お、お前、よくもそんなことを――」
「お二人とも、お黙りいただけますか」
 妻が、ぴしゃりと言った。妻の威厳の前に、おれと小娘は、声を失った人形のように黙り込んでしまった。
「わたくしが申し上げているのは、まさに、そのことなのです。お互い、文句も不満もあるでしょう。それこそ、文句を言い出したら、際限がないのではないですか? お互いが、不満なことに対していちいちペナルティーを課していったら、お二人とも罰則だらけで身動きが取れなくなってしまいます。それでしたら、これらはすべて済んだこと。お互い言い分はあるのはわかりますが、それはお互い様ということで、すべてを水に流していただきたい、とお願いしているのです」
「でも、奥様」
 小娘が妻に言う。
「何ですか?」
「どうしても、元の体に戻らないといけないんですか? あたしたち、今のままでうまくいってるんですよ。それを無理矢理元に戻さなくてもいいと思うんですけど」
「全然うまくなんていってないだろうが」
「いってますよ。あたしのおかげて、会社は大きくなったし、旦那さまはこんなにかわいくなったじゃないですか」
「なんだと」
 また口論が始まりそうになり、妻がそれを手振りで制した。
 妻は、小娘に諭すように言った。
「元々、時が経てば元に戻すという約束で体を入れ替えたのです。わたくしは、あなたにはこう言った筈です。『休暇だと思ってわたくしの夫としての立場を楽しみなさい』と。あくまで、これはあなたに取っては、休暇。人生いつまでも休暇を続けるわけにはいかないでしょう?」
「でも――」
「もちろん、お二人の間に戻りたくないという合意があれば、わたくしとて考えないわけではありません。お二人とも、『このままの体がいい』とおっしゃるのでしたら、わたくしも、無駄に大きな呪の力を使うこともありませんから、このまま、何もせずにおきます」
「だそうですよ、旦那さま」
 小娘が、おれの方を見て、言った。
「旦那さまさえ、戻りたくないって言えば、ずっとこのままでいられるんですよ。どうです? いい話だと思いません?」
「ば、馬鹿なことを言うな」
「だって、元の体に戻ったら、来週から、旦那さまは社長の仕事をしなくちゃならないんですよ。新しい会社の社長も兼務するんだから、先週までみたいに定時になったら帰るなんてことは、絶対に無理だと思います。この1週間遊び歩いていて碌に仕事してない旦那さまが、そんな激務に耐えられますか? それに、会社が大きくなれば、責任も重大で、プレッシャーに潰されるかもしれないんですから。食べ物だって、甘いものを食べてもちっともおいしく感じられないんです。ケーキやパフェが食べられない人生なんて、旦那さま、考えられます?」
 おれは、小娘の言葉に、思わずごくりとつばを呑み込んだ。さっき食べたショートケーキのとろけるような甘さがおれの脳裏に甦る。
「でも、今の体のままだったら、旦那さまは、気ままに好きなように暮らしていけるんです。何も責任を取る必要もないし、プレッシャーなんて、無縁の生活です。甘いものを好きなだけ食べて、男の人に好きなだけ抱かれていればいいんです。どうです。夢のような生活でしょ?」
 一瞬、イケメン秘書の顔が浮かんだ。
 おれは、目をつぶって首を左右に振った。
 彼のことは、もうあきらめたのだ。あんな、女社長の下僕のような男のことは、もう忘れると決めたのだ。
「おれは、元に戻る」
 そう言って、おれは、妻の目をきっと睨みつけた。
「元に戻るためには、さっきを約束をしないといけないのか?」
「わたくしといたしましては、お二人が元に戻った後、最低限、お二人の身の安全だけは保障しなくてはなりません。恨みを残したままで、一方が他方の身の安全を脅かすというようなことにだけはしたくありませんから。そのためには、この1ヶ月間のことは水に流すと約束していただかなければなりません」
 要するに、元の体に戻った後、この家の主人の地位を利用して小娘に復讐してやろうなどという考えは捨てろ、というわけだ。おれとしては、何らかの方法で、1度ぐらい小娘を痛い目に遭わせてやりたいと思っていたのだが、その楽しみは放棄せざるを得ないようだ。ここは何を差し置いても、元の体に戻ることが最優先。社長の――この家の主人としての地位を回復しないことには、何も始まらない。
 だからといって、簡単に「約束」をしてしまうわけにもいかない。妻が言う「約束」というのは、口約束で済まされるようなものではないだろう。きっと、その約束をしてしまったら、呪の力によって、それを破れないようになるか、破ろうとした場合に何らかのペナルティを受けることになるに違いない。
「1つ確認させてくれ」
「なんでございましょう?」
「その約束というのは、どういう性質のものなんだ? まさか、単なる口約束というわけではないんだろう。その約束をした場合、おれたちは、何かに縛られることになるのか?」
「約束というものは、守るためにするもの。それを破ろうとすれば、誰しも、約束を破ることへの罪悪感を抱きます。その約束が、真に心の底からの約束であればあるほど、破ったときの罪悪感は大きくなります。場合によっては、精神が耐えられない程の罪悪感を感じるかもしれません。それを承知であれば、これから行なう約束を破ろうなどと思いもしない筈です。もちろん、約束を破ったりしなければ、その約束は、なかったも同然。それによって、何かが縛られるということもありません」
 つまり、約束をすること自体が精神的な縛りとなるということなのだろうか。
 どちらにしても、おれがこの約束を呑まない限り、元の体には戻してくれないのだろう。だとすれば、おれには選択の余地はない。小娘への仕返しはあきらめるしかなかった。
「この約束とやらをすれば、元に戻してくれるんだな」
「ええ。今すぐにでも」
「わかった。約束する」
「この1ヶ月の間のことは、すべて水に流すと」
「ああ」
「この娘に、意趣返しのようなことはしないと」
「しない」
「わかりました」
 そう言うと、妻は、小娘の方に視線を向けた。
「あなたも、それでよいですね」
「は、はい」
 やはり、小娘は、妻の言うことには逆らえないようだ。
「あと、もう1つ。これは当然のことですが、来週からは、お互いの立場を入れ替えて生活するのです。必要最低限の情報は交換すること。よろしいですね」
 おれと小娘は、了承した。当然、会社のことは小娘から引き継がなければならないが、おれから小娘に引き継ぐことはほとんどない。妻は必要最小限と言ったのだ。京大娘のことは小娘に知らせる必要はないし、イケメン秘書や女社長とのことも、知らせなくていいだろう。小娘が、今更本来の体で彼らに会いたがるとは思えない。
 おれたちの前で、妻が立ち上がった。
「それでは、元に戻しましょう」
 妻が事もなげにそう言った。
 おれの視界が、一瞬、ずれるのを感じた。
「さあ、これで元通りです」
 そう言った妻の体は、さっきよりも一回り小さく見えた。

テーマ : *自作小説*《SF,ファンタジー》 - ジャンル : 小説・文学

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