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xxxy 09

 おれは、得意先での長い会議を終えて、東京へ戻る電車に揺られていた。
 時刻は夕方の6時。本当ならば、3時には終わる予定の会議が紛糾して、こんな時間になってしまったのだ。
 もっとも、その責任の一端はおれにある。午後のおれは、終始上の空で、発言を求められるたびにしどろもどろになり、会議の出席者たちを苛立たせたのだ。最後には、担当者同士の激しい言い争いになってしまうほど険悪な雰囲気にしてしまったのは、おれの言動が発端だったと思う。
 だが、今のおれにはそんなことはどうでもよかった。
 双葉とつながらないのだ。
 午後の1時頃、得意先へ向かう電車の中で、突然、双葉とのつながりが切れた。最初は、双葉のおれも車に揺られて、うとうとしていた頃だったので、眠ってしまったのだろうと考えていた。双葉が寝てしまってつながりが切れるのは、よくあることだ。
 得意先に着いて会議が始まった頃は、双葉の脳とつながっていないと自分でメモを取らなくてはいけないのが面倒だ、などど暢気に構えていた。久しぶりに自分の頭だけで仕事をさせられて、悪戦苦闘。正直言って、双葉のことを気遣う余裕もなかった。
 だが、2時になっても、3時になっても、つながらない。3時半を過ぎた頃には、さすがにこれはおかしいと思い始めた。自宅にいるときならまだしも、車の助手席で、何時間も眠り続けるというのは変だ。予定では、2時過ぎには宿に着くことになっていたので、どんなに遅くたって、3時までには1度は起きるはずだ。寝起きの状態だろうがなんだろうが、ほんの少しの時間でも起きてくれれば、おれとつながったことがわかる。
 だが、長い会議が終わり、東京への帰途についても、双葉が起きた気配がない。もう5時間もの間、双葉とは切断されたまま。一瞬たりともつながっていなかった。
 これは、双葉の身に何かが起きたとしか考えられない。
 眠っている途中で、事故にでも遭ったのだろうか?
 事故だとしても、その間、1度も意識を取り戻さないとしたら、それは深刻だ。おれは、その考えに、自分でもぞっとする。確か、園子さんの運転する車は、箱根の山道に差し掛かったところ。カーブの多い対面2車線の道が続くはず。崖からの転落。対向車との衝突。深刻な事故の可能性が考えられるような道だ。
 おれは、携帯のニュースサイトを検索してみた。「箱根でスポーツカーの事故」というような見出しがないか探したが、見つからなかった。とは言え、ほっとするわけにはいかない。すべての事故がニュースサイトに取り上げられるわけではない。記事になっていないのかもしれないし、崖から転落して、まだ発見されていない、という可能性だってある。
 車の事故以外にも、双葉自身の不注意による事故の可能性も捨て切れない。今日、行く予定になっていた展望台。箱根から僅かに静岡県側に入ったところにある富士山が見える展望台なのだが、そこで、不用意に崖に近付いて落ちたとか、駐車場で車に轢かれたとか、普通なら考えられないが、双葉のおれだったら、やりかねない。
 ――いや。それはないか。もし、崖から落ちたりしたのなら、崖から落ちる前に一旦起きているはずだから、おれと意識がつながっていなければおかしい。意識が途切れっぱなしということは、双葉が眠ったままで何らかのトラブルが発生したということだ。
 だとすると、病気か。もうひとりのおれは、こうして問題なく動けているので、フリーズしたとは考えづらい。となると、突発的な病気。発作か何か? 双葉には特に持病はないはずだ。入院中も、退院してからも、検査に明け暮れていたのだ。今更、未知の持病があったとは考えづらい。体温が高めなことや、睡眠時間が長いことは、このことと関係はあるのだろうか?
 ただ、病気であれば、そばには園子さんがいる。応急措置ができる道具も持ち歩いているので、その場で適切な対処をしてくれるはずだ。もっとも、園子さんがどんなに優秀でも、深刻な病気だった場合は、山の中でちゃんとした設備のないところでは、手の施しようもないかもしれないが――。
 おれは、この後のことを考える。
 とにかく、こうしてあれこれ思い悩んでいても、情報も何もない今の状態では、どう動いていいのか、わからない。まずは、情報を得ることだ。でも、どうやって?
 まず、浮かんだのは、電話をかけること。しかし、なるべくなら、双葉やその周辺の人間と、おれとの間の接点は作りたくない。ただでさえ、おれと双葉は、同じ病院に同じ時期に長期入院していた、という接点を持っているのだ。おれと双葉のつながりを隠しておこうと思ったら、これ以上の接点を作るのは芳しくない。
 電話が駄目ならば、どうする?
 双葉のマンションに行ったって、誰もいない。45階に明かりがついているかだけでも、確認するか? ひょっとして、双葉が事故か病気だとしたら、夫が出張から戻っているかもしれない。――いや、そうだとしたら、自宅になんて戻らずに、直接病院へ出向くか。
 行くとしたら、箱根。宿泊予定の宿に行って、双葉と園子さんが無事着いたかどうかを訊いてみる。だが、高級旅館がいきなりやってきた見知らぬ男に宿泊客のことを教えてくれるとは思えない。ならば、電話で――たとえば、夫を装って電話してみるというのはどうだろう? これはいい手かもしれない。ただ、後になって、この電話のことを夫に知られると不審に思われるので、あまりやりたくないが――。この手は、取りあえず、保留。
 となると、やはりリスクを犯して、電話するしかない。でも、誰に?
 双葉の携帯に掛けたらどうなるだろう? 事故の場合、携帯が壊れていて、つながらないという可能性がある。だとすると、何らかの事故に遭っている確率は高くなる。呼び出し音が鳴ったとしても、双葉のおれは出られる状態にはない筈だ。近くに園子さんがいたとしても、おれの携帯番号は登録されていないので、不審な電話には出ないだろう。園子さんにかけても、夫にかけても、それは同じことだ。
 八方塞りだ。やはり、電話を取ってくれるところ、宿に連絡するか。それとも、取りあえず、箱根まで行ってみるか。電車は、ようやく千葉駅にたどり着くところ。今から箱根まで直行すると、何時に着けるだろう?
 いずれにしても、定時は過ぎているので、会社には戻らず、直帰するという旨を社に連絡しようとして、携帯を取り出した。
 そのとき――。
 いきなり、双葉とつながった。

 え――?
 おれ、今、何を?
 園子さん――会議が――写真を――電車に乗って――夕食は――あたしの――メモを取って――気持ちいい――――。
 おれが――あたしが――混ざっていく。
 そうだ。あたしは、電車に乗って――。
 おれは、園子さんと――。
 園子さん?
「あ――」
 おれの動きが、止まった。
「ふーちゃん!」
 おれの下で声がする。
 園子さんの――怒った顔。
「その――こ、さん?」
 あ、そうか。おれは、おれは今、園子さんと部屋風呂で――。
「何が園子さん、よ!」
 動きの止まったおれを園子さんは軽々と跳ねのけ、くるんと体を入れ替えた。今度は園子さんがおれを押さえつける。おれの背中に冷たい、すのこの感触。
「ご、こめんなさい」
 おれは、弱々しく、そう言った。
「駄目、許してあげない」
 園子さんは、おれの両腕をすのこに押さえつける。仰向けになったおれの大きなふたつの乳房が、ぷるんと揺れた。
「何よ、このいやらしいおっぱいは」
 園子さんは、おれの胸をひと睨みすると、おれの右胸を両手で掴んだ。
「あんっ!」
 おれは、思わず声を出す。おれの乳房は、さっきから、ぷるぷると乳首が震えだしそうなくらい敏感になっていて、触れられただけでも感じてしまう。
「何、感じてるのよ」
 自分の今の状態を園子さんに言い当てられて、顔が真っ赤になり、ますます体が敏感になっていく。
 園子さんの両手がおれの右胸を揉み始めた
「んんんっ」
「そんな声出して」
「ゃん」
「なんて淫乱な娘なの」
「ああぁん」
 園子さんの言葉責めと、胸への愛撫で、いちいち声が出てしまう。もう、だめだ。右胸でこんなだと、もっと感じやすい左胸は――。
「あ、あ、あああぁっっっ!」
 園子さんが、おれの左胸を責め出した。やっぱり、こっちは、右よりも敏感。両手で掴まれただけで、悲鳴が出た。
「こんなに大きいくせに」
「ぃゃぁああっ」
「張りがあって」
「う、ううううぅん」
「柔らかくて」
「あああああぁっっ」
「敏感だなんて」
「ひゃぁぁあああああんっ!」
「もう、反則よっ!」
 園子さんは、おれの左の乳首に吸い付いた。
「――っ!」
 だ、だめ。吸わないで。
 おれは、もう悲鳴すら上げられなくなって、体を弓なりにしてのた打ち回る。左胸は園子さんに吸い付かれたまま。無防備な右胸がおれの上で暴れまわる。
「こら、おとなしくしなさい」
 暴れるおれを園子さんが押さえつけようとした。
 そのとき、園子さんの手がおれの股間の一番敏感なところに――。
「ひゃゃゃゃぁぁああああうううぅぅぅっ!」
 そこに触られた途端、頭が爆発した。
 すごいっ! 久しぶりのこの感じ。
 イッちゃった。
 こんな凄いのは、はじめてかも。自分で触ったときとは、全然違う。触られるのって、なんて気持ちいいの。
「ひゃああぁ~」
 おれが快感で呆けていると、園子さんは、「なに気持ちよさそうにしてるの」と言って、また、おれを責めだした。完全に出来上がっちゃっているおれの体は、すぐに頂点へと上りはじめる。おれがまた悲鳴を上げて、絶頂に達した。余韻に浸っていると、また責められて……。その繰り返し。
 その後、園子さんが正気を取り戻すまで、おれは高級旅館の部屋風呂の、すのこの上で、園子さんの手で何度も何度もイカかされ続けた。

「おはよう、双葉ちゃん。よく眠れた?」
 翌朝の8時半、目を覚ましたおれに、園子さんはさわやかな笑顔で話し掛けた。
「はい。もう、ぐっすり眠れました」
 おれも、満面の笑みで答える。
 まるで、昨日の部屋風呂でのことなんて、なかったかのよう――って、そんなわけない。あれをなかったことになんて、できるわけがない。
 でも、なかったことにするしかない。おれは、そう思っていたし、園子さんも、きっとそうだろう。
「この干物、おいしいね。さすがに海が近いだけあるわ」
「卵焼きが甘くて、とろけちゃいそうです」
 朝食の間、他愛もない会話を続ける。会話が途切れないよう、お互い、必死になって、他愛もない台詞を探した。
「お風呂、どうする?」
「入りましょうよ。折角だし」
 実は、昨夜は今までになかったぐらい、寝汗をかいた。浴衣の替えが必要だ。宿には予備の浴衣もあったが、普段着として持ってきていたTシャツ、パーカー、ジーンズというカジュアル一式に着替えることにする。浴衣にしなかったのは、胸元が開いていて不安だったから。園子さんに浴衣の前をはだけられたら、どうしよう、と本気で心配していた。園子さんも同じようなことを思ったのか、着替えにTシャツと膝下まで覆うパンツを用意していた。
「それじゃ、行こうか」
 準備ができると、ふたりで大浴場へと向かった。部屋風呂に入ってもいいのだが、そんなことはふたりとも考えもしなかった。昨日のことが封印してしまいたい記憶だとしたら、この部屋風呂は、このまま封印してしまいたい場所だった。
 大浴場は、昨夜とは男女が逆になっている。中の造りが違うのだろう。1泊で両方の風呂を楽しめるようにとの旅館側の配慮なのかもしれない。
 ふたりで一緒にお風呂に入るのは、毎日のことだが、今朝は何かぎこちなかった。湯船に浸かるときも、少し間を置いていたし、背中を流すときは、お互い遠慮勝ちで、間違っても相手の胸に手が行かないように緊張しているのがありありとわかった。
 朝食のときは、出てきた料理をネタに会話ができたが、風呂場ではそうはいかない。場所が場所だけに、下手なことを言うと、薮蛇になる可能性もある。気まずい無言の時間が続き、結局、この台詞が出た。
「出ましょうか」
「はい」
 カジュアルないでたちで部屋に戻ると、少し休憩してから、着替え。昨日は、セクシーかつかわいい系だったが、今日はスーツで美人系に決めてみた。おれとしては珍しく、スカートではなくてパンツ姿。おれが恥ずかしさを堪えてスカートを穿くのは、パンツ姿だと安心して、男のときのように足を開いてしまうためだ。適度の緊張感を保つためにも、スカートにしているのだが、まあ、たまにはパンツでもいいだろう。
 宿をチェックアウトすると、芦ノ湖で遊覧船に乗ったり、ロープウェイで山に登ったりした。遊覧船で座っているときに、足が開いていると、園子さんに叱られが、あとは、朝食のときのように「湖がきれい」とか「見晴らしがいい」というような当たり障りのない会話に終始した。
 晴れていれば見えるという富士山は、今日は見えなかった。

 元々のおれの方は、あれから大変だった。
 電車に乗っている途中で、いきなりおれと園子さんの濃厚なレズシーンに巻き込まれてしまい、一刻も早くトイレかどこかに避難を余儀なくされたのだが、走っている電車では、それは無理。通勤電車でトイレもついていない。仕方がないので、列車のなるべく奥の隅の席に移動したのだが、これがいけなかった。次の駅に着いたときに降りようと思ったのだが、このときは双葉は園子さんの愛撫に声を上げっぱなしで、イッてしまったところ。おれは、双葉の体から発せられる物凄い快感で、出口まで歩いていくこともできなかった。
 結局、電車の中で、かなりの量を出してしまった。ズボンの前を鞄で隠して、その次の停車駅で、一目散に電車を降りて、トイレに駆け込んだ。不審者として通報されなかったのが、唯一の救いだった。
 翌日は、いつものように出社して、前日に溜め込んでしまった事務作業をひたすらこなした。今日は、双葉の脳が使えるので、非常に楽だ。もっとも、昨日、双葉と切り離されていた時にあった会議については、双葉の記憶がないのため、おれのメモだけが頼りで、悪戦苦闘したのだが。
 おれは、事務作業をこなしながら、昨日のことについて考えてみた。本当は、昨日のうちに考えをまとめておきたかったのだが、昨日はあんな状態で考えるどころではなかったし、あの後、双葉が寝てしまったので、双葉の記憶が見られなくなってしまったのだ。双葉とつながったときに、双葉の膨大な記憶がおれの脳に流れ込んできたが、おれの脳ではそれをすべて記憶しておくなんてことはできないので、細かな記憶を見るには、双葉が起きていてくれないといけない。
 おれと双葉のつながりが切断されたのは、昨日の午後1時2分のこと。双葉の記憶を見る限り、そうなる。それが再びつながったのが、午後6時8分。実に、5時間6分にわたって、おれと双葉は「切断されて」いた。
 今までも、おれだけが起きていて、双葉と切断された状態になったことは当たり前にあったのだが、昨日は、おれも双葉も起きているのにも関わらず、切断されてしまったのだ。こんなことは、はじめてだ。
 なぜだろう?
 切断と接続。2つの事象に共通するのは、電車だ。元々のおれが電車に乗っている間に切断され、電車に乗っている間につながった。電車に乗っていると、電磁波か何かの関係で、切断されたり、接続されたり、ということがあるのだろうか?
 だが、元々のおれが退院してから、電車に乗るのはこれがはじめてではない。朝夕の通勤時は双葉が眠っている時間帯なので参考外だが、得意先へ出掛けるときは、いつも電車だ。おれの退院直後などは、毎日電車で病院まで通っていた。今更、電車に乗っているときにはつながらない、ということもないだろう。第一、電車を降りて、得意先にいた間も切断されたままだった。
 だとすると、千葉という土地に何かあるのだろうか? あるいは、箱根に?
 おれは、おれと双葉が切断されたときのおれの正確な位置を思い出してみる。双葉の記憶に残った最後の風景から考えると、ちょうど千葉市から出るかどうかというあたり。昔の携帯みたいに、基地局の関係で、○○市よりもこっちはつながるが、その向こうは駄目、というようなことでもあるのだろうか? ただ、おれは帰りも同じ路線で帰ってきているが、その際には千葉駅の手前までつながらなかった。携帯のように接続可能なエリアが決まっているというのなら、行きも帰りも同じ場所で切断、接続が行なわれなければならない。
 となると、あと考えられるのは――。
 距離。
 おれは、事務作業を行なっていたパソコンのブラウザーを立ち上げた。確か、どこかの地図サイトで2点間の距離を算出してくれるところがあった筈だ。地図、距離、計測というキーワードで検索すると、それらしきサイトが見つかった。おれは、まず、昨日の午後1時2分に切断されたときの位置を入力する。元々のおれは千葉市を出るか出ないかのあたり。双葉のおれは、箱根の有料道路に入ってしばらく走ったあたりで元々のおれとの切断を確認している。
 結果が出た。109.3キロ。
 次に、昨日の午後6時8分におれと双葉が再接続したときの位置。双葉の方は旅館にいたから、位置の特定は簡単だ。おれの方は、千葉駅に入る直前ぐらい。これで計測すると――。
 109.4キロ。
 これだ!
 この数字の類似は偶然とは思えない。おれと双葉がつながっていられる距離には、限界があるのだ。109.3キロだか109.4キロ以上離れてしまうと、おれと双葉の間の回線は、切断されてしまうのだろう。0.1キロという差は、おそらく誤差と考えていい。
 距離の限界。考えてみれば、当然のことだ。おれと双葉の脳がどういう理屈でつながっているのかはわからないが、どんなに遠く離れていても、接続されているというのは考えづらいことだ。極端な話、おれが地球にいて、双葉が月や火星にいても、つながるのかと言われれば、それはどうだろうと思う。もっと言えば、何万光年――光の速さで何万年という距離まで離れてしまったら、いくらなんでも無理だろう。どこかで距離の限界があるに違いないのだから、それが、100キロちょっとだったとしても、驚くには当たらない。
 面白いのは(面白がってばかりもいられないのだが)、おれと双葉の意識が距離の限界によって切断されている間、どちらかがフリーズしたりせずに、独立した意識を持った個体として、それぞれ動いていたということだ。独立した2つの個体といっても、分離する直前まではまったくの同一人物だったのだから、どちらも自分のことをおれだと認識しているということでは変わりがない。考え方や行動パターンに多少の(場合によってはかなりの)違いがあるだけだ。そのときには、事実上、おれという人間が2人存在していたことになる。
 そう言えば、おれと双葉が切断中のとき、双葉の脳は、おれの記憶が読み取れなかったようだ。それを示すのが富士山が見える展望台での出来事だ。あのとき、園子さんは、あの展望台が静岡県にあることを不審に思っていたが、実は、元々のおれは以前からあの展望台が静岡県にあることを知っていたのだ。それだけでなく、おれはずっと昔にあの展望台に行ったこともあったのだが、双葉のおれは、そのことに全く気付かなかった。事前に園子さんと旅行の検討をしていたときには、そのことを意識することはなかったので、双葉の記憶としては残らなかったのだろう。だとしても、いつものように寝ているおれの記憶を読み取れるのであれば、おれの記憶からそのことを読み取って、道に迷ったのではないかと不安になっていた園子さんを安心させていたに違いない。双葉の脳がそれをできなかったということは、やはりおれと双葉との間には、「距離の限界」なるものが存在すると考えざるを得ない。
 更には、おれと双葉が、また一定の距離以内に入ると、再び接続される、というのも興味深い。
 昨日の夕方におれと双葉が再接続されたとき、おれは――元々のおれと双葉のおれは――混乱した。
 フリーズとはまた違う感覚。5時間の間、一時的に別々の意識となったおれたちが、再び1つになる。ほんの数秒の間に、双葉のおれは元々のおれが過ごした5時間を知り、元々のおれは双葉のおれが生きた5時間を体験した。実際、再接続して数秒後には、元々のおれは、実際には体験しなかったはずの展望台での出来事や、部屋風呂で園子さんに狼藉に及んだことを、おれの実体験として感じていた。双葉のおれの方は、会議の様子や帰りの電車で双葉のことを心配していたことを――おれの人並みの脳が憶えている範囲で――体感した。というより、その時点では、おれはおれというただ1個の人格に戻っていた。まるで、中州によって2筋に分かれた川の水がふたたび1本の川に戻るように、一時的に2つに分かれていたおれの意識が、また、1つに戻ったという感じだろうか。
 いずれにしても、切断中の双葉のおれは、以前から危惧していた通り、相変わらず欲望のままに動いてしまう。困ったことだ。それでも、意識が切れた瞬間には、自制心を持たないといけないと自分に言い聞かせたりできたことは、多少の進歩とは言えるだろう。展望台の駐車場でも、崖から落ちたり、車に轢かれたりしないようにと気をつけていたのも進歩といえば進歩だ。これがきっちりできれば、双葉のおれが不慮の事故に遭う危険性は、かなり減らせる。その分、他がお留守になって、写真撮影でセクシーポーズなどを取ったりしてしまったのには困ったものだが。園子さんとのことにしても、最終的にはああなってしまったとは言え、大浴場で1度は我慢できたのだから、これも考えようによっては、進歩と言えるのかもしれない。
 ただし、何時間もの間、元々のおれと切断されたままだったというのに、元々のおれのことを全く気にかけなかったというのは、相変わらずだ。常識的に考えれば、おれは電車に乗っていたのだから、寝過ごしたとしても、何時間も眠ったままというのはおかしいと思うべきだし、それ以前に、本来降りるべき駅に着く時間になってもおれが起きなかったら、強制的に接続して、起こしにかかってくれなければ困る(結果的に、双葉の方からも接続できない状態だったわけだが)。毎朝、新聞を読むことで論理的な思考能力を養おうとしているおれだったが、こちらの方は全く進歩していないようだ。
 そして、何より気になったのは、接続直前の双葉のおれの言動だ。あのときのおれは、全裸の園子さんを目の前にして、我慢ができなかった。このことだけを見れば、双葉のおれは、男の欲望のままに行動していたのだが、実際の行動は、完全に双葉――女としての行動だった。自分の中での一人称も、「おれ」ではなくて、「あたし」か「双葉」になっていたし、おれが取った行動も、胸を押し付けることで、女としての快感を得ようとしていた。
 結局、元々のおれと切り離されることによって、双葉のおれの肉体は、純粋に女だけになってしまったため、女としての行動を取ったということなのだろうか。女の肉体しか持っていない以上、その行動も女性的にならざるを得ないということなのかもしれない。
 それに対して、双葉から切断されていたときのおれは、双葉の影響下から完全に逸脱していたためか、典型的なおれだった。優柔不断で自分に自信が持てなくて、心配性で、実行力のないおれ。こうやって並べ立てると、いいところはひとつもないように思えるが、そんな自分でいられたことが、何だか嬉しく思えるおれであるのも事実だった。

 もうひとつ、気付いた点がある。それは、双葉の睡眠時間についてだ。1日の3分の2を寝て過ごす双葉の体は、夕方の5時になると眠くなって、5時半には寝てしまうのだが、昨日は、5時になっても全く眠くならず、部屋風呂での「濡れ場」が済んで床に就いたのは、結局7時を過ぎてからだった。こんな日は滅多にない。というか、過去に1度しかない。
 その日は、双葉が退院した直後、園子さんがはじめてやってきた日だった。あの日もなかなか寝付けなかった。それは、退院直後で急に環境が変わって戸惑っていたり、双葉のおれが暴走して興奮してしまっていたせいだと思っていたが、違うのかもしれない。考えてみると、あの日も午後から元々のおれが鎮静剤を打たれて眠ってしまい、双葉だけになっていたのだ。
 ひょっとしたら、元々のおれとつながっていなくて、双葉のおれだけで行動している分には、これほど膨大な睡眠時間は必要としないのではないだろうか?
 双葉の体が1日の3分の2もの睡眠時間を必要とするのは、覚醒した双葉の脳が超人的な働きをしている反動だというのが、おれの仮説だ。記憶力にしても、処理能力にしても、双葉の脳の活動は物凄いものがあるが、何と言っても、大変なのは、おれと双葉という2つの体を動かしていることではないかと思う。だが、元々のおれのとの間が切断されてしまえば、この部分の処理が必要なくなってしまう。とすれば、双葉の脳もそんなに疲れはしないので、睡眠時間も少なくて済む。
 1日24時間にわたって、元々のおれと切断された状態だったら、人並み、とまではいかないまでも、1日10時間とか12時間という睡眠時間に抑えられるのではないだろうか。これまでは、元々のおれが起きているときには常につながっていると思っていたので、そんなことは考えもしなかったのだが、距離によって元々のおれとのつながりを切断できるとしたら、試してみる価値はあるのかもしれない。
 もっとも、今のままの双葉では、丸1日もの間「野放し」にするなんて、恐ろしくてできはしないのだが。

 次の土曜日、おれは早速「距離の限界」について検証すべく出掛けることにした。この日の双葉のおれの予定は、マンションに併設されたスポーツクラブのプールへ行って、水中歩行のトレーニング。なので、位置的には、ずっと自宅にいるのと同じだと思って差し支えない。
 おれは、地図をプリントアウトしておいて、双葉のマンションを中心に半径110キロの円を描いてみた。すると、宇都宮、前橋、甲府という東京近県の県庁所在地がこの円の中にちょうど納まってしまった。南側は、三浦半島はもちろん、房総半島も完全に円の中。伊豆半島の先端がかろうじて圏外というから、本当にこの110キロというのが「距離の限界」だとすると、おれと双葉は、関東地方にいる分には、ほぼ接続状態を保てることになる。逆に言うと、それをこれから検証するおれとしては、交通費だけでも馬鹿にできない出費となるということだ。
 ということで、おれは土曜日の朝早くにアパートを出て、JRに乗って北へ向かった。朝早く出たのは、なるべく早くこの調査を終わらせるためだ。この調査では、おれと双葉のつながりが切断されるポイントを調査する。ということは、一時的に双葉のおれを元々のおれから切り離し、野放し状態にするということだ。この日の午後には双葉はプールへ行く予定になっているが、プールで双葉を野放しにするなんて、あまりに危険だ。プールの中で溺れたり、プールサイドで滑って転んだりと、事故の危険性が高いので、双葉1人になんて、とてもじゃないができない。もちろん、プールの双葉は水着姿。園子さんも水着姿だし、着替えというイベントもあるので、双葉のおれが欲望のままに行動すると、何をしでかすかわからないというのもある。できれば、少しでも早く調査を終えるために、双葉のおれが起きる8時半には、110キロ地点の手前まで達していたい。もちろん、予算を少しでも抑えるため、新幹線などは使わない。ということで、早朝の上野駅から在来線に乗って、ひたすら北を目指した。
 宇都宮で乗り換え待ちの間に、双葉のおれが起きてきた。この地点が100キロを少し超えたあたり。まだつながっている。双葉のおれが起き出した直後に、乗り換えた列車がスタートした。今日も夫は休日出勤なので、この後、起こしてあげないといけないが、その前にまずはシャワー。余計な興奮を与えないように、鏡に背を向けて服を脱ぐ。
 列車は鬼怒川を越えた。そろそろ予定のポイントだ。切断地点の情報をより正確に得るために、おれは車窓の景色を目を皿のようにして眺め、双葉の脳に蓄積する。双葉のおれがシャワールームに入り、コックを捻ったとき――。
 切れた。
 先日は、おれも双葉も、眠くなっていた中で切れてしまったのでよくわからなかったが、今のは結構劇的に切れたのがわかった。まるで、パソコンの電源を強制的にバチンと切るような感じ。何の前触れもなく、おれの中から双葉のおれがいなくなった。事前に地図を見て、マンションからの距離を測っておいたのだが、その記憶は、双葉の脳の中なので、何キロの地点で切断されたか、今すぐにはわからない。
 切断が確認できたら、今度は一刻も早く再接続しなければならない。双葉のおれを野放しにするのは、1分でも短い方がいい。幸い、列車はすぐに次の駅に着いた。ちょうど反対側から折り返しの上り列車が入ってきた。おれは、ホームに降りたが、折り返しの列車に乗るには階段を上って跨線橋を渡らないといけない。間が悪いことに、おれの乗っていた車両は階段から離れていた。おれは、必死になって走ったが、階段を下りる途中でドアが閉まる音が聞こえた。
 結局、おれはその駅で次の列車を10分以上待つことになった。双葉のおれは、シャワーを浴びはじめたところだった。この10分の間、おとなしくしていてくれるとは、到底思えないが。
 駅のベンチでほんやりと次の列車を待って、列車が来ると、扉が開くのと同時に乗り込む。出発してすぐに、先程双葉とのつながりが切断されたポイントにやってきた。
(あ――)
 ほとんど同じポイントで、今度はつながった。と同時に、10分ちょっとの間だけ別々に行動してきたおれと双葉が、再び統合される。先日は、5時間分の記憶の統合だったため、数秒かかったが、10分程度だと一瞬だ。
 やっぱり。
 おれは、シャワールームでオナニーを終えたところ。まだ体中に性的快感が残っている。今日は、箱根の部屋風呂での園子さんとの濡れ場を思い出しながらだったので、結構燃えた。
 双葉のおれとしては、元々のおれとの接続が切れているときは、チャンスなのだ。元々のおれとつながっていると、おれのことを気にして好き勝手にオナニーもできないどころか、自分自身の裸さえなるべく見ないようにと気を遣わないといけない。だったら、元々のおれと切断されているときぐらいは、おれのこの素晴らしいボディを存分に楽しむべきだろう。
 その考えには確かに一理あるのだが、それを許してしまっていると、双葉のおれは暴走しかねないと思うので、なるべく歯止めをかけておこうとするおれだった。実際、今だって、園子さんはシャワールームでおれが何をしていたか、気付いている気がしてならない。
 結局、今回の切断ポイントは、双葉のマンションから109.7キロ。先日よりも0.3キロ程長くなっているが、これも誤差の範囲だろうか。
 一旦、宇都宮まで戻って、今度は日光方面への支線に乗り換える。車が使えると、双葉のマンションを中心にした半径110キロの円周に沿って走れば、「距離の限界」を確認することができるが、車を手放してしまったおれは、鉄道などの公共交通機関を使うしかない。宇都宮から北へ向かう本線のほかに、北西へ向かう支線も半径110キロの円周と交差しているので、こちらも同じように切断されるか確認してみようとするのだが、乗り継ぎの便が悪く、30分も待たされた。その間に、夫は会社へ行き、双葉のおれは新聞を読んだ。箱根の部屋風呂での一件以来、園子さんとの会話は弾まない。
 支線に乗り換えて20分。双葉との間が切れた。大体、予定通りの地点だった。ただ、またも間が悪いことに、駅を出た瞬間に切断されてしまった。その瞬間、窓の外にはまだホームが続いている。一番前の車両に乗っていたら、この駅で切れていて、ここで降りれば済んだのに。おれは、無為に1駅先まで行って、何もせずに折り返して戻ってきた。これで30分ほど無駄にしてしまった。ただ、この30分の間には双葉のおれは読書中で、何の悪さもせずにいてくれた。切断される直前まで、「ひとりになっても、何も悪さをしない」と強く念じておいたので、おとなしくしていてくれたようだ。
 戻ってきたとき、駅に止まる寸前に双葉のおれとつながった。切れている時間が30分でも、つなぎにかかる時間は、まあ、一瞬だ。双葉のマンションからの距離は、やはり109.7キロ。
 おもしろいことに、この駅ではホームの途中に境界線があるようだった。ホームのちょうど真ん中あたりに見えない壁があるようで、それを境に双葉とつながったり切れたりする。おれがホームのベンチに腰掛けていて、双葉のおれがマンションの中を移動しても、同じことが起きる。100キロ以上も離れた場所にいるのに、メートル単位でつながったり切れたりする。面白い。もうちょっとアバウトなものだろうと思っていたのだが、意外ときっちりしているらしい。どういう仕組みなのかは全くの謎だが。
 ちなみに、基準となる体の部位は、やはり脳のようだ。例えば、双葉のおれが接続ぎりぎりの場所にあるソファで寝転んでいたとすると、頭を北にしていたときはつながり、南を枕にしていたときは、切れるというのも確認できた。
 イメージとしては、元々のおれと双葉のおれ。それぞれを中心として、半径110キロ弱の巨大な円が存在し、お互いの円の中にお互いがいるときだけ、つながる、ということだろうか。実際には、地面は平らではなく、標高差や双葉のマンションのように高層階にいる場合もあるので、円ではなくて、球なのだろうと思われる。何ともスケールの大きな話だが、実感はあまりない。こうして、早起きをして、何時間もかけて遠くまでやってきても、まだ双葉とつながっている、というところが実感といえばそうだろうか。
 実験のため、おれはホーム上をむやみに行き来して、駅員から不審がられていたようなので、一旦改札を出て、その辺の道を歩いてみる。ちなみに、マンションのおれの方もいくつかの部屋をせわしなく動いていたので、園子さんが不思議な顔でおれを見ていた。
 ホーム上の見えない壁が、駅の外まで続いていることを確認した。円周と言ったが、半径が100キロ以上もあると、歩いている分には直線と変わらない。駅を出てしばらく、見えない壁に沿って歩いてみたが、きりがないので適当なところで引き返した。
 一旦、宇都宮まで戻り、駅の構内で昼食。まだ時間があるので、前橋まで行ってみようと思う。「距離の限界」のラインが円ではなく、楕円という可能性もないわけではない。
 少し南へ戻って、また乗り継ぎ待ちがあって、ローカル線でコトコト西へ進む。栃木から群馬へ。隣の県への移動だが、やたらと時間がかかる。その間、双葉とはずっとつながったままだった。

 双葉のおれは、プールへ行って水中歩行。園子さんとの契約終了までにこのスポーツクラブにはもう一度来るが、次はランニングマシンの方。このプールに来るのは、これが最後なので、水着に着替える園子さんの姿を双葉の脳に焼き付けた。これは、双葉のおれが暴走したのではなく、当初からの計画通り。
 おれの水中歩行のトレーニングが終わった後、園子さんは、いつものように25メートル自由形を1本泳ぐ。このプールでの最後の1本で、これまでのベストタイムを叩き出した。
「園子さん、すごーい。ベストタイムだよ」
 おれは、園子さんを拍手で迎えた。はじめてこのプールに来たときと同じように。
「ベストと言っても、まだ中学生のときのレベルかな。もっとタイム伸ばさないと」
 札幌に戻って、あと9ヶ月でクリアすべき設定タイムにはまだまだ遠いらしいが、そう言いながらも、目は嬉しそうに笑っていた。
 おれは、久しぶりに、園子さんと笑顔で話したような気になった。

 おれがローカル線を乗り継いで、ようやく前橋まで着いた頃には3時半になっていた。双葉のおれは、プールの後、お風呂に入って、マッサージを受けている。ここから北へ向かうと程なく双葉とのつながりが切れる筈だが、ガウン姿で中年の男の手でマッサージを受けている双葉のおれを野放しにするのは、自殺行為に近いので、折角やってきた電車を駅のホームで1本見送った。おかげで、次の電車まで30分以上も待つ羽目になってしまった。
 双葉のおれは、マッサージで肩こりに一晩だけ効く魔法をかけてもらい、上機嫌で部屋に戻った。この後は、夕食の準備なので、刃物に近付かないことと、皿を割らないことだけに注意をすればいい。
 4時過ぎにようやく電車が来て、程なく双葉とのつながりが切れた。これもほぼ予定の地点。やはり、110キロ弱の円ということで間違いなさそうだ。折り返しの電車で戻ってくると、再びつながった。つながったとき、双葉のおれは、「ごめんなさい」を繰り返し、園子さんに謝っているところだった。
 双葉のおれは、園子さんが盛り付けたサラダをテーブルに運ぶときに落として台無しにしてしまった。しかも、園子さんから手伝わなくていいと言われたのにも関わらず、半ば園子さんから皿をひったくるように取り上げて、挙句の果てに3歩も歩かぬうちに落としたのだ。おれとしては、園子さんとのぎくしゃくした関係を、少しでもよくしようとして、園子さんと一緒に夕食の準備をしようとしたのだが、こういうときは、得てして裏目に出るものだ。皿も割れ、園子さんは目の前でその後片付けをしているのだが、おれはそれにも参加させてもらえない。
「園子さん、ほんとうにごめんなさい」
 おれは、少し涙目になってそう言った。

 その日の「距離の限界」の調査はこれで終わり。それから普通列車に乗って今度は延々南へ向かう。上野に戻ってきたときには夜の7時過ぎになっていた。
 結局、群馬の「距離の限界」は、109.8キロ。今日の最初の2地点は、共に109.7キロだった。この数字は、地図上の計測値だし、ソフト自体の精度もわからないので、多少の誤差はあるのだろうが、気になったのは、先日の箱根と千葉のときの値、109.3キロと109.4キロよりも僅かだが増えているということだ。この微妙な違いは何なんだろう?
 ひょっとして、だんだん伸びているのだろうか?
 考えてみたら、そもそもの始まり――おれが双葉の体にはじめて入った去年の9月――から、「距離の限界」が110キロ弱だったわけではないだろう。もし、そうだとしたら、死にかけていたおれは、ほぼ関東地方一円の中で魂が死んでしまった体なら、どの体に入ってもよかった筈だ。その中から適当に選んだ体がたまたま同じ病院に入院していた体だったという偶然は、絶対ないとは言わないが、普通は考えられない。恐らく、去年の9月の時点での「距離の限界」は、もっとずっと短かったのだろう。
 仮に、去年9月のおれがはじめて双葉の体に入った日から今日まで、一律に「距離の限界」が増えてきたのだとすると、1日当たり、その距離は370メートルばかり伸びているということになる。実際には、最初の時点で距離はゼロではなく、少なくともおれの病室と双葉の特別病室の間をカバーできるぐらいはあったろうし、双葉の脳が覚醒した時に一気に伸びた可能性も高そうなので、それらを除いた1日当たりの伸びはもう少し小さいと思われる。先日計測した距離と、今日得られた値からすると、1日あたりの伸びは、200メートルというところだろうか。
 それを検証するために、翌日の日曜日、再び栃木まで出かけていった。宇都宮までは、昨日と同じ列車に乗る。宇都宮から日光方面に向かう支線に乗り換え。乗り換えてしばらく行ったところで双葉のおれが起きてきた。シャワーを浴びる頃に、ホームの途中に「距離の限界」の見えない壁が存在する駅に到着。おれはもちろん、見えない壁の位置を正確に憶えている。ところが、そこには文字通り何もなかった。昨日、見えない壁があった場所を通り過ぎても、おれと双葉はつながったまま。何も起きない。ホームの一番端まで行ってみたが駄目だった。おれがホームの一番端に立った状態で、双葉がマンションの一番南側に行ってみたが、結果は同じ。園子さんから怪訝そうな視線を投げかけられただけだった。
 仕方がないので、おれは一旦改札を出た。駅員が緊張した面持ちでこちらを睨んでいる。確かに昨日今日とこのあたりをうろうろしている見知らぬ男。怪しいと自分でも思うが、この分だと今日を最後にこの駅には2度と来ないので、気にしないでおく。駅を出て、昨日は見えない壁に沿って歩いたが、今日は北へ向かう。しばらく歩いたところで、突然双葉とのつながりが切れた。やはり、見えない壁は移動している。周囲の建物などから見えない壁がある位置を特定した。マンションからの距離は、109.9キロ。思ったとおり。「距離の限界」は。昨日から200メートル伸びていた。

 今日の目的は、これで完了。おれはまた普通電車で東京へと戻っていった。
 帰りの電車の中で、おれは考える。考えるのに必要な地図データは、おれが思いつくだけ、昨日のうちにパソコンに表示して双葉の脳に記憶させておいた。
 仮に、これから先、毎日200メートルずつ「距離の限界」が伸びていくとすると、どういうことになるだろう。年間で73キロ伸びるわけで、おれが80歳になる頃には、北海道の宗谷岬から沖縄の八重山諸島まで、日本国内なら、どこにいてもつながるようになる筈だ。
 微妙な数字だ。だから、どうだという気もするが。
 少なくとも、今の時点では、双葉は東京にいることがほとんどなので、おれが関東一円から出なければ、双葉とのつながりが切れることはない。
 問題は出張のとき。おれは、年に1、2度、大阪や名古屋に出張することがあるのだ。
 例えば、名古屋までだと、東京から直線距離で260キロ以上。今のペースだと、ここまで「距離の限界」が伸びるのは2年後だ。大阪の場合は400キロ以上。ここまで達するのは、4年後ということになる。だからと言って、名古屋出張は2年間、大阪出張は4年間勘弁してください、というわけにもいかない。おれが出張のときは、双葉も一緒に名古屋や大阪へ移動してくれれば問題はないのだが、そんなことを夫が不審がらずに許してくれるとは思えない。
 とにかく「距離の限界」は、今後、おれと双葉が生きていく上で、常に考えておかなければならないことだ。少なくとも、元々のおれと切り離されている状態の双葉のおれが、自制心と言うものを身に付けてくれるその日までは。「距離の限界」は、日々伸びているみたいなので、ある程度定期的に限界距離を測ることも必要だろう。
 そして、出張などの対策もいずれ考えておかないといけない。というものの、考えたところで、答えの出る見込みは立っていない。頭が痛いことだ。

 日曜日、おれと夫と園子さんの3人で、銀座に買い物に出掛けた。園子さんとの契約が切れるに当たって、園子さんに渡すお礼の品を買うのが目的だ。本当はこういうものは園子さんに内緒で用意しておいてびっくりさせるのがいいのだろうが、おれは四六時中園子さんと一緒なので、それは不可能だ。夫に頼んで買ってきてもらうという手もあるが、できることなら、園子さんへのプレゼントは、おれが自分で選びたかった。
 3人でのお出掛け。今日も夫のセルシオの後部座席に園子さんと並んで座る。相変わらず、夫と園子さんが同じ車の中にいるということに、不快感を抱いているおれがいる。結局、このことには最後まで慣れなかった。おれも、この感情については、敢えて深入りしたくない。
 いつものデパートへ行き、園子さんへのプレゼントを物色する。洋服を見たり、アクセサリーを検討したりしたが、結局、ブランド物の新作バッグにした。ブランド物といっても、園子さんの次の職場である病院への通勤で使えるような実用的なもの。もちろん、いい品であることも重要なのだが、新参者になる園子さんにとっては、「いいバッグ持ってるわね」と周囲の看護師に思わせることも重要なのだそうだ。
 バックを持って鏡の前でポーズを取っている園子さんを見たら、何だかおれも欲しくなってきた。双葉になってからもう10ヶ月になるが、こんなことを思ったのは初めてだ。我慢できなくなって、おれも園子さんと同じ型のバッグを買うことにした。夫が「買ってやろうか」と言ってくれたが、そこまで甘えてはいられない。おれのカードで買った。園子さんとは型は同じだが、色違い。おれのにはピンクが入っているので、カジュアルな感じがする。これなら、かわいい系の洋服のときのおれによく似合いそうだ。今のおれには、このバッグを持って出掛ける当てもないのだけれども。
 その日の夕食は、自宅で手巻き寿司。寿司は双葉も大好きな食べ物だ。ちなみに、一番の好物は玉子……。まあ、トロとかウニとかはちゃんとおいしく食べられるので、寿司に関してはそんなに酷い味覚ではない。わさびは抜いてくれないと食べられないけど。
 寿司は好きだが、手巻き寿司は苦手。味が問題なのではなく、不器用で、うまく巻けないから。実際、巻くのにたびたび失敗して、夫や園子さんに巻き直してもらった。海苔に載せるごはんの量もどうしても多くなりがちなので、少し食べたら、すぐに満腹になってしまった。おれは、早々に食べ終えてしまい、夫と園子さんが楽しそうに手巻き寿司を食べる様をぼんやりと見ていた。
 この広いマンションで、3人で食卓を囲むのもこれが最後なので、もっと味わって食べたかったのに。

 水曜日、いつものように園子さんに連れられて病院へ行くと、担当医が難しい医学用語をあれこれ並べ立てて、おれに何やら説明を始めた。それによると、おれはこれ以上よくはならないらしい。といっても、特に悪いわけではないので、気にすることはない。敢えて言えば、よくなる必要もない――。内容的には、そんなことだったと思うが、要は、もう通院する必要はない、ということ。結局、「完治」という言葉は最後まで出なかった。
 おれは、珍しく、夫に電話をかけた。今日ぐらいは病院に来たかったようだが、前から決まっていた出張に出ている。帰るのは、今夜遅くなるらしい。
「どうだった?」
「もう、来なくていいって」
 しばらく沈黙があった。
「ダーリン?」
「よかったな、双葉」
 声が震えてる。どうやら、感極まっていたようだ。
「うん。みんなダーリンのおかげ。ありがとう」
「先生方にもお礼を言うんだぞ」
「もう言ったよ。園子さんにも」
「そうか。ちょっと、園子さんと替わってくれるか?」
 園子さんが、夫に、今日のことを報告している。夫が礼を言ったらしく、儀礼的な会話が続いた。もう一度園子さんから電話を受け取って、夫と話す。
「ねえ、ダーリン」
「何?」
「今日、園子さんと一緒に寝てて、いい?」
「いいよ。ぼくは今日は遅くなるし。最後の夜だから、園子さんとゆっくりするといい――」
 そこで、夫の声が途切れた。その先の言葉を飲み込んだみたいだった。夫が何を言いたかったのかわかった。「その代わり、明日はぼくと一緒に寝よう」そう言いたかったに違いない。はっきりとは言われなかったけど、一応、完治。今度こそ、夫が我慢する必要はない。
 何となく、気まずい感じになって、おれは夫との通話を終わらせた。
 園子さんは、今日まではおれのマンションにいて、明日の朝、飛行機で札幌へ帰ることになっている。
 病院を出て、園子さんの運転するフェアレディZでマンションへと向かう。
「もうZに乗れないなんて、それだけが心残り」
「東京に来たときに、言ってくれれば、いつでもお貸ししますよ」
「本当?」
 そう言うと、園子さんは、心底嬉しそうな顔になった。何だかんだ言って、車好きらしい。
「いいですよ。夫は、セルシオしか乗らないですし、あたしも、免許持ってないから。そのときは、また助手席に乗せてください」
「ふーちゃんも、免許取ればいいのに」
「それ、絶対無理」
「あたしも、そう思う」
 他愛もない会話のうちに、フェアレディZは、マンションに着いた。こうして、園子さんの助手席に座ることも、取りあえず最後だ。
 エレベーターで45階に上がって、玄関のドアを開けて、中に入った。
 玄関を入ったところで、園子さんが、おれに一礼した。
「これで、わたしのすべての仕事は終わりです。双葉さん、全快、おめでとうございます」
「園子さん、本当にありがとう。――あたし……」
 声が詰まって涙が出てきた。退院してからの3ヶ月。本当に、四六時中おれに付き添ってくれていた園子さん。その仕事も、おれが「完治」して、最後におれを自宅まで送り届けてきたところで完了。飛行機で帰る明日の朝まではこのマンションにいるけど、これまでみたいに、おれにぴったり付き添う必要は、もうない。おれから離れてちょっと買い物に出掛けてもいいし、外出しても構わない。
 おれは、園子さんに改めて、お礼とその何倍もの謝罪の言葉を言おうと思ったが、いつも園子さんが一緒の生活は、もう終わっちゃったんだと思うと、胸が一杯になって、結局、何も言えなかった。
 夕食――と言っても、まだ昼間だが――は、園子さんとふたりで、マンションから2駅ほど離れたところにあるイタリア料理の店へ行って、おれの全快祝いと園子さんの送別会をやった。我が家は外食となると、イタリアンが多くなる。もちろん、双葉がピザを食べたがるせいだ。車を使わず、電車でやってきたのは、お酒を飲むことができるようにとのこと。園子さんはワインをおいしそうに飲んでいた。お酒を飲む園子さんを見るのは、はじめて。休暇のときには飲んでいたようだが、東京では1滴も飲んでいなかったらしい。24時間付き添いの看護師ということだったのだから、いざというとき、酔っ払っていましたでは済まされないので、我慢していたのだろう。
 おれも、ワインを少し飲んでみたが、正直、コーラの方がずっとうまいと思った。

 タクシーに乗ってマンションまで帰ると、5時近かった。
「今日からお風呂はひとり入る?」
「ええっ、最後なんだから、一緒に入りましょう」
 園子さんの裸も、今日で見納めだ。
 いつものように、園子さんと背中を流し合う。園子さんの真っ白な肌に触れるのも、これが最後。
「ふーちゃんのエッチな体を見るのも、これが最後ね」
 園子さんも、同じようなことを思っていたようだ。
「何なら、触りますか?」
 おれは、Gカップのバストを下から腕で持ち上げて、園子さんの方に突き出して見せたが、園子さんは笑っただけだった。おれがいくらエッチな体をしているからといっても、女同士なんだから、欲情したりはしないか。それとも、あの箱根のときのようにならないように、自制しているのか。
「園子さん」
 湯船で並んで東京湾を見ながら、おれは言った。
「箱根のときは、ごめんなさい。あたし、どうかしてました」
「うん。あたしも、どうかしてた。まあ、あれだね。3ヶ月も女同士の合宿生活みたいなものだったから、ちょっと変になってたのかもね。忘れよ」
 双葉の脳では忘れることは不可能かもしれないが、気にしないようになることはできる。園子さんとも、こうしてお風呂に浸かりながら何とか普通に会話できるようなところまで、回復した。
「ふーちゃんも、禁欲生活が続いて、欲求不満だったものね」
「えっ?」
「退院してからも、エッチしてないんでしょ」
 急にそんな話をされて、おれは顔が真っ赤になる。
「明日は、ご主人と一緒に空港まで送ってくれるんでしょ。その後、やっぱりやるわけ?」
「夫はその後、仕事だと思いますよ」
「じゃあ、帰ってきたら」
「でも、夫は帰りも遅いから、その頃には、あたし寝ちゃってます」
「だったら、明日は早寝しなさい。そう――2時には寝ること。それなら、旦那さんが夜中に帰ってきても、起こしてもらえば起きられるから。今日は早めに寝るから、帰ってきたら起こしてねって、メール打っとくのよ」
 園子さんは、その後もおれと夫の性生活のことについて、いろいろとアドバイスする。聞いているおれの方が恥ずかしくなった。
「とにかく、明日は、旦那さんに満足させてもらうのよ」
「満足――」
 夫に抱かれて、おれは、そんな気持ちになるのだろうか?
「男なんて、所詮は、女を満足させるために存在する動物なんだから」
 園子さんは、男がいるときであれば、絶対に言わないであろう台詞を言った。女同士でしかありえない会話。
 園子さん、やっぱりおれは、あなたの前では、女以外の何物でもないんですね。
 当たり前のことなんだけど。

 お風呂を出ると、いつものようにお肌のお手入れをして、パジャマに着替えた。園子さんがはじめてうちへ来たときに着た黄色いお揃いのパジャマ。園子さんもおれとお揃いのを着てくれた。
「園子さん、今日は、最後だから、一緒に寝て」
 おれがそう言うと、園子さんはちょっと困った顔を見せてから、仕方ないわねという表情になって、承諾してくれた。まるで、優しい姉がわがままな妹の頼みを聞いてあげるように。
 園子さんとの最後の夜、おれは、園子さんのベッドで、園子さんに抱きついたまま、寝た。
 細くてしなやかな園子さんの体は、パジャマ越しに抱くと、意外に柔らかくて、いい匂いがした。

 翌朝、起きたら夫が帰ってきていた。まだ朝の7時。園子さんの飛行機は9時半に出るので、今日は物凄い早起き。アパートのおれが起きるのと変わらない時刻だ。でも、今日は眠いなんて言ってられない。シャワーを浴びて、着替えて、お化粧をしている間に、夫がトーストを焼いてくれていた。夫は、昨日も遅かったみたいだから、ほとんど寝ていないんじゃないだろうか。
 今日の服装――園子さんの前で着る最後の洋服は、フォーマルに黒のレディーススーツで決めて、ちょっとOL風。おれの会社の営業の女の子がよく着ているような服装だ。
 夫のセルシオに乗って、羽田まで見送りに行く。もう、園子さんと並んで座る必要はないのだけど、最後だからと、いつものように後部座席にふたりで座った。高速は少し混んでいたが、充分間に合ったので、時間を潰すために3人でお茶を飲んだ。おれがこんな格好なので、出張に行くサラリーマンのグループみたいだ。
 出発の時刻が近付き、搭乗ゲートの前で園子さんを見送る。
「東京に来たときは、必ず連絡してくださいね」
 そう言って、おれは、園子さんに抱きついた。これが園子さんとの最後の抱擁。園子さんも優しくおれの背中を抱いてくれた。アメリカ人みたいにキスはしなかった。
「ふーちゃんも、北海道に来たときには、うちに寄ってね。ご馳走するから」
 しばらく別れを惜しんだ後、園子さんは、ゲートを渡って、向こうからもう一度こちらを見た。
「さよなら、園子さん」
 おれがそう言って手を振ると、3ヶ月もの間、ずっとおれのそばに付き添ってくれた女性は、さよならを言う前に小さく笑った。
 おれは、ゲートに向かって、お辞儀をした。言葉に言い表わせないほどの感謝を込めて。
 園子さんは、北の大地へと帰っていった。

テーマ : *自作小説*《SF,ファンタジー》 - ジャンル : 小説・文学

コメント

09のあとがき

09で出てくる「距離の限界」というアイディアは、かなり早い時点で浮かんでいました。少なくとも、04で双葉の暴走の話を書いたときには頭にあった筈ですし、おそらく、02で1日16時間も眠るという設定を書いたときにも、漠然とあったと思います。
ずっと前から設定はできていたのに、なかなかそれを出せなくて、ここでようやく出せたという感じでした。

ここでは、設定を語るだけで終わらないようにと、注意して書いていました。02はそんな感じになっちゃって、後になって自分で読み返しても、だれているなぁ、という気がしていましたから。02はどちらも入院中だったため、動きをつけられなかったけど、こちらはいろんなところに行ったりできるので、多少は退屈な話にならなくて済んだかな、と思っています。

このあたりから、「SFとして読んでいる」という人がいて、ちょっとびっくりした憶えがあります。作者には、自分が書いているのがSFだなんて発想は、まったくありませんでしたから。
2つの体で1つの意識という普通ではありえない設定を「あり」という前提にして、あとは、それを前提とするなら、当然、こうでなければ辻褄が合わない、ということを、積み上げていっただけなんですよね。だから、突飛なのは、最初のアイディアだけで、ほかの設定は、ごくごくありきたりなものだったりします。実は。

そもそも、作者はSFというものをあまり読んだことがなくて、栗本薫も、作者の意識では、ミステリー作家だったりします。
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